雪は踏みにじられた

文字数 4,872文字

 一緒にもう一回家の中見てみてよ、と智美に言われて、辺利も中に入ってみることにする。
「一応ぼくらこっちのシャッターから入ってみますから、重さん玄関のほうから入ってくれません?今さらだけど、誰か中に残っていてかわされるといけないんで」
「さんざん見たけど誰もいなかったがなあ。まあいいよ」
 シャッターの中には誰もいない。隠れるような場所もない。右手のドアを開けると、家の中を横にはしる廊下に繋がっていて、どんづまりには玄関から入ってきた重さんがOKサインをして見せていた。
 部屋は四つあって、玄関口のすぐ横に、食堂的に使われる大きな部屋と、廊下を挟んで寝室的な三つの座敷(図面ではトイレ風呂は省略)。すべての部屋のドアと襖は全開になっていて、さきほどの探索の結果か座敷では押入れの襖も開け放たれている。社長が寝ているのを目撃された部屋は三つの座敷の真中だが、炎はその一部屋で止まったらしい。窓側の壁から畳から真黒焦げだが、廊下に出る板戸に近づくにつれて、段々おさまってきている。窓際付近には布団だったであろう物、やはり黒焦げ。だがそれ以外の物は何もない。
「重さんの言うところだと、この部屋がお父さんが寝ていたって部屋だわ」
 部屋の中をうろつき始めたとき、いきなり智美から腕を引っ張られた。
「京、駄目だよ!」
「な、なんだ?!」
「……遅かったわ」
 足元を指さされたので見た。足を持ち上げると、緑色のねばーっとした液体が靴と地面の間で糸を引いた。
「いらないところを歩き回ろうとするからよ」
「いや、手がかりがなにか落ちてないかと思ってさ」
「落ちてる、って床にある物を探すのに下を見ないでどうするのよ。普段うつむいて歩いてばっかりなのに」
 畳に靴をごしごし擦り付けたら、智美に睨まれた。液体様のものは、辺利が踏んだ場所が一番大きく、七~八センチ直径で溜まっていて、四つ五つ、一センチぐらいのものが部屋の入口に向けて続いている。注意しながらひざまずいて臭いを嗅いでみと
「うわっ! 青臭いっていうか生臭いっていうか。なんだろうな? これ」
「わからないけど。これも蟹っぽくない?」
「どこがだよ!」
「沢蟹とかって踏みつけて潰したら緑色の液体って出なかったっけ? カニ味噌……みたいな感じ?」
 また蟹か? っていうか、お嬢さん、沢蟹踏みつぶして遊んでた過去があったのか?
「あとの部屋にも誰もいないんだよね?」
「うん、平屋だし部屋四つしかないから、すぐに確かめられた」
 あの四種類の足跡の主たちは、一体どこに消えたのだろうか?
 智美はさっき家に入った直後、トイレやら浴室もあわせてすべて見て、誰もいないことを確認した。その間、重さんは今みたいにしばらく玄関の中から廊下を見ていたという。すべての部屋の扉は廊下につながっているので、時間差を使って他の部屋を探している智美をかわしていたとしても、廊下に出た瞬間に重さんに見つかるはずだ。そのとき車庫部分にいたとしたら、外でうろうろしていた辺利の目にとまらないはずはない。シャッターは全開だったのだから、あとは三人の目をかいくぐって部屋の窓から出た場合だが……
 二人は外に出ると、、家の周りを回ってみた。三時間前に重さんが付けた足跡、さっき智美と重さんと辺利がつけたはずの足跡以外はない。探索の間に、死角をついて出ていったような足跡はどこにもない。
「何処に消えちゃったのかなあ、車も人も。四次元じゃないとすると」
 智美がため息をつく。
 辺利はふたたびタイヤの跡が終わり、横歩きの足跡が始まるへんで地面を睨んでいた。あれ? この足跡とタイヤ跡―すでに色々おかしいのだが、まだ―おかしなところがあるぞ? これって一体?
「あんれ? 誰か入ってきたなあ」
 重さんの声がしたので車道のほうを見る。車が二台、敷地の中に入って来た。
「あれ、何だあいつら! あ、タイヤの跡を!」
 二台はゆっくりと、細長いS字を書くように蛇行して、いましがた辺利たちが不思議がっていたタイヤの跡を滅茶苦茶につぶしながら進んで来た。
「証拠隠滅! なんだ、一体?」
 先頭の車は最後に地面を睨んでいる辺利の鼻先で止まったので、びびった辺利は後ろに飛びのいた。結果バランスを崩して尻餅をつく。冷てえ~
智美は車種で運転者の素性には気づいていたようだ。ぱあっと顔が明るくなった。
 後続の車はさらに建屋の前まで回り込んで、車庫の扉からほんの数センチ程のぎりぎりまで来て止まった。数個をのぞいて足跡はほとんど蹂躙されてしまった。辺利の目の前の車の中から出てきたのは長身の男性。
「お父さん!」
 呼びかける声に男性は驚いたようで、
「智美? なんでここに?」
「重さんがお父さんを見かけたって教えてくれたから。火事になった部屋にいたって。大丈夫だったの?」
 彼の目が重さんをじろりと睨んだような気がしたがそれは一瞬のことで、気が付くと元の温和な表情に戻っている。
 智美のお父さんを見るといつも思う。彼女のファザコンもむべなるかな。体つきはスラリとしているし、鼻も高く、目も大きく、整った顔つき。髭もきれいに剃って、ピシっと折り目のついたスーツを身に着けている。髪の毛もいつもは一分の乱れもなく整えている、ところなのだが、それは今は確認できない。中折れ帽を被っているから。
 ただ左手の薬指の指輪は趣味の分かれるところかな。彼は、つまり智美もだが、五味姓である。多分それを象っているのだろうが、指輪が数字の「5」の字にリングがついたような形になっているのだった。ああいうのがオシャレなのかもしれないけど、辺利にはよくわからない。
 智美の問いかけに、彼は一瞬間を置いて返答した。どう答えたものか考えた、とも取れる。
「重さん、なにか見間違えをなさいましたね。私は今、出張から戻ってきたばかりでね。火事のことも塚原君から聞いて様子を見に来たところなんだが」
 智美は父と重さんの顔を見比べていたが
「そう……なの? じゃあ、それはそれとして、ここが火事だったわけでしょ? お父さんじゃないのなら、誰か別の人が入り込んでたせいかもしれないわ。警察に届け出たほうがいいね、って今話してたところなの」
「恐れ入りますが、お嬢さん」
 後ろの車から降りてきていた男が口をはさんだ。「塚原さん」だ。
「ここは、まあ社長からお借りしている、という形でもありますが、会社の保養所、という面もありましてね。実は今日、ある従業員が使用していたのですが、こんなことををしでかしてしまいまして。タバコの火の不始末が原因なようで、すぐには収まったようですが、まあ報告が私のところに上がってきましたので、社長にお伝えして、こうして現状確認しにやってきたわけで」
「なあ、智美」
 社長は娘の肩をポンと叩いた。だがその目はどこか虚空を見つめているように京には見えた。
「問題の社員だがね、彼も別に狙ってやったことじゃない。真面目な人なんだよ。ここで警察沙汰にしてたった一度のミスで彼の将来を閉じてしまうのもどうかと思うんだ」
「すいません。僕、会社で働いたことがないんでよくわからないんですけど、一つ聞いていいですか?」
 辺利は手を挙げた。
「君は? 智美のお友達かい? どんな質問?」
「社員が会社の後とかお休みの日に寛げるように保養所を持っている会社はたくさんある、というのは聞いたことはありますが、今日もそういうふう―厚生施設っていうんですか?  その目的で―使われてたわけですか?」
「ああ、まあそうだね」
「今日は平日ですし、ボヤ騒ぎは真昼間だと思います。こちらの会社は、普通なら仕事をしなければならない時間に保養所を使うのを許可されるような、自由な会社だということでしょうか?」
 智美のお父さんは少し詰まった。
「そ、そうなんだ。社員には伸び伸びやってもらおうというのが社の方針でね。今日もいろいろ事情があって、ここを貸し出していたんだ」
 「いろいろ」以上に言うことが思いつかなかったように聞こえなくもない。伸び伸びやってもらうから、というのが理由ならそれ以上説明しなくてもいいのに。
「まあ、お嬢さん。社長もこうおっしゃっているので、私どもとしては事を公にせずにすませたいと考えるわけで」
「それで、お父さんはこのまま臭いものに蓋をしちゃうつもりなの? 塚原さんの言うなりになって?」
 お父さんは少し困ったような顔をした。後ろで地面を見ていた塚原さんが、きっと顔をあげて智美を見た。
「別に塚原くんに指図されてとかそういうわけじゃないさ。いろいろ考えて、父さんがそうするほうがいいと判断したんだ」
 ふーん、と智美はつまらなさそうに言うと、二台の車のほうへちょっと歩きかけた。急にくるりと振り返ると、
「塚原さん、その男の子に見覚えがない? 彼は塚原さんにお世話になったことがある、みたいに言ってたけど」
 や、ちょっと待て、智美。何言ってるんだ? 辺利は慌てた。二か月ほども前のこととは言え、クラブクラブ侵入事件のときに、しっかり顔は見られてる。塚原さんが彼の顔を舐めるように見ながら近づいてきた。
「そう言われればどこかで見たような顔ですねえ。どこでお会いしましたかねえ?」
「え、とクラ……じゃなかった、その、暗いところで、そう暗い所で昔会った人に似ているな、と思ったんですが、なにしろ暗かったし。さっき車から降りてらっしゃったときに、あ、もしかしたら、と思ったんですが、すいません、人違いのようです」
「そうですかあ? なんか逆に私のほうがあなたに会ったことがあるような気がしてしかたなくなってきたんだが……ああ、思い出せない。思い出そうとすると頭が痛くなってくるなあ。物覚えが悪いのは嫌ですねえ」
 それは僕の顔を間近に見た数秒後に起こったことをあなたの体が思い出しているのだと思います、とは言えない辺利は、曖昧に笑いながら、いや間違いでしたすいません、と繰り返すだけだった。

 智美と辺利は、智美のお父さんの車で一足先に帰ることになった。塚原さんは、なにか後片付けをしてから帰る、そうだ。辺利は一人で後部座席に座って左右をきょろきょろしていた。智美とお父さんの間も会話ははずまないようだった。
 その日、なんとか塚原さんが辺利を思い出すことはなかったようだが、なんであんな危ないことを塚原さんに言ったのか、翌日智美を問い詰めると
「ごめん。時間かせぎして欲しかったんだ」
「時間かせぎ?」
「重さんの話聞いて慌てて家を飛び出したとき、私、慌ててたでしょう? それまで遊んでた画鋲を、なんでだかポケットに入れちゃっててさ」
 元々、飴の缶に入れておいて遊んだり出したりしていたので、缶ごと持ち出したということだろうが、何の関係が?
「腹がたつじゃない? 塚原さん、地面の様子確認しながら運転してた。あれは絶対やましいことがあって、その痕跡を消そうとしてたんだわ」
 ああ、そう言えばちょうど窓を開けて、そこから顔を出して地面を見ながらジグザグ運転していた。いかにもあのヘンテコリンなタイヤの跡と足跡を跡形もなく踏みつぶして消してやろうという体勢に見えた。
「それと俺を売った理由が関係あるの?」
「車を停めた後も窓開けっ放しでそのまま外に出てきていたわ。塚原さんが京に気をとられて、お父さんもそれを眺めている間に、中に手を入れて運転席に画鋲を撒いちゃった。たまたまだけど塚原さんの車のシート黒くて、まるで神様が味方してくれたように私画鋲を黒く塗ってたでしょう? 多分目立たないなあ、と思ったら案の定」
 後日、塚原さん、歩き方がなんか変だったわ、智美が笑っていた。運転中座りなおしたときとかにお尻に刺さったのか? 智美の笑顔に多少の恐怖と、結局俺はおとりの捨て駒か、と多少の落胆を味わう辺利だった。
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