回鍋肉とリーマンショック

文字数 6,570文字

 時々智美が辺利の部屋にやってくることがある。
 もらいものの野菜が集中し過ぎて腐りそうなときに、古くて先に腐りそうなものから届けてくれたりするのだが、だいたい部屋の汚いのをボロカスに言われる。
 たまに晩飯など作っているさらにさんざんで
「なにそのフンコロガシの労働の成果みたいなものが、端が焦げたキャベツの上に点々と散らばってるものは? 食べ物?」
「……そう言うなよ。食べられなくなるだろ。キャベツと肉の味噌炒めみたいなものを作ってみようとしたんだけど、味噌がぜんぜん全体に広がっていかなくてさ。あせってるうちにキャベツが焦げちゃった、ってわけなんだけど」
「馬鹿ねえ。いきなり塊の味噌入れたって分散してくれるわけないじゃないの。固体なんだから。お酒とか味醂とか液体でとけば全体に回るでしょう。風味も増すし」
調味料をあらかじめあわせておく、という発想がない、もしくは面倒臭がるから駄目なのだ、と説教されるのである。
 たまたまそのときはキャベツを持ってきてくれたので、ちゃんと酒だのなんだのとあわせた味噌でお手本を作ってみせてくれた。確かに全体に味噌が均一に広がっていい感じである。ただ肉はないので再生品、辺利作の失敗品から多少焦げてるけどいいよね、と再利用である。
「ちょっと…… 萎えるなあ」
「なに言ってんの。中華屋さんの『キャベツと肉の味噌炒め』は、店によっては『ホイコーロー』って呼ぶわね。ホイコーローって回鍋肉って書くでしょう? 肉とキャベツはそれぞれ調度いい火の入れ具合が違うから、元々別に炒めて取り出しておいた肉を、次に入れたキャベツがいい頃合いになった時に混ぜて仕上げる。肉が鍋に戻ってくる、回ってくるからそう書くのよ。本来そういうものなの。文句は言わない」
 多少肉が焦げて固いのは別として、確かにその「ホイコーロー」はうまかった。

 会社にも色々動きがあった。
 いい方への動きはほとんどない。衰退の一途、の一言で説明できる。
 後になって聞いた話だが、辺利が異動してくる少し前に、親会社の営業がこの工場がかかわる事業で恐ろしく大きい案件を取ってきていた、そうだ。そこで、人的資源を「集中」すべき分野ということで、彼を含め何人かがこの関連会社に出向となった。大概は本社の設計部門だとか後述の海外生産拠点立ち上げ要員として配属になって、国内工場配属になったのは、辺利一人だったが。
 競業とのコンペに勝って落としてきた案件である。従来の生産方式で作っていてはコストとしてとてもペイしない。重い腰を上げて他社にずいぶん遅れを取りながらボチボチと始まっていた海外工場への生産移転計画を加速しようという話になった。
 新規設備を全部買い揃えるような財力はない。T工場を含む国内の生産設備のなかから、相対的に「新しい」設備が次々と海外へ運び出されることになった。
「なんか工場内がずいぶんガランとしてきたな~」
というような話を時折耳にするようになった。
たしかに工場内のそこここに大きな空きスペースがある。現在工場内に残っている機械はずいぶん小さくて、そしてどれもこれもが年期が入り過ぎ、という見た目である。
 現地作業者養成のための指導員として、社員に頻繁に渡航してもらうことになった。プラスチック押出成形機とか金属加工の機械とかに関しては、メンテナンス教育を含めていわゆる「スタッフ」社員の派遣になるので、担当にとってまあ想定内業務範囲ではある。だが手作業分野の指導はパートのおばちゃんである。
「海外なんか行きたくないよねえ。ヨーロッパとか都会だったらまだいいけど、ここより田舎なんでしょう? 食べ物も注意してないとお腹壊して大変なことになるって聞いたわ。子供とおじいちゃんおばあちゃんの世話におさんどん(炊事のことらしい)、掃除に洗濯。いろいろ家の用事だってあるし、長いこと家を空けるのもねえ……」
それでも会社がどうしてもと言うんで、なんとか調整して行くしかないか、とか、たまに辺利が話すおばちゃんはため息をついた。
「でもこれって、うまくいったら私たちは首を切られる、ってことなのかもって考えたりするんだけど。頑張って自分で自分の首を絞めるんだ、って命令されてるんじゃないか、とか思うのよ。場長さんは、そうじゃない、って言うんだけどね」
 実際この時は、例の大型案件をはじめとする計画的で定型作業が続くものを海外で流し、突発的単納期、小ロットで作業内容がちまちま変わるものを国内で、という棲み分けで考えている、という社員へのアナウンスはされていたのだが、後々、結果的におばちゃんの予感は当たっていた、ということになる。

 赴任して一年たたないうちに、この会社は親会社に吸収された。辺利は仕事内容が変わらないまま、出向の肩書がとれて、元の会社の社員に戻った。智美をはじめとした元々のT工場の従業員たちも、辺利の元いた会社の社員となった。給料に対しては、経過措置とかですぐに親会社の体系に纏められるわけではなかったが。
 なんでこうなったかというと、悪い業績が続いたために、単体で融資を受けるのが難しくなったためである。親会社もそうそう良い業績ではないが、規模が大きいだけにまだそこらへん融通が利く、ということだろう。
 業績が上向かないのは、例の大型案件の採算が良くないのが大きな原因だった。
とにかく受注、ということであまりにも楽観的な条件で見積もりしすぎたらしい。原料購入価格も含め、果たして実現できるかどうか怪しい方法でのコストダウンも実現を前提で織り込んだ。安く取りすぎたのだ。実際競合会社からお客さんのほうに、あの会社の見積もりはおかしいから精査したほうがいいですよ、とご注進があったくらいという。
 走ってみると、案の定。立ち上げ直後の海外ラインは品質が安定せず、歩留まりが悪く、結果的に製造コストは高止まり。今後自社努力で加工にかかる費用が劇的に下げられると仮定しても、そもそも想定した価格で原料を納入してくれるサプライヤが見つからない。物によっては契約価格が原材料購入価格を下回っているものもあり、作れば作るほど赤字が膨らむ、という構造だった。
 まあ、有り得ることだな、と又聞きながら話を聞いて、辺利は思う。
 どうも営業さんのノルマあるいは評価対象というのは、うちの会社では取ってきた案件の「売上額」が基準になるらしい。「利益」つまり幾ら会社が儲かったのか、ではなく、どれだけ売ったか、に過ぎないのである。だから、社内で切れ者と言われる営業さんは特に、原価など考えずにどんどん値段を下げて話を取ってくる。そうして差し引きでは会社に多大な損害を与えながら、自分は評価を上げて出世していく。
 昔から有りすぎるほど有る話で、工場サイドではいつも問題になっているのに、一向にこういう話はなくならないのはどういうことなのか、不思議でしょうがない。まあ、自分には理解できないような複雑な理由があるのかもしれないが。

 年頭の社長のメッセージの代読に、二月の終わりくらいになってようやくT工場にやってきた担当常務は、食堂に集まった社員の後ろのほうがざわざわしているのにいきなり切れた。ちょっとは黙って聞け! と怒声を上げたあと
「今この事業は存続の危機に瀕してると言っていい。全社のお荷物と言っていい状態になっている。私らも新製品の開発にも尽力したり(予算はつけてくれないけどね)、また一部に頭を下げてお客さんに値上げの要求とかもして歩いている。だがあなた方がそんな気持ちでは、持ち直そうにもどうしようもないということになりかねない」
 なにかこれから良くない事態が起こっても、そもそもはお前らのせいだぞ、と伏線を張りにきたのか? とはいえこれはすでに事業部単位での失態で、リカバリーできないなら、いくら言い訳しようが事業部トップであるあなたの責任が追及されないことはないはずだが、と辺利が思っていると。
 この常務は次の株主総会後の人事で、別の多少ましな事業部の担当に変わった。どういう手を使ったのかしらないが、すご腕の世渡り上手らしい。沈みそうな船から早々に逃げ出していった。

 事態は好転しないまま、二○○八年の九月、その時がやってきて追い打ちをかけた。
「リーマン・ショック」である。




 忙しいったらない。並岡安徳はため息をつく。
 工場は例の件に向けて準備が始まっている。
まずは倉庫の整理。取り外されたモーター、部品の取り付け具合でも調べるために調達したらしき装置の一部、なにかを保持するために複雑に組み上げられたアングル。電線に自動機械で端子をかしめ付けるための刃型セット―一組で二~三キログラムの金属の固まり―が何十種類分、錆びが浮いた状態でプラスチックコンテナに入れられ積み上げられている。その他、今となっては何に使うつもりだったのか、用途のわからない機械類、木板、プラスチック部品等々が埃をかぶっている。
 長年蓄積されたそれらを倉庫から運び出す。要否の判別と処理は購入元だとか責任がはっきりしている分は各部署がやったとしても、共用の物、出番を待っているうちにそもそも何のために取って置かれたのかわからなくなってしまったものは、総務課担当になってしまう。蜘蛛の巣と埃まみれの日々。
 そうやって出てきた不要物、他部署の分とあわせた溜まり具合を見ての産廃業者への引き取り依頼。
 おとといは銀行が配下のリース会社の社員を連れてきたので、その応対。工場内の不要品と判断されたものうち、割と新しめで価値がありそうな物の転売を視野に入れた査定、だそうだ。何でもかんでも売って、少しでも金にしたいらしい。
 来週末は土地の調査の会社が下調べに来るというが、この調子ではやはり自分がお付き合いしなければならなくなりそうだ。周囲との比較で言えば割と便利な立地で、会社は期待しているようだが、なにぶん田舎のこと、この敷地がどれくらいで売れるものだろうか。
 万一土壌汚染でも確認されて、その改良の費用だけで売値を上回ってしまう、みたいなことにならなければいいが。まあ別に俺のうちというわけでもないからどうでもいいと言えばいいのだが。
 ああ、ようやく見つけた仕事なのになあ、また求職活動か。
 お茶休憩くらいいいやと座ったデスク前で黄昏れていると、今日の分の製造課宛て社内メールをとりに五味智美がやってきた。
「並岡君、元気ないね」
「もう~疲れたよ~。愚痴聞いて欲しいところだよ」
「よしよし。ちょっと話があるから、それがすんだらできる限り聞いてあげよう。でも大変そうだね」
「まあ、次の職探しのことを考えて憂鬱になってた、てのもあるけどね」
「転勤に応じないの?」
「ああ。うちじゃ母ちゃんのほうが今稼ぎいいんで連れてくわけにもいかない。子供がちょうど可愛い盛りで、単身赴任とかで離れるのは嫌だしな。ただいられる間はいるつもりだから、来週水曜日の送別会で大山と一緒に送ってもらうには早すぎるな」
「そもそも並岡君が幹事じゃない」
「はははは。で、そういう智美は?」
「うん。下の子がね、登校拒否っぽかったのがやっと今の学校に馴染んできたとこなの。だから今移らせるのはちょっとなあ。上の子はどこでもやってけるかもしれないけど。お母さんもここが暮らしやすいみたいだし」
「……そうか。うまくいかないもんだな。辺利にでもくっ付いて行けばいいのに、と思ってたんだがな」
「なんでそういう話になるの? 律ちゃん何か言ってた?」
「いや、別に。最近お前らなんかいい感じに見えてたからさ。律には話せる展開が何かあった、ってこと?」
「いや、無い無い。何も無い。でも……みんな困ってるよねえ。堀川さんとかこないだ泣いてたよ」
 堀川さんは五十過ぎたおばさんだが、旦那さんの体が不自由になってしまって、彼女の収入だけで暮らしている。同じ製造課なのでよく話をするらしい。確かに今度の件はこたえるだろう。
「で、話なんだけどさ。先に組合員が多いところ回って協力を募ってたんで、並岡君のとこに来るのが遅くなったんだけど」
 組合員だけじゃなくて総務はそもそも人数が少ない。今日休んでる女の子一人と課長、後は本社のなにがしかの業務を兼務して週の半分ほどいる次長だけ。
 智美は周りを見回す。次長も課長も所要で不在、つまり管理職ゼロ。並岡一人きりである。別にかまわないのだが、気持ち声を低くして
「それと、特にここで大きな声で話すのはまずいから。多少でも工場が残るように動けないかって、京が馬鹿みたいなこと言い出したのよ。そんなことして何かの役にたつとも思えないんだけど、ちょっと協力してくれない、駄目元で」


『○△□工業(株)は、産業機械の部品を製造している同社T工場を閉鎖する方針を発表した。同工場は○△□工業の関連会社▲■●産業の第一工場として1974年より操業開始。樹脂成型および鍍金・金属加工プロセスを擁し、二○○七年よりは吸収合併により○△□工業直轄工場となる。一貫して同社の産業向け製品の主力工場の一つとして稼動してきたが、主要取引先の海外生産化およびそれに伴う部品現地調達の増大・国内需要の減少等により、同社は工場再編による構造改革が不可避と判断し、今回の方針に至った。
なお、同工場で勤務する従業員は、他工場への配置転換等により雇用は維持される、とのこと』
これが、某WEBサイトの記事として取り扱われたこの工場の現状。

 最後の一行には罠がある。
 全社全事業的に見て、凋落は今に始まったことではない。今まで何人もの従業員が、何回かの早期退職募集に応じて辞めていった。
 いままでは早期退職への応募者には規定の退職金に加え、通常は定年退職の場合に適用されるご祝儀的手当および勤続年数に応じて給与数か月分の割り増し支給がついた。
 日本のそこそこの規模の企業で、業績不振を理由に会社側から従業員(組合員)を一方的に解雇することは事実上ほぼ不可能だから、アメをぶら下げて自ら辞めてくれるよう仕向けるのがまずは常道。そのアメとて今後の生活を支えるには心もとないものだが、さらなる給料カットだの、果ては元々もらえるはずの退職金まですべてパアになる倒産という事態だの、社に残った場合のリスクと天秤にかけて社員は悩むわけだ。
 だがこのアメを捻り出すだけの余力が既にないか、またはその出費を惜しむとするならば、会社が人件費を減らすためにはどんな手があるか?

 ―事業所は閉鎖します。
ですが、みなさんが慣れ親しんだこの土地から遠く離れた、今までの知人関係は白紙、子供の教育等も一から考え直さなければならず、もしかしたらローンの残っている広いご自宅のある方にも社の規定内の手狭なアパートに入ってもらい(あ、それと家賃補助には期限があり、その期間を超えると家賃は全額自己負担です)、特に高齢者の方々にとってはなかなか馴染みにくいでしょう、そんな新天地に、新しい職場はちゃんと用意しています。雇用は確保されているわけです。是非社の発展のため以前と同様のご尽力お願いします。
え、転勤は受け入れられない? もともと総合職じゃないから転勤は想定外、ですか? とはいえ工場は閉鎖ですのでここでの仕事はありませんし……つまり辞められるということですね?
こちらが雇用を確保しているというのに、あなたから辞められるというなら、自己都合退社扱いということになりますね。ええ、退職金割り増しなどあるわけはありません。逆に勤続年数によって、社規で決められたとおり退職金は規定額の何割かが減額されることになります。
あと念のために申し上げますが、会社都合の場合と比べ、自己都合退社ですと雇用保険の失業給付も支給期間がぐんと不利になりますねえ。まあ、あなたが自分で選択したことですから……

当然、T市の住人に、生まれた町で暮らしたい、という心理傾向が強いことを、人事部はちゃんと把握していたのかもしれない。
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