信じられない足跡

文字数 6,852文字

「智美?」
「え、何で? どうして?」
 門の前の軽四、辺利が見慣れた感じがしたのも道理で、智美が乗ってきたものだったらしい。
 一番早く立ち直ったのは、やはり律だった。
「どうしてでもいいわ。大山、中川、小田組で、とにかく智美を小田君の病院へ運んで。小田君は処置をお願い。私と辺利はここに残るから、悪いけど、一段落したら大山君迎えに来てくれない。頼んだわよ!」
 三人が立ち去った後でも、辺利は混乱したままだった。
「智美だった。智美が、何で? どうしよう? 俺も一緒に行けばよかった。智美……」
「落ち着きな、馬鹿! 治療のことはプロに、小田君に任せておけばいいよ。私たちは私たちにできることをするよ」
「できることって? 守山は何を?」
「もう反応しきっちゃってるかもしれないけど、あの不気味なバケツの中身を片づけるよ。管理廃液の置き場にしまってくる。青酸ナトリウムと塩酸、周りに他になにか危ないものがあったら片づける」
「で、俺は?」
「智美がなんであんなことになってるのか知りたい」
「へ?」
「あんた、不思議な事件をまぐれで解決する能力がある、って智美が言ってた」
 まぐれを呼ぶ才能、みたいに言われるのも微妙だが。
「嫌な予感がするんだよ。最初に倒れている智美のところへ向かった時、私らが進んでった周りには一つも足跡がなかったのを見ただろ?」
 そうだった。懐中電灯の光に凹凸のない白い地面が照らし出されていた。
「とにかく倒れてる人を助けるのが第一だったから、ちゃんとは調べてないけど、一旦工場棟に入っていった足跡と、工場棟から多分あのランタンのところまで行ってる足跡は一組あるようだ。でもそれ以外は見当たらない気がする。私と中川君はその足跡を乱さないように工場棟まで往復したつもりだ」
 それで中川に端を歩くよう指示していたのか。この冷静さは羨ましい、と辺利は思う。
「一組の足跡が智美のものだとしたら…… そして他にあの場所まで近づいた跡がないなら、なんていうか、被害者以外の足跡のない事件、とかになりかねなくない?」
「いや、だけどそれなら被害者が自分で、という可能性も……」
「智美が自殺とかすると思う?」
 言い終わらないうちに律が質問をかぶせてきた。二人で顔を見合わせる。
「有り得ない」
「問題外!」
 声が重なった。
 律はにこりともせず
「多少乱しちゃったけど、まだ元がどういう状態だったか再現できる程度に足跡情報残ってるんじゃないの? 調べておきなよ。一見、足跡のない事件に見えるなら、得意分野だろ? どのみちそのくらいしか、今、あんたができることはない」
 そう言って片方の防毒マスクをかぶり、もう一つを辺利のほうに突き出した。

 観察してみた結果、どうやら律の心配していた通りのようだった。
まず足跡は次の四種類に分類できる。




A:門から智美が横たわっていた場所までの足跡。
最初に大山、中川、小田、辺利、守山の五人が様子を見に行き、残留ガスを恐れて一旦門まで戻った往復の足跡と、後刻大山、中川が防毒マスクをつけて智美の体を門まで運び出した往復の足跡がある。
しかし、これはすべて発見時につけた足跡であって、前述のとおり最初に皆が智美めがけて進んでいく時、そこには一つとして足跡は残っていなかったのは確認されている。

B:門(の前の自動車)から工場棟に向かっていった足跡
 一種類、建屋に入っていっている足跡がある。これは後述のCおよびDと同じ形の靴跡である。中川と律が防毒マスクを取りに行って戻ってきた足跡、二組一往復分は、律のいうとおり、事件発見前につけられたものと識別できる。

C:工場棟から智美が倒れていた場所に向かう足跡
 Bの足跡(中川と律のもの以外)と同じ形のものが、一筋工場棟から智美が倒れていた場所に向かって続いている。

D:智美が倒れていた場所から総務棟の倉庫までの間を往復した足跡
 BおよびCと同じ形の跡が、表題のとおりに往復している。

 したがって、智美の発見時にシテンノー+律+辺利によってつけられた跡、Aの全てと、Bのうち葉山と律の足跡を除いたものを図示すると、添付図のようになる。これはすべて同一種類の足跡であり、それ以外の跡はない。
 あと、智美が倒れていた付近の状況だが、まず青酸ナトリウムの入った試薬瓶と、塩酸のポリタンが置いてあったのを律が見つけている。傍らには少し液体の入ったプラスチックのバケツ。恐ろしいことにこの中で塩酸と青酸ナトリウムが混ぜられたのか。廃液は既に律が処分したけど。
 それ以外に存在意義自体がよくわからないものとして、プラスチック製の如雨露、それとスコップも傍らに落ちていた。
 周辺はいくつもの靴跡で乱されている。もってきた道具をとりあえず脇に置く。ポリタンクをあるいは試薬瓶を持ってバケツのところまで移動する。それをまたもとの場所に戻す、とかの作業で歩き回ったから、と見える。
 青酸ナトリウムと塩酸は工場建屋内の薬品庫にある。ポリバケツと如雨露とスコップは普段総務棟の倉庫に置いてあるはずだ。
「なあ守山さん、今夜雪止んだの何時頃だったかなあ」
 辺利は訊いてみる。守山律が送別会の居酒屋では窓際の席で、つまらならそうにずっと外を眺めながら飲んでいたのを思い出したからだ。
「ああ? そうねえ、九時くらいじゃなかった?」
 すると。辺利たちの突入以前から足跡の上には、雪がつもっているようには見えなかった。薬品の類とバケツ・スコップ・如雨露の上も同様である。そこから雪が降り止んだ後(九時頃?)で全てが起こったと仮定すると、この場であったことは素直に解釈すると下記のようになると思われる。
 ある人間が、門の前に停めた車から工場敷地内に入ってくる。まず工場建屋に向かう。青酸ナトリウムと塩酸を持って、まず智美が倒れていた場所に向かう。一旦ここで薬品類を置く。次に総務棟に向かって、倉庫の中からポリバケツと如雨露、スコップを持ち出し、薬品類を置いた場所まで戻る。
 それで……その場所で何事かがあった。智美は倒れた。しかし、その後でこの場から立
ち去った人間の足跡はない。
「守山さん、青酸ナトリウムと塩酸を反応させると、その毒ガスが出るわけだね」
「ああ、まあ酸性下なら出ちゃうね。シアン化水素」
 ではその場にいた人物のしたことは、律の講釈を混ぜながら書くとこうか?
その人物は反応容器として使うつもりで持ってきたバケツの中に塩酸を入れる。そして青酸ナトリウム、別名青酸ソーダとかシアン化ナトリウムと呼ばれる劇毒を入れる。ほんのちょっとの量だと思うけれど。
 この青酸ナトリウムでも、毒薬という意味ではより有名な青酸カリウムでも仕組みは同じだが、これらの青酸・シアン化合物は、酸性下ではシアン化水素、青酸ガスとも呼べる気体を発生させる。このシアン化水素が恐ろしい。細胞の呼吸を阻害して生物を死に至らしめる。
実は青酸カリを飲み込んで死亡した場合、消化器系から体内に吸収されて死に至るわけではないのだそうだ。胃液の酸と反応してシアン化水素が発生し、口へと上がってきたそのガスを呼吸で取り込んで人間は命を落とす、という仕組みらしい。
 塩酸の中に青酸化合物を落とすという行為は、だから青酸化合物を嚥下したときに体内で行われる工程を体の外に引っ張り出しただけとも考えられる。発生するガスを致死量吸い込んだらアウトである。
 青酸ナトリウムはずいぶんと嫌な味がするらしいから、それを避けようとしたらこんな自殺方法もあるのかもしれないけど、あんまり聞かないわね、と律は言って周りを見回した。
「そこに大き目の石があるわよね? 上に足を置いてズリっと滑ったような跡がある」
 バケツの置いてあった場所のそば。
「だから智美、あの程度で済んでるんじゃないかしら。まともにシアン化水素吸ってたらほんの少量でもうアウトのはずだから」
 バケツの中に少し青酸ナトリウムが落ちた時点で。ガスは少量発生する。それが鼻孔に届くか届かないか、微量を吸い込んでしまったくらいのタイミングで、後ずさりでもしたのだろうか、石を踏んだ智美はのけ反って倒れる。シアン化水素は空気より少し軽い。地表近くにはとどまらずに上空に拡散してしまい、ガスの毒により昏睡状態で横たわっている智美はそれ以上それを吸い込まずにすんだ、そんなところじゃないか、と律は言う。
 しっかりしてるようで、時々抜けてるんだよな、智美。……有り難いことだ。
「ところで、足跡は一種類で他の人間の足跡はない。同じ種類の靴をはいてごまかせば何人かの人間が歩き回れるかもしれないが、そもそも一筋しかついていない所が大部分だし、この場所から去っていった足跡と思われるものは皆無だ。出て行った人間がいないなら、発見時この場に残っていた人間が、青酸ナトリウムを塩酸に放り込む、という作業をしたに違いない、そして、この場に残っていたのは、意識を失って倒れていたの智美だけだ。ということは?」
「…………」
 口にしたくはないが、律が何も言ってくれない以上しかたがない。
「これって、智美の自殺、ってことか?」
「もう一度言うわよ。智美が、自殺するような人間だと思う?」
 二人で顔を見合わせて首を振った。
「なんか他の解釈のしようがあるんじゃないの? これは他殺未遂でさ―智美に殺されるような事情があるってのも納得できないけど、犯人が誰だかわからない以上、人の考え方ってのは色々だから絶対ないとも言い切れないし―智美以外の人間がこの場にいなかったのは何かトリックがある、っていう説明がつかない? あんたこういうの詳しいんだろ?」
「そうだな。去っていった足跡がない、とは言ったけど、敷地内と門、つまり外に続いている足跡は一つだけある。分類Bだ。智美の足跡だろうと考えがちだけど、あれが犯人の足跡で。爪先の向いてる方向から考えると門から工場棟へ、つまり『入ってきた』足跡に見えるけど、実はあれが後ずさりで外へ出て行った足跡だった、ということも考えられないわけではない。それを前提に、智美の自殺未遂以外でこんなことが起こり得るパターンを考えたらいいわけか?」
 辺利はいろいろ頭を絞って考えたが、せいぜい思いつくのはこんなところだ。
 基本、普通に考えた移動順序、門→工場建屋→智美の倒れていた場所→総務課倉庫→智美の倒れていた場所、を逆にたどれば、(他殺未遂だとした場合の)犯人は外へ出ていけるはずである。つまり出発点は智美の倒れていた場所。そしてそこに至る別の足跡がない以上、足跡が残らない時間から、つまり雪が降っている間からその場にじっとしていなければならない。
 雪が止む前の時点で、智美はシアン化水素を嗅がされて(?)意識を失い、総務課の倉庫の中に隠されている。犯人は、後刻智美が発見されることになるはずの場所に立っている。寒空の中、ひたすら雪が止むまで立ち続ける。ときどき立ち位置を変えて体に着いた雪をそおっと周りに払い落とす。足を置いたところ、体の陰になったところに雪が積もらないという痕跡が残らないように。まあ多少雪が乱れていても、後々作業をした(と受け取られることになるはずの)足跡で乱されることになるから、その場所に関してはあまり不自然に思われることはないだろう。
降り止む何時間前から立っている必要があるのかはさだかにわからないが、彼がどこかからその場所にやってきた足跡を、後から降ったきた雪が完全に覆い隠してくれるのを期待するのなら。完璧を求めるなら雪が降り始める前からそこにいるに越したことはない。
 そして雪が降り止んだのを見計らって、まず総務課倉庫に歩いていく。そこから意識のない智美の体をかついで、最初立っていた場所まで戻り、雪の上に彼女を横たえる。(これが必要なのは、倒れていた智美の体の下にもそこそこの量の雪がつぶされていたからだ。雪が降り始める前か、少ししか降っていない時期から智美の体が置いてあったなら、体の下の雪の量が全くないか、不自然に少ない状態になってしまう。もちろん体の上に雪が積もるし。)
 その後、犯人は一旦後ずさりで工場棟まで戻り、そこから今度は後ずさりで門まで行くと、後はスタコラと外へ逃げていく、という寸法だ。
「いやいや待ちなさいって。出ていった足跡っていったって、門の前に置いた智美の車までの分しかないんでしょうが?」
「そうなんだ。今までの仮説は智美の車の付近の足跡を調べる前に思いついただけ。車の周りをよく見て吹き飛んじゃったね。車の周りの足跡が途切れてるところから、せめて工場前の道の車の轍くらいまでジャンプできれば、後から通った車がその足跡を消していったんだ、とか言い訳するんだけど、三メートル近くあるからこの説は無理だな」
「何? 駄目だってわかってた話を延々してたわけ?」
「あ~、ごめん。一応可能性をつぶすって意味で」
「誰かが今でも車の中でじっと隠れていたらその説成立するんでしょう?」
 念のため、律は懐中電灯で自動車の中を照らしてみた。人が隠れているような形跡はない。
辺利は三十年くらい前にあった事件を思い出して、懐中電灯を借りて車の車体真下とその周辺の雪の高さを比べてみたが綺麗に平面で、つまりこの自動車は雪が完全に止んでからこの場所にやってきたことになる。九時頃以降ということか。
「それと、もう一つこの方法が成立しない理由があって。今日五時半の定時であがって帰るとき、もう雪降り始めていた。雪の降り始めて少したったころには、まだ智美はピンピンしていたんだよね。」
 辺利の部屋を訪ねてきていたのだった。
「雪の降りはじめる前、もしくはごく降りはじめの時点で智美を総務課倉庫に置いておく、ってのがまずできなくなるってわけね?」
「そう。他にもいくつか亜流のアイデアは思いついたんだけど、一つを除くと全部この理屈でふるい落とされる。たとえば、Cの足跡が後ずさりして作った跡で、さっき考えたのと同じ方法で智美を地面に転がしてから工場棟まで引き返した犯人は今でもそこに隠れている。Bの足跡は似たような靴を履いてきた共犯者が門から工場棟まで歩いて作っただけで、その共犯者も今工場棟に隠れている、みたいな」
「智美が何時までここ以外の場所で確認されてるか、家族に聴いたら正確にわかるかもしれないけど(後刻完全に雪が止んだ後の九時二十分頃部屋を出かけたことが確認された)、とにかくそこそこ雪が積もるまでここにはいなかったんだから、足跡を残さずに智美は倒れていた場所までいけない、というわけね。Cの足跡―Bも同じかな?―はどうしても智美の足跡だと考えざるを得ない。誰かがかついでいったかもしれないけど、だとしたら今度はそいつがどこかへ移動した足跡がない」
「Dの足跡は往復しちゃってるからね」
「……ちょっと待った! アイデアの内一つを除くと成立しない、って言ったわよね。まだ成立しそうな案が一つあるの?」
「ええと……BとCは智美の足跡だけど、Dは実は犯人の足跡。似たような靴だけど履いてる人間は違う、というのも考えたんだけど」
「工場棟の方から総務棟に向かってやってきた智美を総務課倉庫からやってきた犯人が途中で襲う。そして総務棟の方に帰った、というわけ? そうすると、犯人は今倉庫まで戻って隠れている、ってことになる」
 律は歩きはじめた。
「ど、どうするんだ?」
「その案もかなり苦しいよねえ。犯人はどうやって智美を殺そうとしたのか? バケツの中の塩酸と青酸ナトリウムから発生したガスが智美を中毒にしたというなら、犯人はどうやって自分はその被害を防いだのか? さっきの私たちみたいに防毒マスクを使うって手もあるけど、真正面からあのタコの化け物みたいな顔した人間がバケツ持って歩いて来たら、普通の人間ならどう反応すると思う? と突っ込みどころは満載よね」
 総務事務所の入口すぐわきのポストの中に手を突っ込む。手には鍵が握られてる。
「その説が万々が一、正しいとしたら? 犯人はまだ総務棟にいる。確かめてみればいいでしょ?」
 二人で探したが、倉庫の中、および足跡を残さずに移動できる総務事務所、どちらにも人影は見つからなかった。
 この案もなしかあ、とか言ってるうちに、どうやら大山が迎えに来てくれたらしい。
「足跡の写真でも撮っておこうかしらねえ」
と言って、律がポケットからデジカメとタバコの箱を取り出した。タバコの箱は大きさがわかるように対象物と一緒に写しておくものとしては定番である。
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