罠を仕掛ける、あるいは解決編前編

文字数 6,307文字

 辺利が余裕を持って会社を早退して待機していると、頃合いを見計らって知輝君が病室への手引きはしてくれた。
 智美は眠っている。少し疲れを感じさせる寝顔、生え際のあたりをそっと撫でたくなる衝動を感じたが、さすがにそうするわけにもいかず、辺利は知輝に小声で話しかける。
「なんか計画が狂ったのかと思ったよ」
「なんで?」
「製造課に行ったら、あるおばちゃんが『五味さん今夜退院するそうね』とか話しかけてきてさ」
「噂が回りまわって、そのおばちゃんのとこには一日間違えた情報が行ってるんじゃない? 今晩はまだここに入院してるし、明日退院したら詳しい話をしてくれるらしい、って話を犯人に聞かせるのが計画の肝なんだから。律さんならそこんとこ抜かりなくやってくれてるはずじゃない?」
「まあ、そうだな」
 もちろん会社には、智美は急病で休む、病気についての詳しい話は誰もまだ聞いていない、という連絡しかしていないわけだが、本当の事情を知っている人間が「退院したら詳しい話をしてくれる」と聞いたら、後ろ暗いところのある人物がどういうことを想像するか? という話だ。
 あわせて律は、あの病院は不用心だし、経営が危ないのか人員もちゃんと確保できていないみたいだ、夜お見舞いに行ったら、中には入り放題だったが看護師も他の職員も全然見当たらなくて、目的の部屋が二○三号室だということもうろうろしながら病室前の名札から読み取るしかなかった、と吹き込んでくると言っていた。
「お母さん起きるといけないから、とにかくベッドの下に隠れて」
「それでも、まだ午後の三時だぞ。仕掛けてくるにしても宵の口、ってことはないだろ? 何時間待機するかと思うと……」
「そこを耐えるのが大人の男ってもんでしょ? ちゃんと会社から梱包材のプチプチ黙って持ち出してきたんだよね? うん、空気が一番の断熱材なんだから、とりあえずそれ引いとけば冬場の床の上でも、多少辛い、くらいですむと思うし。あと、お母さんが目を覚ましたら、身動きしちゃ駄目だよ。気づかれたら計画がパーになるどころか、ここんとこのお母さんの反応見てたら辺利さんの命も危ないからね。目的を理解してもらえなかったら、単なる変態ストーカーの行動、と取られてもしかたないし」
「まあ、くらったのは若い頃だけど、彼女の打撃技の破壊力は身に染みてる……」
「未だ衰えていない可能性はあるからね。気をつけて」


 生きていた、と聞いたときは愕然とした。
 何て運のいい女だ。
 どうやって入院にまで至ったのか情報が入ってこないのだが、そうかと言って公に「退院したら詳しいことを話」されてしまうと、こちらが身の破滅だ。
 毒食わば皿まで。
 ここまで来て躊躇している場合ではない。永遠に口を開かないようになってもらわなければ。
 その人物は、「小田医院」の前に立った。
 決行だ。


 多分、夕食を持ってきた職員さんにはベッド下の俺の姿は部分的に見えてたんじゃないだろうか、と辺利は疑っていた。だとすれば、小田が何か指示して、騒がないようにしているのだ、きっと。でもそんなに細かい説明をするはずないし、何してるんだろこの人? と不審者を見る目で見られているのは間違いない。
 まあ、ターゲットと考えてる人物は、夜も更けてから、おそらく部屋の灯りもつけずに入ってくるだろう、そいつに見つかる恐れはない、という仮定の作戦なのだが。
 しかし床の冷たさはまだしも、身動きもせずにいるのは結構きつい。智美は目を覚ましているときはラジオをつけているので、多少の音は気づかないかもしれないが、結構床が埃っぽいので(ちゃんと掃除させろよ、小田)、くしゃみやせきが出そうなときは、必死で口を押える。

 食事が下げられてからしばらくして、病室のドアが開く音がした。
 まさか、こんな時間に? いやまだ智美起きてるし。暗闇でことにおよぼうとするだろう、という想定だったが、もしや「お見舞いだよ」とか毒入りのものを渡したりするだろうか? そこまでは頭が回らなかったが、さて?
「あれ、また来てくれたの?」
「うん、ちょっと話しておきたいことがあるのを忘れてて」
 その声を聞いて辺利は安心した。知輝君だったから。
「そう? でもあんたなんでグローブしてるの?」
「あ、え~とね、すごい久しぶりに野球でもしようかと思って出したんだけど、そのとき急にお母さんに話しておかなきゃならないことあるの思い出して」
「どういうきっかけなの? 話って何?」
 知輝は丸イスをベッド際まで持ってきて座った。
「お母さんにお願いがあるんだ」
「なによ改まって」
「辺利さんと結婚してください」
 え? 何だ? この展開。ベッド下の辺利と同様、智美も面食らったようで
「何? いきなり。なんであんな奴といまさら結婚しなきゃなんないの?」
「別に意地を張るのは構わないんだけどさあ、迷惑なんです。そのためにこんな事件起こされちゃうと」
「何の話よ?」
「知らばっくれようとしても駄目だよ。本当今回のはしゃれにならないから。たまたま奇跡的に何ともなくて済んだけど、お母さんが今でも生きていられるのって、すごく運が良かっただけだからね。僕たち路頭に迷うところだったんだから。もっといえば風向きとかによっちゃ、全然関係のない人たちの命まで巻き添えにして大騒ぎになると可能性もあったわけだし。こんなことするくらいだったら、辺利さんに対して素直になるほうがよっぽどましでしょ。」
「別に京がどうこうだからってやったわけじゃ……あっ」
 知輝はため息をついた。
「やっぱり全部お母さんがやったことだったんだね。誰にそそのかされたの?」
「…………」
「工場の移転が阻止できて、みんな職をなくさなくて済む、とか言われたんでしょう?」
「……」
「大阪の非鉄金属関係の大企業の製錬所跡地、その再開発の例とかで説明されたんでしょ? メモ帳にホームページをプリントアウトしたの挟んであったよ。確かに……なんていうか、別になんの問題なく再開発が進んだように見えるよね、今になっては。僕の調べた範囲じゃ、問題として取り上げられてるのは一緒に開発されたマンション部分の話ばっかりで、商業施設とかの部分がどうだったかは良くわからないけどね。とはいえ、あの製錬所跡地では、国の環境基準を超える土壌汚染が確認されていた。にもかかわらず、土地を所有していた金属会社、開発をすすめた会社、どちらも日本に名だたる大企業だけど、そのことを公表せず、知らんふりでマンションを販売した。あんまり悪質だったんで結構問題になって、当時の偉いさんが一旦は書類送検までされたとか?」
「でも、聞いた話じゃ、規制はかなり安全目に見てるし、マンション下の地下水とか調べたけど、直接飲まなきゃ全く問題ないレベルだとか……」
「それって、問題起こした会社側が言ってたコメントじゃないの? 『居住者の健康に実質的な被害がないと考え、重要事項に当たらないと判断した』だから購入者に告知しなかった、とか。そういうのって長期的に見たらどうなのか僕にはわからないけどさ。結局は問題が公になった後で、対策のために、業者側はかなりの金額を使わなければならなかったという事実はあるみたいだけど。その話は聞いたんだよね? それで、土壌の入れ替えとかそこそこ規模の大きい対策が取られているとは思うけど、例の複合施設は、はたからみたら大した問題もなく引き続き運営されているように見える。この例を引いて、本当かどうかは別として、こんな話をされたんじゃないの?
1. 工場跡地というものは土壌汚染されている可能性が高い。
2. 土地が土壌汚染されているとすると、その土地を売却する場合に土壌改良等の対策でかなりの金額がかかる。
3. ところが規制値を超えるような汚染物質が存在したとしても、すぐに人が死んだり病気になったりという事態が起こるわけではない」
「なんかそんな風に言われた気がするけど、違うの?」
「ケースバイケースかもしれないし僕も本当のところはわからないけどさ、少なくとも3番については、その人はお母さんに自分の思い通りの行動をとらせたくて、そのための心理的なハードルを下げたくて、意図的にそっちへ持って行くための説明をしたんじゃないかと思うけど」
「今から考えるとそうかも……」
「さて、お母さんの会社は、表向きは事業をT工場からテクノなんとかって小さな事業場に全面移転するということにして、実は従業員が自己都合で退職してくれることを期待している。これに対しては、『移転しても会社にしがみついていくと言おう』運動で目算を狂わせてやろう、という作戦をお母さんたちは展開してるわけだね。
「一方で空いたT工場の土地を売ることでの利益も会社は立て直しの資金として見込んでいるらしい。移転先とされている子会社の土地を売るよりも、こっちの土地を売ったほうがより金額が高い、という試算をもとにT工場閉鎖が計画されてるくらいだし。でも、もしT工場の土地で土壌汚染が見つかったとしたら? その対策に、売却額の何割とか、場合によっては何倍もの費用がかかるような見積もりが出てきたとしたら?」
「そのほうが損なら、諦めてくれるんじゃないか、って思ったの。期待していたのに従業員は誰も辞めてくれそうもないし、おまけに土地だって売るための費用のほうがかかるくらいなら。実際には土壌が汚染されてるかどうかなんてわからないけど、汚染されてないにしても、今から汚染させてしまうっていう手もあるかもしれない。なあに、環境基準を超えたから、ってすぐに人が死んだり病気になるってわけじゃないし、ってその人は言って」
「計画だけは授けられてた訳だよね。ただいつ決行するか、についてはふんぎりがつかないでいた。そんな時に並岡さんのところに言って話を聞いたお母さんは……」
「そんなことまで知ってるの?」
「律さんがそのことで気づいたんだよ。並岡さんのとこに行って少し話した直後に、お母さんは出席することにしていた大山さんの送別会をキャンセルした。行動を起こすならノー残業デーでみんな早く社内に居なくなってしまう水曜日が好都合だし、送別会はその水曜日に企画されてたから。じゃあ何故そのタイミングで次の水曜日に決行することにしたのか? 波岡さんはその時お母さんに、工場閉鎖準備に伴うあれこれの準備がたいへんで、って愚痴ったそうだね。スケジュールの過密さを話したそうだけど、その時、次の週の終わりには土壌調査会社の人が来る、って言ったんだよね」
「そう。だからもう次の週の水曜日にするしかないか、って。土日は結構休出する人がいて、逆に何時までいるのか読めないから」
「さっきの大阪の件は土中の砒素かなんかがひっかかったみたいだけど、シアン化合物も仲間みたいなもので、土壌汚染対策法で第二種有害特定物質に分類されてるから、それを調査でひっかかるようにしよう、という考えだったんだね。まあ、お母さんの考えっていうより、その人に吹き込まれたままなんだろうけど、シアン化合物を土中に撒こう、と。とりあえずお母さんを騙してその気にさせればいいただの口実だったとしても、よくもまあベタな計画をぶち上げたもんだと感心するよ」
「それってやっぱり、私が馬鹿にされてる、ってことよね?」
「残念だけど、そうだね。さてそうすると。とんでもない事故でもない限り、試薬に近いような高濃度でそんな物質が土中に分布するわけもないし、調査の際はたくさんのポイントでサンプルは採るんだろうけど、それにしても採取されたサンプルにうまくシアン化合物が含まれている必要がある。つまり薄く広く土中に分布させる必要性がある。だから……」
「薄めなきゃならない、って言われた」
「辺利さんが言ってたよ。お母さんにキャベツの味噌炒めの作り方を教わったときに、前もって味噌をお酒で溶いておくと全体に回る、その程度の準備はしとかなきゃ駄目だよ、ってボロクソに言われた、って。お母さん何でも料理の連想で考えることがあるから、そんな例でも思い浮かべて妙に納得しちゃったんじゃない? それで、青酸ナトリウムは塩酸にしか溶けない、とかなんか言われたわけ?」
「うん」
「そこでちょっとは疑わなきゃ。お母さんだって結構長生きしてんだから、一九九七年の青酸ナトリウム入りコーラの殺人事件とか、知ってるでしょ? コーラに、ってか水にも溶けるし。それよかさ、危ない物質だってこと聞いたことあるよね? あれ、塩酸と反応したらすごい毒ガス発生させるんだよ」
「そうは言ってなかった。直接口から飲まなきゃどうってことない物質だよ、って言われて。あんた京から借りてきた推理小説見せてくれたじゃない? 口から飲んでも全然なんともないのに直接血管に入ると死んじゃう毒とかあるって。そのこと思い出して、化学物質っていろんな物があるんだな、って妙に納得しちゃって」
「……っもう。それで塩酸で薄めて、如雨露で地面にまくつもりだったんだね?」
「塩酸の時点でもう危なくないですか? つまり撒いた次の朝に誰かが触ったりしたら、って訊いたら、検査のサンプルはそこそこの深さのところから採るはずだから、心配なら撒いた上から軽く普通の土をかぶせておいたらいいんじゃない、って言われて。」
「だからスコップも持ってたわけ? どれだけ働くつもりだったのさ。まあアドバイスしたその人の本心としては、塩酸と青酸ナトリウムが反応始めた時点でお母さんの命はなくなってると思ってるから、土でカバーできようができまいが構わなかったんだろうけどね。でも雪が降って困ったでしょう?」
「どうしようかとは思ったけど、とりあえず撒くための液体作ってから考えようって。必要な道具を集めたときにスコップも一応倉庫から出しておいたの」
「お母さんが自殺なんかするわけない、でも誰かに殺されそうになったとかにしては足跡がお母さんの分しかない、って辺利さんとかずいぶん考えていろんな解釈しようとしてたみたいだけど、結局足跡のことは見たとおりに素直にとるしかなかった、ってことだよね。お母さんが門から入ってまず工場棟から化学物質をとって、作業をしようとしてた場所まで持っていってそれをひとまず地面に置く。そのあと総務の倉庫からバケツと如雨露とスコップを持ち出して、化学物質を置いた場所まで戻る。そして反応を起こしてガスを吸って気絶する」
 ベッド下で聞いていた辺利も思い返していた。そう、そこが問題だったんだ。足跡から、現場には智美本人以外が近づいたはずはない。そして少なくとも事件の一日前には彼女自身がこの件を企んでいたと思われることが、手帳に書き残された準備品リストから読み取れる。律の言うにはもっと何日も前に、この行動を起こすための事前相談みたいなことを持ちかけられたような気がする、そうだ。
 一方で、智美が自殺を企てるなど、彼女を知る者のうち誰一人として信じることができなかった。それだけではなく、三日後に本調理をするための材料の下ごしらえまでしていっているのだ。この矛盾をどう解釈するのか?
 そう、彼女は明らかに、自ら進んで塩酸と青酸ナトリウムを反応させる計画を立てていた。しかし、そのことで自身の命を落とす可能性が高いとは、悲しいかな化学オンチの彼女は知らなかったのだ。
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