やっと事件が起こる

文字数 5,943文字

 智美との距離感ができてしまった。
 いや、駄目元で「みんなで会社にしがみついて移転しますと公言しよう」運動を提唱して、広げてもらっているので、毎日話はするのである。
「今日は生産管理課のお局さんのところに行った。鼻であしらわれると思ったら、まあこの土地にいても仕事もないし本当について行ってもいいかなと思ってたし、って」
「現場のおばちゃんたちにも言うんだけど、そんな言って本当に連れてかれることになったらどうしよう、とか不安になってたから、移転が本決まりになったら、『やっぱり気が変わりました』って言ったらいい、ってお願いしておいたよ」
 とか智美は自分の話はする。
 一方で辺利は、今日一人に話したら明日は一日休むというペースで進捗のないこと甚だしい。それを聞いたら普段なら罵詈雑言が飛んでくるのが予想されるところだが、「ふ~ん」と言って、また頑張ろうねと離れていってしまう。

 この間のあれがいけなかったのか?
 数日前、辺利の部屋に智美がやってきた。
「シュトーレンを焼いたから持ってきた」
「何それ?」
「あんたねえ。去年も持って来てあげたでしょうが」
 見て思い出した。
 ナッツやらドライフルーツやらを混ぜ込んで焼いて表面に砂糖を散らしてある。パンなのかもしれないが、甘くてお菓子的に食べられる。
「すごく長持ちするからクリスマスを待ちながら少しづつ食べるのよ」
と去年教えてもらったのだった。
「そうか、もう二週間ほどでイブだった。早いよなあ。ありがと。これおいしいんだ」
「馬鹿みたいに一日で食べちゃったら駄目よ」
 基本的に辺利は目の前にある物を食べ始めたが最後、どんなにヴォリュームのあるものでも食べつくさずにはいられない体質なので、去年の分も一回で食べてしまった、というのは内緒である。
 このときに、課長会の代理出席から思いついた「みんなで会社にしがみついて移転しますと公言しよう」運動のことを話した。
「まあ、何もしないよりはましかもね」
と智美は言って
「ちょっと知り合いに話してみるわ。京も少しは広めてね」
しかし表情は憂鬱そうだった。
「沙紀やお母さんのこと考えると引っ越しはできない。でも今だとフルタイムで雇ってくれるところはなかなかなさそうだし、パートとかなら何かあるかもしれないけど、これから沙紀が高校にあがったり、知輝の上の学校……無理かな」
冗談っぽく
「京は身軽でいいわね。困ったらお金貸してくれない?」
「え? マジ話で別にいいよ。知君とか沙紀ちゃんのためならさ。大金は無理だけど」
「返せないかもしれないよ」
 冗談っぽいのりで返す。
「その時は体で返してもらおうか」
 智美は吹き出した。
「こんなおばさんの体、今更どうするのよ。なんの価値もないわ」
「体には、心もついてくるんだよ。俺にとっては、プライスレス」
「カード会社の回し者? 何言ってんだか、訳わからないわ」
 辺利にも良くわからなくなってきた。
「わかんないけど、三十年くらい前にそんな雰囲気のことをもっと上手に言ってくれてたら、色々変わってたかもしれないのにね。ね、目をつぶって」
「何?」
「いいから、つむれ。」
 え、もしかしてという期待は裏切られなかった。かすかないい匂いが近づいてくると、唇の上に柔らかいものが重なった。
 おもわず辺利は智美を抱きしめていた。
「智美。結婚してくれ」
「馬鹿ねえ、もう。小学生じゃないんだから、一回キスしたくらいで結婚なんて言わないの」
智美は体をよじって逃れた。
「ごめんね。変なことしちゃった。今まで色々してくれたお礼のつもりだったの。それだけ。あおっちゃったんなら本当にごめん。そんなことを言って欲しかったわけでもない。落ち着いてよく考え直して。さっきのは聞かなかったことにするから」
「もう考え直すのはたくさんだ。本当に、三十年もうじうじ考えていたんだから」
 正確に言うと三十年の間ずっと考えていたわけではないが、細かいことを言っている場合ではない。ここは勢いで押さなければ。
「話聞いてた? 家族との生活を私は選ぶわ。あなたと一緒には行けない」
「単身赴任でもいいんだ。君たちのことはちゃんと責任持つから」
「新婚早々? そんなのただの寄生じゃない。それはできない。それくらいだったら本当に借用証書書くわ」
「じゃあ、別に今の会社をやめたっていい」
「逆に稼いでもらえない旦那じゃ居るだけこっちが困る。こんな状態でどんな再就職ができるの? 若くもないし、飛び抜けたスキルもないでしょ」
 返す言葉もなかった。
「ごめん。またやっちゃった。京には感謝してるのよ。なんでこうなっちゃうんだろ?」
「いや、いつも智美のいうことは当たってい過ぎて反論できない。当面、単身赴任パターンで行くしかないと思うけど、ちょっと真剣に考えておいてほしいんだ」
「まだ言う?」
「お願いします」
「本当にちょっと頭冷やしたほうがいいと思うよ。こんなことになると予想しなかった私も軽はずみだったけど」
議論は平行線で終わった。

 その日、舞いはじめた雪の中一旦会社から戻り、辺利が出かける準備をしていると、智美が部屋にやってきた。
「どうせシュトーレン食べちゃったんでしょ? お皿回収~」
「なかなか鋭い読みだったかもしれないけど、今年の俺は違うぜ」
「あれ、凄い。まだ残ってる」
「年齢と共に精神力がアップしてきたからな」
「必要カロリーが減少した、つまり基礎代謝が落ちてるだけなんじゃないの? 無駄足だったか」
 笑いながら帰ろうとする智美を、辺利は呼び止めた。
「ごめん。こないだ考えておいてくれ、と言っておいた話だけど」
「取り消す?」
「取り消さないよ。その返事を……」
 その質問には答えずに、智美は言った。
「男と女、って嫌ね。」
「?」
「私はね、京と毎日顔が会わせられて、すごく嬉しかった。こんなに長い間、こういう関係が続いたのって、中学の時以来だよね。ずっとこのままでいられたら私はそれ以上のことは望まないんだけど……だから、ほら。工場撤退だって、今のところ『案』に過ぎないわけでしょ。結果が出るまで待ってみよう。京の作戦がうまくいくかもしれないよ」
「でも、駄目だったら?」
「最初から失敗したときのことは考えない。ポジティブシンキング、よ」
 思いついた本人でさえ、うまくいくだろうなんて思っていないのだ。逆にそういうところが、自分の駄目なところだったのだろうか? もう面接も半分以上終わっているはずだけれど、明日から頑張ったらなんとかなるかな。
「そう、だな。ところで今夜の大山の送別会、智美来られないって聞いたんだけど」
「ああ、ごめんなさい。ちょっと用事ができたもんだから。残念だけど、大山君はこの街に残るんだから、この見返りはいつか。でも、もし……」
「もし?」
「律ちゃんや、それに……京が、この街から、いなくなっちゃうんなら……そのときは……」
 声がかすれていた。
「とにかく、今日はごめん、また明日ね」
 智美は逃げるように、鉄製の階段を駆け下りていった。
 雪はペースを少し強めて、「舞っている」より「降っている」に近くなってきていた。

「な~んで主賓のお前が飲まないんだよ」
「ごめん。明日次の会社に持ってくための健康診断予約してたんだった。γ-GTPがレッドゾーンの報告書持ってくわけにもいかんしな。みなさんの気持ちだけでうれしいよ」
「馬鹿だねえ。うちの病院に検診に来ればどうとでも誤魔化してやったのに」
「無茶なこと言うお医者さんだな。でも本当、主役なのに送り迎えさせちゃって悪いな。普通の日ならともかく結構積もっちゃったなあ」
「なあに、このくらいならまだ」
 皆送別会の帰りのわけだが、主賓の禁酒のおかげで、電車で帰った並岡以外は大山のワゴンで送ってもらえることになった。まずは中川の家から、と周り始めると、工場の前を通ることになる。向かいに人家が一軒あるだけで、あとは畑という立地なので十時過ぎの今、真の暗闇である。
「この会社ともいよいよお別れ……あれ?」
 大山が会社正門前で車を停めた。
 もう一台、軽自動車が門の前のスペースの端のほうに停めてある。
「どこかで見たような車だな」と辺利は思ったままを口にした。
「どうした?」
 中川の問いに答えて大山は
「なんか光ってる、中で」
 ヘッドライトの光でフェンスはわかる。その向こうの会社の中庭、通常社員駐車場の真ん中、真っ暗闇の中にぼんやり光ってる物があるのが見えた。ランタン型の懐中電灯かなんからしい。全員ゾロゾロと外に出る。
「地べたの上になんか横に長いもんがあるぞ。あれって…… まさか人が倒れてるんじゃね?」
 一大事、と構内に入る。
 会社は半年前に、工場に派遣で来てもらっていた守衛さんを解約した。赤外線センサを使用した無人警備システムの一番安いグレードで業者と契約するのと引き換えのはずだった。差額で経費はかなり浮く計算だったのだが、守衛さんだけはいなくなったものの、警備システム導入は一度通った上層部の認可が経営状態を鑑みてとかで再審議となり、結論が出ないままずるずると放置された。
 杜撰と言えば杜撰だが、郵便受けに入っている鍵を使って、門扉に引っかけられたチェーンロックさえ開ければ、簡単に中に入れるのである。今夜に限っていえば、その門扉自体引き開けられたままの状態で、スルーで中に入れた。
 工場敷地の大部分は暗闇の中で静まり返っている。受注量の減少から三交代制はとうの昔に止めているし、現場の残業もない。クレーム処理だとかその他の業務で残業する間接部門の人間もいるが、今日は水曜日。ノー残業デーとして指定されている日である(大山の送別会を平日であるこの日に開催したの理由もそれだ)。五人は孤独な鬼火のように浮かび上がる明りに向かって進む。
「そんなに長くないけど……女かな? 男の髪の毛って感じじゃないな」
 用意よく三センチ直径ほどのマイ懐中電灯を守山律が持っていた。そういえば駐車場とアパートの部屋が結構離れていて明りもない、って言ってたっけ。彼女は光線を右左と振って周りを確認しながら、三~四センチばかり積もったばかりの足跡一つない雪の中を一団は進む。光が横たわった女性の傍らに置かれたプラスチックのバケツ、それらから手前のポリタンクを照らした。続いて両手ですっぽり包めるくらいの胴径のビンがポリタンクと並んで直立しているのも目に入った。律は持ち上げるとラベルに目を走らせて
「あ、まずい。みんな下がって! そこから離れて門まで走って! もう遅いかもしれないけど。説明は後、早く!」
 なんだかわからなかったが、彼女の権幕に押されて、皆、一旦門のところまで戻る。
「どうした、律?」
「さっきあそこに置いてあったの、試薬瓶の中身、メッキ工程で使う青酸ナトリウムだ。その横にあったポリタンクは塩酸のタンクみたいだったし」
「どういうことだよ?」
「青酸ナトリウムと塩酸を反応させると猛毒のシアン化水素、ちがう言い方で言えば青酸ガスが発生するのよ。人が倒れてることも考え合わせると……あそこに置いてあるバケツの中で何が起こっているかは想像するだけで恐ろしいわ」
「離れろ、って言ったのはもしかして……俺たちももうまずいのか?」
「即効性だと聞いてるから、この時点で何もなかったら、死んだり後遺症が残ったりはしないんじゃないかしら。後で気持ち悪くなるくらいはあるかもしれないけど。よくアーモンドの臭いがするとか言われるけど、そんな気配もないし。シアン化水素は空気より軽い気体だから、もう上空に拡散したのかもしれない」
 さて、とりあえず今でも皆まだ生きているわけだが、そのバケツの本当に真横、人が倒れているへんが絶対安全だという保障もなく、とはいえ倒れている人をそのままにしておくわけにもいかない。
「そうだ。たしかシアン対応の吸収管とガスマスクが薬品庫にあったはずだ」
 劇物・毒物・特定化学物質とかに分類される危ない物質を使う事業所では、置いておかないといけないことになっていることが多いという。
「取ってくる」
と走り出した律だったが、瞬間
「あ、鍵。製造課の管理担当がいつも持ち歩いてて、夜はどこかにしまいこんでるはずだが、どこだかわからない。この様子じゃもう帰っちゃってだろうけど…… 大山君か中川君、連絡先知らない?」
「原、だったな? あいつこのご時世にまだ携帯電話持ってない珍しい奴だけど、家の電話なら事務所に入れば番号が……」
「いや、駄目だよ。たしかあいつ、今日の昼から有給取ってる。家族と九州旅行へ行くとか言って。もう向こうへ着いちまってるはずだ」
 ちっ、と律は舌打ちしたが
「じゃあ中川君、一緒に来て。悪いけど、鍵がしまってたら、薬品庫壊してもらう。工具とかそこらへんに転がってるでしょう?」
「おうよ。いろいろ言ってる場合じゃねえやな」
 律は、端のほうを歩いて、とか中川に指示していた。二人は工場棟に入っていき、工場内の蛍光灯をつけたのだろう、窓から漏れるおこぼれの光で門のあたりも少し物が見やすくなる。二人はすぐに出てきた。行きとほぼ同じコースをたどって門に戻ってくる。手に二つ、なにか持っている。
 顔面前面をすっぽり覆うゴーグルみたいなもので、口のあたりからゴムホースが伸びている。これが防毒マスクというやつか。律は、両手にすっぽり入るくらいの直方体に近い形をした缶の上面中央に突き出している部分の蓋をとると、マスクからのホースをそこにつないで金具で締め付けた。反対側の吸気口らしき箇所のシールをはがす。マスク内で息を吸うと、空気は缶の吸気口から入って反対側につながったホースを通じて供給され、缶を通る間に中の物質が毒ガスを吸着する仕組みらしい。この吸収缶は肩掛け用のケースに入れて作業者が運ぶようになっている。
「大山君と中川君とこれかぶって。万一あのあたりにガスが残ってても四十分とかそこらは大丈夫だから。あの人をとりあえずここまで運んできて頂戴」
 律姐さんの普段のきつさは、このてきぱきさの裏返しなのだ。
「小田君のところでシアン中毒治療できる?」
「酸素と……うん治療キットもあったはずだ」
 二人が横たわっていた人を運んできた。
「ああ、やっぱりシアンかな。顔が紅潮してる。え? これは」
 空気が凍りついた。その場の皆が見知った顔だったのだ。
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