琵琶湖周航の歌

文字数 4,515文字

「琵琶湖周航の歌」は大正六年に誕生したという。旧制三高というので、その学生たちは、今で言えば京都大学で大学生活前半を送っている若者に相当すると思うのだが、そのボート部の恒例行事として、ボートで琵琶湖を一周する慣わしだったそうな。
 歌は六番まであるのだが、ざっと参考資料を読んだところでは、大津(1番)を出発点として時計周りに湖西側を進みまず雄松(2番)泊まり、翌日は今津(3番)泊まり、琵琶湖に浮かぶ竹生島(4番)を経て湖の東側、長浜で昼食、その日は彦根(5番)泊まり、最終日には昼食(6番長命寺)をとり出発点に戻る、という三泊四日コースだったようで各上陸点を詠みこんでいる。
 
1. われは湖(うみ)の子 さすらいの
旅にしあれば しみじみと
昇る狭霧(さぎり)や さざなみの
志賀の都よ いざさらば

2. 松は緑に 砂白き
雄松(おまつ)が里の 乙女子は
赤い椿の 森陰に
はかない恋に 泣くとかや

3. 波のまにまに 漂えば
赤い泊火(とまりび) 懐かしみ
行方定めぬ 波枕
今日は今津か 長浜か

4. 瑠璃(るり)の花園 珊瑚(さんご)の宮
古い伝えの 竹生島(ちくぶじま)
仏の御手(みて)に 抱(いだ)かれて
眠れ乙女子 やすらけく

5. 矢の根は深く 埋(うず)もれて
夏草しげき 堀のあと
古城にひとり 佇(たたず)めば
比良(ひら)も伊吹も 夢のごと

6. 西国十番 長命寺
汚(けが)れの現世(うつしよ) 遠く去りて
黄金(こがね)の波に いざ漕(こ)がん
語れ我が友 熱き心

 作詞したのは小口六郎さんという長野県出身の方だが、なんと今で言えば工学系の学生だったそうで、漢字が書けなかったり簡単な慣用句の意味をしらなかったりして笑われるたびに
「いや~、僕、工学部出だから」
と言い繕って生きてきた、その割に理系方面にもそんなに強くない辺利にとっては、雲の上の人である。
 もちろんボート部の学生に話を聞いて作詞した、とかではなくて、自らがクルーだったのである。行事の二日目、今津の宿で歌の原型は部員に初披露された。いや、本当になんでもできる人で頭が下がる。ボートを漕ぎながら「われは湖の子」というフレーズがうかんだのだろうか。なんか……いい。
 さて世間に広く知られるようになったのは、シンガーソングライターの加藤登紀子さんが1971年にレコーディングしてからであろう。辺利にはその前のシングルだった「知床旅情」とセットで記憶されてるのだが、どちらも彼女の声にすごくあっていていいと思う。

 さて、彦根と言えばやっぱり彦根城か、とチェックインしたビジネスホテルの部屋でガイドブックのページを繰りながら考える。博物館、井伊直弼の不遇時代の住まい埋木舎、大名庭園玄宮園、などなど、ぼんやり散策するにいはよさそうだ、と観光客のようなことを考える。
 ふと、智美の一家のことが頭に浮かぶ。彼女も女手一つで忙しいだろうし、旅行なんかしてないんだろうな、達彦氏がお義母さんだけでもと琵琶湖へ連れ出したのも、案外どこかに連れていってやりたい、という単純な発想だったかもしれない。子供だってどこかに遊びにも行きたいだろうし。とはいえこの彦根に来て、小学生と幼稚園児らを連れて城めぐりというのもあまり喜ばれそうにもない(もしかしたら上の男の子、知輝君は結構はまるかもしれないが)。歴史を売りにする彦根のような観光地も、やっぱり子供たちをひきつけるような工夫もしなければいかんな。たとえば……兎とか猫とかの動物着ぐるみのマスコットを設定するとか? お城にいるからは殿様の恰好でもいいけど、いっそ鎧兜姿とかどうかな、案外人気が出て観光客数大幅アップ! とか。まあ、そんなにうまくいくわけないか、夢物語みたいな馬鹿なことを考えている場合でもない。
 三日続けて有給取得推奨、とかいう特にやりたいことのない人間にとっては有難迷惑な会社の制度を利用して出かけてきたので、明日はちょっと調査をしてみよう。そんな劇的な貢献ができるとも思えないが。
 考えると、達彦氏もまた一度遠くから顔を眺めただけの男に、荷の重い頼みごとをしてくれたものだ。
 しかも。依頼のスタート時点での条件が変だ。弁護士事務所からの手紙は、辺利がもし今結婚して家庭を持っていたならこの依頼はなかったことにして欲しい。独身であれば是非対応する方向で検討して欲しい、という条件を提示していた。辺利は、多分達彦氏が弁護士に対して、辺利のことを調べ、既婚であれば手紙を渡さない、すなわち依頼を取り次がないでくれ、独身であれば渡してくれ、と頼んだのに、調査を面倒くさがった弁護士が受け取ったものを丸投げ状態で送りやがったのでないかと疑っているのだが。
 何考えてんだ、達彦さん? 
 おまけに一体何の比喩なのかも見当がつかない「二月の扉の鍵」。ビジネスホテルの薄暗い明かりの中、ベッドに寝転がってそれが入った封筒をふってカサカサ言わせてみる。それから中を覗く。ふ~ん、本当にこの変わったデザインの指輪に何の意味があるのだろう。

 智美の言うには警察に達彦氏のアリバイが認められない理由として、証人であるお母さんが身内ととらえられていることに加え
「お母さんの言うことが全部本当だとしても、警察にはあの人のアリバイに納得ができないみたいなの。裏が取れないそうなのよ。」
「どういうこと?」
「ビデオを撮ったのが、一体どこなのか判らない、って。」
「どういうことだい? 湖のほとりに『琵琶湖周航の歌』の歌碑がたってるなら、琵琶湖のどこか、ってことだろ?」
「まあ、琵琶湖湖畔なんでしょうけど、具体的にどこか、という特定ができない、って言うのよ」
 彼が死にかけている貸金業者を見殺しにしたのか無関係なのか、という問題を横に置いたとしても、ビデオという証拠があるにもかかわらず、そもそも達彦氏が主張しているアリバイ自体が成立しない可能性があるというおかしな話になっているそうな。
達彦さんは彦根ICで降りた「ような気がする」と言っているという。彼の言うとおり、確かに八時半に義母を訪れ、彼女の支度を待って八時四十五分くらいに(お母さん支度早っ!)にそこを出て、九時前にN市のICに入ったとするなら、辺利と同じペースで走って彦根インター十二時半前だから、ビデオに映った時計の時刻である十二時四十二分頃に琵琶湖湖畔に着いていることはできそうだ。だが……その到達できる範囲内にビデオに映っていたような歌碑はない、そうなのだ。



 琵琶湖湖畔に一番早く着こうと思ったら、彦根ICで降りて、あるいは少し手前の米原JCTで北陸自動車道に入り米原ICでおりて、まっすぐ湖を目指すのが多分最短コースだと思われる。距離から見ると米原ルートのほうが若干早いような気もするが、数分の違いではないだろうか。ところがそのどちらのコースを取ったとしても。
彦根なり米原のICで降りて地道二十分程度の走行でたどり着けるエリアの湖畔には、公的に把握されている限り歌碑は建っていないのだという。琵琶湖周航の歌の歌碑は、一番から六番まで、各々ゆかりのある場所に建っている、ということなのだが、実は五番に相当する場所は例外で石碑は建っていないのである。
周航ルートのスケジュールもあわせて考えると、「古城にひとり佇」んでいる五番にちなむ歌碑が存在するのであれば、その「古城」が関ヶ原の戦い直後に崩壊したという石田三成の佐和山城の城址であれ、その後に井伊家が作った彦根城であれ、どちらを指していたとしても碑は彦根の近くに建てられたはずである。だがそれが存在しないとなると。当然他の場所を当たらざるをえない。
 一番、三保ケ崎、ここは大津市で関東方面から見たなら直線距離では一番遠くなる。彦根ICを下りずにそのまま高速で走っても最寄の瀬田東ICまで五十Km超え、三十分程度は余計にかかるだろう。ここに十二時四十二分までに到達できるだろうか?
 出発時間を早める、というのは難しい。八時二十分までは智美が部屋にいたのだから、それ以前にお母さんを連れ出すことはできない。とすれば、あとは早く走るくらいしか方法は思いつかない。計算上、ここまで走るのならば辺利のペースに時速十五km/hを追加すれば、つまり全行程を百二十km/h平均で走り切れば、辺利が彦根までかかった時間と同じくらいで瀬田西までいけることにはなる。安全運転がモットーの辺利としては、かなり無茶なような気がするのだが、物理的に不可能なわけではない。一応ここの歌碑を候補として残しておくことにする。
 そのまま名神を走るなら六番の長命寺が一番近いのかもしれない。ICとしては彦根の次の八日市で降りる。辺利のペースで彦根から十数分増し、くらいか。だが高速はここでは湖から結構離れて走っている。地道でやはり十分~二十分くらいはかかるかもしれない。合計三十分増しであれば一番の三保ケ崎と話は同じだ。多少危うい気はするが、ここも候補としては残る。
 湖西側では三番の碑が今津港にあるそうだ。こちらは高速であれば、名神を彦根までいかずに手前の米原JCTで北陸自動車道に乗り換える。湖に沿って一旦北上し、さて最寄のICは……木之本だろうか。だがここからが。地図で見ると三○三号、一○六号と国道を乗り継いで四十Kmくらいはありそうな気がする。これはきついだろう。二番雄松はさらにその先である。この二つは候補からはずすとして。
 四番の碑のある竹生島はその名のとおり島である。船に乗らなければならない。これも検討からはずす。
 さて可能性として残った一番三保ケ崎と六番の長命寺の碑であるが……
 警察はビデオに写っている歌碑と、滋賀県警の協力で送ってもらった五つの歌碑の写真を比べて、達彦さんと智美のお母さんが訪ねたのは五つの歌碑のどれでもないと断定したという。
 ビデオは智美の手元に残っていないので、それを見た智美と、当事者のお母さんから聞いた情報なのだが、ビデオに映された歌碑は長方形の茶色の石板に一番から六番までの歌詞を記してあり、それを白っぽい石の土台にはめ込んだ形になっていた。歌詞は縦書きで、茶色の板は結構横長だったそうだ。「縦横比四倍くらいに見えたかな」と智美は言う。土台の形も基本的には横長長方形の板が立ってる、という感じ、と聞いた。大人二人が腕を広げたくらいの幅があるように見えた、そうだ。
「結構ハイテクだったのよ」
 とお母さんが言う。
「歌碑の横に横にくねっと曲がった面白い形の石が立ててあって、そこにボタンがついてるの。それを押すとね『琵琶湖周航の歌』の音楽がかかるのよ」
 ミュージックボックス付き? 今時の「ハイテク」なのかどうかは知らないが、なんだかすごく気合いの入った記念碑ではある。
 明日とりあえず現物を確認しに行って見る予定だ。

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