恵那山トンネルの恐怖

文字数 4,548文字

 思っているうちにベルがなった。お帰りだ。
「おじさん、誰ですか?」
 ドアを開けて辺利の顔を見た男の子は身構えた。戸口に立ったまま、ランドセルの横にぶら下げた小さなプラスチック製のものを引き寄せて握りしめている。ええと……あれは防犯ブザーって奴か?
「ああ、ごめんごめん。お母さんの友達なんだ。泥棒とかじゃないよ」
「本当にお母さんの友達? じゃあ、お母さんの好きな食べ物は何ですか?」
「え……ええと、柿ピー、かな?」
 信用したらしい。ブザーを離した。
「失礼しました。変ですよね。料理すごく上手なのに自分が好きなものはそれなんですから」と言いながら彼は入ってきた。
 ランドセルを片づけに行ったのだろう、奥の部屋に入ってすぐダイニングに帰ってくると、辺利が何も言わないのに戸棚からドーナツを出してきた。
「おじさん、半分食べます?」
 ……いい子だ。というか、年齢の割に異様にしっかりしてないか? 子供ってこんなもの?
「ああ、大丈夫。おじさんこれ以上太ったら困るからさ」
 男の子は母親に似る、というけどこれは典型だ。鼻がこじんまりしてるとこ、目が大きいとこ。ああ、でも額が広くてなんか賢そうだ。
 さて、辺利は基本的に人見知りである。後に「コミュ障」という言葉で一括りにされる人たちの先駆と言ってもいい。相手が子供であろうとそれは変わらない。
 この年齢の男の子は一体何に興味があるのだろう。最近日曜の朝とかに起きてテレビをつけると、女の子向けのアニメをやってることがある。普通の女子小学生が魔女の修行をしてるという話のようで、変身(?)シーンが妙に長いのがストレスだが、なんとなく見てしまう。二次元少女趣味に目覚め始めたのか、と多少自分が怖くなることもあるが、女の子だったらそのあたりから話に入れたのかもしれない。あと三十分早く起きたなら、(後に「平成ライダー」シリーズと呼ばれることになる)仮面ライダー物の新作が久しぶりに始まってるそうだが、無理に起きてまでチェックする気もないのでこれはよくわからない。ボールの中に入ってしまうモンスターを調教してバトルするゲームなんぞもたいそう子供に人気があるように聞いたが、不器用でゲームの類と相性の悪い辺利はこちらにも明るくない。
 カラーボックスの上に本が置いてあるのに目が止まった。児童書。
「本、好きなの?」
と聞くと、一瞬「え?」という顔をしたが、視線の先から察したようで
「『熊の子ウーフ』ですね? 沙紀ちゃんに読んであげる用に借りてきたんです。あ、沙紀ちゃんは妹で、保育園に行ってます」
「もしかして、君が読んであげるの?」
「僕にはお父さんがよく読んでくれたんだけど、沙紀ちゃんはそれしてもらえないから」
「お母さんは?」
「お母さんはもともと得意じゃないみたいだし、特に最近は疲れてるみたいでたまに読んであげはじめても途中で寝ちゃたりするんです。僕、読んであげるの好きだから、代わりに。その『ウーフ』は沙紀ちゃん喜ぶんですよ。特に好きなのは『ウーフはおしっこでできているか?』っていう話なんですけど、話がわかっているってより、なんかただ『おしっこ』とか『うんこ』って言葉が面白くて喜んでるだけじゃないか、とも思うんですけど」
「へーえ、どんな話だっけ?」
 すぐ読めますからどうぞ、と手渡してもらう。
 熊の子のウーフは、ニワトリさんが毎日毎日タマゴを産むのに感動して、きっとニワトリさんの体は無数のタマゴからできているんだ、という確信を持つにいたる。友達のキツネのツネ太にその話をすると、おまえさっきおしっこしただろ、じゃあウーフはおしっこでできているんだ、と指摘されて落ち込む。なにやかんやあって、最終的には僕はおしっこを出すだけじゃなくて、涙も出せば鼻水も出す、一つの材料でできてるわけじゃない、ウーフはウーフでできているんだ、という結論に至るのである。痛烈な還元主義への批判である(?)。
 読み終わったのを見計らったように男の子は言った。
「この前読んであげたとき、沙紀ちゃんが言ったんです。『じゃあ、おかあさんは涙でできているのかな』って」
 さっき顔を会わせたときはサバサバッとした感じだったけど、そんなに……泣いてるのか?

 長野県と岐阜県。
 県境の長いトンネルを抜けると、そこはワインディングする下り坂だった。黄色いセンターラインが白くなった。つまりは車線変更が可能になったということで、必死で左側の走行車線に入ろうとした辺利は、ハンドルを切り損ねて一瞬ドキリとした。だいたいこの恵那山トンネルって奴は、こんなに長い癖にどうしてずっと車線変更禁止なのだろうか? 入口で間違えて追い越し車線に入ったばっかりに、運悪く後ろにいた命知らずの後続車にずっと煽られっぱなし。気の弱い彼は、慣れないアクセルべた踏み状態にすっかり消耗してしまっていたのだ。
そうでなくてもそろそろ二時間運転しっぱなしだ。とりあえず神坂パーキングエリアは通りすぎたものの、次の恵那峡サービスエリア付近で精魂尽き果てて少し休むことにする。
 表の売店で五平餅を買ってみる。木曽路の名物。長辺十センチほどのたわら型につぶしたうるち米の塊を焼いている。醤油色のタレが塗ってあってそれが香ばしく焦げている。
これはこれでうまいのだが、昔、馬籠峠の民宿でおばあちゃんが囲炉裏端で焼いてくれた、
本当に真ん丸でサイズもみたらし団子が米の粒の塊でできている、という感じの、くるみたれヴァージョンもうまっかったんだよなあ……
 ああ、いやそんなことはどうでもいい。
 問題は、ここがまだ、琵琶湖とN市のほぼ中間くらいだということだ。ほぼ二時間運転しっぱなしだったのに。

 智美に聞いた達夫さんのアリバイというのは、以下のとおりだ。
 問題の日、達彦さんが智美たちの部屋にやってきた。急に思い立って寄ったのだという。
「お母さんが一人でいるときを狙ってきたのよ。平日だから子供は小学校と保育園、私はパートに出てるでしょう? お母さんは昼間は一人で部屋に居てもらってるの。多少心配なんだけどね」
「お母さん、なにか具合が悪いの?」
「いいえ、体はいたって元気よ。頭が……まあ、その時その時で生活が危険なようなことはほぼないんだけど」
「だけど?」
「不思議なんだけどね。時間の感覚がない、っていうのか、どのくらい時間がたったとかいう見当がつかないのね。そんな歳でもないのに物覚えも多少悪くはなってきてるんで、悪化しなければいいと思ってるんだけど。逆に言えば、あの人はそこを利用してやろうと考えたのかもしれない」
 達彦さんの言うところによれば、その日彼は、八時半頃に智美の団地にやってきて、お義母さんをドライブに誘い出した。
「狙ったような時間だわ。子供たちを送り出した後、私は八時二十分くらいに出かけるの。その時間が本当なのだとしたら、もしかしたらどこか近くに車をとめて、私が出て行くのを待っていたのかもしれない」




 ドライブの目的地は琵琶湖。最寄のインターチェンジNから高速に乗った。着いたのは正午くらいだと主張している。
「O市で犯人と思われる人物が目撃されてるのが十時ちょっとくらい。金貸しさんの死亡推定時刻とだいたい一致するらしい。それから出発したとしてO市からこのN市までやってくるのに高速に乗っても小一時間。運がよくても十一時とかそこらは過ぎると思う。Nから琵琶湖まで三時間半とかはかかるみたい、十一時にここを出発したとしても二時半過ぎにはなってしまうという計算かしら。彼のいうとおり十二時台中頃に琵琶湖湖畔についていたとすれば、十時にO市にいることは不可能になる、という話なのよ。中央自動車道を走るのがこのコースなら最短なんでしょうけど、琵琶湖到着十二時半そこそこから逆算すると、一番近そうな彦根ICとか北陸自動車道に回って米原ICとかで出て最寄の湖畔に到着したと仮定しても、到着二時間半前の十時ならもう長野県に入って駒ヶ根のあたりとかまでは行っていないと間に合わないって」
 あれ? どうして湖畔の位置について仮定が入るのだろう? という疑問が湧いた辺利だったが、それにも増してまずは確認したい質問をする。
「証人がお母さんだとすれば、その……時間感覚が不正確な人の証言というのがどう扱われるか、っていうことなんだけど?」
「うん、そのとおりでね。実際お母さんは時間については全くあやふやなの。多分あの人が実際には十一時前に迎えにきて二時過ぎに目的地についたのを、お昼にはもうついてましたよね、と言いくるめようとしたら、疑いもなく全部鵜呑みにしちゃうと思うわ。若いころからあんまり旅行とかにも行ってないし、方向音痴だから太陽の位置から時間を推測するなんてのも無理っぽいしね。今、アリバイの唯一の証拠となってるのは、あの人が撮影したビデオなの、公共物の時計が映ってるの。ビデオに記録された撮影時間ともあっている」
 まず湖の画像が映っている。そこからビデオカメラは移動してある石碑を映す。『琵琶湖周航の歌』の歌碑だ。そのあとお母さんの笑顔を写した後で、またすこし移動して高いポールの上に設置された大きな時計のアップを映す。針の位置から時刻はおおむね十二時四十二分、その後一緒に映りましょうとか会話があった後で、ビデオはどこかに置かれたらしく画面の中にお母さんと達彦氏が仲良く入ってピースする、そんな画像であったらしい。
「画像を編集したとかいう疑いはないの?」
「警察でその手の分析をする組織に見てもらったところでは、そういう形跡はないそうね。それにね、あの人、うちのビデオで撮影してるのよ」
 出がけに、お義母さん、どうせ出かけるんだからビデオでも撮りましょう。たしかタンスの一番上の右側に入ってると思いますから、と達彦氏が言ったという。
「まあ、一緒に暮らしていたときと同じタンスに入れてるからね。憶えてられるのもあんまりいい気持ちじゃないけど。それで道中お母さんにビデオカメラを持たせたままだったって。撮影するときだけあの人が借りて、終わったらすぐ返してもらった、ってお母さん言ってた。すごい自信ありげだった。記憶怪しいことあるけど、あやふやだな、って時は自分でもそう感じてるみたいで、はっきり言い切るときの記憶はまず間違ってないのよ。だからそこのところは信じていいと思う。ドライブの日以降ビデオはずっとうちにあったし、それをそのまま証拠として警察に渡してるから」
 ビデオの時計を操作するほどの時間も達彦氏はビデオカメラを手元にはおかなかったそうで、撮影時間は被写体としての時計と、ビデオに記録された撮影時間と、二つの時計によって保証されていることになる。
「それなら、本当に達彦さんは金貸しの死についてなんにも関係ないんじゃないの? 警察が容疑者扱いできる理由って? それかまだアリバイを偽造できる余地があると考えてるのか?」
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