第28話 虎童子
文字数 2,904文字
見事な刺繍を縫いあげた秦璃に対し、
作品を作り上げるどころか、針で自分の指ごと縫うわ、力を入れすぎて布をビリビリに破くわでてんで話にならない。
これは誰がどう見ても秦璃の勝利。
あっけなく勝負がついたので、
「さあ、わたしの勝ちよ。約束通り、地上に出るのは諦めなさい」
秦璃が那威王に詰め寄る。
だが那威王は青白い顔をふくらませ、地団駄を踏みながら言った。
「嫌じゃ、嫌じゃ、嫌じゃ! 高貴にして雄々しく、勇敢な余が刺繍で勝負など! 無効じゃ、いまのは無し! 再度、別の勝負を申し込む!」
「なによ! なんでもいいって言ったのはそっちじゃない! あったまきた、蹴飛ばしてやるわ」
秦璃が突っかかっていこうとしたが、
「や、やめなさい。相手は妖怪だぞ。怒らせればどんな目に遭うかわからない。ここはおとなしく勝負に付き合ったほうがいい」
「でもあんまりだわ。妖怪でもちゃんと約束は守んなきゃ」
「ああ、その通りだ。次はわたしが行く。わたしに任せなさい」
「お父さまが?」
秦昂は懐から油紙でくるんだ袋をいくつか取り出した。
「この袋に入ってるのは、わたしが調理の時に使う香料だ。袋の裏にはその名称が記されてある。これを味見してなんの種類か当ててもらいたい」
那威王はすぐに機嫌を直し、さっそく袋のひとつに手を突っ込んだ。
「ふふ、四海の珍味を味わい尽くした余にそのような勝負を挑むとは。今度こそ余の勝利は決まったな」
那威王はひとつまみの香料を舌に塗りつけたが、すぐに重大な事実に気付いた。
すでに死んでいる殭死に味覚などあるわけがなかった。
これには地べたに座り込み、手足をばたつかせながら喚く。
「罠じゃ、陰謀じゃ! うぬはこの事を知っていてこんな勝負を挑んだに違いない! 卑怯者め、無効じゃ! 無し無し! 余は再度、別の勝負を申し込む!」
「そ、そんな。わたしはそんなつもりでは……」
秦昂は怯えて
今度は那威王のほうから対戦相手を指名した。
「うむ、そこのでかいの! うぬなら男らしく高貴かつ勇猛な勝負を挑んでくるであろう!」
「え、おれか? 参ったな、これといって得意なことなんてないんだが……。そうだ、早口言葉なら得意かな」
「はやくちことば……」
蘇悠の意外な特技にがっくりとうなだれる那威王。しかし指名した手前からか、それを断る様子はなかった。
「ぬぬぬ、よかろう! 高貴にして万能たる余は百篇の詩とて淀みなく諳んじることができる。さあ、参れ!」
それじゃあ、と蘇悠が口にした早口言葉は、一時期、都の子供たちの間で流行ったものだった。
「
得意というだけあってたしかに上手い。
この地味な特技に秦璃、秦昂は微妙な表情だったが、林魁は感嘆の声をあげた。
「すげえ! それ、おれもちゃんと言えたちゃんと言えたことねえのに。『今日もぴょんぴょん』のとこが難しいんだよ」
「うむ。この域に達するには十年はかかる」
蘇悠が得意げに胸を張る。次は那威王の番だ。
「殭死がぴょんぴょん、今日もきょんきょ──ぐべっ!」
どうやら舌を噛んだらしい。この勝負もあっけなくついてしまった。
「バカな……何故だ? 万能であるはずの余が平民ごときに何故こうも容易く敗れる? わからぬ……理解できん」
那威王のあまりの落ち込みように、林魁は少し気の毒になってきた。
「まあ、人それぞれ得手不得手があるってことだね。そんなに気にする事じゃないと思うけど」
那威王が顔を上げた。
「そういえば、うぬとはまだ勝負しておらぬ。うぬの特技を申せ。こうなった以上、余の名誉を取り戻すにはうぬとの勝負に勝つしかない」
「へへ、おれはあの龍道士の一番弟子だぜ。得意な事といったらこれだろ」
林魁は腰帯に差してあった木剣を抜き放つ。
那威王がおお、と感動したような声をあげた。
「最後にしてようやく勇士に会えたというわけか。道士の弟子とあらば、子供とて手加減の必要は無いな。勇士よ、名を聞こうか」
林魁はもったいつけたように、木剣の先を那威王に向けて名乗る。
「姓は林、名は魁。だが人はおれのことをこう呼ぶ。師が龍なら弟子は虎。その猛る爪牙はいかなる妖怪をも切り裂く、虎童子と」
これには秦璃たちが吹き出した。
「なにが虎童子よ。よくもそうでたらめばっかり言えるわね。わたしたちはもう三連勝したんだから、あんたが出る必要はないわ。危ないからさっさと剣をしまいなさい」
しかし、林魁は真剣な顔で首を横に振る。
「こいつは誰かが本気で相手しなきゃ駄目だ。自分の納得した形で、全力を出し尽くして負けないと死んでも死にきれないんだ。そうだろ?」
林魁の問いに那威王が微笑を浮かべた。
そしてすぐにぎらりと鋭い視線に戻る。
「感謝する。王も平民もない、男同士の一対一の戦いを。いざ、虎童子」
那威王が秦璃たちに手の平を向けた。
黒い半透明の壁が林魁と秦璃たちの間に出現した。
すぐに秦璃と蘇悠が壁を叩いたり、蹴ったりしてみるがビクともしない。それに声も届かないようだ。
「これで邪魔をする者もいない。いくぞ」
ばっ、と那威王が踏み込んだ。林魁が気合いと共に木剣を振り下ろす。
がしっと剣身を掴まれた。
バチバチと火花が散ったが、那威王は口元を少し歪めただけ。
「やるな、虎童子。だが余は負けぬ」
そのまま投げ飛ばされ、壁に叩きつけられて呻く林魁。
秦璃が必死になって叫ぶ。秦昂は那威王に負けないくらいの青い顔であたふたしている。
蘇悠は黒い壁に向かって何度も突進していた。
「うぬほど……いや、貴公ほど勇敢な男に出会ったのは五百年振りか。殺すには惜しいがこれも勝負。貴公の事は忘れぬぞ、虎童子」
那威王の鋭い爪。林魁の首すじに狙いを定めている。
林魁がもう駄目だ──と思った時、自分の身体の奥から何か得体の知れないものがにじみ出てくるのを感じた。
黒……色に例えるならドス黒い色。
身体の中心から手足の先にすーっ、と浸透していく。
見た目では分からないが、林魁はそう感じた。
これと似た感覚を以前にも体験した。
そう、
「これは、一体……⁉」
那威王がその変化に気付き、秦璃たちも信じられないものを見た。
林魁の全身が赤い毛で覆われ、顔や手足が獣の形に変化していく。
衣服をビリビリと引き裂き、雄叫びをあげた。
全身の毛が燃えさかる炎のように逆立ち、その目は見る者を凍りつかせるほど狂気に満ちていた。
「なんという妖気か! まさか妖怪だったとは」
たじろぐ那威王のもとへ、妖怪と化した林魁が近付く。
キヒヒ、と不気味に笑ったかと思えば、手にしている木剣をベキベキとへし折り、口の中へ放り込んでバリバリ噛み砕いた。
「なんと……」
同じ妖怪であるはずの那威王も困惑するような行動。
突然、林魁はゲハッ、と木剣の破片を吐き出しながら頭から突っ込んでいった。