第20話 無支祁

文字数 4,126文字

 舟の上にいた。
 河を下っている。周りの景色から左臥(さが)はそう思った。だが都で見るものとはなにかが違う。
 現世と大妖が封印されし異界。表裏一体で見た目は似ているが、その質は全く違うのだと肌で感じた。

「ここは……天手河か」

 左臥はつぶやく。独り言のつもりだったが、意外にも返事が返ってきた。

「そうだよお。ま、表の世界とはちっと違うがねえ」

 驚いて振り向く。笠をかぶった一人の船頭が舟を漕いでいた。

「そう驚きなさんな。あんたから乗り込んできたんじゃないか」

無支祁(むしき)はどこだ」

「心配せんでも、もうすぐ着くさ。命の保証はできねえけど」

 船頭が笠を取った。ぎょろりとした両目に鱗に覆われた肌。櫂を振り上げ、襲いかかってきた。

「──野郎!」

 前転しながら櫂を避け、雷印を結んで腹に打ち込む。ぼんっと妖怪の身体が破裂した。突然、前方に水柱が立ち上がった。龍。いや、蛇か。巨大な口を開け、舟ごと飲み込もうとする。

「蛟か。ふざけるなよ」

 左臥が矢を射るような構えを取る。もちろん弓など持っていない。だが左臥が念を凝らすと、光り輝く弓矢の輪郭がぼぼぼ、と現れた。

「仙指弓。これでも喰らえ」

 指の先端から光が離れた。それはくっきりと矢の形となり、蛟の口の中に飛び込む。絶叫とともに蛟の尾から矢が飛び出した。矢は空中できらきらと霧散する。

 ぐうん、と身体が持ち上がった。舟の下に何かいる。ばりばりっと船底が裂け、黒い甲殻質のものが姿を現した。
 左臥はそのまま甲羅の上に飛び乗る。前方に、にゅうーっと首が伸びてきた。亀の甲羅に鰐の頭と手足、尻尾。

「こいつは鬼弾か。めずらしい」

 鬼弾の長い首が反転し、口から毒水を吐き出してきた。かがんでかわす。かがんだついでに、雷印を打ち込んだ。

「雷勁っ」

びきびきっ、と甲羅に亀裂が入り、鬼弾の身体が真っ二つに裂けた。

 その巨体が沈む前に、陸へと飛び移る。

「なんだここは。妖怪どもの楽園か。あの女、説明を省きやがったな」

 愚痴をこぼす間にも、またも河から巨大から水柱が立ち上がる。

「こいつは……でかい。このエテ公が無支祁か」

 額が高く、猿に似た顔。真っ黒な身体で首の部分だけ白い。腕や胴体に人間ほどの太さもある鎖が巻きついている。大量の水を滴らせながら陸にのそのそと上がり、どっしりと胡座をかいた。

 黄金色に輝く目で左臥を見ると、口から白い牙をちらりと見せた。

「エテ公め、笑ってやがるのか」 

 左臥が走った。胡座をかいている膝に飛び乗る。頭の位置はまだまだ上だ。躊躇せず、雷印を結ぶ。

「くたばれ、エテ公! 雷勁っ」

 どん、と脇腹の辺りに打ち込んだ。鈍い手ごたえ。びりりっと無支祁の体毛が逆立った。だが無支祁の表情は変わらない。  
 左臥にはそれがばかにしているように見えた。

「上等だ、まだ喰らわせてやるよ」

 続けざま、雷印を打ち込む。
 どん、どん、どん、とその度に無支祁の体毛が逆立つ。だがやはり応えた様子はない。

 いきなり巨大な手の甲が迫った。攻撃の最中だった佐臥はまともにそれを喰らった。
 膝の上から吹っ飛ばされる。地面に叩きつけられ、ごろごろと転がった。

「ぐ……むおっ……」

 なんとか立ち上がる。反撃された。それはこちらの攻撃が効いたからではないか。

 だが無支祁は左臥のほうを見るでもなく、脇腹をぽりぽりと掻いていた。
 まるで効いていない。先ほどの無支祁の行動は、人間が蝿や虻を追い払うような仕草に過ぎなかった。

「ふっ、やはり桁が違うな」

 左臥はふらふらと近づいていく。しかし激しく咳き込み、うずくまった。
 無支祁は動かない。今、攻撃されれば確実にやられる。左臥は祈るような気持ちで呼吸を整えた。

 幸いにも無支祁はまだ動かなかった。なんとか咳が収まった左臥は、覚悟を決める。

「生きて帰ろうなんざ、虫がよすぎるか。やはり一銭にもならんことはするもんじゃない」

 全身の痛みを堪え、走った。膝まで飛び上がり、腕の上をだだだ、と駆け上がっていく。ここで無支祁が反応した。巨大な右手が伸び、左肩の辺りで捕らえられた。そのまま鼻の前まで持ってきて、くんくんと匂いを嗅ぐような仕草。

 捕らえられたが締め付けはそれほどきつくない。左臥の両腕は自由だ。
 両手とも雷印を結び、無支祁の皺だらけの鼻に押し付け、叫んだ。

「五雷大将軍に請う! 邪を斬り、鬼を滅し、魔を鎮め、身を粉にし骨が砕けるまで留め止めるな。我は五雷天尊の勅を奉じて兵火を行う、急急如律令!」

 雷印を結んだ両手がぼうっと光だした。無支祁は不思議そうな顔で寄り目になる。

「大、雷、震っ!」

 無支祁の巨体がバチバチィッ、と青白く発光し、ごっ、と揺れた。今度は毛が逆立つ程度では済まない。口や耳から白い煙が出てきた。
 焦げ臭いにおいが漂う。締め付けが緩くなった。左臥はその手から逃れる。

 無支祁が吼えた。はじめて見せる怒りの表情。身体はまだ揺れている。
 好機、とばかりに左臥は追い討ちをかけようとする。だが──。

 数歩駆けたところでまた咳き込んだ。あまりの苦しさに身体がくの字に折れ曲がる。口に添えた手は真っ赤に染まっていた。ついに血を吐いたのだ。

「くっ、早く死ね死ね、と腹の三尸が騒いでるらしい。だが……まだだ、あのエテ公を仕留めるまでは」

 血を吐きながら構える。目の前には無支祁の足。立ち上がると、さらに巨大に見える。
 無支祁が腕を振り上げた。腕に巻きついている鎖がじゃらららっ、と音を立てて宙を舞う。

「くそっ、やばい」

 轟音とともに鎖が地面にめり込む。左臥は転がってなんとかかわしていた。再び無支祁が腕を振り上げる。

「仙指弓!」

 光の矢を放つ。無支祁の左目に突き立った。顔を押さえ、絶叫をあげる。やった、と思ったのも束の間、左臥の身体は無支祁のつま先に蹴り上げられていた。

 肋骨が数本折れた。内臓も傷めたかもしれない。地面を転がり、血を吐きながらも左臥は冷静にその状況を把握していた。死に直面した自分。意外と恐怖はない。

「ここまでか。紫麗(しれい)……」

 血を吐きながら咳き込み、無支祁の姿を見上げた。その頭上にぼんやりと、なにか人影のようなものが見えた。

「なんだ、あれは」

 目を凝らしてそれを確認しようとしている間にそれは掻き消えてしまう。華美な衣装を着た女の姿にも見えた。

 いや、今はそれどころではない。無支祁──。手負いの大妖はすぐにでも自分を挽肉にしてしまうだろう。再び無支祁の顔を見る。

 左目を潰されたその横顔は意外にも普通の表情をしていた。
 左臥のほうを見てさえいない。なにか別な物に興味が移ったらしい。左臥は無支祁の視線の先を見た。

 錦の袋が落ちている。左臥の持ち物だ。先ほど蹴飛ばされたときに落としたらしい。
 慌てて立ち上がろうとするが、身体が動かない。

「おい、エテ公。そいつに触るなよ」

 あの中には左臥が今までに煉丹術の研究によって精製したものや、何年もかけて手に入れた貴重な材料が入っている。ある意味自分の命よりも大事なものだった。

 だが左臥の願いも空しく、無支祁は興味深げにその袋を毛むくじゃらの指先でつまみ上げ、くんくんと匂いを嗅ぎだした。

「おい、頼むぜ、そいつは食いもんじゃねえ。猿は木の実でも食ってろ」

 首だけを持ち上げて言うのがやっとだった。次の瞬間、左臥は怒りと絶望で雷に打たれたような衝撃を受ける。
 無支祁が大口開けてその袋を飲み込んでしまったのだ。

 「う、嘘だろ。なんてこった、畜生め。それを集めるのに、どれだけおれが苦労したかわかってんのか」

 左臥は立ち上がっていた。自分でも信じられなかった。
 どこにそんな力が残っていたのか。だが震える膝に荒い呼吸。咳の発作もいつ起こるかわからない。こんな状態でどうしようというのか。

 無支祁に変化が起きた。ひっく、ひっくと、しゃっくりをしだしたのだ。それがしばらくして収まると、腹を抱えてげらげらと笑いだした。その姿は不気味としか言いようがない。

 次に無支祁は頭を押さえた。苦痛の表情で、爪が食い込むほど強く。唸りながらうずくまる。かと思えば、すぐに立ち上がってぴょんぴょんと跳ねだした。

 その巨体が跳ねるものだから、ずしん、ずしん、と大地が揺れる。左臥の身体も倒れそうになるが、なんとか踏ん張った。踏ん張りながら、〈調息行気〉といわれる、道家の呼吸法を行いだした。

 鼻からそこら中の〈気〉を取り入れる。そして鼻を閉ざして息を止め、百二十まで数えて口から少しづつ吐き出す。これを繰り返した。その時間は十分にある。無支祁はまだ飛び跳ねていた。

 ふいに無支祁の動きが止まった。がたがたと全身が震えだしたのだ。震えながら目や口、鼻、あらゆる穴から血を垂れ流していた。

「おれが作った薬丹やら材料を一気に飲み下したりするからだ。それにガキの頃、言われなかったか? 拾い食いするなって」

 なんとか一撃、攻撃を叩き込めるところまで回復した。だが、それを外せば──あんな状態の無支祁だが、少し撫でる程度の攻撃で今の左臥は死んでしまうだろう。

「こいつは絶対に外さん。覚悟決めろよ」

 矢を射る構え。光り輝く弓矢の輪郭がぼぼぼ、と浮き出てきた。
 無支祁が血まみれの顔をこちらに向けた。ゆっくり、前に倒れこもうとする。道連れにするつもりか。

「死ぬんならおまえ一人で死ね。おれはまだ、死ぬときではないらしい」

 光の矢を放った。無支祁が吼えた。心臓を貫き、巨体がたたらを踏む。もう一度吼え、ゆっくりと仰向けに倒れる。もの凄い地響きがするだろうと身構えたが、その前に無支祁の身体は緑色の煙となって蒸発するように消えていった。

 あとに残されたのは、無支祁の身体に巻きついていた鎖。左臥が足を引きずりながらそれを見る。鎖の隙間には人骨とおぼしきものが無数に絡み付いていた。

「この中にあの幽霊のものもあるかな」

 言った途端、鎖に巻きついていた無数の人骨が淡い光を放ちだす。それは球体になって宙に浮いた。左臥の周りを漂い、しばらくしてふわふわと天へ昇っていった。

「礼を言う必要はない……。おれが勝手にやったことだ」

 呟いたあと意識を失い、倒れた。その左臥も光に包まれる。
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