第17話 明かされる過去 その参

文字数 3,142文字

 一ヶ月が過ぎた頃、秦伯偉(しんはくい)のもとに合格通知が届いた。
 老夫婦は狂喜して近所中を走りまわり、大勢の客を招いての祝宴が開かれた。秦伯偉はそんな中でもまだ茫然としていた。

 一人ずつ丁寧に挨拶してまわる義父。近所の友人と楽しそうに語らっている義母。
 上座にちょこん、と座っている伯偉に色んな人々が祝辞を述べる。どこぞの商人、どこぞの地主、どこぞの役人。秦伯偉はまるで夢でも見ているような感じでその人たちの話を聞いていた。

 夢から醒めた、と感じたのはある良家との縁談を勧められたときだった。秦伯偉はもちろん首を縦には振らなかった。だがこのような席ではっきりと断ることもできない。

 老夫婦、いや、義父と義母はその縁談には大賛成のようだった。なにせ相手の父親は朝廷に仕える官人。秦伯偉にとっては上官にあたる。その娘が嫁いでこようとしているのだ。

 それから毎日のように義父と義母は縁談の話を持ちかけてきた。秦伯偉はうまくはぐらかすが、こう毎日だとそうもいかない。
 秦伯偉は決心して、二人に賈玉泉(かぎょくせん)のことを話した。

「──というわけで、わたしには将来を誓った女性がいるのです。わたしは一刻でも早く、彼女をあそこから助け出さねばならないのです」

 一通り説明し、かつどれほど自分が賈玉泉のことを想っているか、彼女がどれほど素晴らしい女性であるか、ということを熱心に語った。だが義父と義母は賈玉泉が妓女だ、ということしか耳に入らなかったらしい。

「おまえはなにを言っているのです! そのような女のためにおまえの将来が台無しになってもよいのですか? もしこの縁談を断れば、おまえの地位も危うくなるのですよ。一体、今までなんのために頑張ってきたのですか!」

 普段は温厚な義母が血相を変えて詰め寄る。義父も秦伯偉の両肩をつかみ、揺さぶりながら言った。

「夢は叶った。その現実を過去のために捨てるのか? わが秦家はこれからおまえとともに栄えてゆくのだ。おまえはもう、張伯偉ではない。いや、これからは姓だけでなく、名も変えよ。若くして死んだわたしたちの息子、(こう)の名を名乗るがよい。よいか、張伯偉は死んだ。よっておまえとその女を繋ぐものなど、なにもないのだ」

 秦伯偉は混乱した。二人が呼び止めるのも待たず、部屋に駆け込んだ。

 たしかに今まで必死に勉強してきたのは朝廷の官吏となるためだった。
 だが賈玉泉──彼女は自分を犠牲にしてまで自分を助けてくれた。官人の娘との縁談。断れば出世の道が断たれるかもしれない。
 いやだ。しかし賈玉泉があまりにも不憫。義父と義母の恩。秦家の重み。新しい名、「秦昂」。寝台に突っ伏して呻いた。


 ✳ ✳ ✳


 それから五年の月日が過ぎた。「秦伯偉」改め秦昂(しんこう)は、都の行政を担当する部署でその腕を揮っていた。戸籍の管理、税収の確認。区画整理や都市開発……忙しい日々が過ぎていく。

 秦家の屋敷を建て直した頃、妻が子を産んだ。女の子で「()」と名づけた。

 幸福の絶頂にある、と秦昂は感じていた。なにか大事なことを忘れている。だが無理やり思い出さないようにしてある。そしてある日、噂を聞いた。

 とある高級妓楼の妓女が逃げ出し、途中で河に身を投げたらしい。都でも一、二を争うほどの人気があった妓女。名を──賈玉泉。

 秦昂は震えが止まらなかった。五年前、妓楼の二階の窓から見えた悲しそうな顔。そして涙。忘れたわけではなかった。だが、どうしようもなかった。

 地位も名誉も捨て、彼女のもとに駆けつけるべきだったか? 

 いや力が、金が無ければ彼女を救えなかった。ならば地位も金もある頃ならば? 無理だ。妻がいる。賈玉泉を妻にすることはできない。それは裏切ったと同じことではないか。

 彼女の噂は少なからず耳にしていた。都で最も繁盛している妓楼で一、二を争うほどの人気だったのだ。彼女も現状に満足している。そう、思っていた。いや、思おうとしていた。

 それから秦昂は毎晩うなされた。毎晩同じ夢を見る。天手河のほとりに秦昂は立っていた。
 秦昂を呼ぶ声がする。秦昂は怖くなって逃げ出そうとするが、身体が動かない。足首をつかまれた。見れば、女の白く、細い手。河の中へ引きずりこもうとする。

 秦昂は悲鳴をあげる。それが何日も続いた。ちなみに彼女の遺体は上がってきていないらしい。

 秦昂はすっかり衰弱しきって出仕するのもままならないほどだった。そしてまた夜がやってくる。秦昂は眠らないことにした。闇が秦昂の周りを包み込む。

 壁に女の影が見えた気がした。天井にも。女の声がする気がした。柱の陰になにかいる気がした。それらが見えたり、聞こえたりするのは、この屋敷のせいだと思った。

 秦昂は疲れていた。心も身体も。まともに考えることも出来なくなっていた。
秦昂は油をそこいらにぶちまけ、燭台の蝋燭を手に取った。床に落とすと、勢いよく燃え上がった。

 都の一区画。ほとんどの建造物が燃え落ちるほどの大火が引き起こされたのはそのときだった。

 しかし火事の直後、ひとりの男が大声で叫びまわったために人々は早く避難できた。

 規模の大きい火事だったが犠牲者はたったの三名と奇跡的な数字。
 その三名とは特に燃え方が激しかった秦家の屋敷の住人。

 秦昂の妻と義父、義母の3人だった。
 

 ✳ ✳ ✳


 秦昂はそこまで語ると怯えたようにうずくまり、顔の火傷の痕を押さえた。
 秦璃(しんり)は茫然とし、周りの者もしばらくは無言のままだった。最初に口を開いたのは、秦昂自身だった。

「最近、天手河で女の幽霊が出ると聞き、わたしはそれが玉泉だと確信した。どうして今ごろになって出てきたかはわからないが。そこで、その左臥(さが)とかいう道士に祓ってくれるよう依頼したのだ」

「ふっ、自分のせいで死なせたくせに、幽霊となって現れたら祓ってくれだと? 随分勝手がいいな」

 左臥が苦しそうな表情で近づき、その襟首をつかむ。秦昂はそれを振りほどいて言った。

「あ、あんたはなにもできなかったじゃないか。わ、わたしは今になっても苦しんでいる玉泉の魂を救ってやりたいだけだ」

「その言葉に偽りはありませんね? 秦昂どの」

 (りゅう)が問いかけると、秦昂は視線を落としつつもうなずいた。

「ならば、会わねばなりませんね。会わなければその幽霊が救われることはないでしょう」

 そう言ったのは欧陽緋(おうようひ)だった。秦璃もはっとして、父の袖を引っ張る。

「……そうだ。わたしは逃げていた。宮廷を去り、学問を捨て、過去の一切を忘れたつもりだった。だが結局はこの名も捨てれず、娘にもわたしと同じ道を歩ませようとしている。ここで、わたし自身が行動して玉泉に詫びなければ」

 秦昂の眼が力強い光を帯びた。皆に真実を話し、決心がついたためだろう。

 秦昂一人では心配なので、龍が同行することを申し出る。すると次々と皆が同じことを言い出した。

「ごほん、ああ、おれも行きますよ。まあ、ここまで関わったんならね。構わないでしょう? 龍先生」

 蘇悠(そゆう)が訊くと、林魁(りんかい)も飛び上がって手をあげる。

「おれも、おれも! あのお姉さんも、みんなで見送ってやったほうが嬉しいと思うし」

 秦璃はしっかりと父の袖をつかんだまま、龍を見る。

「……わたしも行くわ。わたしもその人に会わなきゃいけない気がする」

 欧陽緋は感情の読み取れない顔で、ぼそりとつぶやく。

「わたくしも少し気になることがあるので。同行しましょう」

 予想していたことなので龍は諦めたように言った。

「そんな大勢で行ってもしょうがないのですが……仕方ないですね。そういえば左臥はどうしますか?」

「おれも行く。いちいち訊くな」

 軽く咳き込みながら左臥は椅子へ座った。
 しかし最後まで龍が用意した薬湯入りの碗には手をつけずじまいだった。
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