第2話 鬼女

文字数 4,844文字

 自宅である街はずれのさびれた道観。そこに龍と少年は住んでいる。少年の名は林魁(りんかい)
両親を幼い頃に亡くし、わけあって龍に引き取られ弟子として住み込んでいる。

 道士(りゅう)の本当の名は誰も知らない。
 龍というのも姓であるのか、名であるのか。はたまた号であるのか不明であった。林魁が以前訊いたときも教えてくれなかった。
 名というものは悪しき術者に呪いとして利用されると龍から聞いていたので、多分そのためだろうと林魁は納得している。

 道観から一人の少女が出迎える。名を秦璃(しんり)という。もともとは士大夫階級──名門の家柄の出身であるが、今となっては没落し父親も飯屋の調理人でしかない。暮らしはそれほど楽ではないが、もとは名門の家柄。娘に学問は必要だ、と博識で学費も取らない龍のもとで学ばせているわけである。

 もっとも、それでは申しわけないと秦璃は自主的に龍の身の周りを世話するようになった。もちろん父親には内緒にしているのだが。

「龍先生、お帰りなさい。昼食の用意できてますよ」

 花のように、ぱっと笑いながら駆け寄る。龍も笑顔を返しながらその頭を撫でる。

「いつもありがとう。だけど秦璃、わたしの世話ばかりではなく学問のほうもちゃんとやらないと。わたしが言っておいた課題、全て終わらせたのですか?」

 龍が心配そうに尋ねると秦璃は胸を張って答える。

「もちろんよ。どこの誰かさんと違ってわたしは真面目だし。先生の世話だってわたしが好きでやってるんだから、先生はなにも心配することなんてないのよ」

 訊くまでもなかったか、と龍は苦笑し、道観の中へと入る。その後ろには林魁。秦璃に向かってべえ、と舌を出しながら龍の後へ続く。それをむっとした表情で見送りながら、秦璃も道観の中へと入る。

 林魁は十三歳。秦璃は十四歳。秦璃は一つ上なだけなのに、なにかと姉のように小うるさいので、林魁はそれが気に食わない。なにかあるたびに喧嘩をする二人を見て、龍も「まあ、よく喧嘩の種が尽きないものだ」と半ば諦めている。

「ほうほう、これはこれは。煮豆にうどん、おかゆ。瓜の漬けもの。いつもより一品多いぜ。これで肉があればなあ。言うこと無しなんだけど」

 皮肉っぽく言う林魁に龍がなだめるように言い聞かせる。

「本来なら穀物も控えたほうが良いのですが……。育ち盛りの魁には酷ですから。しかし、生ぐさものは絶対だめです。修行中の身だからではなく、魁。あなた自身の体質によるものです」

「わ、わかってるって師匠。肉食ったら、命に関わるんだろ? 何度も聞いたよう。ただね、このうどん、李秉の店のやつだろ? あそこよか、段六んとこのやつがいいな、おれ」

 なおもいちゃもんをつける林魁に対し、秦璃も負けていない。

「あら、文句があるなら食べなくてもいいのよ。あんたが食べなくても路地裏にはお腹空かせたワンちゃんがたくさんいるんだから」

「へっ、ワン公に食わせるなんてもったいない。仕方がねえからこれで我慢してやらあ」

 取り上げられてはたまらん、と急いでうどんをすすりだす。慌てていたので咳き込み、二人に笑われた。


 ✳ ✳ ✳
 

 昼食を済ませ、龍は秦璃に学問を教える。その間林魁は別室で経典の書写をしておくよう言われていた。
 経典の書写と口訣の暗誦が特に苦手な林魁は、ぶつくさ文句を言いながら墨を擦る。そのとき、窓からひょいと顔を覗かせた人物がいた。

「よう、林坊。忙しそうだな」

 苦笑まじりに話しかけてきたのは蘇悠(そゆう)だった。墨を擦る時点でうんざりしていた林魁は、これ幸いとばかりに窓に駆け寄る。

「あれ、蘇悠さん。もう仕事終わったのかい?」

「とりあえずな。後は役所に戻って報告するだけだが、その前にここに寄っておこうと思ってな」

「ふーん。師匠に用事? 呼んでこようか?」

「いや、違うんだ。ほら、おまえ言ってただろう。鬼女かどうか調べる方法があるって」

 林魁はもったいぶったように首をかしげる。

「へ? そんなこと言ったっけ?」

「ひでえな、確かに言ってただろう。頼むよ、おれに教えてくれないか」

「心当たりがあるの?」

 林魁が訊くと、蘇悠はしっ、と人差し指を口の前に持ってくる。

「そういうわけじゃないが……念のためだ。このことは龍先生には内緒にしといてくれ。うちのかかあに知れたら、えらいことになる」

「へへ、なるほど。教えてもいいけどさ、仮にも道家の秘技だよ。それを訊こうってんだから、それなりにねぇ」

 にやりと笑う林魁に、蘇悠は降参したように軽く両手を上げる。

「まったく、ちゃっかりしてらあ。ほら、取っときな」

 窓越しに数枚の銅銭を投げ込む。林魁は嬉々としてそれを受け取った。

「ようし。そんじゃ、教えるよ。まず奥さんの寝台に、廟に一晩置いて清めた水を少しだけ振りまくんだ。気づかれないように少しだよ」

「ああ。今日、龍先生からもらったやつだな」

「うん。それから枕の裏にもお札を貼っておく。おれが持ってるから、何枚かあげるよ」

「おう、ありがてえ。それから?」

「部屋の四隅にお札を焼いた灰を盛っておく。これも気づかれないよう、こっそりね。あと、寝台に横になった奥さんが見えるような場所に八卦鏡。これも貸してあげるからこれで完璧。並の鬼女なら寝台に近づけもしない。よほどの鈍感か胆の据わったやつでも鏡に本当の姿が映る」

「お、おう。そんで、もし本当に鬼女だった場合は?」

「絶対、慌てたり、騒いだりしちゃだめだよ。鬼女は鏡に映った自分の姿に気づかないんだ。でも、蘇悠さんが騒いだりして気づかれたが最後、呉服屋の若旦那と同じ目に遭う。朝まで知らんぷりしてるんだ。朝になったらここに逃げ込めばいい」

「よ、よし。わかった。林坊、もしもの時は頼んだぜ。今夜、さっそく試してみるからな」

 蘇悠は緊張した面持ちで、受け取った紙符を握り締める。何度も方法を確認したあと、ようやく帰っていった。

「こいつは面白いことになった」

 林魁は興奮して、もう書写どころではない。夜、ここを抜け出して様子を見に行こうかと思ったが、本当に鬼女が出たら怖いのでとりあえず明日の朝まで待つことにする。


 ✳ ✳ ✳


 次の日の朝。林魁が期待していた通りに、蘇悠が血相を変えて転がり込んできた。驚いたのは龍である。

「蘇悠どの、どうしました? なにか事件でも」

 龍が訊くのも待たずに、蘇悠はその裾にしがみつく。

「りゅ、龍先生、助けてください。うちのかかあが……き、き、き、鬼女だったんです」

「鬼女? まさか」

「本当ですって! 昨日、林坊に教わった通りに試したら……あいつ、寝台には近づきもしないで『今日は居間で寝る』って言いやがったんです。こんなこと、今までなかった。ああ……あいつが鬼女なら、本物のかかあはどうなっちまったんだ」

「落ち着いてください。魁に聞いたと言いましたね。まったく、あの子は」

 さっそく林魁を呼び出し、叱りつけ、詳しい話を訊く。林魁は神妙な面持ちで小言を聞いていたが、その経緯を話すときとなると目を輝かせてはしゃいでいる。少しも反省していない様子に、龍は深い溜息をつく。

「それで師匠、どうするの? 退治するんでしょ」

「魁、まだそうと決まったわけではないでしょう。蘇悠どのを見なさい、かわいそうに。おまえのせいですっかり怯えてしまっているではありませんか。とりあえず、わたし一人で蘇悠どのの家へ行ってきますから、おまえはここで待っていなさい」

「ええーっ、また留守番? おれも見てみたいな、鬼女」

「だから、まだ決まったわけではありません。ですが万が一ということもあります。だとしたら連れて行くわけにはいきません」

「ちぇっ、やっぱりおれの体質ってやつのせい?」

「そうです。いいですか、ちゃんと留守番しておくのですよ」

 龍は木箱を背負い、蘇悠の家へと出かけていった。
 道観には林魁と蘇悠の二人だけが残され、林魁はどうにも落ち着かない。部屋の中をぐるぐると歩き回って残念そうにつぶやく。

「ああー、どうなるんだろ、鬼女との戦い。お札を使うのかな? いや、やっぱり剣かな。もしかしたら凄い術を使うかも。見てみたいなぁ。おれ師匠が戦ってるとこ、まだ見たことないんだ」

 蘇悠は顔を覆ってその場にへたりこむ。林魁は気の毒になって、自分なりに慰めようとする。

「蘇悠さん、あのね、考えようによっちゃ良かったかもよ。ほら、呉服屋の若旦那みたいに喰われなくて済んだんだから。それに、もっとべっぴんの嫁さんが嫁いでくれるかもしれないだろ? いや、今の奥さんが不細工だって言ってるわけじゃないよ。困ったな、なんて言ったらいいのかな」

 蘇悠はとうとう声をあげて泣き出した。林魁は困りきって外に飛び出す。ちょうどそのとき、道観を訪れた秦璃とばったり出会った。

「秦璃、助けてくれ。蘇悠さんが子供みたいに泣いて大変なんだ」

 助けを求める林魁に秦璃はそっけなく答える。

「あ、そ。さっき龍先生に会ったから、事情は知ってるわ。あんたのせいなんだから、あんたがなんとかしなさい」

「じゃ、じゃあ、なにしに来たんだよ」

「ばかね、勉強に決まってるじゃない。龍先生が戻ってくるまで、自習しとかなきゃ」

 秦璃は道観の中へ入り、泣きじゃくる蘇悠を無視して奥の部屋へと行ってしまった。

「なんだあいつ、冷てえな。ああ、早く師匠が帰ってこねえかな」

 ぼやいていたところに門の外からなにか聞こえてきた。女性の声……かなり怒っているようだ。
 次第に近づいてきて門扉がばん、と乱暴に開けられる。

 そこには一人の女性が箒を手に仁王立ちしている。
 ぎろり、と周りを見渡し、ずかずかと道観の中へと足を踏み入れる。林魁はぽかんとそれを眺めていた。

「あんた! 誰が鬼女だって!? 冗談じゃないよ、このすっとこどっこい!」

 女は蘇悠の脳天めがけ、箒を叩きつける。驚いた蘇悠は呆気に取られ、しばらく女の顔をじっと見つめたあと、歓喜の声をあげて抱きついた。

「おまえ、無事だったのか! 良かった、本当に良かった。おれはてっきり鬼女に喰われちまったのかと」

 それを聞いた女は蘇悠を引き剥がし、尻に箒の一撃を喰らわせながら叫ぶ。

「なにが鬼女だ、この阿呆! 昨日、同じ部屋に寝なかったのはちゃんと理由があるんだ!」

「り、理由?」

「昨日は何の日だった!?

「昨日は……おれの給金日……」

「そう。こっそりへそくりの隠し場所を探してたんだよ。だけどね、そんなこそこそした真似をしなきゃならないのも、あんたの稼ぎが少ないせいだよ!」

「おまえ、そりゃあ無茶苦茶だ。別に食うのに困ってるわけでもなし」

「あんたはただ仕事に行って、帰ってくるだけ。家のことはなんにも知らないでしょう? 家事やら子供、じいさん、ばあさんの世話までわたしが一人でやってるんだから。そんなわたしに少しくらいご褒美があったっていいじゃないの。隣の王さんなんて、旦那さんから綺麗なかんざしを買ってもらったって……」

「お、おれはおまえを心配してたんだぞ!」

「なにが心配だ、この甲斐性なし! うちの恥をそこらじゅうに広めるような真似をして!」

 女は再び箒を振りかざす。蘇悠は悲鳴をあげながら逃げ回った。

「ひええ、こりゃたまらん! これじゃ、鬼女のほうがなんぼかましだった──ぐえっ!」

 箒が蘇悠の頭に命中する。林魁はそれを見て腹を抱えて笑っている。あまりの騒がしさに奥から秦璃が出てきた。このけたたましい状況に、首をかしげながら訊く。

「うーん、問題は解決したのかしら? それとも余計にややこしくなったの?」

 林魁は笑い転げながら答えた。

「あはは、ひい、腹がいてえ。見りゃわかるだろ、喧嘩するほど仲が良いってことさ」

 門の外では龍が息を切らせながら、その場にへたりこんでいる。

「ああ、間に合わなかった。蘇悠どの、どうかご無事で」

 悲鳴をあげて逃げ回る蘇悠と、それこそ鬼女のような形相で追い回す女。さしもの道士も額の汗を拭いながら、ただ見ているほかなかった。
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