第11話 天手河の幽霊

文字数 2,520文字

 見回りを再開した三人は西蓮橋の周辺を一通り見回ったあと、都の中心を東西に分かつ天手河まで来た。

 天地創造の際に神がその御手で掘削して出来た河だという。住民の生活用水はもちろんのこと、広い都の中で物資を運ぶ重要な水路でもある。また、外敵の侵入に備えて外城の周りを壕が囲んでいるが、その中を流れている水も天手河から引いたものである。

 蘇悠(そゆう)が警備する担当区画はここまでである。対岸の東側からは別の警備班の管轄だから、蘇悠は安心してほっと一息つく。

「ここまで来たらあとは戻るだけだな。さあ(りゅう)先生、魁、帰ろうか」

 くるりと踵を返し二人をうながすが、二人ともその場所から動かなかった。

「魁、聞こえますか?」

「うん、誰か泣いてる……。あの柳の下だ」

 林魁(りんかい)が指差すほうを蘇悠は目を凝らして見てみるが、柳の枝葉がわずかに揺れ動いているだけでなにも見えない。業を煮やしてずかずかと歩み寄り、ぎょっとして立ち止まる。

 女──。いつの間にか柳の下にいる。こちらに背を向け、河の流れを一心に見つめているようだった。いや、かすかにすすり泣くような声が聞こえる。
 蘇悠がさらに近づくと、その細い肩を震わせてさめざめと泣いている様子がわかった。

 蘇悠はごくりと息をのむ。衣服の上からでもわかるほっそりとした肢体にくっきりとした曲線。その衣装は上品かつ豪奢で、裳裾からのぞかせる絹のような脚、開けた襟からは艶めかしいうなじが視線を釘づけにする。

「蘇悠どの、そこで止まってください」

 今にもふらふらと女に声をかけそうな蘇悠を、龍が静かに止める。蘇悠ははっとわれに返り、そろりそろりと後退した。林魁が小声で訊く。

「師匠、あの女の人は妖怪?」

「いえ、存在そのものの〈気〉が微弱ですね。なにか強い想いを抱いて死んだ者の思念というか……霊といっていいでしょうか」

 龍にも判断がつきかねるようだった。しばらく考えたあと、林魁に言った。

「人に対して害意があるようには見えませんが、このまま放っておくわけにもいかないでしょう。魁、慎重に話かけてみてください」

「げえっ、おれが?」

「ええ。この場合、子供のほうがいいでしょう。邪悪なものは感じられないですから、多分だいじょうぶでしょう」

「多分て……」

 林魁は不満そうに、そして恐々と近づく。その距離あと数歩というところで女に話かける。

「あのー、お姉さん、どうして泣いているの? お、おれは林魁っていうんだけど」

 女が泣くのをやめ、ゆっくりと振り返る。林魁の顔が赤くなり、龍と蘇悠が思わず同時に息を止める。

 その妖艶な後姿どおりの眉目麗しい女性だった。顔色がやけに青白いのと泣きはらした目、翳りのある表情を除けば、まさに絶世の美女といってもよかった。

 林魁がうわずった声で再び訊く。

「あ、あのね、幽霊のお姉さん。あそこにいる人は龍道士っていう人でね。多分死んだ人の悩みも聞いてくれるんじゃないかな。ほら、なんか悩んでるんだったら相談してみたら」

 女幽霊は涙を拭き、龍に向かって深々とおじぎをすると、消え入りそうな声で語りだした。

「わたしはこの近くの妓楼で働いていた妓女で、賈玉泉(かぎょくせん)と申します。さるお方と婚約し、妓楼から身請けしてもらうはずでした。わたしは五年だけ待つと心に誓い、その方を待ったのです。ですが、その方は迎えに来てはくれませんでした。そしてついに五年経ったその日、わたしは絶望のあまりこの河へと身を投げたのです」

 玉泉はそこまで語ると、再び涙を流しはじめる。龍は周りを見渡して首をかしげた。

「はて、この辺りはたしかに店も多く賑やかですが、妓楼らしき建物は見当たりませんね」

 ここで、でれでれした顔をした蘇悠が口をはさむ。

「いや、龍先生。ここらは昔、歓楽街だったんですよ。大火事が起きてここら一帯が焼けたあとは北のほうへ移動したんです。おれもガキの頃だったんで、よく覚えていませんが」

 林魁も、もじもじしながら会話に加わろうとする。

「それで? 死んじゃったあとも、その人のことを想って泣いてるの?」

 玉泉は声をつまらせながら「ええ」と答え、あのときどうして約束を果たしてくれなかったのか。その後その男がどうなったかを知りたいという。

「うーん、十四、五年前の話だからなあ。調べるのは少し難しいかもしれないなあ」

 蘇悠が難色を示し、龍も考え込む。力になってやりたいが、今はそれどころではない状況だ。今こうしている間にも宮廷道士が呪術を利用して都に怪異を引き起こそうとしているかもしれないのだ。

「ねえ、どうにかしてあげようよ。この人かわいそうだよ。きっとそれが原因で、死んだあともずっとここで泣いているんだよ」

 林魁が龍の袖をぐいぐいと引っ張り、懇願する。龍はやれやれとつぶやき、女にその男の名を訊いた。

「……張伯偉(ちょうはくい)。わたしと知り合ったとき、彼は地方の試験に合格し、次はこの都で中央官吏の試験を受ける予定でした」

「なるほど。試験に合格していれば今頃は朝廷の高官か、不合格なら地方の役人かもな。その線で調べてみれば、なんとかなるかも」

 蘇悠がそう言い、龍もできるだけのことはしてみる、と玉泉に約束した。玉泉は何度も何度も龍たちに向かって頭を下げて礼を言い、すーっと消えていった。


 ✳ ✳ ✳


 次の日から林魁と蘇悠の積極的な聞き込みがはじまった。だが数日経っても「張伯偉」という人物を知る者はなかなか見つからなかった。もし朝廷の高官であるなら、噂の一つや二つぐらい聞いてもおかしくはないはずだ。

「やっぱり中央の試験で落ちたんだよ。田舎でちょっとした役人として落ちついたんじゃないかな」

 林魁が訊くと、蘇悠は腕組みをしながらしばらく思案し、口を開く。

「ううむ。官人になったあと、人事異動でどこかの地方長官に任命されたかもしれん。いや、それならそれで調べるのは容易いはずだ。魁の言うとおりかもしれんな」

「それじゃ、これからどうするの?」

「州から県、鎮や村の役人名簿をかたっぱしから調べるしかないな。宮廷に行けばあるかもしれんが……おれたちじゃ、どうしようもない」

 二人は同時にうつむき、深い溜息をついた。意気消沈したまま、その日の聞き込みは終了する。
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