第16話 明かされる過去 その弐
文字数 2,548文字
とにかく中央試験に合格しなければ。手元には
職でも探し、都での滞在費を稼ぐか。しかし働きながら試験までの追い込みに入る、というのは難しい。それほどの難関であるのだ。
もし合格すれば朝廷の高官としての道が開けたことになる。周囲の見る目ががらりと変わる。
その恩恵に与ろうと様々な輩が寄ってくるだろう。その中には大地主や富豪がいる。彼らから出資させることなど容易いはずだ。
張伯偉はあまり賑やかでない通りの小さな飯屋へと立ち寄った。ここなら安い食事で済むと思ったからだ。いつもの酒楼へはもう行けない。
そこにはあまり金を持っていなさそうな書生や旅人がたむろしていた。
張伯偉は注文した麺をすすりながら、彼らの話に耳を傾けた。
彼らの中にも中央試験を受けるものがいるらしい。地方から出てきている者はやはり今回の試験延期に対する不満を酒臭い息とともに吐き出していた。
その会話の中で興味深いものが一つあった。
秦という名家〈といっても今では相当に落ちぶれているらしいが〉が、唯一名家の名残として残っている広い屋敷の部屋を格安で旅人などに貸しているらしい。しかも中央試験を受ける者には無料で貸しているらしかった。
もっともそれは屋敷の主人が認めた者に限る、ということだ。この主人も有望な若者になんらかの期待を込めて泊まらせているのだろう。
そういったものに張伯偉は別に嫌悪感は抱かなかった。むしろありがたい。
張伯偉はその秦家を訪ねてみた。広い屋敷には老夫婦と宿泊している客が数人いた。
屋敷の主は
二人に自分が中央試験を受けること、諸事情で宿を探していることを告げた。
二人は快く一室を貸し与えてくれた。部屋へと案内されたあと、秦済は張伯偉を試すような質問を幾つかしてきた。
古典や詩の一節を諳んじては、その続きや作者の名を訊いてくる。
基本的な礼法、しきたり、その由来。現王朝の歴代の皇帝の諡とその在位年数、主な偉業について。さまざまな分野の質問が繰り返されたが、張伯偉はその全てに淀みなく答えた。
秦済は目を丸くして感心したように言った。
「失礼いたしました。あなたが本当に中央試験を受けられるほどのお方か、試させていただきました。しかし驚きです。わたしが出した質問に全て答えられたのはあなたが始めてです」
当然、宿泊費は無料となった。質素なものだが食事も付いている。これは他の客にはなかった。どうやら気に入られたらしい。
部屋で学問にいそしみつつも、張伯偉は暇を見つけては屋敷の掃除や老朽化した部分の修理などを進んでやった。自然と老夫婦とも親しくなり、夕食の時間を共に過ごすようになった。
中央試験まであと一ヶ月ほどの頃だった。老夫婦が話があるということで、張伯偉は一室に呼び出された。
二人は正装だった。部屋には祭壇が設けられている。祭壇の上には香が焚かれ、贄が供えられていた。
張伯偉がぽかんと突っ立っていると、老夫婦は平身低頭、驚く伯偉に向かってこう言った。
「あなたを見込んでこの老いぼれ二人、ぜひ頼みたいことがあります。かつて多くの名士を輩出してきた名門秦家も次第に衰え、今では唯一残されたこの屋敷で細々と宿貸しで生計を立てている有様。子には先立たれ、秦家再興の希望も持てぬまま、悶々と日々を過ごしておりました。しかし、ついに秦家の名を継ぐべき才人と出会うことができました」
「もしや、その才人とは……」
張伯偉が後ずさりして身構えると、二人は裾にしがみつき、涙を流しながら懇願する。
「あなたほどの才気溢れる若者にわたしたちは出会ったことがありません。どうか、どうかお受けしてもらいたい。わたしたちの養子となり、秦家を継ぐことを」
張伯偉はただ驚くばかりだった。しかし悪い話ではない、とも思った。
落ちぶれたとはいえ、名門秦家の者となれば試験官の見る目も変わってくるだろう。それにこの老夫婦には確かに同情するものがあるし、今までなにかと世話になった恩もある。
張伯偉は跪いて二人の手を取った。
「秦家の名の重さはとてもわたしが背負えるものではありません。しかし、お二人には並々ならぬ恩があります。この話、謹んでお受けしましょう」
張伯偉は養子となることを承諾した。二人は大げさなほどに喜び、その場で親子の契りを交わし、祝宴がはじまった。
これほどまでに喜ばれると秦家の名を利用している自身がとても浅ましく思えた。だがよく考えればこの老夫婦も秦家再興のために自分を利用しようとしているのだ。そう思えば少しは気が楽になった。
ただ気がかりなのは賈玉泉のことである。彼女は「張伯偉」の自分しか知らない。「秦伯偉」となった自分は、どこか賈玉泉との繋がりが消えそうで不安だった。
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ついに試験を受ける日がやってきた。張伯偉は老夫婦の期待を一身に背負い、試験会場のある寺院の境内へと向かった。すでに大勢の受験生が集まっている。
境内には臨時の試験会場が設けられている。地面には蓙をひき、その上に机。頭上にはいくつかの天幕が張られ、とりあえず雨は凌げるようになっている。周りは塀に囲まれ、試験官が不正のないよう目を光らせている。
試験はこの場所で数日間ぶっ通しで行われる。だから受験者は鍋と食材、寝具を持ち込んで受験に挑む。
用を足すときや水が必要な場合は寺院の中に入れるが、その際は身体検査がある。
問題は夜である。各所の篝火とそれぞれの机に備え付けられている燭台のおかげで明かりには不自由しないが、ほとんど吹きっさらしの状態なのでかなり寒い。
張伯偉はそんな中で、寝食を忘れたように無我夢中で膨大な数の問題を解き、答案用紙に書き込んだ。
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試験は終了した。どうやって帰宅していつ寝たのかもわからない。それほど疲れきっていた。老夫婦の話によると二日は寝込んでいたらしい。
目を覚ましてからも、張伯偉はそれから数日の間、茫然としていた。全ての気力を使い果たした、とでもいうのだろうか。その間はなにも考えられなかった。あの玉泉のことすらも。