第15話 明かされる過去 その壱
文字数 1,921文字
郷里で受けた地方試験ではかなり上位で合格した。このまま郡や県の長官ぐらいにはなれるかもしれない。だが張伯偉はそんな地位では満足しようとは思っていなかった。
目指すのは国の中枢で活躍する、まさに昇りつめれば国すら動かすことのできる地位だ。
さして裕福でもない家に生まれたが、両親は自分たちの食費を削ってまで書物や筆を買い与えたり、時々は教師を呼んでくれたりと、学問に打ち込む環境を必死に作ってくれた。
その甲斐あって地方試験には見事合格。残念なのは両親がすでに死んだ後のことだった。自分の学費を稼ぐために、寝る間を惜しんで働きづめだったためだろう。二人ともまだ老いる、というには早すぎる年齢だった。
張伯偉は都に出てきてから一人の女性と知り合った。
彼女目当てにこの酒楼に訪れる客も多い。張伯偉もそのうちの一人だった。
最初の頃は挨拶を交わす程度の仲だったが、彼女が乱暴な客にからまれていたのをボコボコにされながらも助けたことから二人は恋仲となる。
張伯偉は幸せだった。
中央での試験を控えた張伯偉を彼女はなにかと励まし、献身的に尽くしてくれた。近い将来必ず妻にすると約束したとき、賈玉泉は本当に喜んでいた。
張伯偉は二人の過ごす時間がこのまま止まってくれたらいい、と心底思えた。彼女もきっとに違いない、とも思った。
「お金のほうはだいじょうぶなの? 足りないようだったら、相談してくださいね」
「ああ。気にしなくてもいい。だいじょうぶだ」
張伯偉は嘘をついた。
実は中央試験が突然延期となったのだ。両親の貯めこんでいた金は、都までの旅費や今までの滞在費であとわずかとなっている。このままでは中央での試験が受けられるかどうかもわからない。
賈玉泉は酒楼に住み込みで働いており、数人の使用人と同居しているので同棲して宿泊費を浮かす、ということもできない。どちらにしろ彼女に金のことで迷惑をかけたくなかった。
ある日の夜、めずらしく酔いすぎた張伯偉は酒楼を出てふらふらと千鳥足で街を歩く。賭博場に足が向かっていた。なぜそんな気になったのかわからない。
わけのわからぬままサイコロを振っていた。あっという間に所持金が消え、金が無いとわかると借金の証文に名を書かされた。朦朧とした意識の中で、再度サイコロを振る。
気がつくと朝。宿の一室で目が覚めた。辺りには証文の写しであろう、紙きれが何枚も散乱している。
はっとわれにかえり、それらをがさがさとかき集めて目を通す。目の玉が飛び出るような金額だ。真っ青になって荷物をまとめ、部屋を飛び出そうと戸を開ける。
がらり、と開いた戸の向こうには強面の男が数人、待ち構えていた。
ああ、殺される。張伯偉はそう思った。だが男たちは持っていた証文の束をびりびりに破いて去っていった。
きょとんとしたまま立ちつくしていたが、とりあえず酒楼へと向かった。まだ開店している時間ではなかったが、無性に彼女に会いたかったのだ。
酒楼の門の前で中年の女が肩を震わせていた。この酒楼を取り仕切っている女将だ。
女将は張伯偉の姿を見ると強烈な平手打ちを喰らわせた。地べたに這いつくばる彼に女将はこう言った。
「あの娘はもう帰ってこない。あんたの借金の肩代わりとして、妓楼に売られちまった。でもね、無理やりじゃないんだよ。あの娘が自ら進んでそうしたんだ。あの娘は言ってたよ。気にすることはないって。そしてこいつを渡してくれって」
女将は張伯偉の目の前に包みを放り投げた。重い金属音。中には無数の銀子が入っていた。
「余った金をあんたに……。うう、どうしてあんないい娘が」
張伯偉は立ち上がり、走った。歓楽街。かたっぱしから妓楼を訪ねてまわった。雨が降りだし、ずぶ濡れになったが構わなかった。ついに玉泉を見つけた。妓楼の二階。窓から姿が見えた。伯偉は夢中で叫んだ。
「玉泉! どうして、わたしのためにそこまで──」
玉泉はこちらを見た。妓楼の使用人が気づいて窓を閉めようとする。
「…………」
玉泉は無言だった。ただ悲しそうな目で一瞥しただけだった。
「いつか必ず、必ず迎えに行く! 試験に合格し、立派に出世して必ず迎えに行くぞ、玉泉!」
窓が完全に閉められた。その瞬間見えたのは、玉泉の涙だった。
張伯偉はつまづき倒れて、ぬかるみの中でずっともがいていた。もがきながら、玉泉の名を叫び続ける。
この声は彼女に届いているだろうか。最後に見せた涙の意味。彼女はなにも言わなかったが、それは自分のことを信じて待ち続ける、という意味だったのだろうか。