第9話 夜の見回り

文字数 2,576文字

 その日の夜、道観へ蘇悠(そゆう)が迎えに来た。手に提灯をさげ、いかにも不安そうな顔つきである。

「うう、いつものことながら夜の巡回は気が進まないな。夜盗なんぞの輩だって最近は妖怪を怖がって大人しくしてるだろうし。見回りする必要なんてないんじゃないかな」

 出かける用意を済ました(りゅう)林魁(りんかい)が道観から出てきた。龍はいつもの木箱を背負っている。

「さあ、行きましょう。蘇悠どの、近頃怪異が起きたのはどの辺りですか?」

「西蓮橋の近くですかね。おれが以前、殭死(きょうし)にでくわしたところですよ」

「ではそこから行ってみましょう」

 蘇悠の持つ提灯の明かりを先頭に、三人は西蓮橋へと向かう。
 この辺りには仏寺が多く、通りもどこか淋しいものを感じる。都で怪異が頻発する以前はこの橋を囲むように夜市が開かれていた。
 まるで夜を知らぬように酒屋に肉屋、さまざまな屋台、いかがわしい品々を並べた露店。思い返せば随分と賑やかなものだった。

 ふいに龍の背負っていた木箱の蓋がかたかたと震えだす。そして表面に描かれている八卦図の中心──対極の模様がぐるぐると回りながら光りだした。その光は龍たちの真後ろにある寺院の屋根を照らし出す。

 龍たちがその方向を見上げた。なにか小さく、黒いものが屋根の上をたたた、と駆けていく。光が消えて暗闇の中、黄金色の双眸がきらりと光っているのが見えた。
 猫だというのは一目でわかったが、その姿が半透明であることに全員が驚く。

「なんだありゃ、屋根瓦が猫の身体ごしに透けて見える!」

 林魁が騒ぎだし、龍がその口を押さえた。

「しっ、……静かに。猫鬼(びょうき)が逃げてしまいます。あれは普通、人の目に見えることはないのですが、幸いこの箱が教えてくれたようですね」

 龍が箱の横をとんとんと叩くと蓋の震えがぴたりと収まる。

「龍先生、猫鬼っていうのは?」

 蘇悠が訊くと、龍が険しい表情をしながら寺院の塀に手をかける。

「猫鬼とは猫を殺し、それを使った忌まわしい呪術。とりつかれた者は猫鬼に臓腑を食い荒らされ、財物を盗まれます。急いで捕まえないと」

 ひらりと塀の上に飛び乗り、林魁へ言った。

「魁はここで蘇悠どのと待っててください。これを渡しておきますから、なにかあったら強く吹いてください」

 龍は箱から小さな笛を取り出し、魁へ手渡す。そして塀の上から寺院の屋根へと飛び移った。龍に気づいた猫鬼が慌てて駆け出す。瞬く間に寺院や民家の屋根を飛び移って逃げていく。

「逃がすわけにはいかない」

 龍も長袍をなびかせながらその後を追った。
 闇の中へと消えていく龍の後ろ姿を見送りながら林魁はぼやく。

「ちぇっ、離れるなって言ったのは師匠なのに。こんなところで蘇悠さんと二人きりなんて、心細いったらありゃしない」

 それを聞いた蘇悠は無言で肩をすくめる。二人はそのまま龍が戻ってくるのを待っていたが、けっこうな時間が経っても戻ってきそうになかった。

「師匠、遅いな……。ま、猫はすごく素早いからな。捕まえるのに手間取ってるんだろけど」

「おまえの師匠のことだから心配はいらんさ。おれもあの人にはいろいろ助けてもらった。まえに、ここで殭死にでくわしたときも龍先生が助けてくれたんだぜ」

 蘇悠が西蓮橋に目をやる。林魁もそれにつられて橋のほうを見ながら訊いた。

「あの橋の上で殭死に襲われたの? ああ、そうだ。殭死って本当にぴょんぴょん跳ねながら移動するの?」

「ああ。両腕を前に突き出して、脚をそろえてな。こう、ぴょん、ぴょんと。意外と速いんだ、これが」

 蘇悠が殭死の真似をして飛び跳ね、思い出したように身震いする。林魁も面白そうに腕を突き出し、両脚をそろえてそこらを跳ね回った。

「へえ、こんな移動の仕方をする妖怪なんて怖いのかな? 見た目だって人間とそう変わらないんでしょ」

 訊きながら飛び跳ねていた林魁だが、突然その動きが止まった。橋の上に誰かいるのに気づいたのである。蘇悠も林魁の様子を見て、恐る恐る橋の上の人影に目を凝らす。

 その人影は先ほど蘇悠と林魁がやっていたように両腕をまっすぐに突き出し、両脚をそろえ、跳ねながら移動していた。だがその一回跳ねる分の飛距離が断然二人とは違った。 
 蘇悠はそれが本物の殭死だと確信し、慌てて林魁の腕をつかむ。

「いてて、なんだよ。蘇悠さん、放してよ」

「ばか、ありゃあ本物の殭死だ。捕まったら血を吸われて殺されるぞ」

「あれが? 本当に? へえ、だったら逃げなきゃね」

 のんびりした林魁の腕をつかんだまま、蘇悠は舌打ちして駆け出す。大柄な蘇悠に引っ張られてのこと、林魁の身体は宙へ浮いたり沈んだり。それが面白くてけらけらと笑う。

「ちえっ、こんなときに大したもんだ。度胸だけは一人前だな」

 そう言いながら通りの角を曲がったとき、蘇悠は絶句二する。後ろにいると思い込んでいた殭死がいつの間にか前方に回り込んでいる。その距離わずか二十歩ほど。これにはさすがの林魁も仰天した。

「うえっ、ど、どうしよう蘇悠さん。殭死の真似なんかしたのがまずかったかな」

 蘇悠の袖にしがみつく。蘇悠ははっと思い出し、林魁に訊いた。

「魁、笛だ! 龍先生からもらったろう。あれを使え!」

「あ、ああ。そうだった。笛、笛ね」

 林魁も思い出し、身体中をまさぐるが、どこにも笛がない。その様子に蘇悠が慌て、足踏みしながら急かすが林魁は首を振って言った。

「だめだ。落としちまった」

「あ、阿呆!」

 もうそこまで殭死は近づいている。
 その青白い顔を林魁は見た。くぼんだ目の周りは黒く、紫色の唇からは牙が飛び出ている。その牙で人間の首筋に噛みつくのであろう。その表情は怒りも悲しみも表してはいない、まさに死者の表情だった。

「くそっ、魁、さがってろ!」

 もう逃げ切れないと観念した蘇悠が提灯を投げ捨て、腰の刀を抜き放つ。
 間合いに入ってきたと同時に斬りつけるが、殭死は突き出した両腕でそれを弾き飛ばした。殭死の冷たく、強靭な両手が蘇悠の肩をつかむ。

「蘇悠さん!」

 林魁がどうにか助けようと近づくが、苦痛の表情で蘇悠が叫ぶ。

「ばか、なにやってんだ! 今のうちに逃げろ!」

 その首筋に殭死の鋭い牙が喰い込もうとしたときだった。どこからか目も眩むような光が発せられ、殭死の肩を貫いた。殭死の手から逃れた蘇悠はその場に倒れ、その上を誰かが飛び越えた。
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