第8話 妖気

文字数 4,198文字

 輿を必死になって支えている弟子たちにかまわず、来福真人(らいふくしんじん)は優雅に羽扇であおいでいる。

「ふん、われに下賤の者と同じく地に足を着けと? (りゅう)とやら、思い上がるのもほどほどにせぬか」

「ならば下の方々を楽にして差し上げましょう」

 龍が駆け、飛び上がった。輿の上に着地すると同時に掌底を突き出す。
 来福真人が羽扇でそれを受け止め、周りにばっと羽根が散った。羽根が舞い散るなか龍の拳打や蹴りが繰り出され、来福真人はその巨体に似合わぬ素早い動きでそれをかわす。

「すげえ、師匠の動きについていってるよ。あの大福だか大吉の野郎」

 林魁(りんかい)が感心して隣の蘇悠(そゆう)を肘で小突く。蘇悠は真っ青な顔でおろおろとうろたえている。 

「ど、どうすんだ、あの来福真人に手を出して。絶対に龍先生は助からねえぞ。お、おれも役人として止められなかったから、ど、同罪だ。一家全員、打ち首だ」

 そんな蘇悠を見て、秦璃(しんり)が一喝する。

「そんな大きい図体なのにだらしないわね! こうなったら龍先生が勝つのを祈るしかないでしょ! もし龍先生がやられそうになったら見てらっしゃい、わたしがあんな豚饅頭みたいなの蹴り飛ばしてやるんだから!」

 蘇悠はこの少女の胆の太さと口の悪さに呆れ返る。林魁は「蹴り飛ばす」と聞いて、自分の股間を押さえて震え上がる。

「こいつならやりかねねえ。平気な顔してタマタマを蹴っ飛ばすんだから、ほんとに女ってのはおっかねえな」

 ばん、と輿の土台が踏み抜かれた。柱もへし折れ、残骸が舞う。
 ついに来福真人の乗っていた輿は空中で分解した。下で支えていた弟子たちはその苦行から解放されるのを喜んだが、同時にその巨体の下敷きになるのではないかと心配し、慌てて逃げ出す。

 しかし、巨体が地面に激突するような音は聞こえなかった。ただ龍がすとんと着地する音のみだった。一同はわが目を疑う。来福真人は空中であぐらをかき、そのまま静止しているではないか。

「なにあれ、どうなってるの?」

「ばかだな、術に決まってるだろ。さっきの兄ちゃんをやったのもあいつだな」

「龍先生にもできるかしら?」

「さあ? 師匠が宙を浮くとこなんて見たことねえな」

「じゃあ、あの太った道士のほうが先生より上なの?」

「そんなわけあるもんか! 師匠のほうが絶対強いに決まってるさ」 

 林魁と秦璃が言い合っている間に龍は剣訣を結び、自身の両まぶたを撫でる。そして空中に浮かぶ怪道士を見てみれば、袖や裾から糸のようなものが伸び出ており、門や庭木に絡みついている。

「あの糸で支え、浮いているようですね。しかし──」

 龍は軽く指先を噛み切り、血の付いた剣訣で足をなぞる。再び跳躍し、来福真人に向かって連続で蹴りを繰り出した。怪道士は余裕の表情でそれを迎え撃つ。

「ほほ、無駄なことを。この奇跡を目の当たりにしてまだ歯向かうとは。これだから下賤の輩は困る」

 両腕で巧みに防ぐ。しかし次第に蹴りを受けている部分からしゅうしゅうと煙が出てきて、ついには袖に火がついた。

「むう、これは!?

 驚いたところに龍の蹴りが飛んできた。
 これはかわせず、胸に重い一撃を喰らった来福真人は身体から伸びた糸をぶちぶちと引きちぎり、空中から門の外まで一気に吹っ飛ばされた。

 弟子たちが慌てて道観の外に飛び出し、助けに向かう。林魁と秦璃は歓喜の声をあげ、蘇悠は顔を押さえながら嘆く。

「ああ、やっちまった。もうお終いだ」

 門の外からは弟子たちの気遣う声が聞こえてくるが、すぐにそれは悲鳴へと変わり、龍たちをぎょっとさせた。
 門の外から道観の敷地内に、次々と人間が放り込まれてくる。それは宮廷道士たちだった。地面に叩きつけられたその者たちは、苦痛と恐怖のためにうずくまって呻いていた。

 門の外から再び悲鳴が聞こえ、のっそりと怪道士が姿を現した。
 その顔は怒りにひきつり、地面でへたばっている弟子たちを蹴り飛ばしたり、踏みつけたりしながら近づいてくる。派手な衣装の胸の辺りには焦げたような穴がぽっかりと開いていた。

「おのれ、このわれを足蹴にし、地を歩かせるとは……! 許せぬ! 絶対に許せぬ!」

 来福真人は巨体をぶるぶると震わせ、なにやら呪を唱えだした。それを聞いた龍の身体に戦慄が走る。

「道家の呪文ではない。いや、これは人語ですらない!」

 ふいに辺りが薄暗くなり、言いようのない不気味な冷気が足元から押し寄せる。
 秦璃と蘇悠はがたがたと震えだし、林魁にいたっては仰向けに卒倒した。

「龍先生、魁が!」

 秦璃が龍に助けを求め、蘇悠が林魁を抱え起こす。その身体は死人のように冷たく、血の気を失っていた。

「いけない! 魁を連れてここから離れて!」

 龍が叫ぶ。そして懐から無数の紙符を取り出すと、来福真人に向けて投げつける。
 紙符はまるで生き物のようにぐるぐると宙を舞い、一斉に来福真人に張り付いた。だがその瞬間にぼん、ぼんと爆ぜて燃え尽きる。

「間違いない、これは妖気! しかも凄まじい」

 龍は呪を唱え、手を掲げる。道観の中から一振りの木剣が飛んできた。それをつかみ、構えながら再び叫んだ。

「秦璃! 蘇悠どの! 早く魁を連れて逃げてください!」

 秦璃と蘇悠は二人がかりで魁を運び出そうとしするが、まるで石のように重い。やっとのことでひきずりながら移動していた。禍々しい妖気を身にまとった怪道士の視線が、林魁に向けられる。そして驚きの声をあげる。

「! その小僧は……」

 途端に妖気が消えうせ、辺りが明るくなる。来福真人はにやりと不気味な笑みを浮かべ、くるりと龍に背を向けて言った。

「龍とやら、命拾いしたのう。ほほほ、いいものを見せてもらった。今はまだ時期尚早。いずれまた会うことになるであろう」

 そのまま去ろうとする背を龍が呼び止める。

「待ちなさい! あなたは……」

 来福真人は振り返らずに答えた。

「いずれまた会うと言ったであろう。それまで、その子供を大事に預かっておれ」

 弟子たちを引き連れ、来福真人は去っていった。龍は急いで林魁のもとに駆け寄る。

「魁の様子は?」

 龍の問いに秦璃が涙目で答えた。

「うん。なんとかだいじょうぶみたい。顔色ももとに戻ったし、身体も温まってきたわ。まだ気を失っているみたいだけど」

 蘇悠はいまだ悪夢から覚めぬ、といった様子で首を振る。

「それにしてもなんだったんだ? 急に暗くなって寒気が襲ってくるわ、突然道士たちは立ち去るわ。まったく、わけがわからん」

「とにかく魁を中へ。あの者たちはしばらくはやってこないでしょう」

 門のほうに目を向けながら龍は言った。腕や脚には、いつの間にかねばねばした糸が絡み付いており、げんなりした顔でそれを引き剥がす。


 ✳ ✳ ✳


 しばらくして林魁が目を覚ました。本人は来福真人が来たあたりから、なにも覚えていないということだった。

「龍先生、どうしてあいつらは急に帰っちまったんですかね?」

 蘇悠の質問に龍はうつむき、そして林魁に視線を移す。

 林魁にかかった呪い。それを見破られたのは確かなことだ。そしてまだ時期尚早だと言っていた。呪いが発動するのはまだ先ということか、それともなんらかのきっかけが必要なのか。
 考え込む龍と不安そうな蘇悠や秦璃を見て、林魁が寝台の上から勢いよく飛び起きた。

「まあ、うじうじ考えたって仕方ないって。とりあえず今回はおれたちの勝ちってことだろ? 今度また来やがったら、おれがぎったんぎったんに叩きのめしてやる」

 鼻息荒く豪語し、腕をぶんぶんと振り回す。その様子に秦璃は呆れる。

「なに言ってんの、あんたが一番危なっかしいのよ。それにしても、あの来福真人……思い出しただけでも寒気がするわ」

 蘇悠もそれに同意し、うんうんとうなずく。そこで龍がためらいがちに口を開いた。

「今からわたしが言うことは、くれぐれも他言しないよう、お願いします。あの来福真人の正体はおそらく……いや、確実に人間ではありません」

 一同はしんと静まり返る。確かに人間離れした風貌と体躯だったが、宮廷に仕え、人々から真人と敬われる存在が人間でないとは。

 まさか、といった表情で蘇悠が訊く。

「そ、それじゃあ、神仙の類ですかね。もしそうだったら先生、蹴りなんか入れちゃってまずくないですかね?」

「いえ、神仙などではありませんよ。わたしが感じたのは間違いなく妖気でした。しかも相当強力な」

 妖気と聞いて一同はごくりと息をのむ。龍は続けて言った。

「問題は、なぜ妖怪が宮廷の内部に巣食っているのかということです。もしや近頃頻発する都での怪異もそれが原因かも」

「師匠! 宮廷に乗り込んで妖怪退治ってこと?」

 林魁が興奮した様子で訊く。龍は首を振って否定した。

「そんな簡単な問題ではありませんよ。あれほどの妖怪がなに食わぬ顔で朝廷に仕えているのです。今、国の中枢でなにが起きているのか知ることが先決です」

 蘇悠はどうにも落ち着かないようにそわそわしている。

「宮廷の中に、ほ、他にも妖怪がいるってことですかね? もしかしたらおれの勤めている役所にも」

「十分に可能性はあります。どうやら本格的に調べてみなくてはいけないようですね。蘇悠どのにも協力して頂きますよ」

「いや、参ったな。いえ、そりゃあもちろん協力させてもらいますよ。上官が妖怪とかだったら堪らないですからね。だけど最近忙しくて……今夜だって街の見回りがあるんですよ」

「それならば丁度いいですね。わたしも一緒に行きます。都のどの場所で怪異が起きているか知っておく必要がありますから」

「おれ、おれも行く!」

 林魁が元気よく手を上げて同行を申しでるが、すぐさま秦璃に頭を押さえ込まれた。

「さっきまで気絶してたくせに。あんたはどうしてそう無理なことを言うの」

「うーるせえ、師匠が一緒ならだいじょうぶだって。それともあれか? おれのこと心配なの?」

「まさか! あんたが足手まといになって、龍先生が大変だろうって思ったのよ」

「なんだと! おまえなんかよりはずっと役に立ってるぞ」

「なんですって!」

 また喧嘩が起こりそうなので、龍が間に入って止める。

「二人ともやめなさい。魁、一緒に行くのは構いませんが、わたしの側から離れたり、勝手な行動はしないと約束しなさい」

 林魁は跳びあがって喜び、秦璃に向かって盛大なあかんべえをした。
 秦璃は腹立たしげにぷいと背を向ける。
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