第4話 林魁の過去の記憶

文字数 2,905文字

 道観へ戻った(りゅう)たちはいつもの生活──秦璃(しんり)は学問にいそしみ、林魁(りんかい)は道士の修行をするはずだった。しかし、帰ってからの林魁はまだ機嫌が悪いようだった。
 
「魁、なにを怒ってんのよ。先生にお礼も言わないで。怒る理由があるならちゃんと言いなさい」

「…………」

 しかし林魁は秦璃の問いに答えず、そっぽを向く。

「なによ、変な子ね。もう、知らない!」

 今度は秦璃が怒り出し、奥の部屋へ行ってしまった。林魁はぼそりとつぶやく。

「おれだって……ちゃんと戦う修行してれば……」

 ぶつぶつと不満をもらしていたが、その声は次第に大きくなり、遂には叫んだ。

「師匠、どうしておれに戦い方を教えてくれないの!? おれだって戦い方を習っていたら、師匠が助けなくてもあんなやつらに負けなかったんだ!」

 薬草を練り合わせて膏薬を作っていた最中だった。龍は驚いて振り向く。林魁の目には涙が溢れていた。

 林魁は悔しかった。自分の師匠をばかにされ、秦璃も守れなかった。なにもできなかった自分がとても腹立たしく、その怒りをどこに向けたらいいのかわからなかった。
 龍は困惑したような表情だったが、林魁のそばまできてしゃがみ、そっと抱き寄せる。

「魁……覚えていますか? わたしとはじめて出会ったときのことを」

 林魁はあやふやな記憶に首をかしげ、やがてゆっくりと首を横に振る。

「おまえには酷な記憶かもしれませんが、いずれは乗り越えなくてはいけない事実です。今がそのときかもしれません」

 そっと龍の手が林魁の額に触れた。額がじんわりと熱くなり、林魁は驚いて龍から離れる。唐突に眠気が襲ってきた。
 なにかの術をかけられた。そう思いながら、意識が闇の中へと落ちていった。


 ✳ ✳ ✳


 目を覚ますと、そこには一組の男女が見慣れない部屋で荷造りをしていた。林魁はその男女を見たとき、きゅっと胸が苦しくなり、涙が溢れて止まらなかった。女がそれに気づいて驚く。

「魁、なに泣いてんの? お父さん、魁が……」

「父ちゃん! 母ちゃん!」

 林魁は女の胸に飛び込む。あまりに勢いがよかったので、女は壁にごちん、と頭をぶつけた。

「いたた、これ、なんなのよ。魁、どうしたの?」

 女が林魁の顔を覗きこんで問いかける。林魁はその瞬間、すうっと頭が冴えわたる気がした。

「あれ、おれは……なにしてたんだっけ?」

 林魁の様子を見て、女は男に笑いかける。

「この子ったら、まだ寝ぼけてるみたいね。おおかた、怖い夢でも見たんでしょうよ。『父ちゃん、母ちゃん』だって」

「そ、そんなこと、言ってないよ!」

 林魁は真っ赤になって女から離れる。男も声をあげて笑った。

「さあ、もう準備はできたぞ。牛と荷車は借りれたから、あとは荷を積み込むだけだ」

 どうやら引っ越すらしい。林魁はその理由がどうしても思い出せず、荷を積み込む手伝いをしながら母に訊いた。

「あらま、この子はほんとに忘れっぽいわね。お父さんが狩りをしている山が戦で焼けちゃったからでしょ。お父さんが言うには、あっちの山はまだ安全だって」 

 母はそう言って、北の方角にある山を指差した。父もそれを見ながら言う。

「あの山は昔から狩りをしてはいけないと言い伝えがあるんだが、そうも言ってられない。人が近づかない分、きっと獲物もたくさんいるだろう」

 林魁はああ、そうだったか、と納得したが、なにか嫌な予感がした。それがなにかわからないまま林魁は両親と荷車の後ろをとぼとぼと歩いた。

 やがて山の麓へと着く。そこには藁葺きの粗末な民家が一軒あった。

「ずいぶん前に放置された家だが、中は意外と片付いている。前の家から通うより、ここからのほうが断然近いし、どうせならみんなで住んだほうがいいだろう? おれたちの新しい家。どうだ魁、嬉しいか?」

 父親の問いに、ひきつった笑みで応える。まだ嫌な予感は消えていなかったのだ。そうこうしながら荷物を家の中に運び込み、三人はとりあえず安堵の溜息をついた。

「よし、そんじゃ、下見がてら行ってくるか」

 父は狩猟用の弓と矢を携え、山へ出かけていく。初めて入る山だから道を切り開き、罠を仕掛けておく場所や休憩する場所を確認しておくと言っていた。

 父を見送りながら、明日にすればいいのに、と母と笑った。狩りのこととなると、父はじっとしていられないらしい。

 父が帰ってきたのは、もうじき日も暮れようかとしていたときだった。林魁と母は心配で戸口の外で待っていた。父は笑いながら右手にぶら下げた獲物を誇らしげに掲げる。

 食卓を囲みながら、林魁は父に狩りについて質問攻めをした。父は上機嫌でそれに答えた。

「いや、今日はどんな山か様子を見に行くだけのつもりだったんだが。やっぱり今まで人が入ってなかったせいだろう。こんな立派な狐を仕留めることができた。ははは、あの山で狩りをした者は祟られるだって? おれは見ての通り、ぴんぴんしているぞ。所詮は迷信だったってわけだ」

 杯を傾けながら笑う父を見て、林魁は自分の嫌な予感は気のせいだと思った。

「ほんとに運がいいわ。狐の肉は美味しいし、毛皮は街で高く売れる。引っ越して正解だったわね」

 野狐の肉をさばきながら母も笑っていた。父と母のいる生活。当たり前のはずだけれども、とても温かい。ずっとこんな日が続けばいい、と林魁は心底思った。

 異変は真夜中に起きた。
 苦しそうな声に父と林魁は飛び起きる。すぐ隣に寝ていた母が汗だくになり、布団をかきむしっていた。

「おい、どうした! どこか痛むのか!?

 父の問いに母は答えず、呻きながら手足をばたつかせ、もがいていた。父はおろおろとうろたえ、林魁は恐怖でがたがたと震えている。

「くそっ、村で馬を借りて、街から医者を連れてこなければ。魁、母ちゃんのことは頼んだぞ。父ちゃんは医者を連れてくる」

 かろうじて落ち着きを取り戻した父が外へ飛び出す。林魁も必死に勇気を振り絞り、苦しむ母の手を握った。ものすごい熱だ。
 母はこの世のものとは思えないほどの悲鳴をあげて林魁を蹴飛ばす。林魁は痛みをこらえて母の身体にすがりつく。

「母ちゃん、母ちゃん! しっかりして、もうすぐ父ちゃんがお医者さんを連れてくるから」

 林魁の呼びかけに、母は苦痛の悲鳴で答えた。やがて口からぶくぶくと泡を吹き出し、身体を数回痙攣させた後、ぴくりとも動かなくなった。

「母ちゃん? ……母ちゃん! どうしたの!? ねえ、死なないで、母ちゃん!」

 林魁は叫び、何度も身体を揺さぶった。泣きながらずっと呼びかけ、ようやく絶望的な死が母に訪れたと、幼い林魁にも理解できた。

 母の死体にすがりつきながら泣いていると、外から聞き覚えのある声が聞こえてきた。

 なんと言っているのかはわからない。だがその声が父のものだと林魁は思った。外へ飛び出し、父の姿を捜す。

「父ちゃん! 母ちゃんが、母ちゃんが……」

 周りは濃い闇に包まれ、なにも見えない。だが耳を澄ますと、はっきりと聞こえてくる。

「こっち……こっち……」

 確かに父の声だ。林魁は方角もわからぬまま、声のするほうへ手探りで歩き出す。その方向には父が狩りに入った山があった。
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