第12話:プラザ合意からバブルとその崩壊へ

文字数 1,634文字

 1985年9月22日、NYのプラザホテルで、先進5か国 「G5」 蔵相・中央銀行総裁会議が開催。その目的は、為替レート安定化、それをプラザ合意と呼んだ。その会議に出席したのは、西ドイツのゲルハルト・シュトルテンベルク、フランスのピエール・ベレゴヴォワ、アメリカのジェイムズ・ベイカー、イギリスのナイジェル・ローソン、そして日本の竹下登蔵相である。

 以後の世界経済に少なからず影響を及ぼした歴史的な合意だったが、その内容は事前に各国の実務者間協議において決められており、この会議自体はわずか20分程で合意に至る形式的なものだった。発表、翌日の9月23日の1日だけで、ドル円レートは1ドル235円から約20円下落。1年後にはドルの価値は、ほぼ半減し、150円台で取引されるようになった。

 日本においては急速な円高によって円高不況が起きると懸念されたが、日本銀行は公定歩合を引き下げずに5%のまま据え置き、逆に無担保コールレートを6%弱から一挙に8%台へと上昇させるという短期市場金利の「高目放置」に踏み切った。その後、公定歩合の引き下げに動いたのは、翌1986年になってからだった。

 このため、1985年には非常に金融引き締め的な経済環境になっていたと推測され、その結果、その後、数年間のインフレ率は低迷した。このインフレ率の低迷と公定歩合の引き下げ長期化予想を反映して名目金利が低下したことが、貨幣錯覚を伴って不動産や株式に対する投機を促し、バブル景気をもたらしたと考えられる。

 また円高により、「半額セール」とまで、言われた米国資産の買い漁りや海外旅行のブームが起き、賃金の安い国に工場を移転する企業が増えた。とりわけ東南アジアに直接投資する日本企業が急増したため、東南アジアの経済発展を急速に促した。その後、進み過ぎたドル安に歯止めをかける様、為替レートを安定させるための会議が、招集された。

 1987年、再び、各国が、協調介入する事を決めたルーブル合意が、結ばれた。プラザ合意によるドル高是正が、行き過ぎたは、ユーロ円債の大量発行という強力な手段が採られていたからだ。日本では、1987年2月9日、2年前に民営化したNTT株が株式公開さた。東証に上場すると、買い注文が殺到して初日は値がつかないまま取引を終えた。

 翌日の取引終了間際に、ようやくついた初値は、売り出し価格119万7千円を約40万円上回る160万円だった。その後も騰勢は加速し、4月22日には318万円の高値を記録。申し込み抽選で当たった投資家はわずか2か月余りで、資産を2.5倍以上に増やした。まさに、濡れ手で粟でした。

 しかし、抽選と言っても証券会社との取引額が、多い人や富裕層達が、NTT株を買うことができた。そのため当時の時価総額世界一を記録した。その反面、栃木など、新規口座を開いたばかり者は、手に入れる事ができなかった。しかし、同年10月のブラックマンデーで米国株が、急落し、225万円まで暴落。

 「政府が売り出す株」という絶大な信頼感に群がった個人投資家たちに大きな損失を与えた。その後、1987年10月14日、朝8時過ぎ、証券会社の担当者から栃木健吾へ電話が入り、NEC株、2600円で気配値が出てると言われ、全株成り行き売りを指示した。1978年から9年間で3回の株式分割で1.21倍、3万株が36300に株に増えていた。

 その結果、栃木健吾の税引き後利益7570万円になったと知らされた。1987年のブラックマンデーが、おさまり1988年になると日経平均株が、上昇し始めた。その後、上昇が加速し、1989年12月29日、日経平均株価が38957円の史上最高値を記録した。

 その後、バブル崩壊後の1992年2月まで、この好景気の雰囲気が、維持された。多くの一般の日本人が、バブル景気の雰囲気を感じたのは1988年頃から1991年2月のバブル崩壊以降、少し後までの数年と考えられる。
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