第1話:テニス部の6人の高校進学

文字数 1,737文字

 相模原市旧藤野町は、神奈川県の最北西端に位置し、町域は東西7km、南北14km、人口約8700人。東と南は、相模原市旧津久井町と、西は山梨県上野原市、道志村、北は東京都八王子市、桧原村の4市町村に接している。ぐるりを山に囲まれた人口約9千人弱の里山の町。JR中央本線や中央高速道路が通り、首都圏からのアクセスもよい、緑の多い地域。

 藤野の駅を降りたら見える山々の絶景。眼下に広がる相模湖は、相模川の最上流に位置し、神奈川県の有名な観光地。それため豊かな自然を残し、開発の流れから逃れた。戦中戦後、戦火を逃れた疎開者が多く集まりその中には、藤田嗣治や猪熊弦一郎などの芸術家たちもいた。1986年、神奈川県により「ふるさと芸術村構想」が提案された。

 野外彫刻などが点在する一周6kmの「芸術の道」や「藤野芸術の家『県立』」などがつくられた。1972年6月12日、日曜、地元、藤野中学の軟式テニス部の6人が試合を終えて、16時過ぎ、藤野駅の近くの喫茶店でケーキと紅茶を飲みながら今日の試合の反省会を開いていた。

 宍戸良二が、俺と柏戸さんのペアが、第一戦で勝ったのに、第二戦の朝山、戸塚と、第三戦の栃木、桧山ペアが、負けるから橋本中学に負けたじゃないかと話した。すると、朝山が、俺のサーブが、入らんなかったのが、今回の敗因のきっかけ、かもしれないと謝った。これを聞き、栃木が、まー仕方ないよ、次の秋季大会で、頑張ろうと言った。

 宍戸家は、元々、地元の大工で、左官など建築関連は、なんでもこなす、この地区では有名な大工。宍戸良二は、そこの次男坊で、手先が器用で、父の手伝いをしていた。そして、柏戸尚子とペアを組んで団体戦を戦った。ペアの柏戸尚子は、農業と鶏卵業を営んでいる農家。

 朝山修二は、朝山電機店の次男で、手先が器用で、将来、実家を継ぐと目されていた。ペアを組んでいたのは、戸塚峰子で、この地区で古くからの戸塚商店の娘。食品、衣料品、本、雑誌、お菓子を商う何でも屋。そこの長女で料理、裁縫が得意で手先が器用。栃木健吾は、武家の出身で古くから養蚕をして生糸、絹織物を販売してる大きな栃木屋の長男。

 彼は、頭脳明晰、気は優しくて、陽気で、人に好かれるタイプで人望も厚かった。桧山芳江の家は、貧しい農家。両親とともに子供も農家をやって食べているが、農作物が不作の年は、近くの住人に食べるものを分けてもらいながら生活した。とにかく元気で、明るくて、積極的で働き者、まさに嫁さんにするには、最適の女の子だった。

 その年の秋のテニス大会も2回戦で敗退してテニス部を辞め高校受験のための勉強を続けた。1973年4月、彼ら6人が無事に中学3年生になった。そして、週に1,2回、栃木健吾の家に集まり、大きな部屋で大きな、ちゃぶ台に座って、栃木健吾に勉強を教えてもらっていた。わからない問題について、説明を受けていた。

 栃木健吾は、クラストップ、学年でも1,2を争う秀才。宍戸良治は、クラスでベスト5位前後。朝山修二も宍戸と同じ程度。女の子では、桧山芳江は毎回ベスト3以内で学年でもベスト10。戸塚と柏戸は真ん中あたりだった。栃木が勉強を教えると、やはり、桧山さんが一番、覚えが早かった。

 宍戸も理解してくれたが、戸塚と柏戸は、やる気がなく、なかなか成績が上がらなかった。夏が終わり1973年10月、受験校を決める時期となった。その後、栃木健吾と桧山芳江が、東京都立八王子高校を目指し宍戸と朝山が神奈川県立城山高校を目指した。戸塚と柏戸は、八王子私立高校に入ろうと、2人で話していた。

 やがて1973年が終わり、1974年を迎えた。2月に高校受験し、栃木健吾と桧山芳江が東京都立八王子高校に宍戸と朝山が神奈川県立城山高校に合格。戸塚と柏戸さんが八王子実践高校に入った。高校に入ってからは、戸塚と柏戸さんは、八王子で遊んでいるという噂は聞くが、中学のテニス部の仲間との付き合いは、なくなった。

 栃木健吾と桧山芳江と宍戸と朝山の4人が月に1回ほど、日曜日に藤野駅近くの喫茶店で会って、学校の話や将来の話を語り合った。1974年の夏休み、栃木健吾は、将来経済学を勉強したいので一橋大学を目指すと言った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み