第3話:大学入学後、日本初のパソコンキットの発売

文字数 1,809文字

 栃木健吾の合格を聞き、父が、一橋大学合格の祝い金として500万円を渡すと語った。父が、これは、遺産から引くので気にしないで使って良いと告げた。その後も4人は、定期的に電話し集合した。1978年5月3日も藤野駅近くのいつもの喫茶店に集まり雑談したが、朝山が、朝の電車のラッシュが、ひどくてたまらいとぼやいた。

 それは、栃木も同感だと言い、八王子駅から道路が、めちゃ込みになると言った。桧山も、その意見には、同意。その後、宍戸が、桧山さんに仕事してからの通学は大変じゃないかと聞くと、それは、覚悟の上と述べた。寝不足は、土日に、ゆっくり寝て、若いから回復できると話した。次に、朝山が栃木は、何かクラブ活動に入ったのかと聞かれた。

 すると、投資研究会に入部し、株投資の勉強をしている答えた。株価のチャート分析とか、企業の財務を調査するとか、興味深い話をした。それを聞いて、桧山が、栃木さんに投資研究会の内容を教えて欲しいというと伝えた。すると、土日の夕方、空いてる時に連絡してくれれば、時間を作って教えてあげると述べた。

 朝山は、日曜、東京にある日本の古い建築物を見て回るのが、楽しみだと話した。宍戸が、僕は、秋葉原へ行って、オーディオ機器を見て高品質のスピーカーで好きな映画音楽を聞くのが大好きだと言い、毎週のように通っていると話した。そんな話をして4時間位たち15時半になり、解散して、帰っていった。

 その後、8月24日、日曜、4人で会おうと連絡が入り、いつもの喫茶店に11時に集合。その時、宍戸が、日本で初めて個人向けコンピューターが日本電気「NEC」から、TK80「トレーニング・キット・マイクロコスモス80」と言う名前で、販売価格88000円で、新発売されたと話した。

 この製品は、マイクロコンピューターのシステム開発のためのトレーニングキット。高価な端末装置を必要としない点が、当時のアマチュアの目に留まった。TK-80は、本来の意図とは異なり相当数がコンピュータマニアに購入された。1976年夏、NECは日本電信電話公社横須賀通信研究所のある研究室から新人教育用のマイクロコンピュータ製品の開発を受注した。

 この部門の後藤富雄は、部長の渡辺和也に教育用キットの開発を提案した。後藤はTK-80の主要部分を設計し加藤明が詳細設計を行った。後藤は、KIM-1の写真からアイデアを取り入れた。KIM-1は、ソフトウェアで現在のアドレスを表示する様になっていたが、CPUが、止まると、ディスプレイが、消えた。

 TK-80は555タイマーICを使いCPUに割り込みをかけるダイナミックディスプレイを採用。常に現在のアドレスを表示できた。それに加えTK-80はCMOSバッテリー機構を搭載した。後藤は、公開された基本設計であったPDP-8の影響を受けてTK-80のマニュアルに回路図やデバッグ・モニタのアセンブリコード「プログラミング言語の翻訳ソフト」を掲載。

その後、NECは、1976年9月13日に秋葉原ラジオ会館にてサポートセンター 「ビット・イン」を開設。すると多くのTK-80が電気技術者だけでなく経営者、マニアや学生などにも売れている事が判明した。TK-80は、月間200台の販売予測に反して、月2000台を販売。

 この成功を受けて、すぐに、他の日本のマイクロプロセッサメーカーはそれぞれのマイクロプロセッサ用に評価キットを開発した。日本では、アルタイラ 8800は、1975年に販売されていたが、輸入仲介手数料が高かったため売れなかった。アップルIIやペット2001も同様だった。TK-80はデータの入出力のために他の機器を必要としない点が特徴。

 当時の他社のトレーニングキット「インテル製やモトローラ製」などの多くは、データ入出力を行うためにシリアル通信機能を備えた端末装置「テレタイプやVDT装置など」を接続する必要があった。それに対しTK-80は16進入力キーパッドと8桁の7セグメントLEDを基板上に備えており端末装置なしでシステムを使うことができた。

 これ以上、詳しいことを書いても、あまり意味がないので、やめるが、非常にコンパクトで使いやすく、価格が低いので、日本のパソコンマニア、大うけして売れた。その後も秋葉原ラジオ会館にてサポートセンター 「ビット・イン」には、全国からマニアがやってきた。
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