第29話:父の死と家の新築と熊本地震

文字数 1,624文字

 そして、2015年が終わり2016年を迎えた。その後、2月4日、早朝、栃木健吾が、母の悲鳴を超えて、両親の寝室に入ると父の栃木健一が、冷たくなっていると母が泣きながら言った。そこで息していない事と脈を打っていないことを確認した。そして、八王子の病院電話すると救急車ですぐ来るように言われた。

 救急車の後を追って、病院に行くと、若い先生が来て、死亡の確認をしますと言い、ご臨終ですと言われた。そして、午前中には死亡診断書を書いておきますので取りに来るように言われ、了解した。その後、近所の葬儀屋に電話して、10時過ぎに病院に行くと言われた。そして霊柩車に、父、栃木健一を柩に入れて、実家の仏壇の部屋に遺体の入った柩を置いた。

 その後、近所の葬儀場の予約を依頼し、2月9日、上野原の葬儀場が空いてると判明。予約してもらった。午後、病院に死亡診断書をもらいに出かけた。近所の人達には、口頭で父の死を知らせた。2月9日には、20人の葬儀参列者が集まり、マイクロバスを手配して周辺のご老人などを乗せて上野原市葬儀場に向かった。

 そして、葬儀をして、在りし日の父に世話になったと言う人の話や思い出話が続いた。母は、憔悴しきって、無口であった。葬儀が終了すると菩提寺に葬ってもらい終了。この時、栃木健吾は、古くなった実家を見て立て直すことを決意。その話をすると、母は、少し安心した様に、ありがうとよと言い涙ぐんだ。その後、以前、アパートで世話になった宍戸工務店を訪ねた。

 そして、実家の改築を工事を相談すると敷地が広いから庭に家を新築できると言った。家を新築してから古い家を壊せば良いと言われ、言うとおりにした。その後、3人で住むので4LDK125平米の在来の木造建築でお願いすると企画タイプで良ければ3500万円で作れると言われた。その他、植木の処理や整地など、特別な工事がなければ4千万円でできると言われた。

 そこで、家の新築をお願いした。そして工事を4月初旬から開始した。栃木健吾は、「NPO・藤野の街」の田嶋悦男、馬淵淳一を呼んで、君たちに、NPOを託したいと伝えた。代表を田嶋悦男にして副代表を馬淵淳一にしたいと告げた。NPOの通帳の資産も含めて、全て「NPO・藤野の街」の所有物にすると宣言した。

 すると、栃木さんは、退職金とか慰労金をもらわないのですかと聞くので、投資で成功したので必要ないと述べた。しかし、オブザーバーとして残ってくださいと2人懇願され了解せざるを得なかった。そこで、今後の方針やどうやったら良いかなど、聞きたいことは全て聞いてくれと告げた。そして、週に1回、訪問することにすると、栃木が、2人に話した。

 この話をした翌週、2016年4月14日、熊本地震が、起こった。そこで、「NPO・藤野の街」でも募金活動を指示。JR八王子駅と京王八王子駅の出口で、4月16日から、3人ずつ交代で、熊本地震の募金箱を持って活動を開始した。そして5月連休まで続け個人的な大口寄付を含め980万円を集め送金した。

 そして、栃木は、個人的に1億6千万円を個人名で、寄付した。これで、栃木の残金は、2億円となった。その後、10月初旬に、自宅の新築が終了して4千万円を支払うと、残金が、1.6億円となった。栃木の母の意見を取り入れて、完成した新居を見て、母は、喜んでくれた。そして、仏壇も新しくした。

 熊本城の石垣の復旧費用だけでも試算で350億円3割の積直しが必要という規模である。全体の修復には莫大な費用と時間を要することが予想される。そのため、2016年4月から、「熊本城災害復旧支援金」を立ち上げて募金活動を開始した。

 同じ九州の小倉城のある北九州でも同年7月から救援活動が開始された。熊本地震の被害状況をふまえ、北九州市として一定の期間、継続的な支援が必要と判断した。そのため、市長を本部長とした「平成28年熊本地震北九州市支援本部」を設置。
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