二日目の夜 3

文字数 1,920文字

 ケセドは服以外にも、部屋の中に置く雑貨や家具などを増やしておくように、というさらなる難題を突きつけて。
 そもそも自分の部屋を持ったことがないヒナには、何を増やすべきかすらわからないから、嬉々としてそれを受け入れるどころかどんどん悩ましい顔になる。彼女の頭を撫でる手は、なぜか楽しそうだった。
 そしてあれこれ言う間、視線は解析の処理の方を見たままでずっと口元が笑っている。
 何が楽しいのかヒナにはわからない。
 とりあえずこれ以上この話題を続けていたら、さらに難しい課題が増えそうだったのでヒナは必死に他の話題を探した。
「そういえば、おじさん、その、名前なんですけど」
「あぁ。サクヤに聞いたのかな。ちゃんと名乗るのが遅れて悪かったね。ケセドという。家名はないよ」
 初めて出会った昨日の夜はこんな時間が無かったので、改めて名乗られる。
 ヒナの籍を完全に引き取ったケセドに家名が無かったので、籍が移った時点でヒナにも家名が無くなった。それと同時に、血筋はともかく、法律上も戸籍上も、両親や妹とヒナの間にはなんの関係性も無くなった。
 それは構わない。
 この世界、家名がある人間もない人間も混在していて、どっちも珍しくない程度に存在している。養子だって珍しくない。
 ヒナが気にしているのはそこではなくて。
「それなんですけど」
「どうした?」
「私も、ケセド様って呼んだ方がいい、ですよね?」
 昨日はどういう人なのか知らなかったから、とりあえず彼のことをおじさんと呼んだ。見た目は若いけれど、自分の保護者になる相手を、お兄さんとは流石に呼び辛かった。最初からおじさんと呼んだヒナに、ケセドも、特に何も言って来なかったから、そのままでもいいのかも知れないけれど。
 けれど、こうやってちゃんと名前を知って、しかも相手の社会的な立場もなんとなく知った今ではそう呼ぶ方がはばかられるような気がした。
 だから大真面目にヒナは確認したのだけど。
 一瞬の沈黙の後。
「あ、あはははははははっ!!」
 いきなり大爆笑されて絶句する。
 さっきまでの会話ではずっと何かの作業を同時進行してたのに、一瞬でそれを霧散させてしまう程に笑い出したケセドに、何をどう言っていいのかわからない彼女はオロオロするしかない。そんなにおかしなことを自分は言っただろうか? と不安になれど、爆笑を不快に思うほど自信や信頼感もなかった。
 笑うケセドに、何を言っていいのか、どういう顔をすればいいのかわからない。
「何を言い出すかと思えば、ヒナ、君、そんなこと気にして、あはは」
 やっと少し落ち着いた頃に、彼は笑いすぎて滲んだ涙を拭いながら切れ切れに言う。
 これだけ笑ってもなお、ヒナの頭に置かれた方の手は離れていない。
 はぁ、と息をついてケセドはくしゃりとヒナの頭を乱しては整える、という意味のない動きで撫でながら続ける。
「僕としては、おじさんでもお兄さんでもいいんだけどね。ヒナ、君にケセド様とは呼ばれたくないなぁ」
「じゃあどう呼べば」
「そうだね。名前を呼ぶなら、呼び捨てがいいなぁ」
「え、そんな、無理ですよ」
 反射的に断ったヒナに、この場所で会話を始めて、初めて彼の目がヒナを見た。
 その綺麗な青は、ヒナの心を抉るように深々と突き刺さる。
 さっきまで笑っていたとは思えないほど真剣な目を向けられて、言葉が出ない。
「無理じゃない。呼びなさい」
 言いながら顔が近寄ってくる。
 逃げることも思い浮かばずに硬直するヒナと触れそうな距離まで近づいた彼は、ここまでずっと頭に置いていた方の手をヒナの頬に移動させて、もう一度言う。
「君は、ヒナだけは、呼び捨て以外許さないよ」
 その声が、その目が、ヒナの心に侵食する。視線が外せない。
 有能な解析士の一部は人の精神にも干渉可能だというが、もしかしてこれがそうなのだろうか、とヒナはうまく動かない頭で思った。
 自分の全部が、彼に向いている気がする。そして彼に見られている気がする。何もかも全部。
 嫌じゃない。
 ただ、自分なんかがその視界に映っていいんだろうか、と申し訳なく思う。そんな気持ちすら見透かされているような気がした。
「わかったね?」
 幼い子どもに言い聞かせるような優しい声で、けれど拒否を認めない強い視線でそう言われれば、選択肢なんて一つしかなかった。
「…………は、い」
「よし、いい子だ」
 返事をしたヒナに笑って彼が離れていくと、ようやく硬直が解けて、ふぅっとヒナは息をついた。
 嫌じゃない。その目も、声も、手も、ヒナに向けられる全部、怖い訳じゃないから嫌じゃなかったけれど、ひどく緊張して仕方ないから、普段はあまり近くによって欲しくはないな、と思いながら。
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