1. 〝ヨーロッパ中世の宇宙観〟
文字数 1,597文字
皆が無言になる中、砧が書棚から一冊の本を抜き取り、眉を顰めながら聞いていた微笑の前に置いた。
「え、エス、イズ、ト?」
その表紙を見て、微笑が首を傾げる。
「"Es ist Kain!"。ドイツ語で『それはカインだ!』という意味らしい。とりあえず読んどけ」
「カイン?」
「カインは聖書に出て来るアダムとイブの息子」と深夜が補足する。
「最初の殺人犯で、兄弟殺しだって」
「えー、って、題名の下に『雨月一陽』ってありますけど?」
「ああ、校長だ。三年前、校長がここに就任する前に出した本だ」
「ケッ、ドイツだかあいつだかしんないけど。それにほとんど売れなかったくせ、えらそーに」
「萌ちゃん、それさっきも言った。ていうか、もう何度も聞いた」
「何か難しそうですが、どんな本なんですか?」
「読めばわかるだろ?」
「砧さん、いくら何でも不親切過ぎますよ」
深夜が言うと、砧が少し間を置いてから言った。
「『神明裁判』という概念がある。例えば、中世ヨーロッパでは、殺人犯がその犠牲者に触れると血を流す、と信じられていた。言ってみれば死者からの告発だが、当時は『生ける死体』という考え方があって、死者も権利を主張したり財産を所有することができたらしい。そもそも、血が出る仕組みさえわかっていない時代だし、生死に関する考え方が今とは違ったようだ。で、さっきエマが言ったカインが殺したアベルの血も神に訴えた。『Es ist Kain!』、つまり『犯人はカインだ!』という、人類初の告発、ということになる。もちろん聖書にそんなセリフがあるわけじゃないから、校長なりの解釈の一つでしかないが、ウルヴズのイメージはこれに強く結びついている。で、さっき八島が言ったように、ウルヴズは"with Object-Limited Viruses"の省略形だ。だが、それは字面の問題。本質的には人間狼 だ」
「え、人狼 ? ワーウルフですか?」
「いや、人間狼だ」
「何か違うんですか?」
「多分ミーナが思い浮かべてるのはハリウッドあたりで作られたイメージか、中世ファンタジーのフィクションに出て来るのだろ。まあ、元をたどれば同じだが、本来はそんなかっこいいものじゃない。中世ヨーロッパでは、ある種の罪人はオオカミの毛皮を被って村を出ていくことを強いられた。いわゆる『アハト』、又は平和喪失刑だ。さっきも言ったように、当時は死者にも一定の権利が認められていた。一方で、人間狼は、法的に生きた人間とはみなされなかったらしい。そもそも死人だし、ある境界を越えた向こうは、日本で言う黄泉の国、生きた人間の世界とは別だからな。当然、村の中の住人が、村から追放された人間狼と接触することも禁忌とされた。例えそれが、元は家族だったとしても」
微笑が眉をしかめる。萌が深夜に、「キモオタが微笑をバカにして話さないままの方が良かったかも」と耳打ちする。
「俺たちも同じだ。と言っても、他者からすれば鍵がかかっているかどうかなんて見た目じゃ区別がつかない。そこで毛皮が必要になる。毛皮を着れば狼になり、脱げば人に戻る」
「じゃあ、やっぱりワーウルフっぽいですよね」
「確かに、一種の変身だと思っても半分は正しい。毛皮をまとって人間狼になれば、法の庇護と制限から解放される。あ、いや、見捨てられる、という表現が正しいか」
砧が言い直すのを、微笑がきょとんとした顔で見上げた。
「まあ、もっとも、ウルヴズ自体は法の外の存在でも、ウルヴズが存在すること自体には、さっきも言ったように国や各省庁の様々な思惑が絡んでいる。それぞれが権利を主張し、責任を逃れようとした結果が施錠や解錠、そして毛皮という暗黙のシステムだ。そうでなきゃとっくに人体実験の対象になってるよ」
「え、エス、イズ、ト?」
その表紙を見て、微笑が首を傾げる。
「"Es ist Kain!"。ドイツ語で『それはカインだ!』という意味らしい。とりあえず読んどけ」
「カイン?」
「カインは聖書に出て来るアダムとイブの息子」と深夜が補足する。
「最初の殺人犯で、兄弟殺しだって」
「えー、って、題名の下に『雨月一陽』ってありますけど?」
「ああ、校長だ。三年前、校長がここに就任する前に出した本だ」
「ケッ、ドイツだかあいつだかしんないけど。それにほとんど売れなかったくせ、えらそーに」
「萌ちゃん、それさっきも言った。ていうか、もう何度も聞いた」
「何か難しそうですが、どんな本なんですか?」
「読めばわかるだろ?」
「砧さん、いくら何でも不親切過ぎますよ」
深夜が言うと、砧が少し間を置いてから言った。
「『神明裁判』という概念がある。例えば、中世ヨーロッパでは、殺人犯がその犠牲者に触れると血を流す、と信じられていた。言ってみれば死者からの告発だが、当時は『生ける死体』という考え方があって、死者も権利を主張したり財産を所有することができたらしい。そもそも、血が出る仕組みさえわかっていない時代だし、生死に関する考え方が今とは違ったようだ。で、さっきエマが言ったカインが殺したアベルの血も神に訴えた。『Es ist Kain!』、つまり『犯人はカインだ!』という、人類初の告発、ということになる。もちろん聖書にそんなセリフがあるわけじゃないから、校長なりの解釈の一つでしかないが、ウルヴズのイメージはこれに強く結びついている。で、さっき八島が言ったように、ウルヴズは"with Object-Limited Viruses"の省略形だ。だが、それは字面の問題。本質的には
「え、
「いや、人間狼だ」
「何か違うんですか?」
「多分ミーナが思い浮かべてるのはハリウッドあたりで作られたイメージか、中世ファンタジーのフィクションに出て来るのだろ。まあ、元をたどれば同じだが、本来はそんなかっこいいものじゃない。中世ヨーロッパでは、ある種の罪人はオオカミの毛皮を被って村を出ていくことを強いられた。いわゆる『アハト』、又は平和喪失刑だ。さっきも言ったように、当時は死者にも一定の権利が認められていた。一方で、人間狼は、法的に生きた人間とはみなされなかったらしい。そもそも死人だし、ある境界を越えた向こうは、日本で言う黄泉の国、生きた人間の世界とは別だからな。当然、村の中の住人が、村から追放された人間狼と接触することも禁忌とされた。例えそれが、元は家族だったとしても」
微笑が眉をしかめる。萌が深夜に、「キモオタが微笑をバカにして話さないままの方が良かったかも」と耳打ちする。
「俺たちも同じだ。と言っても、他者からすれば鍵がかかっているかどうかなんて見た目じゃ区別がつかない。そこで毛皮が必要になる。毛皮を着れば狼になり、脱げば人に戻る」
「じゃあ、やっぱりワーウルフっぽいですよね」
「確かに、一種の変身だと思っても半分は正しい。毛皮をまとって人間狼になれば、法の庇護と制限から解放される。あ、いや、見捨てられる、という表現が正しいか」
砧が言い直すのを、微笑がきょとんとした顔で見上げた。
「まあ、もっとも、ウルヴズ自体は法の外の存在でも、ウルヴズが存在すること自体には、さっきも言ったように国や各省庁の様々な思惑が絡んでいる。それぞれが権利を主張し、責任を逃れようとした結果が施錠や解錠、そして毛皮という暗黙のシステムだ。そうでなきゃとっくに人体実験の対象になってるよ」