6. 〝トレーニング デイ〟

文字数 4,202文字

「あ、ご、ごめんね、萌ちゃん」
「いや、あたしも調子に乗り過ぎたかも。ごめん」
「それはマックスウェルの作用の一部だ。まあ、そもそもがウルヴズであること自体、我々の一部でしかないしな」
「砧さん」
「実際のところ真昼は、ミーナの場合のような労働災害現場での救出でよく活躍した。真昼は『つまんねぇ』とか言ってたが、救助した相手に感謝されるとデレてたよ。特に重宝されたのが火災現場だ。炎を窒素で包むことも、被災者の周囲から一酸化炭素を取り除くことも意のままだからな。俺がこの間行った火災現場でも、『マックスウェルがいたら』って言われた」
「すごい。やっぱ、真昼先輩ってすごかったんですね」
 微笑が深夜を見る。萌も慌てて「そ、そうさ。たまにはキモオタも役に立つね」と作り笑いを浮かべた。深夜が頷く。
「うん。生意気だし、砧さんや伝さんには甘えてたけど、そういう時はかっこよかった」
 それから俯き、「あの時も、せめて鍵がかかってなければ」と呟いた。
「鍵さえかかってなければ、爆発を抑えるのに十分なウイルスだって仕えたはず」
「鍵がかかってたって」と萌が語気を荒げる。
「真昼ならちょっとした爆発程度何とかなったはずなんだよ。絶対、何かの陰謀に違いないんだよ」
「きっとそうです!それに、そうならばなおさら許せません。真昼先輩が命がけで止めた法律を、もう一回強引に決めようなんて!微笑も絶対反対です!」
「あたしも、槍突き付けられてハゲタカの手下になるなんてまっぴらごめん」
「そうか?」と砧がメモ書きの端を持ち、目の前に掲げた。
「俺は別に生きていければ養殖の魚でもいいけど。ただ、最後に食われるのは勘弁だ」
「あんたはそうかもしんないけど」
 紙片が突然発火する。微笑が「え? え? 」と身をのけぞらせる前で、メモ用紙を炎が覆う。
「な、何ですか、それ?」
「証拠隠滅」
「そうじゃなくて、突然火が付いたのは?」
「断熱圧縮。自転車の空気入れが熱くなるのの急激な奴。これもキモオタのウイルスの作用」
「じゃ、じゃあ、砧先輩って火事も起こせちゃうんですか?」
「マッチの方が効率的だろ」
 三分の二くらい燃えたところで、砧が手を振って紙片の火を消した。
「ミーナ、これを直せるか?」
 しかし微笑が受け取る前に扉が開く音がした。深夜が振り返る。
「あ、景清さん、お疲れ様です」
「景清クン、お疲れ様。広告どうだったんすか?」
「なし」
「えー、景清クンにしちゃ珍しいね」
「あ、景清さん。紹介します。今年度からネストに入るエミちゃん、水無瀬微笑さんです」
「あの、よろしくおねがいします」
「クロノスだ」と砧が焦げた紙片を見せながら言った。
「ちょうど今検証するところだよ。ミーナ」
「あ、はい」
 微笑が紙片を受け取ると、それは瞬時に元のメモ用紙に戻った。景清が無言で見つめる。
「すごい。砧さんが書いた文字まで元に戻ってる」
「物理的な破損だけじゃなく、化学変化さえ元に戻せるってことか。驚いたよ」
「あれ?でも、一部欠けてない?」
 萌が紙片のいくつかの穴を指さす。砧が「多分呼吸だ」と言う。
「燃えて二酸化炭素になったうちの一部が、俺たちの吸気に混ざって肺に入ってたから拾えなかったんだろ?体内にある物質には、俺たちのウイルスの作用は及ばないけど、それはクロノスの場合もそうみたいだな」
甦る貴婦人(クイーンフェニックス)です」
 頬を膨らませる微笑を無視して、砧が景清にメモ用紙を渡す。
「余計な情報を書いたメモだ。悪いが隠滅してくれ」
 景清は無言でそれを受け取り、手の中で丸めた。ごみ箱の上で手を開くと、メモ用紙が消え、見えないものが時折光りながらゆっくりと落ちていく。
「え?あれ?」
「ネクローシスだ。分子結合、金属結合、イオン結合など、全ての物質の結合を断つ。言ってみれば、物質を壊死させる。ミーナとはほぼ反対だな」
「す、すごい」
「砧、水無瀬のウイルスの作用はそれだけか?」と机の横に鞄を置いた景清が訊いた。
「オルヴズの作用は基本的に一種類だけだからな。多分そうだろ」
「そうか、水無瀬、来い。それから絵馬と野宮も」
 景清は言い捨て、編集室を出た。深夜と萌が顔を合わせる。
「倉庫だろう。行った方がいい」と砧に促され、三人が倉庫の扉を開けると、十畳ほどの部屋の中央に景清が立っていた。
「最低限身を守る術を教える。絵馬」
 景清の呼びかけに深夜が頷き、正面に立った。そして一礼をすると、いきなり景清を攻撃し始める。しかしその突きや蹴りはことごとくかわされる。深夜の息が少し切れたところで、景清が再度頷いた。深夜が攻撃を止める。
「すごい。深夜先輩のパンチやキックが景清先輩を突き抜けてるみたい」
「深夜も毎日訓練してるから相当なレベルのはずなんだけどね。景清クンは無酸素運動の訓練の年季が違うから」
「水無瀬、次はおめーだ」
 萌に背中を押され、景清と入れ替わりに微笑が深夜の正面に立った。
「攻撃されたら、最小限の動きでかわせ。絵馬、始めろ」
 景清の言葉に深夜が頷き、「エミちゃん、行くよ」と言ってから拳をゆっくりと突き出した。微笑が反射的に身をよじって避ける。
「大きく動き過ぎだ。次の動作に支障が出る。もっとぎりぎりでかわせ」
 深夜が手を戻し、最初と同じ程度の速度で正拳を撃つ。微笑が避ける。
「まだ大きい。拳を掠らせるくらいの気持ちで避けろ」
「景清クンは簡単に言うけどさー。あたしだってそんなぎりぎりじゃ無理だし。もし相手が読ませないような攻撃してきたらどうせダメじゃん」
 横から萌が口を挟む。景清は彼女を一瞥すると言った。
「ボクサーレベルの戦闘技術を持ってる奴なんてそうはいねえ。大抵はただの暴力だ。相手をよく見りゃ、視線と出だしの動きでおおよその攻撃個所、到達速度は予測できる」
「そりゃ、景清クンは恐怖心がないから」
「萌ちゃん!景清さん、すみません」
「余計なことを気にしている暇があるなら、続けろ」
「あ、はい」
 深夜が微笑に向き直り、少し速度を上げて正拳を撃つ。微笑が避けながらそれを手のひらでそらす。
「可能な限り手を出すな。拳ならいいが、刃物なら触るだけで傷つく」
「は、はあ」
「それに、体を僅かに動かすだけで避けることを繰り返せば、それだけで敵を威圧できる。『何をしても無駄だ』と相手に思わせれば、精神的に優位に立てるし、それも一つの武器になる。ウルヴズ自体戦闘には向かねーが、特に水無瀬は、価値と護身能力のバランスが他の奴ら以上に悪すぎる。かといって、小柄なおめーじゃ、単なる物理攻撃をしたところで効果は知れてる。生き残るためには何でも使え」
「生き残るためって」
「現場では俺たちは道具だ。使用者は道具の生死を優先してくれねえ。身を守るのは己自身だ」
「は、はい」
 微笑が息を整える。
「深夜先輩、お願いします」
 深夜が頷き、また攻撃を始める。数度目の正拳が微笑の肩に当たった。
「あうっ!」
「あ、エミちゃん、ごめん!」
 深夜が駆け寄り、微笑の肩をさする。微笑は上目遣いに景清を伺う。
「ど、どんくさくてすみません」
「悪くねえ」
「え?」
「当たったってことは、ぎりぎりでかわそうとしてるってことだ」
「あ」
「いくらおめーが華奢でも、体には幅があり、厚みがある。どこまでが自分かを体で覚えるためには、練習の段階じゃ当たってみるのも一つだ」
「あ、ありがとうございます」
 微笑の頬が紅潮している。景清が深夜を見る。
「絵馬、もう一度手本だ。水無瀬、少し休め」
「あ、はい」
 微笑が下がり、景清が再度深夜の前に立つ。
「本気で来い」
「お願いします」
 深夜が一礼し、一度深呼吸をしてから足を蹴り上げる。景清がその攻撃をかわす。二人を見ながら微笑が萌に訊いた。
「それにしても、どうして景清先輩はただ避けるだけなんですか?」
「景清クンのウイルスは、対象が物質なら全部破壊する。ロックされてても深夜の服くらい突き抜けるよ。ま、ムッツリだからそんなことはしないと思うけど」
 深夜の手足は相変わらず空を切る。
「それに景清クンのウイルスは感染対象を選べないしね。破壊したいものだけじゃなく、周囲の空気も、とにかく最初にぶつかったものを原子レベルに分解する。酸素はまわりの物質を手当たり次第に酸化するけど、空気中には窒素の方が多い。対流で全体が平均化するまで、一時的に、人体にはあんま良くない二酸化窒素の濃度が高くなる。もちろん、単体の酸素なんてかなりやばいから、全身からウイルスを出してる時、景清クンは呼吸しない。っていうかできない。あの人のウイルスは諸刃の剣なんだよね。だから可能な限り自分の顔から遠いところでウイルスを出す。もっとはっきり言えば、可能な限り、手や足で武器を破壊する」
「よくわかんないけど、大変そうですね」
「うん、そんなことより、深夜たち」
 萌が二人の攻防を見つめる。
「あ。な、何か殺気立ってるみたい」
 深夜の蹴りを避けながら景清が言う。
「おせえ」
 深夜の攻撃が速度を増す。
「こんなもんか」
 更に激しくなる。
「何か、速すぎませんか?」
「深夜は手足の金具と周囲の金属にウイルスを感染させて、その引力や斥力で攻撃を加速する。金属があるところ限定だけど」
「え、じゃあ、解錠とかされてたら?」
「もっと速くなるよ。深夜はそれに耐える練習もしてる」
「まだだ」
 しかし景清には当たらない。
「景清先輩も、すごい」
「景清クンに武器は無意味だから、素手の攻撃さえかわせばいい。恐怖心もないし、避ける訓練を徹底してるからね。でも」
 残像に見える攻防に、萌が半歩踏み出す。
「ちょ、深夜、景清クン?」
「その程度で人が斃せるか」
 深夜の表情が歪んだ。右の手のひらが景清の口元を覆う。
「深夜!」
 萌が叫ぶ。しかしその右手は空を掴む。景清は既に深夜の左に回り、彼女を見下ろしている。深夜が目を見開き、ゆっくりと顔を上げて景清を見つめる。
「景清、さん?」
 硬直した深夜がようやく口を開く。
「そうだ、それでいい」
 景清が呟く。そして無言で立ち尽くす彼女に背を向けると倉庫を出て行った。
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登場人物紹介

絵馬深夜(えましんや)

公立雨月学園御代田中等教育学校高等部一年生


野宮萌(ののみやもゆ)

深夜の同級生で、野宮伝の妹。

景清(かげきよ)

公立雨月学園御代田中等教育学校高等部三年生。

八島(やしま)

公立雨月学園御代田中等教育学校高等部三年生。

新聞編集営業配達部部長。

呉服(くれは)

公立雨月学園御代田中等教育学校高等部三年生。

新聞編集営業配達部副部長。


砧(きぬた)

公立雨月学園御代田中等教育学校高等部三年生。

田村(たむら)

長野県警の刑事(警部)。

ノンキャリア。

長野県警の刑事(警部補)。

キャリア。

雨月一陽(うげついちよう)

公立雨月学園御代田中等教育学校校長。

〝Es ist Kain!〟の著者。

安宅(あたか)

公立雨月学園御代田中等教育学校教頭。

水無瀬微笑(みなせほほえみ)

公立雨月学園御代田中等教育学校中等部二年生。

厨二病。

野宮伝(ののみやつたう)

赤帽ドライバー。

萌の兄。

雨月一陽とは同窓生。

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