9. 〝ウォッチメン〟-3
文字数 719文字
「『オルフェウスの冥府下りは、ギリシア神話の中で最も人々から愛されている物語の一つだ』」
電話の向こうで、巴が咳払いをした。
「『月は見ている』はこの一節から始まります。『しかし、この悲劇に触れた多くの日本人は、切なさよりも既知感を覚えると思う。記紀神話を通しで読んだことがなくても、児童書や漫画などを通じ、イザナギ、イザナミの悲話は、一人ひとりの心の中に歴史として刻まれているだろうから』」
「『オルフェウスの冥府下り』って何?」
「毒蛇に噛まれて死んだ妻を取り戻すため、琴の名手が冥界へ降りていく、と言う話です」
「へえ、確かにイザナギの黄泉の国行きに似てるね」
「年代を考えれば、日本神話の成立が後ですから、こちらが向こうに似ている、というべきなのでしょうけれど。続いて『神話の世界でさえ、死者を冥界から連れ戻すのは禁忌だった。しかし人間は、種、少なくとも亜種としての死から彼らを再び地上に連れ戻すことに成功した』。『彼ら』とは、ここではニホンオオカミのことのようですが、『月は見ている』には、オオカミと言う言葉は一切出て来ません」
滝原の信号を右折し、サンラインを東に向かう。
「『巨視的な調査、研究は責任を負うべき国の仕事だ。我々月は、あくまで生活の一部としての彼らの観察記録を残す。北欧から譲り受けた二柱を含む最初の五柱のイザナギ、イザナミ、アマテラス、ツクヨミ、スサノオという名付けに敬意を表し、観察対象は全て記紀から名を借りる。ただし、二十一世紀に蘇った神々の場合は、イザナギが妻を求めて冥府へと向かう物語はない。もちろん、捕縛され、強制的に異国に連れて来られた時点で、二柱とも黄泉に送られたという見方もあり得るが』」
電話の向こうで、巴が咳払いをした。
「『月は見ている』はこの一節から始まります。『しかし、この悲劇に触れた多くの日本人は、切なさよりも既知感を覚えると思う。記紀神話を通しで読んだことがなくても、児童書や漫画などを通じ、イザナギ、イザナミの悲話は、一人ひとりの心の中に歴史として刻まれているだろうから』」
「『オルフェウスの冥府下り』って何?」
「毒蛇に噛まれて死んだ妻を取り戻すため、琴の名手が冥界へ降りていく、と言う話です」
「へえ、確かにイザナギの黄泉の国行きに似てるね」
「年代を考えれば、日本神話の成立が後ですから、こちらが向こうに似ている、というべきなのでしょうけれど。続いて『神話の世界でさえ、死者を冥界から連れ戻すのは禁忌だった。しかし人間は、種、少なくとも亜種としての死から彼らを再び地上に連れ戻すことに成功した』。『彼ら』とは、ここではニホンオオカミのことのようですが、『月は見ている』には、オオカミと言う言葉は一切出て来ません」
滝原の信号を右折し、サンラインを東に向かう。
「『巨視的な調査、研究は責任を負うべき国の仕事だ。我々月は、あくまで生活の一部としての彼らの観察記録を残す。北欧から譲り受けた二柱を含む最初の五柱のイザナギ、イザナミ、アマテラス、ツクヨミ、スサノオという名付けに敬意を表し、観察対象は全て記紀から名を借りる。ただし、二十一世紀に蘇った神々の場合は、イザナギが妻を求めて冥府へと向かう物語はない。もちろん、捕縛され、強制的に異国に連れて来られた時点で、二柱とも黄泉に送られたという見方もあり得るが』」