▲灰猫マリスの脱出方程式

文字数 3,980文字

紀元前八〇八七年九月四日 

 街は完全にゴーストタウンと化していた。外出禁止令で市民は自宅に引きこもっている。烏だけが支配するアクロポリスに戒厳令が敷かれ、依然都市のアラベスクに仕掛けられている魔術防衛装置が発動している。アルコンは必死で考えを巡らしていた。一体どうやってアジトから合流地点へとたどり着けばいいのか? ところが、幾ら考えても何一ついい考えが浮かばない。
「どうすればいい、誰か、何かいい手はないかッ!」
 叫んだところで誰からも返事が返ってこない。
 オージンに新しい脱出法を見つけてもらうという手もあるが、これ以上、外のオージン達と通信するのは危険だった。シャフト本部ユグドラシルの地下階であるニヴルヘイムが敵に発見されなかったのは、全ての部屋がそれぞれ異なる権限で入室するセキュリティで守られた、個室化のためだった。このセキュリティは強力な魔術作用であり、一度仕掛けるとそう簡単には破れない。だが、これまで運が良かっただけとも言える。敵中にアジトを設けると云うトリッキーな戦略はよかったものの、そこからの脱出となると話は異なってくる。部屋を提供したオージン卿ならいい方法を知っているかもしれないのだが。
「そもそもここから一歩も出られんぞ」
 まるでユグドラシルのこの部屋自体が自分達を閉じ込めている監獄と化していた。
「都市結界を駆け抜けて第一運河へ行くには、魔術フォーメーションを使うという手もある。だが今の俺たちにそれを知る術はない」
 アルコンが思いつきで言ったフォーメーションとは、魔術方程式(マジックフォーミュラ)を帯びたダンス・フォーメーションの事を意味している。ダンスの動きは「方程式」と呼ばれているのである。その魔術舞踏によって身体の周囲にマカバ・フィールドが形成され、魔術結界の中を縦横無尽に駆け巡る事ができる。結界の魔方陣の中を流れ、めまぐるしく変化している気の流れに沿って、ダンスをする時、身体と魔方陣が同調し、アラベスクの流れに掴まってマンホールに吸い込まれる事がなくなるのである。
 たとえフォーメーションを調べることができた所で、それを今から習得などする暇などなく、むろん、熟練になるまでのテクニック習得にはかなり時間を要るのだった。
「確かヱメラリーダなら、昔知っていたんじゃないか? 情熱党の技だったはずだ」
「そうか!」
「ヱメラリーダ、アラベスク戒厳令の方程式を知ってるのか? ならお前だけは脱出できるのかな、少なくとも」
「……そんな眼で全員であたしを見られて困る。確かに前に、アラベスク戒厳令が敷かれた時のフォーミュラは知ってたけど、方程式は変化しているんだから。今シャフトが設定した方程式は分からない」
 ヱメラリーダはつぶやくように言った。
「だから答えは一つしかないんだって」
「つまり?」
「つまり、また誰かが陽動になるしかないって事じゃん! その隙にダメ元で駆け抜けてみたら」
 レジスタンスにはもうそれほど人員が残されていなかった。だのにヱメラリーダはモービル剣を掴んで立ちあがり、飛び出そうとしていた。アルコンは急いで彼女を制し、首を横に振った。たとえ陽動に成功したところで、結界に掴まる。アルコンの目はまだ何か秘策があると物語っているようでもある。
 戸を引っかくガリガリという音がして、全員に緊張が走った。いよいよ敵との最期の戦いの時が来た事をレジスタンス達は覚悟した。
 ヱメラリーダはアルコンの手を振り払って、レーザー剣を構える。音を立てずに慎重に戸へと向かう。全員がサイコ・ブラスターを構えている。何者かが確実にドアの向こうに居る。しかし、ヱメラリーダが覗くとモニター越しには、誰も映っていなかった。ヱメラリーダはメンバーに目配せしつつ慎重にドアを開けた。すると、足元に小さな灰猫がちょこんと座っていた。
「うっわぁ! かわいい~」
 ヱメラリーダは戸を全開して猫を抱きすくめ、部屋に入れようとした。その瞬間猫はするりと逃げて、マリス・ヴェスタが戸口に立っていたのである。メデューサのように勝手にゆれる金髪、猫のような金眼、陶器のような青白い肌に冷酷な無表情。とっさの事にヱメラリーダはギョッとしてレーザー剣をゴトンと床に落とした。全員銃口をマリスに向ける中、ヱメラリーダは数歩下がり、剣を持ち直して突き付ける。
「レジスタンスに参加させていただきます、アルコン隊長」
 先に声をかけたのはマリスの方だ。
「お前何者だッ」
 よく考えれば、ユグドラシルの地下階の廊下を野良猫が歩いているはずがなかった。
「たった今、シャフトを脱走して来た、私はシャフト保安員です」
 マリス・ヴェスタは自分から正体を明かしたが、その黒光りしている制服から何者であるかは最初から明白だった。今レジスタンスがもっとも正面からの対立を避けねばならない相手、シャフト保安省セクリターツ。一気に緊張が走った。
「シャフト保安員だと。って、てめェ! よくもあたしを騙したな。あたしの猫好きを利用しやがって、卑怯だぞ。お前だと分かったら絶対入れなかったのにィ。猫に騙された自分が憎い!」
「待て! 早まるな。彼女はマリス・ヴェスタという……我々のグループに新加入してくれるメンバーだ」
 マリスが来るかどうかは五分五分だった。アルコンは結局彼女がゴールデンキャットガールである可能性を伏せている。
「何だって? どういう事よ。アルコン。……一体なぜこいつはここが分かったんだ?」
 とりあえずヱメラリーダは混乱しつつ、質問を続ける。
「トートアヌムの近くで私が誘い、ここへ案内したんだ」
「ちょっと待ってよアルコン、こいつがスパイでないとどうして言える? え? どうして言えるんだよ!」
 「逃げて来た」とは言うものの、ヱメラリーダはマリスを一瞥して怪しいとにらんでいる。美しいペルシャ猫と冷酷な蛇を想起させる外見。おそらくその内面の本質も実際にそうなのかもしれない。ヱメラリーダの言う通り、この女はスパイなのかもしれないと、アルコン以外の誰もが考えている状況である。
「シャフトの中でここを知っているのは私だけです。外に誰も居ない事は、あなた達もそのモニターを監視して分かっているはずでしょ」
 確かにマリスの言う通り、モニターにセクリターツの影は見えない。それは、テレパスであるヱメラリーダの捜査によっても裏付けられた。確かに外にこの女以外はいない。
「シャフトは今もあなた達を追っている。このままじゃこのアジトが見つかるのは時間の問題。ましてユグドラシルの中じゃあね。そしてアクロポリスを脱出する事は不可能になる。郊外に居る仲間達とも、合流する事はできないでしょう」
「なぜそれを……」
「それくらい想像つくわよ。私はあなた達にそれを、一刻も早く知らせるために、猫の姿に身を変えて、セクリターツを抜け出してきたのです。こんな所に居たら、いずれ全滅するでしょう。一刻も早く脱出するしかない。だけど今、アクロポリスに張られている魔術防衛結界を脱出するためには、あなた達が持っている情報や武器だけでは不可能。でも私はそれを知っている……」
 魔術結界は、世界一の俊足を誇るロードマスターさえもからめ捕る。マリスはセクリターツの技術職で、アラベスク結界を抜ける方程式を知っているというのだ。
「つまり、我々を助けることによって仲間である事を証明したいと、そういう事か?」
奥から一人のメンバーが確認するように訊いた。
 マリスは無言でうなづく。
「てめぇの話なんか誰が信じるかッ!」
 まさしく「渡りに船」とはこの事だったが、終始不審がるヱメラリーダの言う通り、信用できるかどうかまだ分からなかった。いいや、登場したタイミングといい、怪しいと考えるのが普通なのかもしれない。
「なぜシャフトを抜ける気になったのか、皆に説明してくれないか?」
 皆の不審を解くため、アルコンが確認の意味を込めて訊く。
「こうなったのが全て、あなたの言う通り、シャフトがクーデターを起こしたせいだからよ。私は皇帝陛下が処刑される時、計測で陛下の間近に立ちあっていた。陛下は自身を逮捕し、処刑人である私達を憎んではいなかった。その事がずっと私には引っかかっていた。間違っているのは自分たちの方かもしれない。クーデターの後、私は結局、陛下を殺したのは間違いだと気付いた。私は騙されていた……。帝が処刑された今、決して、罪滅ぼしにはならないとは思うけど、あなた達に協力したい。だから結界の脱出方法を教える」
 マリスは、ツーオイ石を陥落した後のシャフトの暴挙に幻滅し、このままではアトランティスが滅びる事は必定と考えたのだと言った。
「時間がない。早くしないと……私でなければ街の結界の方程式は解けない!」
 外から、セクリターツの大部隊が動く音が漏れてくる。だがヱメラリーダは、マリスがなぜ寝返ったのか、直接の理由を答えていないような気がした。
 しかしアルコンだけは確信している。マリス・ヴェスタは、きっとアリーナの処刑の瞬間、皇帝から直接何かを得たのだ。それが忘れられなくて、結局レジスタンスの一員になる決心をした。
 セクリターツの兵が間もなくここを突き止めるというのは、マリスの言う通りだった。沈黙が漂い、一同どうするか迷う中、じっと冷静な瞳でマリスを観ていたアルコンは頷く。たとえ彼女がスパイだったとしても……一か八かに賭けるしかないのだ。
「よろしく頼む。マリス・ヴェスタ。よく来てくれたな」
 アルコンはヱメラリーダの抗議の声を遮って、マリスを仲間として受け入れた。レジスタンスはマリスの協力を受け入れたのである。
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