▼二〇一一年三月十一日の昼と夜

文字数 3,456文字


                            挿絵/Ntgh.mk

 曇り空を、真っ黒な烏の集団が旋回している。二十羽から三十羽飛んでいる。何か尋常でない鳴き声を、古石川港に立ち寄った八木真帆は聞いていた。大き目の釣り眼が沖に視線を移す。東北出身に多い少し明るい瞳の色。前を開けた白のステンカラーコートに襟の高い白シャツ、スキニージーンズを履いている。墨を流したような黒いストレートロングヘア、先端へ行くほど細くなるシャギーがゆらゆらと風で揺れている。
 腕の金時計を見ると、午後二時四十六分を過ぎていた。突如、足元を大きな横揺れが襲った。地震で立っていられない。真帆はしばらくの間、電柱に掴まってうずくまっていたが、立ちあがった。海は午後の陽の光を浴びてキラキラと輝き、港は異様なほど静かだった。二日前にも大きな地震が起こったばかりだった。
 地面がひび割れて、マンホールがバンと大きな音を立てて吹き飛んだ。勢いよく水が噴出した。そこで我に返り、真帆はコートのポケットにしまったラジオを聴いた。いつも持ち歩いている鉱石ラジオは、ほっそりとした真帆の手のひらの中で、盛んに巨大津波が来る事を繰り返し伝えていた。
 地震直後、走っている人もいたが、最初の地震で一度外へ出て、すぐ家に引っ込んだ人もいる。
「すごい地震だったなぁ」
 真帆の耳には、年配の男性ののんびりした声が聴こえて来る。違う。これは違う。もうすぐここは危ない。間もなく、再び大きな横揺れが起こった。それが終わっても余震は収まりそうにない。真帆は意を決した。
「津波が来る、津波が来るぞ!」
 真帆は叫びながら自転車で逃げた。だが、声をかけられた人々は怪訝な顔をしたり、後でといったり、真帆が遠慮したり、依然マンホールの噴水を眺めている人もいる。その人たちに動く様子はなかった。
みんなラジオやテレビを着けていないらしい。そのためだ。誰も危機感を感じていないのは。真帆の大声で逃げてくれる人もいたが、逃げない人が大勢だった。
 この街は高い防波堤があるおかげで、かえって津波への警戒心を忘れていた。去年、チリ地震のとき、逃げたけれど結局津波が来なかったことも、人々の警戒心を薄くしていた。だから、真帆のように騒いで人を誘導し、結局何もなかったということになれば、相手に面倒をかけることになるし、恥をさらすことははばかられる。だが、真帆は違った。これは津波が来るという直感があった。
 冷たい風が海から吹いてくる。
 八木真帆の故郷の古石川は、もう春だというのに予報ではこれから雪が降ることになっていた。やはり東北だ、と真帆は思った。年齢二十。東都大学理工学部の二年生の真帆は、普段は東京のワンルームマンションに住んでいる。春休みに帰郷したのは、正月も帰らなかったからだ。忙しかった研究は三月の頭にひと段落していた。遅い昼食を食堂でとった後、散歩で港を訪れていた。
「津波だ、走って! 津波が来る、逃げて下さい!」
 真帆は叫びながら動かない人に声をかけで走った。恥や外聞なんて、気にしている場合じゃない。何事もなければ、それに越した事はないじゃないか。
 唐突に眼に飛び込んだ知り合いの小学生は「うん、後で行くから」と答えた。
 真帆には直感的に津波に対する恐怖があった。幼いころから繰り返し見ていた夢。これは予知夢なのかもしれないととっさに思う。
「早く逃げて、早く山の方へ逃げて!」
 真帆の叫び声につられて移動を開始する人が出て来た。そこへ中学時代の同級生の美咲が自転車でやってきた。地元の友人は、真帆が逃げるのと反対方向に、港に向かっていた。美咲の家は港の方にあった。彼女は祖母が家に残っていて動かないという。
「仕方ないよ、一人で逃げて!」
「…行って説得する」
 美咲の意志は固かった。このままでは、彼女らは、全員……一人残らず。
 仕方なく真帆は美咲と一緒に港へ向かった。もう時間がないと胸騒ぎがした瞬間、顔を上げてゾッとする。人が、車が、家が、街がクリーム色の濁流に呑みこまれてゆく。目前に迫った水の壁は、まるで猛獣が横並びして襲いかかって来たようであり、それが見えた時点でもう手遅れだった。車がまるでおもちゃのように流されていく。

 津波だ。

 真帆はあっという間に飲み込まれた。すでに美咲の姿を見失っている。友人の身を案じる暇がなかった。真帆は必死で漂流物にしがみついた。真帆を乗せた漂流物は、多分家を支える大黒柱とそれに付随した壁の一部だ。八木真帆はくたびれた青白い腕で鉛のような身体を持ち上げ、その上に這い上がると、仰向けになって寝そべった。しがみついているので精一杯だった。
 津波が引くと同時に、真帆を乗せた切れ端は、沖のへと流されていく。漂流物は、湾の中に留まって渦を巻いてぐるぐると回り始めた。寒さに凍えながら海に投げ出されないようにと必死に耐え忍ぶ。
……数十分で強風と小雪が降って来た。
 地震で壊れた石油コンビナートが爆発した。日が沈み、冷たい雪が降りしきる中、古石川は地獄の様相を呈し、火の海と化していた。その湾の中を依然真帆は脱出できないでいた。炎と煙で咳き込む。いつか、自分も燃えている船にぶつかり、燃えてしまうのだろうか。
「このままじゃ、いつまで経っても陸に上がれない」
 数日前、地震雲を見た。いいや、そうじゃない。奇妙な形の雲だったが、あの時は地震雲だと気付かなかった。ニュースで報道されていた、鯨の死がいが茨城の海岸に大量に打ち上げられていた事も、もしかするとこの地震の兆しだったのかもしれない。それだけか。いや、違う。分かっていた。真帆はずっと分かっていた。幼い頃から、なぜだか津波に呑まれる夢を何度も見た。最後にいつも真帆は死んでしまう。だから地震が起こった瞬間、その夢の情景が突如よみがえって、子供の頃から見ていた夢が、今日の予知夢だったと直感的に思った。
「もう駄目だ、私は死ぬんだ。今日、ここで死んでしまう」
 煙と炎にむせながら、真帆は死を覚悟した。現実は夢のとおりになっている。海上を埋め尽くした炎を見つめながら真帆は気を失った。

 赤黒い大地はひび割れ、所々炎が上がり、焦げた枯れ木が林立している。曇天からその大地へと、天使がドンドン堕ちていった。翼は汚れ、ズタズタだった。大地に一本だけは得ている巨大な白い木が燃えている。誰かが嘆く声が聴こえてきた。近づくと、さめざめと泣いていた。
「ここは……?」
 真帆はそっと声をかけた。
「ここは天使の墓場だよ。正義の側に立った者が負けた。正義が負けたんだよ」
 赤毛の少女は背中を丸め、振り向かず、かすれた声で訴えていた。
 こちらに一度も振り向かないので顔が見えない。泣いているのは一体誰だろう。
 その誰かの嘆きの言葉が詩になってゆく。

 負けた、負けた。光の子が負けた
 闇の子に負けた
 失敗だ、失敗だ、何もかも失敗だ
 正義の側に立ったものが負けた
 終わりだ、終わった、全てが終わった

 天使 原子 陽子 中性子 電子 素粒子
 吸収 核分裂 散乱
 核分裂反応 核融合反応 核破砕反応 光核反応

 同心円都市アクロポリス ハイアラーキー
 空を支えし者 ガイアは傷だらけ
 ゴールデンキャットガール ユグドラシルを縫うように 

 電源喪失 圧力上昇 炉心融解 邪神召還
 ベント 水素爆発 内部被爆 半径二十キロ

 全てを無に帰す 恐怖の水晶体
 ゴースト・イン・ザ・マシーン
 パンドラの箱はびっくり箱

 死都ネクロポリス 電光石火
 アラベスク ミノタウロス ラビュリントス
 暁の薔薇園は真紅の血に染まり

 上昇と下降を示す カドゥケウスの二匹の蛇
 知恵の実 口にし
 何度繰り返すかヱデン追放

 物質 エーテル アストラル
 卑金属 貴金属 賢者の石
 ヴリル マカバ マジックフォーミュラ
 
 全てをひっくり返す この瞬間
 どんなにこの「時」を私は待ったか
 そう 私はこの瞬間を待っていた
 だから諦めない

 ソプラノ・マントラ ラ・アンセム 永久(とわ)の愛
 ヱオスフォル石 ヱクスカリバー そしてヱイリア・ドネの糸
 
 私は絶対、諦めない

「あきらめちゃダメェ!」
 真帆は叫んでいた。
「こんなバカな。こんな状況……私、認めない! 正しい者が負けるなんて……そんなバカな事、私は絶対認めない、絶対に! 絶対に」
 白くまばゆい輝星が空から猛スピードで落ちてくる。それは八木真帆の空っぽの胸の中に飛び込んで来て、ずっとハートを暖める。
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