8-1

文字数 2,797文字

 加藤さんとの外出を楽しんだ翌日。いつものように仕事をこなし、誰もいないスタッフルームで身支度を整えていると、お偉いさんとの会議から戻ってきた店長と鉢合わせする。
そして店長は俺を視認するなり、

「ああ、田辺くん、ちょっといいかな」

 と近くの椅子に座るよう促しながら言った。それに自分は、あのことだろうと見当をつけながら、すぐそばの椅子に腰を下ろす。そうして、店長の口から深夜帯への異動についての話が行われるのだった。
 自分の腹の中ではもう答えは決まっていたが、一応最後まで耳を傾けることにする。
 簡潔に言えば、深夜帯の人手が足りないから、今後はそこに入ってほしいというもの。だが、それはあくまでもお願いであって強制ではないということ、そして深夜勤務という環境に慣れるためにしばらくは段階的にシフトを変更していくことが説明にあった。
 それ以外の話を聞く中で多少マイナス面もあったが、自分が想像していたよりも随分と良心的な依頼に感じられた。
 一通りの説明が終わって、店長は俺に可否を問う。自分はやや考える素振りをしてから、当初の思いの通り、了承の旨を伝える。すると店長は、

「助かるよ」

 と、それまでどことなく漂わせていたシリアスな雰囲気を解きながら、やや柔らかめの口調となって言った。
 こうして、自分、田辺泰晃の深夜帯への異動が正式に決まったのだった。
 その後、具体的な意見のすり合わせが行われる。できるだけ早く慣れておきたいという自分の希望から、早速翌週の後半から深夜帯を含めたシフトが組まれること。しかし、もうしばらくの間は、週末の昼ピークにも対応せざるを得ないこと。等々、たった数分の間で様々なことが確認、決定していく。それらが終わったところで、店長から感謝と励ましの言葉をかけられ、今日は解散となった。
 深夜シフトが習慣になるということに何とも言えないワクワク感と未知数であるが故の若干の憂いを抱きながら、ついにその日を迎える。

 夕刻過ぎからシフトに入り、夜ピークを終えて次第に手の空く時間が生まれてくる。やがて休憩時間がやってきて、丁度あの日以来の加藤さんと入れ違いになる。そこでは、一言二言ほどの挨拶程度だったが、休憩明け後は引継ぎということも兼ねて深夜帯の仕事内容などの説明を数多く受けた。もちろん他愛もない会話も交わしていたが。
 そうこうしている内に、あっという間に今日の勤務は終了の時間となる。加藤さんと、そして同じ時間帯を共にした人に挨拶をしてスタッフルームへと向かう。
 ちなみにその人は自分よりも一つ年下の男性で、小野寺さんと同時期に入ってきた若手の後輩だった。そして驚くことに、あの日あの場で小野寺さんと共にオリエンテーションを受けていた内の一人でもあったのだ。さすがに彼は俺のことを覚えていなかったが、個人的には久しぶりの再会という謎の感慨深い思いを抱いていた。

 翌日。前日に引き続き同じ時間帯のシフトで、今回は加藤さんと四十代の女性従業員、それから自分の三人での仕事となった。
 そうやって深夜シフトに入っては、時に同じ人と時に初対面の人と慣れない業務を経験していく。そんな日々の中でも、週末の昼ピークで自分の務めを果たしたり、たまの休日には丸一日眠って過ごしたりする生活が続いたのだった。
 それが大変かと問われれば、当然大変である。だが不思議なことに、そこまで苦にはなっていなかった。むしろ今の方が自分に向いているのではないかとさえ思え始めていた。人間関係、仕事内容、そして夜型の生活。どれをとってもまずまずやれているし、今後も十分やっていけそうなのである。
 始まってからも若干の不安を拭い切れずにいただけに、この手ごたえはとても大きな自信となった。気のせい、あるいはまだ日が浅いからと言われれば、ぐうの音も出ないが。

 それからしばらくして、とうとう加藤さんの最終勤務日を迎える。
 奇しくもその日の自分には、トレーナー仕事が始めるまでは日常的だった中抜けシフトが組まれていた。そのため加藤さんと仕事を共にする機会はもう二度となく、最後の言葉を交わすのは入れ替わりですれ違う時になりそうだった。
 多少、残念だと思う気持ちはある。だが互いに慣れ親しんだ形でもあるため、これが最後にふさわしいのだと、自分は頬を緩ませていた。
 やがて、その時が訪れる。
 自分はあがりを告げられ、加藤さんは普段通りの様子で仕事場に顔を見せる。そしてすれ違い際に目が合って、いつものように他愛もない話を数十秒ほど繰り広げる。そこでは別れの言葉が一切出てこなかった。その代わりに、

「それじゃ、また」
「はい、また」

 と互いに言って、固い握手を交わしたのだった。多くを語らなくともこれだけで十分だと、そして辛気臭くなるのはご免であると、互いにそういった意思表示を示した結果がこの握手につながったのだと思う。
 そうしてそれが加藤さんとの最後の挨拶となった。その後、自分は何事もなかったかのようないつもの調子で自宅へと帰っていく。
 もちろん寂しさや悲しみといった感情はあった。だが後悔も後腐れも言い残したこともなかったからか、その時は気分が落ち込むことはなかった。
 しかし、その翌日。昨日と同じシフトの勤務を終え、疲労感たっぷりの身体を自宅ベッドの上でゆっくりと休めていたときのこと。何の気なしにSNSをチェックしていると、普段滅多に更新されない加藤さんのタイムラインに珍しく投稿があった。そこには、加藤さんを中心に店長や深夜帯の人たちが写った送別会の集合写真に添えて、退職の報告と感謝の思いなどが記されていた。
 それを見た俺は、思わず鼻の奥に痛みを感じる。加藤さんがこの店からいなくなるという実感がここで初めて湧いてきたのだった。
 もう二度と会えなくなったわけではないし、多少の無理をすれば会いにいくことは可能である。だが、いろいろとあって、この街にやってきて、あの店で働いて、そうしてそこで初めてできた友人が、ある意味心の支えの一つにもなっていた人が、遠い所へと行ってしまったという現実は、少しばかり胸が痛むものだった。
 誘われていた送別会、行かなくて正解だったな。その場でこんな感情を抱いていたら、加藤さんにいらぬ世話を焼かせてしまっていたかもしれない。
 写真の中でただただ照れくさそうにしている加藤さんを見ながら、そんなことを思う。
 だが、いつまでもこうしているわけにはいかない。明日になれば、また夜ピークと深夜のシフトに入らなければならないのだ。
 この感情は今日だけのものに。
 そう無理矢理自分に言い聞かせて、その日は深い眠りに落ちる。そして次に目を覚ましたときには、いつも通りの日常を送っていくのだった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み