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文字数 9,096文字

 静かに、そしてゆっくりと目が開いていく。徐々に視界が広がり、しかし眩しさから一度ギュっと目を閉じて、そこからまた同じように開眼していく。まるでとても長い眠りから覚めたときのようである。
 まもなく、ぼやけていた世界が次第にはっきりくっきり線となり、形となり、有色となり、目の前の光景が明瞭なものとなる。視線の先にあったのは、ところどころくすんだ木目調のいつもの自宅の天井だった。それに俺は『日常』というものを感じ、少しホッとする。
 その後しばらく、寝ころんだままぼんやりと天井を眺めていると、ある疑問が脳内に浮かぶ。

 俺はなにをしているのだろうか、と。

 実にその答えは簡単である。
 俺は今、仰向けに寝ころんだままぼんやりと天井を眺めている、だ。
 しかしそういうことではなくて、なんでこうしているのかという理由というか。
 俺は今、体調を崩しておおよそ一週間の休みをもらっての療養中。
 いや、それも違う。いや、間違ってないけども、もっとこう、深いものというか先のものというか具体的なものというか……。

 そもそも俺は……。

 そう思った瞬間、一が二に、二が四に、まるでトーナメント表を逆から辿るように次々と記憶の扉が開いていく。俺は目を大きく見開き、そしてがばっと起き上がって体を小刻みに震わせながら両手で髪を強くつかむ。

 ああ……俺は……。

 陰陽、大小さまざまな記憶が脳内を回り、その最後に眠りの中で見た彼とのやりとりを思い出す。

「そうだ、あいつは……?」

 あいつは、あの後どうなったのだろうか。
 ひと悶着あって、電撃をくらわされて、あいつを殴って、確かそのあとは……あいつの姿や言葉を見て聞いて本心を知って、でも自分は信じられなくて、やがて急に地響きと大きな揺れがやってきて、その中でなんとかあいつを見つけて、あいつは落涙させながらもなぜか柔らかく笑んでいて、そしたらあいつは……ごめんなってただ謝っていて、そこから俺は衝動的に彼を呼んだけど、それは叶わなくて、結果、彼は消えて俺は現世に戻ってきた。いったい彼はどうなってしまったんだ?
 言いようのない不安と疑問を抱く。その一方で、もっと早く彼の意図に気づき、なおかつあの二人に嫌な態度をとるべきではなかったと思う後悔の波も押し寄せてくる。さらには、自分が今なにをすべきなのかという考えも遠くながらしっかりとそこに存在していた。
 そんな様々なものが脳を揺らし、俺は吐き気を催す。そのため、ゆっくりと立ち上がり冷蔵庫に入っている二リットルのお茶を四分の一ほど一気飲みする。幾らか気分はマシになったが、その引き換えにお腹の中がちゃぽんちゃぽんになった俺は、またベッドに戻り、うずくまる。そうして気を紛らわすためにスマホを手に取り、動画アプリでクスッと笑えるものからゲラゲラと笑えるものまでを片っ端から視聴していく。

 彼のこと、あの二人のこと、そして自分自身のこと。いろいろと思うところはあれど、今は……。

 笑い、笑い、笑い、あれやこれやを無理矢理かき消していく。
 もしいま俺があの空間にいたら、「また逃げるのか」と激高した彼に電撃を浴びせられることだろう。しかしここは現実世界。それに今はまだ『その時』じゃない。
 そうしてまた、笑い、笑い、笑い、それらも次々にかき消していく。
 やがて数時間が経った。スマホの電池残量は厳しく、さらにはすっかり昼時を迎えていた。そのためスマホを充電器に差し、パソコンを立ち上げて、簡単に昼ご飯の準備をする。
 昼食を摂りながら、また笑い、笑い、笑いを繰り返し、それからさらに数時間を過ごす。その時間帯ともなれば空が夕焼けの様相を見せ、日暮れが近いことを感じさせていた。
 一日を無駄に過ごした、という思いは全くない。むしろこれでよかったとさえ心底から思っている。例のことがすっかりとかき消されているのだから。

 でも……うん……まだ……。

 そんな思いから夕食後も笑い、笑い、笑い、そしてそのほか癒しや感動といった感情もそこに織り交ぜていく。
 やがて時刻は午後九時を過ぎ、休日明けのシフトに入る時間までついに四八時間を切る。その事実を認識した瞬間、鼓動が早くなり、吐き気と不快感が同時にやってくる。俺は、それらになんとか堪えながら、やおら立ち上がりキッチンへと向かう。それから数分後、いくつかの飲食物を手に持ち、パソコンの前に戻る。そこで俺はひとこと呟く。

「今日ぐらい……いいよな……?」

 そうして俺は、酒をあおり始めるのだった。
 駄目人間であることぐらい自分がよくわかっていた。それに、やらなければならないことがあることも。しかし今は、いや、だからこそというべきか、気を紛らわすため、そして為すべきことを為すための一つのきっかけとして、こうせざるを得なかったのだ。こうでもしないと、もう本当にどうにもならないだろうから。もちろん、罪悪感はあるが。

 酒を飲み始めてから十分が経ち、三十分が経ち、一時間が経つ。なおも俺は踏み出すことができずにいた。まだその時間じゃない、まだその時間じゃないとずっと言い訳をしていたのだ。まったく、ビビりで弱虫で意気地なしでどうしようもないバカである。
 そうやって嘲笑してはかき消し、嘲笑してはかき消しを繰り返し、さらに一時間が経過する。相も変わらずその場で立ち往生していると、そこでふと例のDⅤDが目に入る。一メートル五十センチほどあるデスク隣の棚の上、目をやればギリギリ見えるか見えないかのところにそのDⅤDは押しやられている。いや、厳密に言うと、パソコンを使い始めたときに自分自身がわざとそこへ追いやったわけで、もっと言うとそれを何度も視界の端に捉えていたわけで、だけどもその度無視を決め込んでいたわけで、一つの逃げとある種の義務感からこんな矛盾した行動をとっていたのだ。
 またもDⅤDを無視して、やがて飲酒を始めてから二時間半が過ぎる。まだ泥酔には至っていなかったが、やや眠気も出てきて、それなりに酔ってきていることは確かだった。そんな中でも俺はほとんど変わらず、笑顔になれる動画を観続けては、負の感情をかき消そうとしていた。しかし変わったことが一つ。この動画が終わったら観よう、何分になったら観よう、と先延ばし先延ばしにしながらもほんの少しだけ自分に発破をかけ始めるようになったのだ。とても小さい一歩ではあるが。

 それからどのくらいの時が経ったころだろうか。ふと俺は目を瞑る。その行為になにか意味はあるのかと問われると、恐らくはないとしか言えない。ただそうしたくなったからその通りにしただけである。とはいえ心配なのはこのまま眠ってしまうことだが、ほんの少しだけ、ほんの少しだけ目を休めるだけだからきっと大丈夫だろうと思う。
 はぁ。にしても、俺は本当に愚図で駄目なやつだな。散々逃げ続けて、そして今もなお先延ばしにして逃げ続けている……ああそうさ分かっている。やらなければならないことぐらい。でも俺は……。
 そう逡巡していた時だった。

『どうして、避けるんですか?』

 突如としてあの時の言葉が、表情が、雰囲気が、雨音がすべてよみがえる。そのため俺はとっさに身構える。そして同時に言葉を漏らす。

 避けてるとかそういうんじゃ……。
『アルコルとミザール』

 その言葉に俺はビクつく。

 ああ、まさかそのことを知っている人がいるとはな……。

 胸がぎゅっと締め付けられる。そこへ追い打ちをかけるかのように彼女の言葉が次々と再生されていく。

『田辺さんは、私にとって今でもずっと憧れの存在で……夢のようで……贅沢でかけがえのないもので……そんな悲しいこと言わないでください』
 悲しいことなんかじゃないんだよ。君が買いかぶりすぎているだけなんだよ。
『お芝居の才能だって……』
 そんな勝手なこと言わないでくれよ。
『田辺さんは舞台上にいる時が一番輝いているんです! 一番かっこいいんです! 一番……だから……だから……!』
 なにも知らなくせに……!

 そう熱くなった瞬間、

『希ちゃんのこと、よろしくお願いします!』

 突如場面は変わって、あのカラオケ店で宮前さんと初めて会った時の光景が目の前に広がった。そしてすぐさま団地の一角で宮前さんと話している昨晩の光景がよみがえる。

『私は田辺さんのことを信じます、信じてます。田辺さんなら希ちゃんを救うことができるって。田辺さんにすべてを託します』
 なぜそうも簡単に信じられる。理解できない。

 その直後、また場面は大きく変わって、気が付くと目の前が真っ白になっていった。

 ここは……ああ、そうか。
『現実と向き合え。すべてを受け入れろ』
 一言目にはずっとその言葉だった。
『お前はいつだってそうだ。聞こえないふり、気づかないふりをしている』
 全くもってその通りだ。なにも反論できない。
『為すべきことを為せ』
 それでも俺は……。
『二人からそれぞれの思いを聞いたはずだ。お前はそれを無下にするというのか?』
 それは……。
『ごめんな……』
 なんで謝るんだよ、お前が……。

 そこでまた場面は大きく変化し、最初のあの時の光景に戻ってくる。目の前には彼女の姿があって、強めの雨音が聞こえていて、そして。

『このままでいいと本気で思っているんですか!?』

 彼女の言葉が脳を揺らす。

 そんなの……良くないに決まってるじゃないか……。
『またやり直しましょうよ』
 でも……今更もう遅いんだよ……。
『お願いです田辺さん! もう一度……もう一度……!』

 あの時と同じように、彼女は俺の左腕をつかんで引き留めようとする。俺はそれを思いっきり振り払う。やはり彼女はおびえたような表情をしていた。そして目に涙を浮かべていた。

 ああ……なんてことを……ちゃんと謝らないと……。

 しかしそんな思いとは裏腹に、俺は言ってしまう。

 ほっといてくれ!

「あぁ……!」

 その瞬間、俺の目が勢いよく開く。真っ先に目に入ったものは暗闇の中でたった一つ光を発しているパソコンのディスプレイだった。そして耳に挿さっているイヤホンからは、大好きな歌手のプロモーションビデオの音声が聴こえている。まもなく俺はハッとする。眠ってしまっていたのだと。咄嗟に時刻を確認する。どうやら眠っていたのはおよそ数分ほどのようである。熟睡してしまわなくてよかった、と言うべきか。
 いやそんなことよりも、と先ほど見たとてもリアルな夢のようなものを思い出す。そうして俺は思う。

 うん……そうだよ、な……ちゃんと、やらなきゃ、な……。

 俺はすっと立ち上がり、コップに入った残り少ないお酒を一気に呷って、また新たなお酒を用意する。そして、よしっと一つ顔を叩くと、棚の上に置いていたDVDを手に取り、パソコンの中へと挿入する。
 恐怖と緊張が全身を襲う。震えや吐き気、胸の痛みなんかもやってくる。

 嫌だ……嫌だ……やめようよ、こんなこと……。こんなことしたってただ辛いだけで、なにも得なんてしないよ……。

 俺は再生ボタンをクリックすることにためらう。

 確かに、この行為はただ苦しみに襲われるだけでなにも報われることはないのかもしれない。馬鹿な行為であるのかもしれない。自己満足にもならないのかもしれない。それでも……これまで彼女や宮前さん、そしてもう一人の自分に散々酷いことをしてきたのだ。俺はその報いを受けなければならない。それに……もうこんな生き方は嫌なんだ! 現実から逃げて、心が死んでいくだけの日々を送るのはもう嫌なんだ! だから俺は……!

 そんな衝動から、俺は、ついに再生ボタンをクリックするのだった。

 まもなくして動画が始まる。数秒ほど真っ暗な画面が続き、やがて映像が映し出される。薄暗闇の中で数多くの学生たちが体育館の床に楽なかたちで座っている。そして各々が隣にいる友人やらクラスメイトやらと小声で会話をしているようで、とても喧騒とした音声が聞えてきていた。大方、直前までやっていた、あるいはこれから行われる出し物についてそれぞれが話をしているのだろう。そんな中で、おそらくは放送部員によるものなのであろうアナウンスが聴こえてくる。

『続きまして、一年二組によります、舞台『ジャンヌ・ダルク』です』

 演目が紹介されて拍手が鳴り始める。それに比例して、俺の心はぎゅっと締め付けられ、心拍数は上がり、また『嫌だ』という感情に押しつぶされそうになる。それになんとか堪えながら拍手が鳴りやんだ映像をじっと見る。

 あの悲劇をどのような作品にしたというのだろうか……ああ……くる……。

 静まり返った薄暗闇の中で影ナレが響き渡る。

『それは、中世フランスのお話』

 直後に舞台上の照明が点灯する。しかし突然光が発生したせいか、一度映像は真っ白になる。そこから瞬く間に色は増えていき、白一色の世界からぼんやりと色づいた世界へと変化を遂げる。そうして、それは聴こえてくる。

『あ、あなた方は……』

 その言葉と同時に映像はクリアになり、舞台上の様子が明らかになる。

「あ……」

 そこで真っ先に目に入ってきたのは、長袖の白い肌着の上に青色のワンピースを着て、頭にはスカーフを巻き、中世ヨーロッパの庶民のような出で立ちをしている彼女❘❘小野寺さんの姿だった。先ほどの声の主も当然彼女のものである。
 それを見た瞬間、俺は、

「あ……ああっ……ううっ……」

 唐突に大粒の涙があふれてきた。映像がぼやけるほどに、そして嗚咽で音声がかき消されるほどに、大量の涙が流れ、悲しみの感情が湧き出てくるのだった。何度も何度も服の袖で涙をぬぐい、ティッシュで目を抑えてみるも涙は一切止むことはなく、すぐに新しいティッシュの出番がやってくる。そんな中で、これでは映像を観られないと手を震わせながらなんとか動画を一時停止する。そうしてまた涙と嗚咽と悲しみの感情があふれ出る。

 どうしてこんなことになっているのだろう。彼女の声を聴いて、姿を観ただけだというのに。もうわけが分からない。いや、本当はわかっている。それを認めたくなくて、ずっとこれまで……ああ……どうしようもないほどに惨めで、とんでもないほどに大馬鹿だ。

 いくらか治まりかけていた涙が、また大粒のものとなって大量に流れていく。
 それからしばらくして、ようやく一連の症状がある程度落ち着いてくる。泣きすぎたせいか頭が痛く、目の周りが異様にヒリヒリする。さらには感情の乱れもまだ残っており、もう観るのは嫌だという否定的な思いにまたも駆られる。だが。

「いま観ないでいつ観るっていうんだ……!」

 そんな言葉を口にして、二度三度深呼吸を繰り返したのち、枕を胸の前で抱きながら、意を決して最初から映像を見始める。
 薄暗闇の中での生徒たちのざわめき、放送部員によるアナウンス、静まり返ってからの影ナレ、直後に舞台上に照明が灯る。そうしてその時がやってくる。

『あ、あなた方は……』

 小野寺さんの姿が鮮明に映し出される。それによってまた涙があふれだし、嗚咽と悲しみの感情が襲う。しかし俺は停止ボタンを押すことなく、涙をぬぐい堪えながら映像に集中する。そこでようやく、彼女のほかにも三人の登場人物がいることに気が付く。その三人は白一色の衣装に身を包み、まるで聖人であるかのような振る舞いで小野寺さんに話しかけている。ジャンヌ・ダルクにそこまで詳しいわけではないが、この場面はおそらく逸話の一つでもある『神の声』を聴いているところなのであろう。
 ということは主人公ジャンヌ・ダルクを演じているのは……なんとなくそんな気はしていたが、その事実を改めて突き付けられるとまたくるものがある。

 まもなく一つ目のセクションが終わり暗転する。次の場面では、『神の声』を聴いてから五年が経過したと影ナレが入る。そこでは小野寺さん演じるジャンヌ・ダルクは中世西洋の甲冑と思しきものに身を包んでおり、生い立ちや端折られたのであろう出来事などが影ナレや独白、登場人物とのやり取りなどで簡単な補完と説明がなされていた。恐らくは尺の都合でそういう形をとったのであろう。
 その後、物語は目まぐるしく進んでいく。不利な形勢を逆転させるほどの軍事指揮をとったり、救援に赴いた戦いで敵軍に捕縛されたり、解放後に捏造や妄言ばかりの異端審問にかけられたり。そうして物語は最終盤に突入する。

 暗転していた舞台に光が灯る。そこには高さ二~三十センチほどある台座の上で、後ろの柱にくくりつけられた白衣装のジャンヌの姿があった。その周りを二十近くの人々がざわめきながら囲んでいる。やがて責任者らしき人が、静粛にと言って人々を静める。そして手にもつ書面を広げて罪状を読み上げると、人々はジャンヌに対して罵声を浴びせ始め、また騒々しくなる。そんな中でジャンヌはすでに諦観しているのか、悲哀と覚悟の表情のまま眉一つ動かすことなく、どこか遠くを見つめている。

『……よって、ジャンヌ・ダルクは火刑に処す!』

 人々の声に負けじと、責任者らしき人は大きく声を張りながらそう宣告する。するとまた一段と人々の罵声と歓声が大きくなる。それでもジャンヌの表情と様子は恐ろしいほどになにも変わることはない。
 この死の間際、ジャンヌは一体なにを思っているのだろうか。
 そう思った直後、舞台上の照明は消え、ジャンヌにピンスポットが当たり独白が始まる。

『お父さま、お母さま、お兄さま方。先に死を迎えること、どうかお許しください。このようなことになってしまったのはとても残念ではありますが、これも神の思し召し。神が私にこの世界からの退場を望むのであれば、私はそれに従うまで。この上ないほどの本望です。ただ心残りなのは、一部の聖職者や権力者たちが私利私欲のために様々な力を振りかざし不正を働いているということ……どうか神よ。そのような悪から家族を、民をお守りください。それが、私の最後の願いです』

 ピンスポットが消え、舞台上の照明が点灯する。すると人々の動きとざわめきが戻ってくる。そうして、

『火を放て!』

 責任者が大きく叫ぶ。それに従い、執行人らしき人が動く。人々のボルテージはさらに一層と高まる。そうして次の瞬間、舞台上の照明が落ち、真っ暗になる。そこへ間髪開けず、真っ赤な光がジャンヌに照らされる。しかしそれは一瞬のこと。また真っ暗になり、しんとした静けさが続く。その中で影ナレが入る。

『こうして、ジャンヌは無念の死を遂げました。それから二十五年後、ジャンヌの母らの尽力もあり、事実が明らかとなってジャンヌは晴れて復権を遂げました。しかしジャンヌの父は、それを見届けることは叶いませんでした。さらにそれから時が経ち、1920年5月16日、ジャンヌ・ダルクはカトリック教会の聖人に列聖されたのでした』

 しばし静寂が訪れる。
 この時、観客はどんな思いを抱いていたのだろうか。いや、考える間もないほどに想像は容易いか。それに対して俺は、観客と同じような思いと、それから……。
 そう思った瞬間、割れんばかりの拍手と喝采と歓声が巻き起こる。よく見ると、立ち上がっている人も多くいるようで、体育館内はまさしくスタンディングオベーションの様相を呈していた。

「ははっ」

 ほんとすげぇよ、ほんとに。
 まもなく映像、音声ともにフェードアウトしていく。そうして最初の真っ黒な映像が画面に映し出される。俺はそれを涙のない目でぼうと眺めたのち、椅子の上で力なく俯き、肩を落とす。

 ああ、なんてものを見せられたんだ。
 ああ、俺はなにをやっているのだろうか。

 大きく分けてその二つの感情が交錯する。打ちのめされ、打ちひしがれた、あるいは打ちひしがれ、打ちのめされた。もしかしたら両方なのかもしれない。
 劇自体は、悪いものではなかった。いや、はっきりと言うべきか、先の観客の通り、非常によかった。それはもう、文化祭のクラスの出し物でやるにはもったいなさすぎると思えるほどに。だが今の自分には、そんな話は二の次でしかなかった。

『彼らは全力だった』

 なぜかそのことがズシリと重くのしかかり、そして同時に脳内からこびりついて離れずにいるのである。さらにはいつもの痛みや苦しみに加え、なんとも形容しがたいもやもやとした感情が巻き起こっており、一切合切、思考や神経の伝達を停止したくなる。

 そんな願いを抱いていると、皮肉なことに新たな考えが浮かんできてしまう。それは、クラスを一つにまとめ、全員の全力を引き出し、劇をあそこまでの仕上がりにしたのは、おそらく……いや、十中八九、小野寺さんの力で間違いないだろうというものだった。
 とはいえ彼女が場を仕切ったり、無理強いをしたりした可能性はほぼないだろう。多少の声掛けや言上げはあったかもしれないが、これまで彼女と接してきて、そういったことが不得手あるいは出来ない性質のように感じられた。それになにより、劇の様子から基本的に大方のクラスメイトは誰に言われ従うでもなく、自発的に向上心を持って事に当たっているように見えた。そのため彼女は直接的なことはなにもしていないと考える。
 それでは彼女はいったいなにをしたのか。率直に言うと、『空気』を作り出したのだ。一人一人が自発的に事に当たれるように、そしてクラス一丸となって少しでもいいモノを作ろうと向上心が持てるように、そういう特殊な空気を彼女は無意識のうちに作り出したのだ。つまりは、

 クラスメイトは皆、小野寺希に『乗せられている』、

 というわけだ。しかも文化祭よりもずっと前、下手をすると入学式のころから始まっていた可能性すらある。
 当然のことながら、彼女には悪意が一切ない。ただ唯一、それが人なのか、物なのか、事なのかは分からないが、その対象を一切疑うことなく、愚直なまでに信じるという純粋な気持ちがあることは確かだ。
 そう、俺の時のように。
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