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文字数 3,810文字

 やがて米粒一つ残すことなくおかゆを平らげる。

「ごちそうさまでした。とても美味しかったです」

 俺がそう言うと、一瀬さんはにこりと笑みを浮かべて答える。

「おそまつさまでした」

 そうしてお皿を持ち上げて、さらに言葉を続ける。

「それじゃあ食器洗いもやっておくわね」

 一瀬さんならそう言うと思った。当然申し訳ないと思う気持ちにも苛まれるが、今日は素直に受け取ると決めた以上、こう返すしかない。

「すいません。ありがとうございます」

 いえいえ、と一瀬さんは答えて、さっそく食器や鍋を洗い始めていく。
 優しい人だな、と俺は改めて思う。そして同時にちょっとした違和感を覚える。
 一瀬さんは誰に対しても優しい。それは紛れもない事実である。しかし、これは……単なる妄想、気のせい、ともすれば自意識過剰であるが故の考えかもしれないが、いささか俺に優しすぎやしないだろうか。
 ただの恥ずかしい思い過ごしではあるだろうが、それもいずれ考えてみるか?
 そんなことを思っていた矢先だった。洗い物を済ませた一瀬さんはこたつまでやってきて突拍子もないことを言い出す。

「ねえ田辺くん。田辺くんさえよければなんだけれど、明日から一週間ほど、有給使って長期休暇を取ってみない?」

 え?
 まさに鳩に豆鉄砲。そして頭は真っ白に。
 それから数秒後、ようやく言われたことを少し理解し、オウム返しのように聞き返す。

「有給使って、長期休暇……ですか?」

 一瀬さんは優しく笑みながらも至極まじめな様子で述べる。

「ええ。田辺くん、これまで有給とか長期休暇とか取ったことないでしょう? だからこれを機に、ゆっくり羽を伸ばしてみるのもいいんじゃないかな、と思ってね」

 なるほど。一瀬さんにはそういう意図があったのか。確かにそれはとても都合がよく願ってもない提案だ。しかし体調不良分ならまだしも、それ以上の休みをもらっていいものなのだろうか。しかも有休を使ってとなると、いくらなんでもそれは……。

「でも、店に、ほかのスタッフに多大な迷惑をかけることになるので、遠慮しておきます」

 俺がそう伝えると、一瀬さんは少しだけ間をおいたのち、一層優しげな口調で言う。

「そのあたりのことは全然大丈夫よ。店長にはもう話は通してあるし、ほかのスタッフも了承済み。むしろみんな、田辺くんはいつも頑張ってくれているから今はその分ゆっくり休んで、って言っているぐらいよ。だから何も気にする必要はない……その上で、もう一度聞くわね。有給使って、ゆっくり休んでみない?」

 完全に外堀を埋められた。もちろん拒否権はあるだろうし、決して一瀬さんも威圧的な態度ではない。だがここまでやられると、答えは一つしかない。

「分かりました。お気遣いありがとうございます。ご厚意に甘えてゆっくり休ませていただきます」

 その答えに一瀬さんは、

「了解。それじゃあ田辺くん、今週は体力も気力も全快にして、来週からまた頑張ってちょうだい」

 と、相も変わらずの頼れるお姉さんのような雰囲気でエールをくれたのだった。
 そんな様子の一瀬さんを見て、感謝や申し訳なさよりも先に、俺はどうしても考えてしまう。なぜ一瀬さんはそこまでしてくれるのだろうか、と。
 いっそ一瀬さんに尋ねてみるか? いやいや、そんな恥ずかしいことできるわけがない。やはり今は、その気持ちを抑えつけておかないと。
 それから一言二言の会話があって、その後一瀬さんは立ち上がりながら言う。

「よし、そろそろ私、お暇するわね。長居してごめんね」

 若干上の空になっていた俺は慌てて言葉を返す。

「あ、ああ、いえ、今日は色々とありがとうございました。一瀬さんのおかげで、ほんと、助かりました」
「それならよかったわ。あ、あと来週からのスケジュールなんだけれど、決まり次第こっちから連絡するわね。多分、今週のシフトとさほど変わりないと思うけれど」
「わかりました。ありがとうございます」

 反射的にそう答える自分。一方の一瀬さんはさっと身支度を整えていく。
 それからの十数秒間、一時的に互いの言葉数が少なくなったこともあって俺の頭の中では先ほどの一瀬さんへの疑問がずっと駆け巡っていた。いつそれが飛び出してもおかしくなかったが、恥をかきたくないがゆえに、俺はもう少し、もう少しだけとなんとか自分を戒め耐え忍んでいた。
 やがて身支度を終えベージュのコートに身を包んだ一瀬さんは、いくつかの荷物を持って玄関のほうへと向かう。そして俺は見送りのため、その後に続く。まもなく、しなやかに黒のパンプスを履き終えた一瀬さんは言う。

「ゆっくり休んで、来週からまた元気な姿を見せてください。お大事に」

 相も変わらずの気遣いの言葉に俺はまた心を乱される。それでもなんとか平静になりながら応じる。

「はい。体力も気力もしっかり回復させて、ご迷惑をおかけした分はきっちりと取り返したいと思います。それからくどいようですが、今日は本当にありがとうございました」
「どういたしまして。それじゃあ、また来週」
「また来週」

 互いに別れの挨拶を交わしたのち、一瀬さんは柔らかな笑みを浮かべたまま後ろへと振り返り、ドアノブに手をかけると、「お邪魔しました」と一度こちらを一瞥した。それに俺は、軽い会釈と笑みで返す。
 ああ、これでようやく……。
 そう思った次の瞬間のことだった。

『聞かなくていいのか?』

 突如として誰かの声が脳内に響く。そうして。

「あ、あの……!」

 俺はその声に掻き立てられ、なにも顧みずに勢いだけで一瀬さんを呼び止めてしまった。
 嗚呼とどれだけ悔やんでも、もう後の祭り。『聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥』とは言うが、今この場に限っては『聞くは末代までの恥、聞かぬに越したことはない』である。
一方の一瀬さんは開きかけていた扉をそっと閉め、微笑みながらもどこか不思議そうな表情で俺の言葉を待っていた。これから阿保らしく、くだらないことを聞かされるとはつゆほども思っていないだろう。
 例の謎の声によってたがが外れてしまった俺は、ややしどろもどろになりながら一瀬さんに問う。

「その……どうして……いや、これは僕の自意識過剰で生まれた、ただの勘違いだとは思うんですけど、どうしてそこまで……僕のことを、気にかけて、くれるんですか?」

 しばし静寂が訪れる。俺は羞恥心から一瀬さんの顔を直視できなかったが、どこかきょとんとしているような困惑しているような様子だけは窺えた。
 そりゃあそうなる。突然、真剣な雰囲気で訳のわからない質問をされたのだから。きっといま一瀬さんは内心で腹を抱えて大笑いしているに違いない。そうして『田辺泰晃は様子のおかしい後輩』という烙印を押していることだろう。ああ絶対にそうだ。
 そんな被害妄想を脳内で繰り広げていたところ、一瀬さんのほうから大きく息を吸いこむような音が聞こえる。それからおよそ二秒後、予想だにしない口調と答えが返ってくる。

「そうね……田辺くんを見ているとね、なんだか、昔の自分を思い出すのよ。当時の私と被るというか。だから、とてもお節介かもしれないけれど、なにか少しでも手助けというか、力になれたらなと思って」

 俺は驚いて、うつむき気味だった顔をさっと上げる。その視線の先には一瀬さんの顔があった。どこか遠い目をしながらもとても柔らかい笑みを浮かべて、だけども誠実な雰囲気の感じられる表情をしていた。声音といい、この表情といい、一瀬さんは嘘や気遣いなんかではなく本心からそう思って回答してくれたようだった。
 だからこそ、俺はひどく混乱した。思考回路がぐちゃぐちゃに混線してしまった。何から考えればいいのかわからなくなってしまった。
 しかし不思議なもので、変な間を作って一瀬さんになにかを感づかれてはいけないと、まもなく俺は反射的に言葉を返していた。

「そう、ですか。ありがとうございます。わざわざ呼び止めてしまってすいませんでした」

 それに一瀬さんは前向きに言葉をかけてくれる。

「いいのよ、気にしないで。それじゃあ今度こそ、また来週」
「はい。また、来週」

 最後まで取り繕いきれた自信はない。おそらくはもうほぼすべてが筒抜けになっている状態なのかもしれない。しかし一瀬さんは、特に何の素振りも見せることなく俺の部屋を後にしたのだった。そのような気遣いも、やはり先ほど言っていたことが起因となっているのだろうか。
 それからしばらく、ただただ俺はその場に立ち尽くしていた。何かを考えているわけではなく何も考えられずにいた。やがて、

「あ、薬……」

 とふと思い出し、白湯を用意して薬を飲む。そしてそのまま無意識のうちにベッドへと転がり、明かりを消す。すると、それがトリガーとなって一気に身体の緊張がほどけると、眠気やしんどさ、頭痛などたくさんの症状が思い出したかのように次々と押し寄せてくる。ここまでくると思考力はほぼゼロと化す。

 本当に大変な一日だった。

 最後にそんなアバウトなことを思いつつ、一瀬さんの残り香をほのかに感じながら静かな眠りへと誘われていった。
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