10-1
文字数 9,861文字
「あああああああああああああああっっっっっ!!!」
寝起きとは思えないほどの叫び声が部屋中に響き渡る。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
心臓が破裂しそうなくらいに鼓動は大きく脈打ち、不快感と共にとても荒い息遣いを生んでいた。また、心の中では恐怖という感情が占拠しており、怯えから体が小刻みに震えていたのだった。
とてつもなく嫌な夢を見ていたような気がする。詳しくは思い出せないが、なにかに追われ、そして追い付かれ襲われる、そんな夢だったろうか。ただただ恐ろしいという思いしかない。
しばらくして、目覚めた直後から出ていた症状が、ある程度の治まりを見せる。そこで俺は思う。
確かそういった夢を見るときは、現実世界でもなにかに追われている、あるいは精神的に追い詰められているからだと聞いたことがある。そこまで占いを信じているわけではないが、今回のことに関しては全くもってその通りだ。
というのも、今日この日は数か月ぶりの昼勤務復帰であり、そしてとても久しぶりに小野寺さんと顔を合わせる日でもあったからだった。
一度、深いため息をつく。そこで、インナーと下着が湿り気を帯びていることにふと気がつく。
電気毛布を入れているとはいえこの時期にそれなりの汗。そういったところを見ると、相当な悪夢であったこと、自分は今日という日を迎えるのが心底嫌だったのだということを改めて認識する。
また嘆息を漏らす。そしてゆっくりとベッドから起き上がり、シャワーを浴びるために浴室へと向かう。
こんな最悪な目覚めから長い長い一日が始まるのだった。
憂鬱だ。とても憂鬱だ。初トレーナーを目前にまで控えたあの日の午前よりも憂鬱だ。
冬将軍の到来で今にも雪が降り出しそうな曇り空の中、俺はいつもより多めの白い息を吐きながら、石のように硬く重く感じる足で自転車のペダルをゆっくりと漕いでいた。
今回も初トレーナーの時のように『とくに何事もなくただの考えすぎ、構えすぎだった』で済んでくれやしないだろうか。
心底からそう思う。しかし、そんな奇跡的なことがそう何度も起こってくれるはずはなく、望みは限りなく薄い。
また。
出来ることなら、今すぐにでもずらかって逃避行をしたい。
とも思う。しかし自分にそんなことをする勇気など一切なく、このままバッドエンドが見え隠れする流れに無抵抗で身をゆだねるほかなかった。まさに諦観である。
そうやってグズグズしていると、対策を立てたり気持ちを整理したりすることも出来ずに店に到着してしまう。ただ幸いなことに、彼女の出勤は自分の一時間後であるため、多少の猶予は残されていた。
いや、それを猶予と言えるのか? むしろ精神的に落ち着かない時間になるのではないのか?
今日何度目かのため息をつきながら、重い足取りでスタッフルームへと入っていく。
「おはようございます」
すると、近くにいた四十代の女性スタッフが真っ先に俺の声に反応する。
「おはよ……あっ、田辺くん、久しぶり。元気してた? あれ、ちょっと痩せたんじゃない? 大丈夫? ちゃんとご飯食べてる?」
まるで過保護気味の母親であるかのように、次から次へと質問が繰り出されていく。あまりに唐突のことで俺は動揺を隠せず、戸惑い気味に答える。
「え、あ、はい、体調は大丈夫です、ご飯もちゃんと食べてます」
その言葉に女性スタッフは心配げな表情を残しながらも、一応の納得はしてくれる。そして、
「あまり無理はし過ぎないようにね」
と気遣いの言葉をかけてきたのだった。それに対して自分は何とも言えない複雑な感情を抱きつつも、出来る限り平静を装いながら感謝の言葉を返すしかなかった。
それから一言二言ほどの会話があって、今日はよろしく、という挨拶でこの場は締めくくられる。その後、色々と身支度をしつつ、何人かの顔見知りのスタッフと挨拶や言葉を交わしていく。するとそのたびに痩せたことを指摘される結果となった。
自覚は一切なかったが、話した人全員から口をそろえて言われると、やはり自分は痩せたのだと認めざるを得ない。
一体、原因は何なのだろうか。
そんな疑問をとぼけたように抱いていたが、決して思い当たる節がないわけではなかった。
おそらく……いや、きっと……。
そう思案に耽っていると、唐突に若い女性の声が耳に入ってくる。
「田辺さん、ですか?」
一瞬まさかと思い、心臓がドキリと大きく跳ねる。しかし、声の質が『彼女』とは少し違うことに気づき、すぐさま何食わぬ顔で声の聞こえた方を見る。そこにいたのは、初めて見る顔のメガネをかけた少女だった。おそらく、自分が深夜帯にいたときに入ってきた新しいスタッフなのだと思われる。
不審がられないよう、出来る限り自然に答える。
「はい、僕が田辺ですけど」
その人は一瞬だけ安堵の表情を見せるも、すぐに淡々とした口調で言う。
「店長が、申し訳ないけども店が混んできたから今から接客に入ってほしい、と田辺さんのことを呼んでいます」
なるほど。そういう用件で。
店長からのヘルプということは、余程の状態であるに違いない。ひとまず急がなければ。
少女らしき人に了解の旨を伝え、至急支度を整える。そしてすぐさま現場へと急行する。するとそこは、眩暈がしそうなほどに大勢の客でごった返していた。
正午まで、まだ一時間ちょっとあるというのに、どうしてこんなことになっているのか。
内心で頭を抱えながら、全体に向けて軽い挨拶をし、店長の元へと向かう。
「あー田辺くん、急にごめんね。早速で悪いんだけれど、カウンターの商品の取り揃えと、それから様子を見て三番レジにも入ってもらえる?」
開口一番、店長はそう言う。それに自分は返事をしながら頷くと、店長も一つ頷いて人手の薄い厨房へと入っていった。
こうして自分は、とても慌ただしい中でしれっと昼帯への復帰を果たす。
そんな俺に対し、他のスタッフは様々な反応を見せる。なんで居るのと驚く人や笑みを浮かべて会釈する人、はたまたこの人は誰だと困惑する人など、まさに三者三葉だった。
一方の自分はというと、この時間帯の勤務があまりに久しぶりすぎて、気持ちがそわそわと落ち着かないでいた。しかし不思議なことに体の方は対照的で、あっという間に昼の感覚を取り戻すと、何の問題もなく仕事に入ることが出来たのだった。所謂、手続き記憶というやつだろうか。なにはともあれ、ここはすんなりといったことにまずは一安心である。
正午までおよそ三十分に迫ったころ、一時的に客足が落ち着いてくる。その隙にスタッフたちは本格的な昼ピークに備え、資材補充や水分補給を行っていく。そこで自分は何人かのスタッフと少しばかり言葉を交わす。もちろん痩せたことを指摘されるのもセットで。
そして丁度その頃に、一瀬さんが接客に加わってくる。すると一瀬さんは俺を見るなり、
「田辺くん? 大丈夫?」
と割と本気度の高い心配をするのだった。
自分はそんなにも痩せたのだろうか? だったらさすがに分かるはずだが。後で、鏡なり体重計なりでしっかりチェックしておこう。
そう思いながら、一瀬さんに大丈夫だと伝え、一つだけ気になったことを尋ねる。
「以前、深夜帯で一緒になった時があるんですけど、その時はどうでした?」
あの日以来、およそ二月半ぶりにもなる一瀬さんは、一瞬だけ考える素振りを見せるが、すぐにこちらに向き直って答えてくれる。
「あの時の田辺くんはいつも通りの田辺くんで、痩せた様子は一切感じられなかったわ」
となると痩せ始めたのはその日以降ということか。もうここまでくれば、なにが原因なのかはある程度見えてくる。だが、今考えるのはよそう。仕事に集中できなくなる。
一度気持ちを切り替えて、手を動かしながら他のスタッフとの軽い雑談に勤しむ。
そこでふと思う。
ああ、自分はこの店のこの時間帯に戻ってきたのだな、と。
和気あいあいとした雰囲気、騒々しい店内、バタバタと忙しい接客。そのどれもが懐かしくて、なにかしっくりとくるものがあった。また、それらをすべて体感したらか、ここでようやくゆったりと気持ちが落ち着いてきて、体と心に余裕が生まれ始めていた。
いくら深夜帯の空気が自分に合うと思っていても、やはり経験の長さや厚みのある昼帯ともなれば安心感の度合いが違うのかもしれない。
とにかく、もうこれで大丈夫だろう。
そう安堵した時だった。
「おはようございます!」
先ほどの余裕はどこへやら、突如、体と心に緊張が走る。その弾みで思わず声の聞こえた方に目がいく。視線の先では、相も変わらず天真爛漫な雰囲気を漂わせ、はつらつとした笑みを浮かべている小野寺さんが、挨拶をしながら仕事場へと入ってきていたのだった。
いま最も顔を合わせたくない人物のお出ましである。
とはいえ、これから同じ空間で仕事をする以上、そうは言っていられない。できる限り取り繕って、そしてそれに気づかれないようにしなければ。精神的には厳しくとも、面倒ごとだけはなんとしても避けたい。しかし今の自分にそれができるのだろうか。ただでさえ胸苦しさと頭痛に襲われているというのに。
そう不安になりながら彼女を薄っすらと見ていると、一瞬目が合いそうになる。それに俺は慌てて視線を戻し、すでに確認を済ませていた資材チェックをまた行っていく。
気づかれていやしないだろうか。いや、きっと大丈夫さ。そう信じよう。
その後、客足が一気に伸び始め、店内はまた騒々しい空気に一変する。そのため彼女とコミュニケーションをとる間もないまま、昼ピークを迎えることになる。
例によって重すぎるほど気は重い。だが、それと仕事とは話が別である。今は目の前のことに集中しなければ。
そう気を張り詰めていたものの、まもなく緊張が和らいでいく。というのも、彼女が自分とは遠く離れた持ち場についたからだった。
これで、もうしばらくは彼女と顔を合わせずに済み、また少しでも長く気持ちを作る時間が確保できる。大変うれしい誤算である。
それからも、どういうわけか幸運な出来事が続く。
店内が少しずつ落ち着きを取り戻し、ピークの終焉がすぐそこにまで迫ってきたころ。いまだ覚悟を決められずにその時を怯えて待っていたのだが、一向に彼女の姿は見えず、そうしてそのまま休憩時間に突入することになったのだった。しかも休憩の長さやタイミングもあって、さらにそこから三時間ほど彼女の顔を見ることはほぼないという特典付きである。
まさかのまさか、こんな素晴らしい偶然が何度も重なるとは。
もし神がいるのであれば、土下座をして感謝を示しただろう。
安堵心からやや浮かれ気味になりながら、スタッフルームへと向かう。そこで今日はもう上がりの一瀬さんと出くわし、久しぶりの昼はどうだったとか、痩せたことについての話とか、いくつかの話題で会話を繰り広げられる。そしてその終わり際、「あーそうそう」とふと思い出したかのように一瀬さんは言った。
「今晩、雨が降るみたいだから、帰りは気を付けてね」
とても久しぶりの『いちのせ天気予報』である。いつぶりだろうか。いや、それはともかく。今日は雪ではなく雨が降るのか。どちらにしても気を付けなければならないが、少しばかり残念に思う。
そんな中、一瀬さんに感謝の言葉を伝え、昼食と雨具のために一度帰路を辿る。それから小一時間ほど自宅で茫とした時を過ごし、休憩が終わる十分前に店へと戻って、また仕事に入っていく。
幸運が続いたからだろうか、今はもう先ほどのような緊張感はほとんどない。むしろここまでくれば大丈夫と、謎の安堵感や根拠のない自信が生まれ始めていた。
さらにそれらを後押しするかのように、予感のようなものが見事に的中する。
彼女の休憩が終わるまでもうしばらくとなったころ。心拍数と気持ち悪さが徐々に増しながらも心のどこかで楽観的に構えていると、スタッフルームからやってきた店長にふっと声をかけられる。何事かとやや緊張の面持ちで店長の話を聞くと、どうやら簡単な事務と書類作業をやってほしいとのこと。一瞬、どうして自分が、と気にはなったが、そんなことよりもまた幸運が訪れたという喜びで、自分は若干食い気味にそれを快諾したのだった。こうしてまた、彼女と過ごす時間が大きく減ったのである。
ここまでくると神様に足を向けて寝られないな。いや、そもそもそれは不謹慎というものか。
そう心の中で一笑していると、罰が当たったのか、『油断していると足をすくわれる』というごく当たり前のことを痛感させられる。
それはスタッフルームへの道すがらのこと。店長からの説明を聞きながら意気揚々と歩みを進めていたところ、ちょうどスタッフルームから出てきた彼女❘❘小野寺さんの姿を視界に捉えたのである。その瞬間、頭に冷水を浴びせられたかのような衝撃とハッと我に返る感覚が同時にやってきて、俺は一瞬目が眩み、さらに意識が朦朧とした。
そしてそこに追い打ちをかけるかのように、直後、店長の携帯に着信が入る。そのため、自分はたった一人で彼女と対峙しなければならないという最悪な状況が出来上がったのだった。
まさに絶体絶命の大ピンチ。これまで神を無下に扱ったことが祟ったとでもいうのか。
それでも不幸中の幸いなのは、彼女はまだこちらに気づいていないということ。なにやらスタッフルームの外から誰かと話をしているようだった。その隙に俺は無理やり気持ちを作り込み、何事もなかったかのように平常心を装う。
それからまもなく、数か月ぶりの、また今日初めてのその時がやってくる。
自分は内心怯えながらスタッフルームに近づいていく。一方の彼女は話が終わったようで笑顔のままこちらの方を向いて歩き始める。
そこで視線がばっちりと合う。
刹那、心臓が大きくドキリと波打つ。そして同時に、思わず反射的に目を逸らしてしまい、それを偽るかのようにすぐさま会釈をする。
とにかくリラックスを。
そう自分に言い聞かせながら一、二で顔を上げると、彼女も同じように会釈をしていた。そのため、次に彼女の顔が見えるときには自分たちの距離がたったニ~三メートルほどにまで迫っていたのだった。
より一層緊張感が増し、握りこぶしにも力が入る。
しかしなぜかそのあたりから時の流れが異常に遅くなり、まるで世界が0.25倍速のスローモーションで動いているかのような感覚に襲われる。さらに、みぞおち辺りから気持ちの悪いなにかが突き上げてくる。
頼むから、何事もなく無事にこの時間が過ぎ去ってくれ。
そんなことを切に願ったその時だった。
「お久しぶりです。お疲れ様です」
彼女の声が耳に入ってきた。
心臓が、呼吸が、空気が止まる。しかしなにも感づかれてはいけないと、すぐさま取り繕って言葉を返す。
「あ、久しぶり、お疲れ様」
すると彼女はまた会釈をし、柔和な笑みを浮かべて俺の横を過ぎ去っていった。
「ふうぅぅぅー」
彼女がいなくなったところで、俺は近くの壁に背を預けながら少しだけ緊張を解いて深く長く息を吐く。
何もなくて本当によかった。
第一に心底からそう思う。呆気なさや、こんなことで一喜一憂していてどうするんだという嘲笑じみたものもあったが、それらを遙かに凌駕するほどの安堵感が心を占めていたのだった。
しばらくして彼女のことを思い出す。ちらと視認しただけではあるが、彼女はおおよそ相変わらずの様子でとても元気そうに見えた。ただ年ごろ特有の変化なのか、どこか涼しげで落ち着いた大人の雰囲気が滲み出ており、自分は少々の驚きとなんとも言えない不思議な感覚を今さら抱いたのだった。
そして一瀬さんが言っていた肝心の『力み』だが、それは一切感じられなかった。
あのカラオケ店での一件からもう数ヶ月が経っているのだから、当然と言えば当然である。だが、もし仮にそこでの出来事が力みの原因に繋がっていたのならば、先ほど顔を合わせたときに何もアクションがないというのは些か不自然ではないだろうか。そう考えると、彼女の力みは俺の穴を埋めようとしたことによるもの、という推測が現実味を帯びてくる。むしろ時間軸的にも辻褄が合っているし、きっとそれで間違いないとさえ思う。いや、絶対にその通りだ。
心当たりが杞憂に終わったことで、また一層安堵感が心に広がり、改めて深い息をつく。
これでもう大丈夫だろう。彼女とのコミュニケーションも少しずつ慣らしていけばきっとなんとかなる。
そう思いながらスタッフルームへと入っていく。
中では、昼方に数々の質問を繰り出してきた女性スタッフが、今から帰ろうと荷物を持って椅子を机に戻しかけていた。小野寺さんが話をしていたのはこの人のようである。
女性はこちらに気がつくと、昼の時同様、過保護気味の母親であるかのようにまた気遣いの言葉をかけてくる。それに俺は感謝を示すと、その人は心配げな表情を残しながら挨拶をしてスタッフルームを去っていった。
何もそこまで憂慮しなくとも。
心中ではそんなことを考えながら、お疲れ様でしたと女性を見送る。
その直後、入れ違いで店長がスタッフルームに現れる。
「ごめんね、それじゃあ早速取り掛かろうか」
俺はそれに「はい」と頷き、さっとデスクの方へと向かう。そこでまたいくつかの説明を聞いたのち、店長の付き添いの下、数分ほど打ち込み作業を行っていく。そうして、ほぼすんなり一通りのことが済むと、店長はこれからの流れについて説明を始めた。
今回やることは、今のような簡単な打ち込み作業や本社から届いたインフォメーション関連の印刷、そして自分でもわかる不要な書類の整理・処分などといった至ってシンプルな軽作業だった。もちろん、店内が混み始めれば接客等々に向かわなければならないが、全体的に見ればそこまで苦にはならない内容となっていた。
指示を聞き終えたところで、ふと疑問に思ったことを店長に尋ねる。
「どうして自分なんですか?」
店長はそんな質問が来ることは想定済みだったようで即座に答える。
どうやら店長はこの後、所要のためにニ~三時間ほど店を開けるとのこと。そのため、一連の作業をいつ自分がやるのか、あるいは誰に任せるかを考えていたそうだが、人員の配置や時間の都合でやや厳しい状態にあった。そんな中で白羽の矢が立ったのが、俺であると言う。もともと書類周りの仕事ができる人材を増やしたいという考えがあったらしく、ちょうどいい機会だからと年齢やキャリア等を考慮した結果、いの一番に自分の名前が挙がったとのことだった。
なるほど、確かに現状を一考すると便利屋のような存在である自分が適任と言える。そして自身が経験しておいて損はないというところを見ても、まさにウィンウィンだと思う。
いやいやそんなことよりも、店長不在の中で作業を行わなければならないわけだが、果たして大丈夫なのだろうか。
不安がふつふつと湧き上がってくる。一方の店長はというと、
「ちょっと大変だと思うけれど、頼むね。分からないことがあったら、佐藤さんに聞けば大丈夫だから。じゃあ後は任せたよ」
と、まるで俺のことを信頼しきっているかのように一切の心配も見せることはなく、スタッフルームから出ていった。
不安と共に、今度はプレッシャーが重くのしかかってくる。とはいえ、失望されるのは御免だ。
「ふうぅぅぅ」
今日何度目かのため息を吐き、自分に喝を入れるために軽く頬を叩いて、作業に取り掛かっていく。
それから一時間半ほどが過ぎたころ、慣れないことでありながらも思いのほか順調に作業は進み、残り分量二割五分を切り始めていた。
このままあっという間に終わりを迎える、なんてことがあるわけもなく、ちょうどそのころに店が混み始める時間であることを思い出し、慌ててそちらの方へと向かう。
その予感の通り、店内、ドライブスルーともにそれなりの来客があり、夜ピークの到来を迎えようとしていた。
なんとか間に合ったと思いながら佐藤さんからの指示を仰ぐ。そうして俺はドライブスルーの担当となり、早速仕事に取り掛かっていく。
ちなみに小野寺さんとはニアミスという状況にあった。目の届く範囲内にいて、けれどもポジションが異なるゆえに会話や業務連絡をすることは滅多にない。それぐらいの距離間でお互い仕事をしていた。そのため、直接的な関わりがないとはいえ自分は緊張感や恐怖心に駆られ、精神的に苦境に立たされていたのだった。
やがて一時間が経過する。この時間にもなるとピークは過ぎ去り、来客もある程度落ち着いてきていた。すると諸々の事情を知っている佐藤さんが声をかけてくる。
「田辺くん、もう戻ってもろうてええよ」
その言葉でまだ例の作業が残っていることを思い出す。そして佐藤さんに、
「あ、はい、わかりました、ありがとうございます」
と言葉を返して、一目散に現場を離れた。
スタッフルームへの道すがら、一連の状態から解放されたためか、異様なまでに心拍数が跳ね上がり、震えと笑いが同時にこみあげてきていた。
たった一時間程度でこのありさま。あの状態が二時間、三時間、あるいは一日中続いていたら自分は一体どうなってしまっていたのだろうか。想像するだけで心臓に悪いように思う。とはいえ、これでもう今日は終わったようなものなのだ。あまり何も考えず、できる限りリラックスしていこう。
スタッフルームに到着し、数分ほど椅子の上で体を休めてから作業を再開させていく。
それからしばらくして、自分の勤務終了時間まで残り十分少々となる。ちょうどそのころに、珍しくやや険しげな表情をしている店長がこの場に戻ってきた。そして、いつになくやや急いた様子で、俺が作成した書類に目を通しながら言った。
「お疲れ様。どこまで終わった?」
一瞬、俺は背筋がひやりとする。それでも俺は、平静を装いながら嘘偽りなく答える。
「あ、はい。もうまもなく終わります」
すると店長の表情が幾らか柔らかくなったように見えた。どうやら俺の報告は、店長にとって良い知らせとなったようだった。
「うん、書類も問題ない。いろいろとありがとう。改めて、お疲れ様」
書類をもとあった机上に置きなおし、よくやったと労ってくれる店長。嬉しくはあるが、それ以上にとてもむずがゆいものがある。
その後、店長は再び店を離れるとのことで、若干足を重そうにしてスタッフルームを後にした。先ほどの険しげな表情はどうやらそれが原因のようである。店長がそこまでの表情をするということは、よほど厄介な案件なのかもしれない。
そう思案していると、外から雨音が聞こえてくる。始めは「さー」という霧雨のような音だったが、瞬く間に「ザー」と本降りの雨音へと一変し、帰路を辿るのが億劫な状況となった。またしても一瀬さんの予報は的中である。毎度のことながら精度の高さには驚かされ、そしてお見事だと思う。
毎度ありがとうございます、一ノ瀬さん。
上がり時間のおよそ三分前になったころ、任されていた作業がすべて完了する。そうして俺は念のために店長へ完了メールを送り、一つ大きく伸びをしたのち、気を引き締めながらカウンターへと向かう。
しかし、そこに彼女の姿はなかった。どういうことかと佐藤さんに訊ねると、店が空いていることもあって彼女は少し早めの上がりとなり、そしてそのついでにゴミ出しに行ったとのことだった。
ほんと今日はツイてるな。
レジで勤怠管理のページを開きながら、そうほっと胸を撫で下ろす。
さあ、帰ろう。
そうして、なにも考えずに他の従業員やスタッフに挨拶をしてスタッフルームへと引き返す。
なにも考えずに。
寝起きとは思えないほどの叫び声が部屋中に響き渡る。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
心臓が破裂しそうなくらいに鼓動は大きく脈打ち、不快感と共にとても荒い息遣いを生んでいた。また、心の中では恐怖という感情が占拠しており、怯えから体が小刻みに震えていたのだった。
とてつもなく嫌な夢を見ていたような気がする。詳しくは思い出せないが、なにかに追われ、そして追い付かれ襲われる、そんな夢だったろうか。ただただ恐ろしいという思いしかない。
しばらくして、目覚めた直後から出ていた症状が、ある程度の治まりを見せる。そこで俺は思う。
確かそういった夢を見るときは、現実世界でもなにかに追われている、あるいは精神的に追い詰められているからだと聞いたことがある。そこまで占いを信じているわけではないが、今回のことに関しては全くもってその通りだ。
というのも、今日この日は数か月ぶりの昼勤務復帰であり、そしてとても久しぶりに小野寺さんと顔を合わせる日でもあったからだった。
一度、深いため息をつく。そこで、インナーと下着が湿り気を帯びていることにふと気がつく。
電気毛布を入れているとはいえこの時期にそれなりの汗。そういったところを見ると、相当な悪夢であったこと、自分は今日という日を迎えるのが心底嫌だったのだということを改めて認識する。
また嘆息を漏らす。そしてゆっくりとベッドから起き上がり、シャワーを浴びるために浴室へと向かう。
こんな最悪な目覚めから長い長い一日が始まるのだった。
憂鬱だ。とても憂鬱だ。初トレーナーを目前にまで控えたあの日の午前よりも憂鬱だ。
冬将軍の到来で今にも雪が降り出しそうな曇り空の中、俺はいつもより多めの白い息を吐きながら、石のように硬く重く感じる足で自転車のペダルをゆっくりと漕いでいた。
今回も初トレーナーの時のように『とくに何事もなくただの考えすぎ、構えすぎだった』で済んでくれやしないだろうか。
心底からそう思う。しかし、そんな奇跡的なことがそう何度も起こってくれるはずはなく、望みは限りなく薄い。
また。
出来ることなら、今すぐにでもずらかって逃避行をしたい。
とも思う。しかし自分にそんなことをする勇気など一切なく、このままバッドエンドが見え隠れする流れに無抵抗で身をゆだねるほかなかった。まさに諦観である。
そうやってグズグズしていると、対策を立てたり気持ちを整理したりすることも出来ずに店に到着してしまう。ただ幸いなことに、彼女の出勤は自分の一時間後であるため、多少の猶予は残されていた。
いや、それを猶予と言えるのか? むしろ精神的に落ち着かない時間になるのではないのか?
今日何度目かのため息をつきながら、重い足取りでスタッフルームへと入っていく。
「おはようございます」
すると、近くにいた四十代の女性スタッフが真っ先に俺の声に反応する。
「おはよ……あっ、田辺くん、久しぶり。元気してた? あれ、ちょっと痩せたんじゃない? 大丈夫? ちゃんとご飯食べてる?」
まるで過保護気味の母親であるかのように、次から次へと質問が繰り出されていく。あまりに唐突のことで俺は動揺を隠せず、戸惑い気味に答える。
「え、あ、はい、体調は大丈夫です、ご飯もちゃんと食べてます」
その言葉に女性スタッフは心配げな表情を残しながらも、一応の納得はしてくれる。そして、
「あまり無理はし過ぎないようにね」
と気遣いの言葉をかけてきたのだった。それに対して自分は何とも言えない複雑な感情を抱きつつも、出来る限り平静を装いながら感謝の言葉を返すしかなかった。
それから一言二言ほどの会話があって、今日はよろしく、という挨拶でこの場は締めくくられる。その後、色々と身支度をしつつ、何人かの顔見知りのスタッフと挨拶や言葉を交わしていく。するとそのたびに痩せたことを指摘される結果となった。
自覚は一切なかったが、話した人全員から口をそろえて言われると、やはり自分は痩せたのだと認めざるを得ない。
一体、原因は何なのだろうか。
そんな疑問をとぼけたように抱いていたが、決して思い当たる節がないわけではなかった。
おそらく……いや、きっと……。
そう思案に耽っていると、唐突に若い女性の声が耳に入ってくる。
「田辺さん、ですか?」
一瞬まさかと思い、心臓がドキリと大きく跳ねる。しかし、声の質が『彼女』とは少し違うことに気づき、すぐさま何食わぬ顔で声の聞こえた方を見る。そこにいたのは、初めて見る顔のメガネをかけた少女だった。おそらく、自分が深夜帯にいたときに入ってきた新しいスタッフなのだと思われる。
不審がられないよう、出来る限り自然に答える。
「はい、僕が田辺ですけど」
その人は一瞬だけ安堵の表情を見せるも、すぐに淡々とした口調で言う。
「店長が、申し訳ないけども店が混んできたから今から接客に入ってほしい、と田辺さんのことを呼んでいます」
なるほど。そういう用件で。
店長からのヘルプということは、余程の状態であるに違いない。ひとまず急がなければ。
少女らしき人に了解の旨を伝え、至急支度を整える。そしてすぐさま現場へと急行する。するとそこは、眩暈がしそうなほどに大勢の客でごった返していた。
正午まで、まだ一時間ちょっとあるというのに、どうしてこんなことになっているのか。
内心で頭を抱えながら、全体に向けて軽い挨拶をし、店長の元へと向かう。
「あー田辺くん、急にごめんね。早速で悪いんだけれど、カウンターの商品の取り揃えと、それから様子を見て三番レジにも入ってもらえる?」
開口一番、店長はそう言う。それに自分は返事をしながら頷くと、店長も一つ頷いて人手の薄い厨房へと入っていった。
こうして自分は、とても慌ただしい中でしれっと昼帯への復帰を果たす。
そんな俺に対し、他のスタッフは様々な反応を見せる。なんで居るのと驚く人や笑みを浮かべて会釈する人、はたまたこの人は誰だと困惑する人など、まさに三者三葉だった。
一方の自分はというと、この時間帯の勤務があまりに久しぶりすぎて、気持ちがそわそわと落ち着かないでいた。しかし不思議なことに体の方は対照的で、あっという間に昼の感覚を取り戻すと、何の問題もなく仕事に入ることが出来たのだった。所謂、手続き記憶というやつだろうか。なにはともあれ、ここはすんなりといったことにまずは一安心である。
正午までおよそ三十分に迫ったころ、一時的に客足が落ち着いてくる。その隙にスタッフたちは本格的な昼ピークに備え、資材補充や水分補給を行っていく。そこで自分は何人かのスタッフと少しばかり言葉を交わす。もちろん痩せたことを指摘されるのもセットで。
そして丁度その頃に、一瀬さんが接客に加わってくる。すると一瀬さんは俺を見るなり、
「田辺くん? 大丈夫?」
と割と本気度の高い心配をするのだった。
自分はそんなにも痩せたのだろうか? だったらさすがに分かるはずだが。後で、鏡なり体重計なりでしっかりチェックしておこう。
そう思いながら、一瀬さんに大丈夫だと伝え、一つだけ気になったことを尋ねる。
「以前、深夜帯で一緒になった時があるんですけど、その時はどうでした?」
あの日以来、およそ二月半ぶりにもなる一瀬さんは、一瞬だけ考える素振りを見せるが、すぐにこちらに向き直って答えてくれる。
「あの時の田辺くんはいつも通りの田辺くんで、痩せた様子は一切感じられなかったわ」
となると痩せ始めたのはその日以降ということか。もうここまでくれば、なにが原因なのかはある程度見えてくる。だが、今考えるのはよそう。仕事に集中できなくなる。
一度気持ちを切り替えて、手を動かしながら他のスタッフとの軽い雑談に勤しむ。
そこでふと思う。
ああ、自分はこの店のこの時間帯に戻ってきたのだな、と。
和気あいあいとした雰囲気、騒々しい店内、バタバタと忙しい接客。そのどれもが懐かしくて、なにかしっくりとくるものがあった。また、それらをすべて体感したらか、ここでようやくゆったりと気持ちが落ち着いてきて、体と心に余裕が生まれ始めていた。
いくら深夜帯の空気が自分に合うと思っていても、やはり経験の長さや厚みのある昼帯ともなれば安心感の度合いが違うのかもしれない。
とにかく、もうこれで大丈夫だろう。
そう安堵した時だった。
「おはようございます!」
先ほどの余裕はどこへやら、突如、体と心に緊張が走る。その弾みで思わず声の聞こえた方に目がいく。視線の先では、相も変わらず天真爛漫な雰囲気を漂わせ、はつらつとした笑みを浮かべている小野寺さんが、挨拶をしながら仕事場へと入ってきていたのだった。
いま最も顔を合わせたくない人物のお出ましである。
とはいえ、これから同じ空間で仕事をする以上、そうは言っていられない。できる限り取り繕って、そしてそれに気づかれないようにしなければ。精神的には厳しくとも、面倒ごとだけはなんとしても避けたい。しかし今の自分にそれができるのだろうか。ただでさえ胸苦しさと頭痛に襲われているというのに。
そう不安になりながら彼女を薄っすらと見ていると、一瞬目が合いそうになる。それに俺は慌てて視線を戻し、すでに確認を済ませていた資材チェックをまた行っていく。
気づかれていやしないだろうか。いや、きっと大丈夫さ。そう信じよう。
その後、客足が一気に伸び始め、店内はまた騒々しい空気に一変する。そのため彼女とコミュニケーションをとる間もないまま、昼ピークを迎えることになる。
例によって重すぎるほど気は重い。だが、それと仕事とは話が別である。今は目の前のことに集中しなければ。
そう気を張り詰めていたものの、まもなく緊張が和らいでいく。というのも、彼女が自分とは遠く離れた持ち場についたからだった。
これで、もうしばらくは彼女と顔を合わせずに済み、また少しでも長く気持ちを作る時間が確保できる。大変うれしい誤算である。
それからも、どういうわけか幸運な出来事が続く。
店内が少しずつ落ち着きを取り戻し、ピークの終焉がすぐそこにまで迫ってきたころ。いまだ覚悟を決められずにその時を怯えて待っていたのだが、一向に彼女の姿は見えず、そうしてそのまま休憩時間に突入することになったのだった。しかも休憩の長さやタイミングもあって、さらにそこから三時間ほど彼女の顔を見ることはほぼないという特典付きである。
まさかのまさか、こんな素晴らしい偶然が何度も重なるとは。
もし神がいるのであれば、土下座をして感謝を示しただろう。
安堵心からやや浮かれ気味になりながら、スタッフルームへと向かう。そこで今日はもう上がりの一瀬さんと出くわし、久しぶりの昼はどうだったとか、痩せたことについての話とか、いくつかの話題で会話を繰り広げられる。そしてその終わり際、「あーそうそう」とふと思い出したかのように一瀬さんは言った。
「今晩、雨が降るみたいだから、帰りは気を付けてね」
とても久しぶりの『いちのせ天気予報』である。いつぶりだろうか。いや、それはともかく。今日は雪ではなく雨が降るのか。どちらにしても気を付けなければならないが、少しばかり残念に思う。
そんな中、一瀬さんに感謝の言葉を伝え、昼食と雨具のために一度帰路を辿る。それから小一時間ほど自宅で茫とした時を過ごし、休憩が終わる十分前に店へと戻って、また仕事に入っていく。
幸運が続いたからだろうか、今はもう先ほどのような緊張感はほとんどない。むしろここまでくれば大丈夫と、謎の安堵感や根拠のない自信が生まれ始めていた。
さらにそれらを後押しするかのように、予感のようなものが見事に的中する。
彼女の休憩が終わるまでもうしばらくとなったころ。心拍数と気持ち悪さが徐々に増しながらも心のどこかで楽観的に構えていると、スタッフルームからやってきた店長にふっと声をかけられる。何事かとやや緊張の面持ちで店長の話を聞くと、どうやら簡単な事務と書類作業をやってほしいとのこと。一瞬、どうして自分が、と気にはなったが、そんなことよりもまた幸運が訪れたという喜びで、自分は若干食い気味にそれを快諾したのだった。こうしてまた、彼女と過ごす時間が大きく減ったのである。
ここまでくると神様に足を向けて寝られないな。いや、そもそもそれは不謹慎というものか。
そう心の中で一笑していると、罰が当たったのか、『油断していると足をすくわれる』というごく当たり前のことを痛感させられる。
それはスタッフルームへの道すがらのこと。店長からの説明を聞きながら意気揚々と歩みを進めていたところ、ちょうどスタッフルームから出てきた彼女❘❘小野寺さんの姿を視界に捉えたのである。その瞬間、頭に冷水を浴びせられたかのような衝撃とハッと我に返る感覚が同時にやってきて、俺は一瞬目が眩み、さらに意識が朦朧とした。
そしてそこに追い打ちをかけるかのように、直後、店長の携帯に着信が入る。そのため、自分はたった一人で彼女と対峙しなければならないという最悪な状況が出来上がったのだった。
まさに絶体絶命の大ピンチ。これまで神を無下に扱ったことが祟ったとでもいうのか。
それでも不幸中の幸いなのは、彼女はまだこちらに気づいていないということ。なにやらスタッフルームの外から誰かと話をしているようだった。その隙に俺は無理やり気持ちを作り込み、何事もなかったかのように平常心を装う。
それからまもなく、数か月ぶりの、また今日初めてのその時がやってくる。
自分は内心怯えながらスタッフルームに近づいていく。一方の彼女は話が終わったようで笑顔のままこちらの方を向いて歩き始める。
そこで視線がばっちりと合う。
刹那、心臓が大きくドキリと波打つ。そして同時に、思わず反射的に目を逸らしてしまい、それを偽るかのようにすぐさま会釈をする。
とにかくリラックスを。
そう自分に言い聞かせながら一、二で顔を上げると、彼女も同じように会釈をしていた。そのため、次に彼女の顔が見えるときには自分たちの距離がたったニ~三メートルほどにまで迫っていたのだった。
より一層緊張感が増し、握りこぶしにも力が入る。
しかしなぜかそのあたりから時の流れが異常に遅くなり、まるで世界が0.25倍速のスローモーションで動いているかのような感覚に襲われる。さらに、みぞおち辺りから気持ちの悪いなにかが突き上げてくる。
頼むから、何事もなく無事にこの時間が過ぎ去ってくれ。
そんなことを切に願ったその時だった。
「お久しぶりです。お疲れ様です」
彼女の声が耳に入ってきた。
心臓が、呼吸が、空気が止まる。しかしなにも感づかれてはいけないと、すぐさま取り繕って言葉を返す。
「あ、久しぶり、お疲れ様」
すると彼女はまた会釈をし、柔和な笑みを浮かべて俺の横を過ぎ去っていった。
「ふうぅぅぅー」
彼女がいなくなったところで、俺は近くの壁に背を預けながら少しだけ緊張を解いて深く長く息を吐く。
何もなくて本当によかった。
第一に心底からそう思う。呆気なさや、こんなことで一喜一憂していてどうするんだという嘲笑じみたものもあったが、それらを遙かに凌駕するほどの安堵感が心を占めていたのだった。
しばらくして彼女のことを思い出す。ちらと視認しただけではあるが、彼女はおおよそ相変わらずの様子でとても元気そうに見えた。ただ年ごろ特有の変化なのか、どこか涼しげで落ち着いた大人の雰囲気が滲み出ており、自分は少々の驚きとなんとも言えない不思議な感覚を今さら抱いたのだった。
そして一瀬さんが言っていた肝心の『力み』だが、それは一切感じられなかった。
あのカラオケ店での一件からもう数ヶ月が経っているのだから、当然と言えば当然である。だが、もし仮にそこでの出来事が力みの原因に繋がっていたのならば、先ほど顔を合わせたときに何もアクションがないというのは些か不自然ではないだろうか。そう考えると、彼女の力みは俺の穴を埋めようとしたことによるもの、という推測が現実味を帯びてくる。むしろ時間軸的にも辻褄が合っているし、きっとそれで間違いないとさえ思う。いや、絶対にその通りだ。
心当たりが杞憂に終わったことで、また一層安堵感が心に広がり、改めて深い息をつく。
これでもう大丈夫だろう。彼女とのコミュニケーションも少しずつ慣らしていけばきっとなんとかなる。
そう思いながらスタッフルームへと入っていく。
中では、昼方に数々の質問を繰り出してきた女性スタッフが、今から帰ろうと荷物を持って椅子を机に戻しかけていた。小野寺さんが話をしていたのはこの人のようである。
女性はこちらに気がつくと、昼の時同様、過保護気味の母親であるかのようにまた気遣いの言葉をかけてくる。それに俺は感謝を示すと、その人は心配げな表情を残しながら挨拶をしてスタッフルームを去っていった。
何もそこまで憂慮しなくとも。
心中ではそんなことを考えながら、お疲れ様でしたと女性を見送る。
その直後、入れ違いで店長がスタッフルームに現れる。
「ごめんね、それじゃあ早速取り掛かろうか」
俺はそれに「はい」と頷き、さっとデスクの方へと向かう。そこでまたいくつかの説明を聞いたのち、店長の付き添いの下、数分ほど打ち込み作業を行っていく。そうして、ほぼすんなり一通りのことが済むと、店長はこれからの流れについて説明を始めた。
今回やることは、今のような簡単な打ち込み作業や本社から届いたインフォメーション関連の印刷、そして自分でもわかる不要な書類の整理・処分などといった至ってシンプルな軽作業だった。もちろん、店内が混み始めれば接客等々に向かわなければならないが、全体的に見ればそこまで苦にはならない内容となっていた。
指示を聞き終えたところで、ふと疑問に思ったことを店長に尋ねる。
「どうして自分なんですか?」
店長はそんな質問が来ることは想定済みだったようで即座に答える。
どうやら店長はこの後、所要のためにニ~三時間ほど店を開けるとのこと。そのため、一連の作業をいつ自分がやるのか、あるいは誰に任せるかを考えていたそうだが、人員の配置や時間の都合でやや厳しい状態にあった。そんな中で白羽の矢が立ったのが、俺であると言う。もともと書類周りの仕事ができる人材を増やしたいという考えがあったらしく、ちょうどいい機会だからと年齢やキャリア等を考慮した結果、いの一番に自分の名前が挙がったとのことだった。
なるほど、確かに現状を一考すると便利屋のような存在である自分が適任と言える。そして自身が経験しておいて損はないというところを見ても、まさにウィンウィンだと思う。
いやいやそんなことよりも、店長不在の中で作業を行わなければならないわけだが、果たして大丈夫なのだろうか。
不安がふつふつと湧き上がってくる。一方の店長はというと、
「ちょっと大変だと思うけれど、頼むね。分からないことがあったら、佐藤さんに聞けば大丈夫だから。じゃあ後は任せたよ」
と、まるで俺のことを信頼しきっているかのように一切の心配も見せることはなく、スタッフルームから出ていった。
不安と共に、今度はプレッシャーが重くのしかかってくる。とはいえ、失望されるのは御免だ。
「ふうぅぅぅ」
今日何度目かのため息を吐き、自分に喝を入れるために軽く頬を叩いて、作業に取り掛かっていく。
それから一時間半ほどが過ぎたころ、慣れないことでありながらも思いのほか順調に作業は進み、残り分量二割五分を切り始めていた。
このままあっという間に終わりを迎える、なんてことがあるわけもなく、ちょうどそのころに店が混み始める時間であることを思い出し、慌ててそちらの方へと向かう。
その予感の通り、店内、ドライブスルーともにそれなりの来客があり、夜ピークの到来を迎えようとしていた。
なんとか間に合ったと思いながら佐藤さんからの指示を仰ぐ。そうして俺はドライブスルーの担当となり、早速仕事に取り掛かっていく。
ちなみに小野寺さんとはニアミスという状況にあった。目の届く範囲内にいて、けれどもポジションが異なるゆえに会話や業務連絡をすることは滅多にない。それぐらいの距離間でお互い仕事をしていた。そのため、直接的な関わりがないとはいえ自分は緊張感や恐怖心に駆られ、精神的に苦境に立たされていたのだった。
やがて一時間が経過する。この時間にもなるとピークは過ぎ去り、来客もある程度落ち着いてきていた。すると諸々の事情を知っている佐藤さんが声をかけてくる。
「田辺くん、もう戻ってもろうてええよ」
その言葉でまだ例の作業が残っていることを思い出す。そして佐藤さんに、
「あ、はい、わかりました、ありがとうございます」
と言葉を返して、一目散に現場を離れた。
スタッフルームへの道すがら、一連の状態から解放されたためか、異様なまでに心拍数が跳ね上がり、震えと笑いが同時にこみあげてきていた。
たった一時間程度でこのありさま。あの状態が二時間、三時間、あるいは一日中続いていたら自分は一体どうなってしまっていたのだろうか。想像するだけで心臓に悪いように思う。とはいえ、これでもう今日は終わったようなものなのだ。あまり何も考えず、できる限りリラックスしていこう。
スタッフルームに到着し、数分ほど椅子の上で体を休めてから作業を再開させていく。
それからしばらくして、自分の勤務終了時間まで残り十分少々となる。ちょうどそのころに、珍しくやや険しげな表情をしている店長がこの場に戻ってきた。そして、いつになくやや急いた様子で、俺が作成した書類に目を通しながら言った。
「お疲れ様。どこまで終わった?」
一瞬、俺は背筋がひやりとする。それでも俺は、平静を装いながら嘘偽りなく答える。
「あ、はい。もうまもなく終わります」
すると店長の表情が幾らか柔らかくなったように見えた。どうやら俺の報告は、店長にとって良い知らせとなったようだった。
「うん、書類も問題ない。いろいろとありがとう。改めて、お疲れ様」
書類をもとあった机上に置きなおし、よくやったと労ってくれる店長。嬉しくはあるが、それ以上にとてもむずがゆいものがある。
その後、店長は再び店を離れるとのことで、若干足を重そうにしてスタッフルームを後にした。先ほどの険しげな表情はどうやらそれが原因のようである。店長がそこまでの表情をするということは、よほど厄介な案件なのかもしれない。
そう思案していると、外から雨音が聞こえてくる。始めは「さー」という霧雨のような音だったが、瞬く間に「ザー」と本降りの雨音へと一変し、帰路を辿るのが億劫な状況となった。またしても一瀬さんの予報は的中である。毎度のことながら精度の高さには驚かされ、そしてお見事だと思う。
毎度ありがとうございます、一ノ瀬さん。
上がり時間のおよそ三分前になったころ、任されていた作業がすべて完了する。そうして俺は念のために店長へ完了メールを送り、一つ大きく伸びをしたのち、気を引き締めながらカウンターへと向かう。
しかし、そこに彼女の姿はなかった。どういうことかと佐藤さんに訊ねると、店が空いていることもあって彼女は少し早めの上がりとなり、そしてそのついでにゴミ出しに行ったとのことだった。
ほんと今日はツイてるな。
レジで勤怠管理のページを開きながら、そうほっと胸を撫で下ろす。
さあ、帰ろう。
そうして、なにも考えずに他の従業員やスタッフに挨拶をしてスタッフルームへと引き返す。
なにも考えずに。