11-1

文字数 9,031文字

「はぁっ……! はぁ、はぁ、はぁ……」

 目覚めると俺はとても荒い息遣いをしていた。どうやらまたうなされていたようである。
その直後、二度三度ほどかなり強めの咳が出る。さらには寒気と倦怠感が同時に全身を襲い、頭痛や関節痛があることにも気が付いた。
 完全にやらかしてしまった。おおかた風邪かインフルといったところだろう。どちらにせよ厄介なことに変わりはない。
 ふと、うつぶせのまま軽く周囲の様子をうかがう。ベランダの方から街頭の光がほんのうっすらと入ってきているものの室内はほぼ真っ暗闇で、雨音はなく、掛け時計のカチ、カチとした音が聞こえるのみだった。正確な時間までは読めないまでも深夜であることは間違いなさそうである。
 それはともかくと、とてつもなく重い体をゆっくりと起こしていく。たったこれだけの動作でもかなり辛い。
 ある程度起き上がったところで一度壁に寄りかかり、まだ濡れたままの服や下着を脱いでいく。そうして壁を頼りに少しずつ立ち上がって、濡れた衣服を洗濯機へ入れたのち、浴室でシャワーを浴びる。それなりに体が温まったところで浴室を出て変わらずの重い体で、できるだけ早く服を着て濡れた玄関先を拭いてようやくベッドにうずくまる。
 明日……いや、もうすでに今日になっているだろうか。ともかく休みでよかった。おそらく一日で仕事復帰は厳しいだろう。職場に連絡入れておかないとな。
 そんなことを考えていると、あっという間に意識が遠のいていった。

 次に目を覚ました時、俺はまたしてもうなされていたようだった。しかし周囲はとても明るく、寒さを感じるものの昨日の雨が嘘と思えるほどに空は晴れ渡っていた。一方、体調の方はというと、まったくよろしくなかった。むしろ、すこぶる悪くなったとさえ言えるほど辛さが増していた。
 やはりすぐには治らないか。
 そう落胆しつつ、なんとか無事だったスマホを手に取りメッセージアプリを開く。そこで、申し訳ないと思いながらもパッと思いついた一瀬さんに、謝罪と『体調不良のため明日から二、三日ほど休みたい』という旨のメッセージを送り、スマホを元あったベッドの上に戻す。
 今度は体温計を脇に差し、その間に財布と保険証を用意する。やがて検温を終える電子音が鳴る。三十八度七分。なんとなく予想していた通りの高熱である。
 着替えを済ませ、忘れ物がないかを確認する。そしてまたスマホを開いて近くの病院を探し出し、そこに向けて自宅を出た。

 病院までは徒歩で向かう。さすがにこの体で自転車を走らせるのは怖い。
 よろよろと十五分ほど歩いたところでなんとか病院に到着する。中に入ると、週明けということもあって老若男女がごった返していた。これは相当待たなければならなそうである。
 受付の看護師から問診票を受け取り、それに諸々記入して受付を済ませる。
 その後、院内に設置されているテレビを何も考えずにぼうと眺める。そうして一時間が経ってお昼の情報番組が始まった頃、中待合に呼ばれてようやく診察の時間がやってくる。

「今日はどうされました?」

 おそらく年齢よりも若く見られるであろう男性医師にそう問われ、俺は鼻声かつ枯れかけの声で症状を伝えていく。やがて体温計や聴診器、舌圧子などの医療器具でそれぞれの診察が行われる。それらが終わると医師は淡々と告げてくる。

「インフルエンザの検査をしておきましょう」

 あー痛いやつだ。終わったら絶対に涙が出るやつだ。
 鼻に綿棒を突っ込まれる。すると予想していた通りの結果となった。
これと注射関連だけは二十歳を過ぎた今でも恐怖心が強い。経験はないが内視鏡なんてもってのほかだ。

「それでは結果が出るまで、もうしばらくお待ちください」

 心でも涙を流しながら診察室を出てロビー待合で待機する。
 二十分後、先ほどと同じ看護師に呼ばれ、診察室へと入っていく。

「結果は陰性でした。総合的に見ておそらく風邪だと思われますが、念のため、明日にでも再検査へお越しください。ひとまずいくつかお薬出しておきますね」

 また来なければならないのか。
 心の中で嘆息し、医師からお大事にと言われながら診察室を出る。それから何度か待ち時間をはさみながら、会計を終えて隣の敷地にある薬局で処方箋とお薬をもらう。そのころにはすっかりお昼を過ぎており、体力も気力も限界に近づいていた。
 意識がぼんやりとした中で家路につく。途中コンビニに寄ってスポーツドリンクやパンやおにぎり、プリンやゼリーなどの軽食類を購入し、やがて自宅へと到着する。
 帰宅直後、空腹ではなかったが真っ先に菓子パンを口にする。そうしてふらふらとしながらエアコンをつけ、簡単な片づけを済ませていく。最後に薬を飲んでベッドへ倒れこむと、それからものの十数秒ほどで眠りに落ちていった。
 その後、深い眠りに誘われ長く眠り続ける、なんてことはなく、熱やら痛みやら寝起きと同時に忘却する悪夢やらにうなされ一時間に一回以上は目を覚ましていた。
 それが四回ほど続いたころ、唐突に体が甘いものを欲したため冷蔵庫からプリンを取り出し、口の中へと運んでいく。そこで突然、コン、コンコンと不規則なリズムで扉をたたく音が聞こえる。

「あ、はい」

 相変わらずの鼻声プラスガラガラ声で返事をする。
 大家さんか、なんかの集金だろうか。セールスだったら最悪だな。
 そう思いながらマスクを装着して扉を開く。するとそこには床から六十センチほど浮いたところに縦長の段ボールと正方形型の段ボールが一つずつ詰まれていた。そしてその右側にはいわゆるエコバッグのようなものがちらりと見えており、まったくもって訳のわからない光景に俺は唖然とした。
 もしやこれが悪夢の正体なのか?
 直後、段ボールの向こう側から声が聞こえてくる。

「ああ、田辺くん。よかった。大丈夫……なわけないよね。ひとまず、中に入ってもいいかな?」

 俺は驚いた。なんとその声は一瀬さんのものだったのだ。
 なにしにここへ? この荷物はなんだ? もしかしてこれも夢?
 あれ? この次々と疑問があふれ出てくる感じ、ほんの少し前にもあったような。
 脳内処理が追い付かない中、俺は何も考えず反射的に「どうぞ」と言って一瀬さんを中へ通してしまう。一方の一瀬さんは「ありがとう」とひとこと言って玄関口に荷物を置くと、マスク越しでも分かるほどの申し訳なさそうな表情で言葉を続ける。

「突然押しかけてごめんね」
「いえ、そんな……」
「それで容体のほうはどう? 病院にはもう行った?」

 少々大仰ではないかと思えるほどに気遣ってくる一瀬さん。それに俺はどぎまぎと困惑気味に答える。

「え、あ、はい。病院には行きました。お医者さんが言うにはおそらく風邪だろうと。インフルの検査も陰性だったので。病院への行き帰りは少し大変でしたけど、片道十五分を歩けるほどにはなんとか大丈夫です」

 すると一瀬さんは一瞬だけ不自然な間を開けてから口を開く。

「ああ、そうなのね。それは不幸中の幸いというか、そこまで症状は重くないということね」

 はい、と俺は頷く。それを確認した一瀬さんは安堵したような表情と声で言った。

「それならよかった。田辺くんが体調不良だなんて初めてのことだったからちょっとびっくりしちゃって。それにメッセージの返信もなかったし、大丈夫かな、って思っていたんだけど、大事ではなくて安心したわ」

 俺はハッとし、慌ててスマホを開く。そして通知欄を見ると、一瀬さんからいくつかのメッセージが届いていた。

「あああ、す、すいません。ちょっと携帯見てなかったです。ほんとすいません」

 大失態に対して平に謝罪する。しかし一瀬さんは、

「いいのいいの気にしないで。それより今は絶対安静にしていなきゃいけないんだから、押しかけた私が言うのはなんだけれど、ゆっくり休んで」

 とても寛容な態度で、なおかつ優しく俺の身を案じてくれた。
 俺は心の中で自らを戒めながらも、一瀬さんの対応に感謝を告げる。それに一瀬さんは優しく笑むと、ふと思いだしたかのように持ってきた段ボールを軽く触れながら口を開く。

「あ、そうだ、これ、差し入れね」

 箱の外見から何となく予想はできたが、確認のためにも一応尋ねる。

「それって……」
「こっちが加湿付きの空気清浄機で、こっちが小型のカーボンヒーター。一応付け加えておくとどちらも未開封よ。必要なかったら邪魔になるだろうし持って帰るけれど」

 やはり予想通りだ。しかも未開封ときた。これはさすがに。

「いや、その、すごく嬉しいんですけど、そんなの頂いてもいいんですか?」

 そんな質問が来ることなど察していたのだろうか、少し間を開けてから一つ笑み、優しくもしっかりとした口調で若干遠い目に語り始める。

「兄がね、ちょっとした家電好きでね。そのあおりもあって、おすすめのものをよく送ってくれるのよ。それはとてもありがたいことなんだけれど、気づけば数があぶれるようになってきて。当人に相談したら、必要としている人に譲ればいいと思う、と言われてね。それで今日、田辺くんにどうかなって思って持ってきたのよ。あってそんなに困るものでもないしね。だから必要だと思ったら受け取って」

 お兄さんいたんだ。いいお兄さんだな。いや、今はそんなことよりもだ。そこまで言われると、むしろ受け取らなければ失礼に値するのでないだろうか。それに自分自身、空気清浄機もカーボンヒーターも買おうかどうか少し悩んではいたものだ。せっかくだしもらっておこう。

「えっと、じゃあ、その、ご厚意に甘えて有難く使わせていただきます。あ、でも変な見返りとかないですよね。高額請求とか奴隷契約とか」

 一瀬さんはぽかんとする。そして二、三秒後クスクスと笑いながら言う。

「大丈夫。そういったことは一切ないから。ただ、一つ見返りを求めるとしたら、ゆっくり休んでしっかり風邪を治すこと。それだけかな」

 そう言われた俺は、タジタジになりながら返す。

「ぜ、善処します」

 そんなやりとりの後、まるでベテラン業者のような慣れた手つきで一瀬さんが開封作業とセッティングを行ってくれる。とてもありがたく、非常に申し訳ない。
 ものの一分ほどで加湿付きの空気清浄機がハイパワーで作動すると、早くも空気のよどみのようなものが徐々に和らいでいくように感じられた。ここからが本領発揮というところなのだろうが、空気清浄機の力、おそるべし。ちなみにカーボンヒーターは、今は暖房が効いているために電源はオフのままだった。
 一通りの作業が済んだ一瀬さんに、俺はまた感謝を伝える。すると一瀬さんは、

「どういたしまして」

 と答えると、なにか思い立ったかのように言葉を続ける。

「ねえ、もう食事は済ませた?」

 なんでそんなことを聞くんだろうと思いながらも俺は返事をする。

「いえ、まだです」
「おなかはすいている?」
「多少は……」

 もしかして、いやまさか……。

「よし、じゃあ、ちょっと台所借りるわね」

 一瀬さんは俺の返事を聞くより先に意気揚々と立ち上がり、持参していたエコバッグのようなものを手にして台所に立った。

「え、あ、はい」

 一方の自分は気圧され、挙句混乱し、なされるがままだった。
 こんな現実離れした展開、もしかして自分はまだ夢の中なのだろうか。
 もうまもなくして、そんな自分とは裏腹に一切動じていない様子の一瀬さんが、シンク下の扉に手を当て尋ねてくる。

「調理器具ってこの中?」

 俺は咄嗟に取り繕い、言葉を返す。

「あ、はい。そこに一式入ってます」
「ありがと。じゃあちょっと失礼するわね」

 一瀬さんはそう言って中を確認すると、さっそく調理のほうへ取り掛かっていった。
 そうして俺は一瀬さんに気づかれないよう静かに長く息を吐く。
 まさか電化製品の差し入れだけでなく、わざわざ食事まで用意してもらうことになるとは。こんなにも親切にしてくれる人、こと、そう滅多にないだろう。
 しかし。
 とてもありがたいことではあるのだが、そこまでしてもらっていいのだろうかという申し訳ない気持ちにも苛まれる。一方でものすごく助かっているのも正直なところで、断ろうにも断れないというなんとも複雑な胸中である。その挙句、ずっとなにかひっかかるような、とても大事なことを見落としているような気がしてならないという始末。

 そんなジレンマに近いものを抱いていると、ズキリとこめかみのあたりに痛みが走る。
このままだとさらに体調が悪化しそうだ。ともかく今は何も考えずに一瀬さんの温情を素直に受け取ることにしよう。恩をどう返すのかとか、なぜ一瀬さんはこんなにも気遣ってくれるのかとか、ほかにもいろいろと思ったことは体調が良くなってから考えればいい。
 そう判断して、一瀬さんの後ろ姿を改めて眺める。そして気持ちを切り替えるためになんとなく服装をチェックしてみることにする。

 黒ニットにデニムパンツ。いたってシンプルな装いではあるが、一瀬さんが着るとまるで女優やモデルのような風格があるように感じられる。それほどまでに見事な着こなしっぷりということなのだと思う。オシャレに鈍感な自分にはあまりよくわからない領域ではあるが。
 次に、今作っているものに注目してみる。どうやら定番のおかゆのようだ。この寒い日に、しかも体調を崩しているときのおかゆはとても沁みる。しかも一瀬さんの作るおかゆなのだから尚更そう思える。

 ん? あれ?

 そこで俺は、ふと我に返ったかのような感覚に陥る。そして体調不良や唐突な来客の影響で止まっていた一部の思考がゆっくりと動き出す。

 一瀬さんの作るおかゆ。それすなわち一瀬さんの手料理。その調理が今自分の目の前で行われている。そしてここは私、田辺泰晃宅。現在、その六畳半のワンルームで二人きり。相手は完全プライベートの一瀬さん。仕事もできて、性格もよく、容姿端麗な一瀬さん。くどいようだが、そんな人が、いま目の前で自分のために料理を作ってくれている。しかもこの空間で二人きり。

 そう認識した瞬間、唐突に胸のあたりが波のようにうねりを上げ、とてつもない羞恥が一気にこみあげてくる。当然それによって心拍数は上がり、顔はほてり、さらには脳にも響くほどに目がくらむのだった。
 どうしてこんな単純なことを見落としていたのか。いくら体調不良と急な来客で脳内処理が落ちていたとはいえ、あまりに散漫すぎやいないだろうか。
 もちろん一瀬さんと自分との間に何も起きないことぐらい十二分に理解している。一瀬さんはあくまでも仕事先の上司であり、その人がたまたま後輩を心配し、わざわざ気遣って家を訪ねてきてくれた、ただそれだけのこと。そんなの考えなくてもわかりきっている。でも……でもこんなシチュエーション、いざ実際に体感すると今にも気がふれそうである。
 肝心の一瀬さんは特に何か思う様子もなく、平然とおかゆに使うのであろうネギを切り刻んでいる。やはり俺のことは、そういう意味ではなんとも思っていない様子。若干残念な気もしないでもないが、正直今は好都合といえるかもしれない。とはいえ、ここからどうするべきか。
 自分一人で勝手に悶絶して勝手に気まずさを感じている中、なんとか頭をフル回転させようと試みる。
 ともかく挙動不審になるのは絶対に避けたい。それから一瀬さんに感づかれるのも同様だ。徹頭徹尾、平静でいなければ。そう、平静に。自分たちはただの上司と後輩という関係。それ以上はない。ちょっと優しくしてもらったからといって、このシチュエーションにドキリとしたからといって変な期待をしてはならない。平静に、平静に。
 そう無理やり心に言い聞かせながら、耐性をつけるために一瀬さんへなんでもない話題を振る。

「お兄さん、いたんですね」

 すると鍋の中をかき混ぜていた一瀬さんの手がぴたりと止まる。なにかまずいことにでも触れたのだろうかと一瞬不安になるが、それはすぐに払拭される。

「ああ、そういえば、田辺くんに言ったことなかったわね」

 一瀬さんはこちらに軽く目をやりながら、驚嘆したようにそう答える。
 確かに一瀬さんの『そういう話』はまったく聞いたことがなかった。かくいう自分のほうも面接時に少しだけ話したことがある程度だ。加藤さんやほかのスタッフとの間でも、合わせて片手で数えられるほどあるかどうか。それには一応理由があった。端的に言うと、あまりそこに触れられたくなかったのだ。決して不和というほどのことではなかったが、いろいろと面倒でややこしいため、自分はそういう話題を忌避していた。
 一方の一瀬さんはどうなのだろう。話す必要がなかったといえばその通りではあるが、それにしてはほんの少しばかり腑に落ちないというか、些細な違和感があるようなないような。もしかして一瀬さんもなにか抱えているのでは?
 なんて、先ほどまで動転していた人間がそんな推測をするのはとても滑稽で野暮なことだ。とはいえ、ここから下手に話を変えるのは得策ではないだろう。もうしばらく関係良好そうなお兄さんの話を掘り下げて、ある程度のところで切り上げよう。
 すでに調理を再開している一瀬さんにそれとなく尋ねる。

「どんなお兄さんですか?」

 うーん、と数秒首をかしげ、やがて一瀬さんは答える。

「そうねー、兄は……ちょっと子供じみた表現になるけれど、兄は私にとってヒーローのような存在ね」

「ヒーロー?」

 あまりに予想外の答えに俺は思わずきょとんとしながら問い返してしまう。しかし一瀬さんはムスッとすることもなく少しだけ顔をこちらに向けて軽く笑んだような表情を見せる。そして変わらず手を動かしながら口を開く。

「そう。ヒーロー。いつも気にかけてくれて、なにかあったら必ず助けてくれる。幼いころからそうだったわ。ちなみに兄の性格はレッドじゃなくてブルーの雰囲気に近いかな」

 少し照れたのか苦笑い気味に締めくくる一瀬さん。こんなところ初めて見た。
 それはともかくとして、今の話と口調だけで相当なまでにお兄さんを慕い、絶対的な信頼を寄せていることがひしひしと感じられた。自分には計り知れないほどになにか積み重ねてきたものがあるようだ。
 一瀬さんのヒーロー的存在、ものすごく興味が湧いてきた。
 俺は、もう少しだけお兄さんのことについて尋ねてみる。すると、改めて家電好きであること、一瀬さんとはちょうど一まわり年上であること、若くして隣県の開業医であること、奥さんがいること、子供が好きな食べ物が好物であることなど割とパーソナルな情報まで一瀬さんは話してくれた。
 本当にいいお兄さんなんだな。
 兄のことを楽しげに語る一瀬さんを見て、ざっくりとそんな感想を抱く。そして同時にあることを思う。
 ほんの少し前、一瀬さんは兄からもらった家電製品の数があぶれてきたと言っていた。その時、どうして断らないのだろうかと疑問に思ったのだが、今ならなんとなく分かる気がする。おそらく、二人にとってそれはお中元やお歳暮のようなコミュニケーションの一つとなっているのだ。もちろん、このご時世スマホがあればいとも簡単に連絡を取り合うことはできる。しかし一瀬兄妹はそれを踏まえたうえで、なおかつ特別な意を込めてワンシーズンに一度の恒例行事を行っているのではないだろうか。きっと一瀬さんもお兄さんになにか送って……。
 その瞬間、またズキリと頭が痛む。
 ああ、つい先ほどもあれこれ勘繰るのはよくないと思ったばかりなのに。もういろいろと考えるのはよそう。
 気持ちを切り替えるため、改めて目の前にいる一瀬さんへと意識を向ける。すると一瀬さんはいつのまにか調理を終え、鍋の中のものをお皿へと盛り付け始めていた。それを見た俺は慌てて居住まいをただす。そうして一つ深呼吸をしていると、まもなくそれが運ばれてくる。

「お待ちどうさま。とてもありきたりだけれど、はい、おかゆね」

 こたつの上にお皿が置かれる。出来立てのため、けっこうな湯気が立ち込めている。その中から見えているのは、いくらか黄みがかったところのあるおかゆだった。

「すみません。ありがとうございます。それじゃあ、早速いただきます」

 平静を保ちながら手を合わせて挨拶をし、おかゆをスプーンですくう。そうして二度三度ほどフーと息を吹きかけ、口の中へと運んでいく。

「うん、とっても美味しいです」

 こういった時特有の気遣いではなく、心底からそう思えたからこそ出た言葉だった。
 それを聞いた一瀬さんはほっと胸を撫で下ろしながら口を開く。

「ほんと? お口にあってよかったわ」

 いやいや、これなら大方の人は美味しいって言いますよ。
 一瞬そう言おうと思ったが、それよりもほんの少しだけ感じる刺激的な味が気になり、そのことを一瀬さんに尋ねる。

「もしかして、これ、生姜入ってます?」
「ええ、そうよ。ちょうど一時間ほど前にすり下ろしたものよ」

 このためにわざわざ仕込みまでしてきたのか。その行動力、恐れ入る。
 それにしてもこの生姜卵粥、胃腸への負担を軽減するために薄めの味付けで作られているが、生姜や卵の味が引き立ち、お出汁などと丁度いい塩梅をしている。
 とても健康的で、なおかつ美味しい。完璧じゃないか。一瀬さんの将来の旦那さんがうらやましいな。まあ、そこにたどり着くのは至難の業だろうから、当然の報いなのかもしれないが。
 そんなことを思いながらおかゆをいただき、流れで互いの料理事情の話になる。どうやら一瀬さんはある程度料理はするが、人に出せるほどのものではないとのこと。ただし、おかゆは一時期ハマって試行錯誤を繰り返した末にできたものだから例外であるらしい。少し変わっていて面白い。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み