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文字数 7,517文字


「おはようございます」

 現場に入り、挨拶をする。

「おはようございます」

 俺の後に続く小野寺さん。緊張感はあるものの、しっかりと声は出ている。加えて、変に委縮するわけでもなく堂々とした様子が窺える。
 今のところ何も問題なさそうだな。
 そうして彼女に手洗いのレクチャーをしていく。
 慣れない手つきで丁寧に手を洗う小野寺さんを見ながら、俺はある疑問が頭に浮かぶ。
 小野寺さんの年齢はいくつなのだろうか?
 見た目は高校一年生か二年生ぐらいに見える。だが、身のこなし方や醸し出す雰囲気に気品と落ち着きがあるせいか年齢が全く読めない。加えて、アルバイトの経験がなさそうだということも相まって、さらに分からなくなっていた。
 後でぎくしゃくするのも嫌だし、今のうちに聞いておくか。
 ペーパータオルで手を拭く小野寺さんに尋ねる。すると彼女は、明るく笑んで言った。

「今年で十六歳になります。ですから、その、敬語を使われなくてもいいですよ」

 見た目通りだったのか。だとしたら、随分と大人びた言動をしている子だ。
いや、それよりも新人の子に優しく気遣われるトレーナーってどうなんだろうか?
 ありがたくもあるが、恥ずかしくもあり、申し訳なくもあり。
そんな気持ちを抱きながら、小野寺さんに現場の説明をしていく。すると、今度は非常に悲しく残念な知らせが飛び込んできた。
 それは、パソコン周りの不具合や私病欠勤者が出た影響で、一瀬さんの勤務時間が急遽変更されたというもの。すなわち、自分がトレーナーを務めている間は一瀬さんが不在になるということだった。
 まさかの出鼻をくじかれるという最悪の事態である。もちろん他のスタッフを信用していないわけではないが、一瀬さんという心強い人がいるからこそ、なんとかなると思っていた部分が非常に大きい。自分にとってそれは、両翼をもがれた飛行機同然と言っても過言ではなかった。
 とはいえ、絶対にトレーナーを全うすると決意した上に、一瀬さんからは深刻そうな面持ちで謝罪を受けたのだ。今さら「やっぱりできません」とは口が裂けても言えない。
 ああ、どうしてこんなことになるのか。しかも頑張ろうと意気込んだ矢先にだ。
 神は残酷である。
 そう嘆いても、選択肢は一つしか残されていない。あったとしても、すべてをほっぽり出して逃亡するぐらいである。そんなことはやりたくないし、やる勇気もない。
 だから、もう分かっている。トレーナーを務めあげるしかないのだ。

 ジーザス。

 今あるネガティブな感情をすべて乗っけて、心の中でそう言い捨てる。そして、それを大きなため息ととともに吐き出してしまう。そうして、また演じることに集中していく。

「行こうか」

 小野寺さんに優しく問いかける。

「はい」

 彼女は、力強く返事をする。
 大丈夫。自分はやれる。
 自分に何度も何度もそう言い聞かせながら、カウンターへと向かう。
 そこで早速、レジを担当してもらおうと軽く思っていたのだが、

「こちらの商品、少々お時間頂きますがよろしいですか?」
「お次にお待ちのお客様、ご注文をお伺いいたします」

 と非常に込み合っており、予定を変更することになった。さすがに、初アルバイトの新人をそこへ放り込めるほど鬼畜にはなれない。
 シフトリーダーの佐藤さんに尋ねる。

「佐藤さん、こんな状態なので小野寺さん、ドリンカーに入ってもらってもいいですか?」
「せやねー。そないしよかー。国仲さん」

 ややおっとりとした口調、表情で佐藤さんは言う。メディアで言われているような『ザ・関西人』のイメージからは随分とかけ離れた人である。そんな佐藤さんから、それまでドリンカーを務めていた国仲さんに説明がなされ、正式に交代が認められた。そうして、事の成り行きをじっと見ていた小野寺さんに向き直って言う。

「それじゃあまずはドリンカー……ドリンクを作る係をやってもらいます」

 小学校の先生か!
 と内なる関西人が秒でツッコんでいる。なんだかとても恥ずかしい。だが、彼女はとくに変わった様子もなく、きちんと返事をしてくれる。
 とりあえず、気を取りなおしていこう。

「軽くやってみるから、少しだけ見てて」

 そう言って実演を見せる。紙コップを取り、氷を入れ、各ドリンクのボタンを押す。その間少しだけ手持無沙汰になるため、その時間を使って一通りの説明をしていく。そして最後にフタをし、カウンターのトレーへと運ぶ。実に単純な作業だ。

「じゃあ、やってみようか」
「はい!」

 どことなく嬉しそうに返事をする小野寺さん。もう緊張感はなさそうだった。

「氷はこの線までですよね?」
「うん、そうだよ」

 そんなやり取りをしながら、小野寺さんは一通りの作業をやっていく。

「どうでしょうか?」

 作業を終えた彼女は自信と不安が混ざった表情で言う。
見ていた限りでは特に問題があるわけでもなかった。それはおそらく小野寺さんの中でも同じだと思う。だが彼女にとってみれば、すべてが初めての経験になるのだ。どれだけ意気込んでいたとしても、心のどこかに多少の不安心が存在するのは自然なことでもある。
 きっとそれが、今の表情を作り出しているのだろう。
 俺は、優しく説得力のある口調で答える。

「うん、大丈夫だよ。この調子でどんどんいこうか」

 すると小野寺さんは満面の笑みを浮かべて言った。

「はい! ありがとうございます!」

 不安は消え去り、自信に変わったようだった。若干の胸苦しさを感じつつも、ホッとした気持ちになる。この調子でいけば、きっとなんとかなるだろう。そう思いながら、彼女のサポートと商品の取り揃えを行っていく。
 それから十数分が経つと、小野寺さんは驚くべき程の早い成長を見せる。当初は新人特有の硬さがあったのだが、あっという間になにか要領を掴んだらしく、作業ペースはみるみると早くなり、やがては冷静さや余裕すらも感じさせるほどだった。

「あの子、今日が初めてなんよね?」

 自分と同じくして商品の出来上がりを待っていた佐藤さんに、そっと耳打ちされる。

「ええ、そう聞いていますけれど」
「やんなー。でもあの動き見てたら、そうは思えんのやけど……入社二年目みたいやで」

 不思議そうに、そしてどこか冗談交じりに佐藤さんは驚嘆する。
 さすがにその例えは少し言い過ぎである気もするが、今日から初アルバイトとは思えないという点については全く持って同感だった。単純作業だから、と言えばそうなのかもしれないが。
とにもかくにも小野寺さんはドリンカーの作業に慣れてきているようであったため、一度彼女に声をかけることにする。

「このあと接客の方に回ってもらうことになるんだけど、見られる範囲でいいから流れとかやり方とか確認しておいて」
「はい」

 明るく返事をする小野寺さん。その表情はなんだかとても楽しそうである。それだけ、順応力が高いということなのだろうか。
その後、彼女にはドリンクだけでなく、フードメニューの取り揃えなども少しずつ行ってもらい、いくつかの経験を積ませていく。
 こうして一時間が経ち、彼女の初出勤時間を半分に折り返そうとしたころだった。この時間にもなると、さすがに来客も落ち着き、スタッフの方にも余裕が出てくる。
 そろそろいけそうだな。
 そう思い先刻と同じく佐藤さんに許可をもらってから、小野寺さんに事を告げる。

「それじゃあ、そろそろ接客をやってみようか」

 すると彼女は燦然と目を輝かせる。

「ほんとですか? よろしくお願いします」

 しかしその声色は非常に落ち着いており、表情との間に大きなギャップがあった。さらには心の中で必死に興奮を押し殺している様子も見られ、小野寺さんはとてもシュールな状態となっていた。
 それほどまでに接客をやりたかったのかと、俺は思わず笑ってしまいそうになる。だが、決して彼女を馬鹿にしているわけではない。ただ微笑ましいと、そう思っていた。
 そんな小野寺さんに言う。

「一応、見て確認はしていたと思うけど、改めて手本をやるからもう少しだけ見てて」

 カウンターの前に立ち、実演を始める。

「いらっしゃいませ」

 そうやって二度三度と繰り返し、お客がいなくなったタイミングで一通りの説明をしていく。そして最後に簡潔にまとめる。

「とりあえず、笑顔であいさつをして、注文をとり、お会計をする。まずはそこまで出来るようになろう」
「はい! わかりました!」

 その返事からはボルテージが最高潮に達していることが窺える。そんな小野寺さんに一抹の不安を覚えながらも、ついに彼女は念願の接客デビューを果たすのだった。

「いらっしゃいませ、こんにちは!」

 声、表情ともに緊張の色はなく、とても明るく爽やかであった。そして彼女は自分が想像していたよりも、ずっと落ち着いた雰囲気で接客を行っていた。それはもうベテランスタッフばりに冷静かつ丁寧なものである。かといって彼女の武器にも成りうる愛嬌や天真爛漫なところが損なわれておらず、いくつもの感情がバランスよくコントロールされていた。
 これには心底驚いた。失礼ながら、接客をやりたいという思いが先行し過ぎて、少しばかり元気になり過ぎるのではないかと勝手に心配をしていたのだが、そんなものはただの下種の勘繰りだった。初対面で、彼女のことをなにも知らなかったとはいえ、トレーナーとして最低である。

「どうでしたか?」

 その言葉にハッとする。
 そうだ、今は仕事中だ。物思いにふけっている場合ではない。
 小野寺さんの顔を見る。やはり彼女は、先ほどと同じように自信と不安が混ざった表情を見せていた。一度頭を振り払い、例の頼れる先輩を自分の中に下ろしてくる。

「うん、正直、びっくりするぐらいよく出来てたよ」

 そう言った瞬間、彼女の表情は澄んだ青空のように、ぱあっと晴れやかになった。そして心底ほっとした声でひとこと呟く。

「よかった」

 彼女の気持ちはよく分かる。かつて自分も経験したことのあるものだから。
 だが。

「それじゃあ、このまま最後まで頑張っていこうか」

 いらない感情を、記憶を、無理やり封じ込めながら小野寺さんに指示を出す。
すると彼女は感謝の言葉を残して、接客のほうへと戻っていった。とても嬉しそうで楽しそうである。そんな彼女の背中を見つつ、不必要な感情と記憶に蓋をしながら自分も仕事を再開させる。
 その後も彼女は驚くべきほど早い成長を見せた。接客にかかる時間がどんどんと短くなっていったり、商品の付属品もてきちんと取り揃えられるようになったり。普通では考えられないスピードで吸収しては成長を繰り返す小野寺さんに、スタッフ一同驚愕するしかなかった。
 今さらながら、とんでもない人のトレーナーを務めることになったと、ただただ恐ろしくなってくる。
 これから、上手くやれるのだろうか?
 そうぼんやりと考えていた時だった。佐藤さんが驚きの発言をする。

「よし、それじゃあ田辺くんは中抜け、そんで小野寺さんは上がりやね、お疲れさん」

「えっ」
 もうそんな時間なのかと思わず困惑の声が出る。しかしそれは小野寺さんの挨拶によって掻き消されたため、誰にも聞かれることはなかった。
 一旦、平静を装って自分も挨拶を返す。そして小野寺さんに退勤記録のつけ方をレクチャーしていく。そこでちらと現在時刻を確認するが佐藤さんの言った通り、その時間で間違いなかった。
 本当にこれでおしまいなのか。随分あっけないというか、肩透かしというか。あれだけ嫌だ嫌だと嘆き続け、入念に身構えたり、演じることを決意したりしたというのに、いざ蓋を開けてみると特に何も起こることはなく、ただいつもより少し辛い時間が流れていっただけだった。
 こんなことだったらネガティブになる必要も、神を恨む必要も、演じる必要もなかった。もちろん手をかける必要がないほどに小野寺さんのポテンシャルが高かったからこそ、そう言えるのだろうが。
 それでも何事もなく終わってよかったという安堵感よりも、自分は上手くやれたのだろうかという不安と圧倒的な不完全燃焼が心を埋め尽くしていた。そんな燻った気持ちを抱えながら、小野寺さんと共に挨拶をして仕事場を後にする。
 スタッフルームへと到着するなり、俺は小野寺さんに言う。

「先に、着替えと帰り支度を済ませちゃって」
「はい」

 そういう彼女の表情は明るく穏やかであるものの、少しの疲労感が見え隠れしている。口には出さないが、きっと相当疲れていることだろう。なにもかもが初めての経験になるのだから尚更だ。
 あとでゆっくり休むように言っておこう。
 そうして小野寺さんが身支度をしている間、俺は別の仕事に取り掛かる。棚から『小野寺希』と記入されたクリアファイルを取り、そこから数枚ほど紙を抜き取る。その紙には仕事の手順や注意事項などが記されており、そこに指導箇所や成長度合いを記入するようになっていた。個人用のマニュアルといったところだろうか。
胸ポケットからボールペンを取り出し、今日指導した箇所のチェックを行っていく。

「お、やってるね」

 突然の低い声の登場に、はっと驚き、声が聞こえた方へと目を向ける。そこにはスーツをバシッと着こなした高身長の男が扉を背にして立っていた。店長だ。心なしか、目を細めて笑んでいるように見える。その表情に疑問と困惑を抱きながらも、俺は苦笑い気味に答える。

「ええ、まあ」

 すると店長は、先ほどと同じ表情で俺の肩をぽんと一つ叩いた。そしてネクタイを緩めながらデスクの方へと向かい、そこの椅子にゆったりと腰を下ろした。
 その言動から察するに、がんばれ、とエールを送ってくれているのだろう。ありがたくもあるがおっかなくもある。
 店長がパソコンで作業を始めたのを見て、自分も作業を再開させる。
 店長はとても寡黙な人だった。どのスタッフも口をそろえて、店長が感情を露にするところを見たことがない、と言うほどだった。もちろんスタッフに対して的確な指示やアドバイスを送ることはあるし、接客となれば営業スマイルでお客をどんどんと捌いていく。だが、今のような表情は滅多に見ることができなかった。
 どんな理由で笑んでいたのかは全く想像つかないが、自分だけがその珍しい瞬間を見られたという優越感と幸福感で心が満たされていく。そうやってニヤついていると、小野寺さんが更衣室から出てきた。

「着替え終わりました。あ、店長さん、お疲れ様です」

 店長を視認した小野寺さんはそう言った。

「ああ、お疲れ様」

 顔をこちらに向けて、手を挙げながら答える店長。そしてまた作業へと戻っていく。いかにも店長らしい。
キーボードをたたく音が小さく聞こえる中、小野寺さんに今日の感想を尋ねる。それに彼女は苦笑いを浮かべながら言う。

「想像していたよりも、ものすごく大変だったというのが正直なところです」

 ほう。あまりそんな風には見えなかったが、本心ではそうだったのか。まあ新人の子であれば、そう思うのも不思議ではないか。
 小野寺さんは続ける。

「それでも、一つ一つの作業が興味深くて、とても楽しくお仕事ができました」

 そう言って穏やかな微笑みを浮かべる。その言葉、表情には一切の嘘が見られなかった。
 すごいな。仕事を楽しいと思えるなんて。いや、小野寺さんにとってみれば接客業は天職のようなものだろう。だからこそ、楽しいと言えるのだ。それに比べて自分は……。
 と考え始めると、むなしくなって先に進めなくなるため、一度その感情を無視する。そして、先ほどのクリアファイルのことと今日の反省点について出来るだけ簡潔にまとめて小野寺さんに伝える。といっても、そもそも反省点なんてほとんどないため大して時間はかからない。

「--と、まあ、そんな感じかな」
「え、それだけですか?」

 全然物足りないと言わんばかりの小野寺さん。彼女の中のハードルはいったいどこに設定されているのだろうか。
彼女を安心させるため、まっすぐに、そしてやや力強く言う。

「うん、それ以外で特に言うことはないし、次もこの調子でがんばっていこう」

 それを受けた小野寺さんは少し釈然としていないながらも、はいと返事をする。
 意外と押しに弱いのかもしれないな。そう何度も通用するわけでもないだろうが。

「それじゃあ、今日はここまで。家に帰ったら、ゆっくり体を休めて下さい。お疲れ様」

 労いを込めて小野寺さんに伝える。彼女はというと、やはり最後も明るく元気で礼儀正しかった。

「はい! ありがとうございました」

 澄み切った声でそう言って、とても綺麗なお辞儀を見せてくれる。それを見ていた俺は、彼女の育ちの良さに感心しつつ、そしてなぜだかトレーナーというものも悪くないと思えていた。
 不思議である。例の黒いなにかによる攻撃や先ほどの不完全燃焼感は今もなお続いているというのに。感情が幾重にも矛盾していて、なにがなんだかよく分からなくなってくる。
 きっと、疲れているんだ。疲れているから奇妙な感情を抱いて、こんな不可解なことが起こっているんだ。そうに違いない。家に帰ったら、時間までゆっくり休もう。
 そんなことを頭に思い浮かべながら、小野寺さんを見送り、自分も身支度を済ませていく。すると突然、店長に呼び掛けられる。そちらを見ると店長が椅子に座ったままこちらをじっと見据えていた。

「はい」

 俺は返答するが、なにも言葉は返ってこない。だが、店長は何か言いたげである。
いったい、なんなのだろうか。
 そう訝しく思って数秒、ようやく言葉が返ってくる。

「いや、なんでもない。お疲れ様」

 思わず、お笑い芸人のようにずっこけそうになる。しかしそんなことよりも、いつもポーカーフェイスの店長が、先ほどよりも柔らかな表情を浮かべていることにすっかり意識が向いていた。
 どうしてそんな表情をしているのだろうか。
 しかし、それを聞く勇気のない俺は、やや戸惑い気味に挨拶をしてスタッフルームを後にしたのだった。
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