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文字数 2,282文字
『惨めだな』
呆れ蔑む声が耳に届く。
誰の声だろう。
そう思い、ふっとあたりを窺う。すると、あたり一面にただただ真っ白な景色が広がっていた。
そうか、あそこか。
ここは例の白い空間であるようだった。そのためか、声の主の姿を確認することはかなわなかった。
しかし、と。
先ほどの声にはなんとなく聞き覚えがあった。確かあれは、数日前に……いや、それだけではない。ずいぶん前にも聞いたことがあるような気もするし、ここ数日の間にも嫌というほど耳に入ってきていたような気もする。内容云々は靄の向こうではあるが、幾度もその声が脳内を刺激していたことには間違いなかった。
俄然、声の主の正体が気になってくる。
その一方で、毎度毎度この場所であるのはなぜだろう、何か意味があるのだろうか、という疑問も膨らんでいく。
また、声が聞こえる。
『お前はいつだってそうだ。聞こえないふり、気づかないふりをしている。だからこんなことになるんだ』
え、なに? 突然何を言っているんだ?
『とぼけるなよ。そういうところだって、自分でもわかってるんだろう?』
抑揚はほとんどなく淡々とした様子ではあるが、呆れ蔑む口調は健在である。
『彼』が自分に対して何かしらの敵意を向けていることは火を見るよりも明らかだった。だが、その理由といま彼が言った言葉の意味が自分には全く分からなかった。
人違いじゃないのか?
そんな疑問を抱くと、こちらのことは向こうに筒抜けなのかすぐに彼の声が返ってくる。
『そうか。じゃあ見せてやるよ』
その直後、指先でそっと触れられたかのような感覚が胸のあたりに訪れる。そして次の瞬間、心の中の堤防が一気に崩れ去る。そこから記憶、感情、痛み、苦しみ、そのほかにもありとあらゆるものがどっと流れ出て、あっという間に全身を襲いつくしていく。それに耐えられなくなって俺はその場に倒れこむ。
『思い出したか? 現実を、罪を、報いを』
うっすらとそんな言葉が聞こえてくる。だが、それに対してなにか反応できるほどの余裕はまったくない。
そんな中、俺がこうなることは想像通りであったとばかりに、彼は俺の答えを待つことなく畳みかけてくる。
『お前は本当にどうしようもない奴だ。なにかあるたびに都合よく忘れて、なかったことにしようとする。防衛本能と言えば聞こえはいいが、お前の場合はただ逃げてばかりの出来損ないの屑に他ならない。そうやって地べたに張り付いているのがお似合いだろう』
一瞬、なにかよくわからない感情が芽生える。しかし、それはあっという間に潰えてしまい、また辛い時間が流れていく。
まもなくして彼が言葉を続ける。
『改めて言う。現実と向き合え。すべてを受け入れろ』
しばし静寂が訪れる。そして、
「い……や……だ……」
いくらかのタイムラグを経て、俺の口が反射的に動く。これは自分にとって意図せぬ出来事だった。
一方の彼は一切動じることなく、相変わらずの淡々としながらも呆れ蔑む口調で答える。
『この期に及んでまだ逃げ続けるか。残された道は一つしかないというのに。救いようのない馬鹿だな』
「うる……さい……」
これもまた意図的ではない。おそらくは本能がそうさせているのだろうか。
彼は仕切りなおすように口を開く。
『もう一度言う。現実と向き合え。すべてを受け入れろ』
これまでも大概だったが、今回はより一層威圧感のようなものが増しているように感じられた。だが、
「いや……だ……」
俺は臆する臆さない関係なく無意識にそしてふり絞るように言葉を返すのだった。
すると彼は一つ間を置いたのちに言う。
『それじゃあ一生地べたを這いずり回っているといい』
その言葉には棘があった。自分の中のなにかが壊れてしまってもおかしくないほどのとても大きくて鋭い棘だった。しかし俺は致命傷どころか、重症にすら至っていなかった。それはなぜか。彼の口調や声音にほんの少しだけ悲しみが乗っていたからだ。それゆえに覇気のようなものがいくら抜け落ち、言葉のとげとげしさは小さく鈍くなり、なおかつ急所から外れたところに浅く刺さっただけのようなのである。
ひとまず最悪の事態は避けられてよかったと安堵するべきか。
だが今はそんな間もなく、新たな問題にさいなまれていた。先ほどの彼のどこか悲しげな声音を聞いてからというもの、無性に胸が痛く苦しくなっていたのだ。さらに脳内では、彼は何に悲しんでいたのか、そしてなぜ自分が彼の感情に感化されているのかという疑問が堂々巡りする始末。
つい先ほどまで彼は俺を呆れ蔑み、俺は彼に対抗するという敵対関係にあったというのに。
そう思った刹那、彼の言葉が脳内でよみがえる。
『お前はいつだってそうだ。聞こえないふり、気づかないふりをしている』
『思い出したか? 現実を、罪を、報いを』
『お前はただ逃げてばかり』
『現実と向き合え、すべてを受け入れろ』
『一生地べたを這いずり回っているといい』
あれ?
そこで俺は、ある違和感に気づく。
どうして彼は、そこまで俺に構うのだろうか。
どうして彼は、俺のことを知った気でいるのだろうか。
どうして彼は……。
ああ……そうか……。
彼の正体は……。
今日まで抱いてきた数々の疑問や考えが、自分の中でおおよそ一つの塊となっていく。
そして、一つの結論が出る。
彼の正体は……もう一人の自分だ……。
呆れ蔑む声が耳に届く。
誰の声だろう。
そう思い、ふっとあたりを窺う。すると、あたり一面にただただ真っ白な景色が広がっていた。
そうか、あそこか。
ここは例の白い空間であるようだった。そのためか、声の主の姿を確認することはかなわなかった。
しかし、と。
先ほどの声にはなんとなく聞き覚えがあった。確かあれは、数日前に……いや、それだけではない。ずいぶん前にも聞いたことがあるような気もするし、ここ数日の間にも嫌というほど耳に入ってきていたような気もする。内容云々は靄の向こうではあるが、幾度もその声が脳内を刺激していたことには間違いなかった。
俄然、声の主の正体が気になってくる。
その一方で、毎度毎度この場所であるのはなぜだろう、何か意味があるのだろうか、という疑問も膨らんでいく。
また、声が聞こえる。
『お前はいつだってそうだ。聞こえないふり、気づかないふりをしている。だからこんなことになるんだ』
え、なに? 突然何を言っているんだ?
『とぼけるなよ。そういうところだって、自分でもわかってるんだろう?』
抑揚はほとんどなく淡々とした様子ではあるが、呆れ蔑む口調は健在である。
『彼』が自分に対して何かしらの敵意を向けていることは火を見るよりも明らかだった。だが、その理由といま彼が言った言葉の意味が自分には全く分からなかった。
人違いじゃないのか?
そんな疑問を抱くと、こちらのことは向こうに筒抜けなのかすぐに彼の声が返ってくる。
『そうか。じゃあ見せてやるよ』
その直後、指先でそっと触れられたかのような感覚が胸のあたりに訪れる。そして次の瞬間、心の中の堤防が一気に崩れ去る。そこから記憶、感情、痛み、苦しみ、そのほかにもありとあらゆるものがどっと流れ出て、あっという間に全身を襲いつくしていく。それに耐えられなくなって俺はその場に倒れこむ。
『思い出したか? 現実を、罪を、報いを』
うっすらとそんな言葉が聞こえてくる。だが、それに対してなにか反応できるほどの余裕はまったくない。
そんな中、俺がこうなることは想像通りであったとばかりに、彼は俺の答えを待つことなく畳みかけてくる。
『お前は本当にどうしようもない奴だ。なにかあるたびに都合よく忘れて、なかったことにしようとする。防衛本能と言えば聞こえはいいが、お前の場合はただ逃げてばかりの出来損ないの屑に他ならない。そうやって地べたに張り付いているのがお似合いだろう』
一瞬、なにかよくわからない感情が芽生える。しかし、それはあっという間に潰えてしまい、また辛い時間が流れていく。
まもなくして彼が言葉を続ける。
『改めて言う。現実と向き合え。すべてを受け入れろ』
しばし静寂が訪れる。そして、
「い……や……だ……」
いくらかのタイムラグを経て、俺の口が反射的に動く。これは自分にとって意図せぬ出来事だった。
一方の彼は一切動じることなく、相変わらずの淡々としながらも呆れ蔑む口調で答える。
『この期に及んでまだ逃げ続けるか。残された道は一つしかないというのに。救いようのない馬鹿だな』
「うる……さい……」
これもまた意図的ではない。おそらくは本能がそうさせているのだろうか。
彼は仕切りなおすように口を開く。
『もう一度言う。現実と向き合え。すべてを受け入れろ』
これまでも大概だったが、今回はより一層威圧感のようなものが増しているように感じられた。だが、
「いや……だ……」
俺は臆する臆さない関係なく無意識にそしてふり絞るように言葉を返すのだった。
すると彼は一つ間を置いたのちに言う。
『それじゃあ一生地べたを這いずり回っているといい』
その言葉には棘があった。自分の中のなにかが壊れてしまってもおかしくないほどのとても大きくて鋭い棘だった。しかし俺は致命傷どころか、重症にすら至っていなかった。それはなぜか。彼の口調や声音にほんの少しだけ悲しみが乗っていたからだ。それゆえに覇気のようなものがいくら抜け落ち、言葉のとげとげしさは小さく鈍くなり、なおかつ急所から外れたところに浅く刺さっただけのようなのである。
ひとまず最悪の事態は避けられてよかったと安堵するべきか。
だが今はそんな間もなく、新たな問題にさいなまれていた。先ほどの彼のどこか悲しげな声音を聞いてからというもの、無性に胸が痛く苦しくなっていたのだ。さらに脳内では、彼は何に悲しんでいたのか、そしてなぜ自分が彼の感情に感化されているのかという疑問が堂々巡りする始末。
つい先ほどまで彼は俺を呆れ蔑み、俺は彼に対抗するという敵対関係にあったというのに。
そう思った刹那、彼の言葉が脳内でよみがえる。
『お前はいつだってそうだ。聞こえないふり、気づかないふりをしている』
『思い出したか? 現実を、罪を、報いを』
『お前はただ逃げてばかり』
『現実と向き合え、すべてを受け入れろ』
『一生地べたを這いずり回っているといい』
あれ?
そこで俺は、ある違和感に気づく。
どうして彼は、そこまで俺に構うのだろうか。
どうして彼は、俺のことを知った気でいるのだろうか。
どうして彼は……。
ああ……そうか……。
彼の正体は……。
今日まで抱いてきた数々の疑問や考えが、自分の中でおおよそ一つの塊となっていく。
そして、一つの結論が出る。
彼の正体は……もう一人の自分だ……。