13

文字数 9,944文字

 気が付くと、俺は、あのカラオケ店にいた。
 いつ目を覚まして、なんでここへ来たのかは全く覚えていないし分からない。
 ただ一つ、今俺はひたすらに狂乱したように歌を歌い続けていた。
 次から次へと曲を入れては歌い、間奏や曲間の時に水分や食べ物を口にする。
 時折お手洗いに行くということ以外ではほぼ休むことはなく、なにかに取り憑つかれているかのように歌い狂っていたのだった。

 ふと、思う。
 果たして俺はこの時間をどれだけのあいだ過ごしてきたのだろうかと。
 そんな疑問が浮かぶも、それはすぐに『歌う』という行為によってかき消されていく。

 しばらくして、あることを思い出す。
 ここへ来る道中に銀行のATMでいくらかの万札を下ろしていたことを。
 こうなることを見越してなのか、こうしようと思い立ったからなのか、そこまでは分からない。だが、お金の心配は必要ないということだけは確かだった。
 特に理由なく貯金をしておいてよかった。こんな形でお金が使われることに多少不本意な部分もおそらくあるだろうが。
 そうしてまた歌い狂う。

 歌っている間はすべてを忘れることができた。嫌なことも、苦しいことも、悲しいことも。無理やりではあるものの歌に集中することで気分が楽になっていた。
 しかし、歌唱後は張りぼての天からまごうことなき地へと叩き落される。その時が訪れると負の感情が心に大挙して精神が一気に崩れ落ちそうになるのだ。そして体中が『毒』によって蝕まれていくような感覚も同時にやってきて、気がふれる寸前にまで追いつめられるのだった。
 幸いにも、ちょうどそのタイミングで前もって機械に入れておいた曲が流れ始めるために振り切ることはなかった。だが、こうやって躁鬱を超短期間で繰り返している状態は非常によろしくないだろう。とはいえ、今はこれに頼るしかないのも事実。
 一部の酒や性欲、あるいは薬物に依存してしまう人の気持ちが少しだけわかるような気もする。
 そんな考えが一瞬だけ頭に浮かぶが、やはりそれはすぐにかき消されていく。

 そうして数時間が経った。さすがにこれだけの長丁場となると肉体的にも精神的にも疲労困憊で、様々な感覚が鈍ったり機能しなかったりする。そのためか、いつしかはっきりとした躁鬱を繰り返さなくなり、今はただまどろみのような意識の下にいた。結果オーライではあるものの、それでも俺は恐怖心だけは拭い切れず、いつまでも歌を歌い続ける。

 やがてフロントからの電話が鳴る。要件は、昼のフリータイム終了の時間だがどうするか、というもの。まだ歌っていないといけないという強迫観念めいたものもあったが、さすがにこれ以上は帰宅する際の体力気力がもたないと思い、ようやく俺は退店することを決意した。
 ゆったりと身支度を済ませ、部屋を出る。そしてぼうとした意識の中で階段を下り、フロントへと向かう。

 フロントでは会計中の高校生カップルと、その後ろに並んでいる熟年の女性グループ、それから受付待ちなのであろう二組の子連れの家族がいて、とても賑やかな様子だった。普段の自分ならば、ちょっとばかしやかましすぎるなと思い、イヤホンを耳に突っ込むところだが今日はそうしない。それらの音がとても遠くから聞こえてくるようで、気にもならなかったのだ。それほどまでに自分は腑抜けていたのだった。それゆえに、

「……お客さま……お客さま……お客さま!」
「あ、ああ」

 店員の声すらも聞き逃す始末。はっとしてあたりを見渡すと、会計待ちだった熟年の女性グループはおらず、受付待ちの二組の家族も案内された部屋へと向かっており、フロントには自分と若い女性店員の二人だけとなっていた。いったいなにをやっているんだか。

「す、すいません」

 謝罪をしながら急いで店員に伝票を渡し、財布の準備をする。恥ずかしさとその他いろいろな感情から店員を見ることはできなかった。一方の店員は元気よく言う。

「いえ、大丈夫ですよ。それではお会計が、4280円です」

 結構食べた気でいただけに、想像していたよりも少額だな。まあ平日昼のフリータイムでその額なら結構いっているほうではあるが。
 そんなことを思いながら財布からお金を取り出す。そうして精算が行われ、店員からお釣りとレシートとクーポン券を受け取り、その場から離れようとする。その時、

「あのー、つかぬ事をお聞きしますが、もしかして田辺さんですか?」

 額とみぞおちに正拳突きを食らわされたかのような衝撃を受ける。
 おいおい嘘だろなぜ俺のことを知っているこの店員は俺の知り合いなのかそれともどこかで会ったことがあるのかいやあるはずがない。
 だけども。
 声をかけられた瞬間にデジャブのようなものを感じた気もしないでもないような……。
 ともかく、人違いであることを主張してさっさと店を出よう。
 そう思ったのだが、俺の体はその考えに反し、ゆっくりと恐る恐るといったように店員の顔を見てしまう。

「あー! やっぱり田辺さんですよね! お久しぶりです! お元気でしたか?」

 その店員の顔を見て、そして改めてテンションが高めの声を聞いてさすがにもう誰であるかは理解した。だが、こんな形で再会したことへの驚きと今この人と接することは非常にまずいと感じたために、俺は身動きも取れず一言も発せないでいた。それを勘違いした彼女は歓喜といった様相から一転、申し訳なさと悲しみが混ざったような様相で言う。

「あー失礼しました。あの、私、宮前紗菜です。希ちゃんの友達で、それからこの店で一度お会いしたことがあって……その、覚えていませんか?」

 相も変わらず、素直で、感情が顔に出やすくて、そしてけっこうグイグイとくる子だな。
 ……あの人と似ているようで少しだけ違う。いや、今そのことは。
 思いを断ち切るように、宮前さんの誤解を解くために俺は頭を振り、そして言う。

「あ、いや、ちゃんと覚えているよ。まさかこんなところで会うと思っていなかったから、ちょっと動揺しちゃって」

 すると彼女は、

「そういうことだったんですね。よかった。覚えていてくださって、ありがとうございます」

 と安堵した口調でニッコリと笑んでいた。
 ひとまず、よかった。
 そう心の中で思っていると、俺の言葉よりも先に宮前さんが言葉を続ける。

「それはそうと、この後ってお時間空いてますか?」

 イエスと答えてはいけない。
 直感でそう感じたが、やはり俺の体はそれに反し、イエスと答えてしまう。
 ああ、もうどうにでもなれ。
 不安心と恐怖心の中で諦観の念がより一層強くなる自分をよそに、回答を聞いた彼女は喜び、感謝の言葉を口にする。そして、もうバイトが上がりになるからここで待っておいてほしいとだけ言い残して、次のフロント担当へ仕事を引き継ぎ、裏へと下がっていった。
 いったいこれから何が起こるというのか。
 それから五分と経たずに、冬用制服に身を包んだ彼女が姿を現す。彼女はフロント担当のスタッフに一つ挨拶をすると、すぐに俺のほうへと視線を向けて口を開く。

「お待たせしました。それじゃあ行きましょうか」

 宮前さんは店の出口へとむけて歩き始める。俺はその言葉に相槌を売って、彼女の斜め後ろをついていく。

「うぅ、寒い」

 店を出て外の冷たい空気を感じた宮前さんが、手袋を着けた手をこすりながら少しだけ声を震わせる。彼女の言動の通り、今晩はいつもよりも幾らか冷え込んでいるように思えた。
 肉体や精神が疲弊しきっているときに、この寒さは堪える。また体調を崩してしまうのではないだろうか。
 そんな不安がよぎる中、彼女は俺に話を振ってくる。

「田辺さん、今日も自転車ですか?」

 なぜそのことを知っている?
 一瞬唖然とするも、おそらくはあの人から聞いたのだろうという考えに至り、俺はすぐさま気持ちを切り替えて彼女にイエスという答えを返す。すると彼女は胸の前で手を合わせながら申し訳なげに口を開く。

「それじゃあ途中まで自転車を押して歩いてもらってもいいですか?」

 いろいろと辛く苦しいところではあるが、そう言われれば従うほかない。だが、行き先はどこなんだ?
 俺はなんとか作り笑みを浮かべながら問う。

「別にいいけど……でも、これからどこへ……?」

 宮前さんは嬉しそうに笑みながら答える。

「文化祭の劇のDVDを田辺さんに受け取ってもらいたくて。これから私の家へと向かいます」

 なるほど。
 あまりに疲弊しすぎていて、もうそれだけの感想しか出てこない。いや、むしろそれでよかったのだと思う。きっと平時であれば大きく取り乱していたことだろうから。怪我の功名というべきか。

「そういうことか」

 俺は簡単にそう答えると、彼女は笑みながら『はい』と一つ返事をし、何の違和感もなく言葉を続ける。

「それにしても田辺さん、かなり長い間、あそこにいたんですね」

 ああ、まあ、そりゃあそこを突いてくるだろうな。

「ああ、まあ、自分でも結構びっくりしてるよ」
「ずっと歌ってたんですか?」
「うん。たまにご飯を食べたり、飲み物を飲んだり、トイレに行ったりするぐらいで、あとはずっと歌いっぱなしだったかな」

 ここで嘘をついても意味がないため俺は正直にそう答える。いや、ただ嘘をつく余裕がないだけかもしれないが。

「うわあすごい。もう田辺ロックフェスじゃないですか」

 冗談なのか本気なのか分からない口調で彼女はそう例える。
 面白いことを言う子だな。
 ぼんやりとそんなことを思いながらも、これ以上話を掘り下げられるのは面倒だと判断し、はははっと軽く笑ってから俺は咄嗟に話題を変える。

「そういえば宮前さんはいつからあそこで働いてるの?」

 少し無理があったかと不安になるが、彼女は何も疑うことなく、すんなりと答えてくれる。

「去年の四月の中ごろですね。ちょうど希ちゃんと仲良くなったころで……」

 おぅふ。まさかそんなところに地雷があったとは。いや、でもそうか。きっと宮前さんはあの人から俺のことをある程度聞いているだろうし、それに……その後俺たちの間に『何』があったのかは聞いていないだろう。もしかしたら恋仲に近い関係であると思われていてもおかしくないのかもしれない。だからわざわざあの人のことを話に絡めてきて……。
 はあ、と複雑な感情の中、気が付くと彼女はワクワクとした様子でこんなことを言い出す。

「田辺さんってどんな歌を歌うんですか?」

 刹那、俺はドキリとする。逸らした話題へと戻ってきたから、そして宮前さんがあの人を彷彿とさせるような雰囲気を持っていたから。しかし質問自体にはなんの問題もなく、むしろこれでまた違う路線に乗せることができると思い、俺はすぐさま取り繕って十八番やよく歌うジャンルなどを答える。すると彼女は、もう少し詳しく聞かせてほしいと食いついてきたのだった。
 よし、いける。
 心の中でグッとガッツポーズをしながら、言われた通り詳細を話していく。その間、彼女は興味深く話を聞いたり、質問をしてくれたりしていた。どうやら彼女は多少話が分かるようで、俺が一番好きなアーティストのことも名前や曲名程度は知っているとのこと。そのためか、気が付くと自分は取り繕うことにも必死であったため、思わず加藤さんとしか話したことのない話題にまで赤裸々に語っていた。ドン引かれやしないだろうかととても不安ではあったが、宮前さんはそんな様子を一切見せることなく、むしろ心底から楽しげな様子だった。まるで、あの人のように。
 なんとか話を広げに広げて十分近くが経っただろうか。いつまで話し続けていればいいのだろうかと焦りが出始めていたころに、宮前さんがちょうどいいタイミングで話をさえぎってくれる。

「あっ、着きました。すいません、寒いですけど、ちょっとここで待っててください」

 そうして彼女は、団地の一角の階段をいそいそと一段飛ばしで上がっていった。

「はあー」

 失うものもあったが、この場はひとまずほっと一安心といったところだろうか。いや、むしろここからが大変なのかもしれない。ともかくDⅤDを受けとったら一刻も早く帰宅しよう。
 そんなことを思いながら数分の時を過ごしていると、宮前さんが三階の一室から出てくる。そしてまたいそいそと階段を降りてきて、満面の笑みを浮かべながら口を開く。

「お待たせしましたー。はい、これ、文化祭のDVDです」

 自分にとっては鋭利な刃物に等しい凶器を彼女は思いっきりこちらに突き付けてくる。それに俺は眉をびくつかせながら言葉を返す。

「確かに、受け取りました。わざわざありがとうね」

 心にも思っていない感謝の言葉を取り繕いながら宮前さんに伝える。すると彼女は、

「いえ、当然のことをしたまでです」

 と胸を張って軽やかに答えるのだった。
 こういったところはあの人とは少し違うよな。
 そう脳内で意図せぬことを考えていると、宮前さんは張り切った様子で言葉を続ける。

「あ、それから、希ちゃん、ものすごく頑張ってましたよ」

 刹那、ぎゅっと心臓を掴まれたかのような感覚が胸のあたりにやってくる。
 早く彼女と別れないと。
 そんな思いの中、なんとか平静を保ちながら口を開く。

「へ、へぇー、そうなんだー。あの時……宮前さんと初めて会った時も、小野寺さんのことをすごいって褒め称えていたもんね」
「は、はい。ほんとに希ちゃんはすごいんですよ」

 あれ、宮前さん、今ちょっと歯切れが悪くなかったか? なにかあったのだろうか……いや、自分にはまったく関係のないことだ。気にするな、気にするな。
 すぐさま感情を切り替えて、さっさとこの場からお暇するため彼女に挨拶をしようとする。しかし、

「田辺さん」

 それよりも先に宮前さんが会話の主導権を握ってしまったのだった。
 完全にまずった。ここから帰宅の旨を伝えるのはほぼ不可能だろう。彼女に猛烈な違和感を与えかねない。とはいえ、このタイミングで改めて名前を呼ぶということは、彼女はなにか重大な話をしようとしているわけで……だがそれは自分にとって非常に危険なものであるとしか思えないのもまた事実で……。

「どうかした?」

 結局俺は宮前さんを無視することができず半ば無意識的に返事をするのだった。一方の彼女は一つ間を置いたのち複雑そうに語り始める。

「希ちゃん、すごく頑張っていたんですけど、その、なんというか……」

 上手く言語化ができていないのか、それともまだためらいがあるのか、彼女は一度言葉を詰まらせる。それに俺は一体どんな言葉が飛び出すのかととても不安になり、緊張感が高まってより一層身構える。それから数秒後、なんとか絞り出すようにして彼女は言葉を続ける。

「本調子じゃなかったというか、本領発揮できてなかったというか、田辺さんとカラオケ店で会ったあの日ごろから、ずっと体に力が入っているように見えて……」

 俺の心臓はドキリと大きく動く。そして同時に胸のあたりのざわざわとした感覚が一層強くなる。一方の宮前さんはやや慌てながら言う。

「ああ、もちろん希ちゃんの演技はお世辞抜きにすごくよかったですし、終演後にいろんな人から称賛されていましたよ。あれから三か月近く経った今でも、『あの時の演技、感動した』とか『女優を目指さないのか』とかって言われるぐらいに反響が凄まじくて、本人はとても大変そうにしてますけどね」

 宮前さんは苦笑いしながらそう語るも、

「ああ、その話じゃなくて」

 と一度咳払いをして話を本線に戻していく。

「ともかく、劇に支障が出るほどの大きな問題にはならなかったので、それはそれでよかったんですけど……でも、希ちゃんの力はそんなものじゃなくて……あれを超える才能があることを知っているだけに、どうしてその能力が発揮できなかったのかなって、どうして体に力が入っていたのかなって。きっとなにかあったんだと思うんです。だから、その、田辺さん、なにか知っていませんか?」

 よくしゃべるな。とはいえ彼女はだれにも相談できず、今ここでいろいろと吐き出しているのだろう。
 そんな客観的なことを無理やり考えながら、俺は彼女に言葉を返す。

「どうして僕が知ってると思うのかな? 僕はただのバイト先の先輩なんだよ? その程度の人間が……」
「そんなことありません」

 宮前さんは少し口調を強めて否定する。そこにはほんの少しばかり怒りに似た感情がこもっているようだったが、表情は比較的おだやかで全体的に諭すような雰囲気に見えた。
 俺はなにかおかしなことでも言ったか? 至極真っ当なことを言っただけだとは思うのだが。
 脳内に一つ大きな疑問が芽生える。
 まもなく彼女は言葉を続ける。

「だって希ちゃんは、ほかの誰よりも田辺さんのことを見ていて、憧れていて、信頼しているんですよ。それに、希ちゃんが過度に喜んだり悲しんだりしているときは、たいてい田辺さんが絡んだ出来事が起こっていて……といっても詳しい内容までは聞いてないんですけど、でも、希ちゃんの心の真ん中に田辺さんがいることは間違いないんです。だから私は、田辺さんがただのバイト先の先輩だとは思えないです。むしろ希ちゃんの中では『神』として崇め奉られているとさえ思っています」

 満面の笑みを浮かべ、自信満々にそう言い切る宮前さん。
 彼女はいったい何を言っているんだろうな。
 俺は、汚く「ふっ」と笑いながら口を開く。

「小野寺さんのこと、よく知ってるんだね」
「はい、もちろんです。なぜなら私は、希ちゃんの友達ですから!」
「だったらどうして……」

 その時、俺はハッとする。
 また、意味もなく女の子を傷つけるのか。あの時のように。

「どうかしました?」

 宮前さんがやや心配そうに尋ねてくる。

「いや、なんでも……」

 額を抑えながらなんとかそう答え、そして続けざまに一つ気になったことを彼女に問う。

「ここ最近の小野寺さんはどう?」

 その瞬間、彼女はややまくしたて気味に言う。

「ああ、そのことについても聞きたかったんです。希ちゃん、文化祭が終わってからは段々と力みとか違和感とかがなくなっていったんですけど、でも今週の月曜日になって急に、顔色が悪くて様子のおかしい状態で学校に来ていたんです。本人は『ちょっと風邪引いちゃって』って言ってましたけど、明らかにその程度のものじゃなくて……田辺さん、なにがあったんですか?」

 気になるなら、本人に直接聞けばいいのに。
 そう強く思ったが、先ほどと同じく毒をぐっと心の中に飲みこむ。きっと彼女たちには彼女たちなりの考えや関係値があって、言ったり言わなかったり、聞いたり聞かなかったりしているのだろうから。
 それにしても、だ。
 俺はいったい何をやっているんだろうな。
 そんな自嘲をしながら、俺は無意識のうちに意地悪なことを彼女に言ってしまう。

「もし、話したくないって言ったらどうする?」

 宮前さんは一瞬ぽかんとする。しかしすぐに話を呑み込んだらしく、真剣な様子で、だけども優しさが感じられる口調で答える。

「確かに、ことによったら嘘を言ったり、なにも話さなかったりするかもしれません。そうなれば私は希ちゃんの力になれないし、そんなのすごく悲しいし辛いし悔しいです。でも田辺さんなら……ううん、なにがきっかけでも私は田辺さんのことを信じます、信じてます。田辺さんなら希ちゃんを救うことができるって。田辺さんにすべてを託します」

 彼女はいったい何を言っているのだろうか。いや、考えるだけ無駄か。それになにより、もう、耐えられない。

「とにもかくにも、もうDVDは受け取ったわけだし、そろそろ帰らせてもらうね。わざわざ用意してくれてありがとう。それから……」

 ほぼ無心でしゃべっていたが、どうしてもそこにだけは反応してしまい、思いっきり言葉に詰まる。それでもなんとか言葉を絞り出していく。

「それから、小野寺さんとのことについては話せない。ごめんね。でもこれは自分たちの問題だから割り切ってほしい」

 それに彼女は素直にうなずく。

「分かりました。田辺さんがなんとかしてくれると信じてます」

 まったく……。

「ひとつ言っておくけど、自分はそんな大した人間じゃない。だからあまり期待しないで。それともう一つ……」

 彼女にしゃべる間を与えることなく、俺は矢継ぎ早に言葉を続ける。

「君は、『自分は力になれない』って言ってたけど、それはちょっと違うと思う。内情を知らなくとも、直接的にかかわっていなくとも、宮前さんだからこそできることとかあるんじゃないかな? 特殊なケースだから尚更ね」

 いま自分がやっていることに矛盾と自己嫌悪を覚える。でもそんなことは気にしまい。最優先事項が達成されるまでもうすぐなのだから。
 宮前さんは俺の言ったことを上手く呑み込みながら口を動かす。

「そうなんですかね……ううん、そうですよね。私なりに出来ること、考えてやってみます。教えてくれてありがとうございます」

 素直な子で助かった。

「いえいえ。それじゃあ、そろそろ……」

 俺は自転車のサドルに尻を、右ペダルにつま先を乗せる。そうして彼女に別れの挨拶をする。

「改めてDⅤDありがとう。また、いつかどこかで」
「はい、すべてが終わったら三人でカラオケにでも行きましょう」
「ははっ、それ死亡フラグだよ」
「あ、ほんとだ。でも、きっと大丈夫だと思います。すべてうまくいくと信じてます」

 信じたいから信じているというわけではなく、ナチュラルにそう考えている様子の宮前さん。
 どこからそんな自信が湧いてくるのか。
 そんな疑問が浮かぶも深く突っ込むのは面倒で厄介だと感じた俺は、軽く笑みながら「そうだといいね」と言って受け流す。そしてその言葉のすぐ後にさっと挨拶を切り出す。

「じゃ、お疲れ様」

 すると彼女は、やや改まった表情となって言う。

「お疲れ様でした。希ちゃんをよろしくお願いします」

 その言葉を聞いて、俺は胸がぎゅっと締め付けられる。
 後悔、罪悪感、自省、重圧、恐怖。そのほかにもたくさんのマイナスの感情が、ともすればそれは黒いなにかなのではないかとさえ思えるものが胸を、全身を、精神を苦しめ痛めつけていく。
 ああ……ほんとに俺は……。

「善処は、するよ……」

 心にも思ってもないことをなんとか言葉にする。それがまた様々な辛さを生むが、多少の痛みを伴っても今はこのやり方が最善であるとしか思えなかった。
 その言葉の後、改めて別れの挨拶をし、自転車を走らせてその場を離れる。当然、彼女が何を思い、どんな表情をしていたのかは全く分からなかった。

 自転車のペダルをこいでいる間、自分の感情はほぼ無だった。唯一、一秒でも早く自宅へと帰ってベッドに横たわりたいという思いがあったのみである。

 十数分後、体感三時間の道をなんとか走破し、ようやく住まいのアパートへと到着する。そうして自室に入るなり、さっと着替えだけを済ませて速攻でベッドの中に体を潜り込ませる。すると、あっという間に視界がぼやけていき、心地のいいまどろみがすぅーと心身を包み込んでいく。
 こんなにも力が抜けた時を過ごすのはいつ以来だろう。
 薄ぼんやりとした意識の中でそんなことを思う。しかしそれは、ほんのひと時のことにしか過ぎなかった。次の瞬間、どこからか声が聞こえてくる。

『観なくてもいいのか?』

 その言葉に脊椎反射のごとく反応して、寝ぼけ眼の中でゆっくりと視線が動いていく。やがてベッド傍の机の上に置いてあるカバンに目が留まる。それは今日外に持ち出していたカバンで、そこには例のDⅤDが入っていた。

 ああ……そう、だな……せっかくもらったんだから……観なくちゃ、な……。

 しかし、その本当なのか嘘なのかも分からない心の言葉は、どこかへ消えてなくなっていった。
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