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文字数 6,478文字
憂鬱だ。とても憂鬱だ。自転車のサドルに鳥の糞を落とされ、バイト中にとても理不尽なクレームをつけられ、その挙句家に帰ったらゴキブリが部屋の中を闊歩していたあの日よりも憂鬱だ。
梅雨とは思えないまでに空は晴れ渡り、真夏を感じさせるほどの日差しがじりじりと肌を照りつける中、今日も俺はやや速めのスピードで自転車を走らせていた。
あの女の子の涙と一瀬さんからの宣告があってから、ちょうど一週間が経った。その間に一瀬さんや店長を始めとした上司のほうから、トレーナーのことについての説明やアドバイスなどを受けた。誰もが励ましの言葉もかけてくれたが、正直なところそれは気休めの言葉にさえならなかった。それだけ不安という気持ちが大きかったのだ。
ああ、このままどこか遠いところへ行ってしまおうか。
ああ、すべて夢であってくれないだろうか。
ああ、今すぐにでも地球が滅んでくれはしないだろうか。
そんなことを考えているうちに、気がつけば自分は店の駐輪場で自転車から鍵を抜いていた。ここまでくれば、もう引き返せない。いや、そもそも引き返す道なんてなかったわけだが。
重い足取りの中、スタッフルームへと向かう。
ちなみに、誰の担当をするのかはまだ知らされていない。店長からは、
「トレーナーとしての初仕事だというのに申し訳ないが、今回は前情報なしで臨んでもらいたい」
とだけ言われた。おそらく、店長にはなにか考えがあるのだろう。だが、その相手と顔を合わせるのは今から数時間後のことだ。それまでの間、ずっとそわそわしながらピーク時を過ごさなければならないと思うと、なんて過酷な試練だと悲嘆にくれたくなる。
それでもスタッフルーム内に入れば、明るさを取り繕って挨拶をする。
「おはようございます」
「おはようございます」
スマホを触っていても、談笑をしていても挨拶だけは必ず返ってくる。
この光景をずっと観察していれば、やがては博士号の論文でも書けるんじゃないか?
そんなバカげたことを考えていても時間が止まってくれることはなく、気がつくと出勤時刻ギリギリまで迫っていた。急いで支度をするが、ボタンを掛け間違えていたり、仕事用の靴を履き忘れかけたりと、完全に注意散漫としていた。
このままで大丈夫だろうか。いやいや、しっかりしないと。
人が見ていないところで、一度頬を叩く。そうやって喝をいれて仕事へと入っていく。
先週に比べて、来店者数は少々落ち着いてきているように見られたが、それでも新商品ブーストの衰えはあまり感じられず、今日も今日とて慌ただしいピーク時を迎えていた。
数十分前にレジ応対に入った俺は、少し前のネガティブ思考から打って変わって、すっかり仕事モードとなっていた。
場の空気は伝染する、とよく言われているが、まさにその通りだ。この現場の緊張感が気持ちを引き締めていく。あそこで喝を入れなくても、ここに来れば嫌でも気持ちが切り替わっていたかもしれない。
やがてピークは収まり、現場にはややリラックスムードが漂い始める。
ちらとレジの端に表示されているデジタル時計に目をやる。十三時二十八分。新人の子の初出勤まで、あと三十分にまで差し迫っていた。
それを認識した瞬間、喝と現場の緊張感で無理やり抑えこんでいたネガティブな感情が一気に溢れ出す。
心臓がドクン、ドクンと大きく脈打ち始め、喉からみぞおちにかけてはヘドロのような気持ちの悪いなにかでいっぱいになる。
ああ、嫌だな……。
だが、どれだけ嫌だ嫌だと嘆いても、時は止まってくれない。
時間十分前になると、一瀬さんから呼び出しを受け、共にスタッフルームへと向かう。
「緊張してる?」
俺の雰囲気を見て、一瀬さんはそう言った。
さすが一瀬さん。よく分かっていらっしゃる。いや、自分が隠しきれていないだけか。でもこの状況だ。少しぐらいなら構わないだろう。
俺は苦笑いをしながら力なく答える。
「ええ、まあ……」
それに対して一瀬さんは、優しく笑みながらも、どこか遠い目をしながら言う。
「それもそうよね。初めての経験になるだろうし、尚更よね」
そこで会話が途切れる。
二人分の足音がコンクリート製の廊下に反響して不規則的に耳に入ってくる。スタッフルームの方からは、やや喧騒とした声が聞こえてくる。いつもなら何とも思わないことではある。だが今は、やけに気になって仕方がない。そしてそれは、この無言の『間』にも同じことが言えた。
なんとも言えない気まずさに耐えきれなくなった俺は、いつも通りの営業スマイルをどうにか浮かべ、一瀬さんに話しかける。
「まあ……」
「でもね……」
驚くことに二人の声が重なった。
思わず歩みを止め、互いに互いを見る。
こんなことってあるもんなんだな。いやいや、そうじゃなくて。
「え、えと、なんですか?」
ちょっとした動揺からか、やや片言になってしまう。一方の一瀬さんは、数秒ほどのラグの後、我に返ったかのように答える。
「あ、ああ、いえ、田辺くんからどうぞ」
「ああ、はい」
どぎまぎしているからか、促されるままに返事をする。
こうなることなら、最初から大丈夫ですオーラを出しておけばよかった。
そう思いながら言葉を続ける。
「えっと、その……緊張してますけど、トレーナー、頑張ります。ということですね」
一瀬さんにいらぬ心配をさせぬよう、出来る限りの笑みを浮かべる。すると一瀬さんは、一瞬だけ何か考えるそぶりをしたかと思うと、すぐにいつもの笑みを浮かべて言った。
「そう。頑張ってね」
「はい」
例の黒いなにかが胸を締め付けていく中、俺は明るく返事をする。そして気を紛らわせるため、間髪入れずに一瀬さんに尋ねる。
「ああ、一瀬さんはなにを言いかけたんですか?」
その言葉を受けた当人はとくに表情を変えることなく、二、三秒ほどの間をおいて、ゆっくりと口を開く。
「そうね。余計なお世話かもしれないけれど、なにかあったら、私たちを頼ってね」
そう言った一瀬さんの表情は頼もしくもあり、いつも以上に柔和だった。
しかし、自分にとってそれは、『よくないもの』だった。
あの黒いなにかが今までよりも強く、ぐっと胸を締め付ける。必然的に胸苦しさと気持ち悪さと吐き気が押し寄せてくる。このままだと他にも影響が出かねない。それ以上に、一瀬さんに見られてしまう。
どうすれば……。
そこでふっと思いついたことを、無理やりやってみる。
「ごっほ、ごほごほごほっ……」
「た、田辺くん、大丈夫!?」
突然『むせた』俺に、心配そうにする一瀬さん。多少、申し訳なくなってくるが、今はこれが先決だとしか思えなかった。
数秒ほどして、むせ込みが治まりかけたころに、ようやく言葉を発する。
「だ、大丈夫です、ごほっ。ちょっと、むせただけなので……すみません」
「本当に大丈夫?」
改めて気遣ってくれる一瀬さん。
本当に優しい人だな。
そんな一瀬さんに応えるため、元気そうな表情を浮かべて言う。
「ええ、大丈夫です。それに、先ほどの一瀬さんの言葉、なんだか気が楽になりました。ありがとうございます」
しかし、一瀬さんはどこかすっきりとしない面持ちで口を開く。
「それならよかったのだけれど……」
その表情や言葉にとてつもない後ろめたさを感じるが、今は気にせず、元気に言う。
「それじゃあ、そろそろ行きましょうか」
その問いかけに、一瀬さんはハッとする。恐らく、時間が迫っていることに気が付いたのだろう。そして、いつもの明るさを取り戻して一瀬さんは言った。
「そうね、分かったわ。行きましょう」
「はい」
そうして、一瀬さんは歩き出す。その後ろを追う形で自分も歩き始める。
その時、一瞬だけ見えた一瀬さんの表情がどこか悲しく切なげだった。それが何を意味しているのかは分からない。だが、自分の関連することであることは間違いない気はしている。
なにかを感づかれたか、あるいは……。
とにもかくにも、すみません、一瀬さん。
心の中で何度もそう謝りながら、歩き続ける。そうして、到着する。
心臓が太鼓を叩いているかのようにドンドンと大きく鳴り響いている。緊張と恐怖から、握りしめていた手のひらの力が一段と強くなる。
それでも。
虚言のようなものだったとはいえ、がんばります、と一瀬さんに宣言したのだ。
やるからにはしっかりやろう。
一瀬さんが「準備はいい?」と、こちらに目くばせをして、微笑みかけてくれる。
大きく息を吸って、そして大きく息を吐いて、一瀬さんの合図に頷く。そうしてスタッフルームの扉が開かれる。
まず初めに、まばゆい光が目を刺激する。次に喧噪とした空気がフェードインしてくる。
そして石のようにがちがちに硬くなった足で俺は大きな一歩目を踏み出すと、スタッフルーム内の様相がだんだんと見えてくる。想像していた通り、休憩中や待機中なのであろう人が多くいて、なんともいえない異様な圧迫感があった。喧噪とした空気に気圧されている部分もあるかもしれない。
そんな中でひときわと目立っていた人物に目が留まる。そしてその刹那、俺は思わず息をのんだ。その姿には当然見覚えがあった。忘れようにも忘れられないほどの出来事があったのだから尚更のことだ。
事が事であっただけに、一番避けたい人物なのだが……。
そんなことは知らないであろう一瀬さんは、新人の子の名前を呼ぶ。
「小野寺さん」
その人物は、はい、と快活に返事をすると、無邪気な笑顔でこちらに顔を向けた。
やはり、彼女か。
しかし、そう軽く落胆したのは束の間だった。次の瞬間には、彼女の持つ、なにかオーラのようなものに強い畏怖の念を抱いていた。あのオリエンテーションの日に感じたものとはまた別のものだった。そしてそれは、あの黒いなにかと同じような動きをして、胸をぐっと締め付けてくる。
なんなんだ、これは……?
気がつくと、小野寺という少女は俺の目の前に立っていた。その時には、オーラのようなものはほぼ消失していたが、彼女とは適切な距離感を保って接したほうが良い、と第六感が警告を発していた。とにかく今はそれに従うしかない。
やがて、一瀬さんが取り持つ形で簡単な引き合わせが行われる。
「こちら、今日から入る小野寺希さん」
「よろしくお願いします」
小野寺さんはぺこりとお辞儀をする。そして俺は、改めて彼女のことを認識する。
俺が初めてトレーナーを務める相手は小野寺希という、あの日涙を浮かべていた少女だった。なんという奇縁だろうか。もしこの世に神がいたのであれば、なんて地味に嫌な試練をお与えになるのだと、小言を並べていたように思う。
続いて、一瀬さんが言う。
「そしてこちらが、小野寺さんのトレーナー、田辺泰晃くん」
「よろしくお願いします」
彼女と同じようにお辞儀をして挨拶をする。
顔を上げると、こちらを注視していたらしい小野寺さんの視線とぶつかる。すると彼女は一瞬だけ視線を逸らしたかと思うと、何かを決意したかのようにまっすぐとこちらに向き直った。
仕事に対してのこと、と願いたいが、やはり彼女との間になにかあったのだろうか?
そんなもやもやとした思いが燻る中、一瀬さんの送り出しの言葉でこの場は締められる。
「よし、それじゃあ二人とも、頑張ってね」
小野寺さんと俺はほぼ同じタイミングで、はい、と頷き答える。その直後、一瀬さんはデスクでパソコンとにらめっこをしていた副店長に呼ばれ、そちらの方へと行ってしまった。そして、俺たちは二人だけとなる。
嫌だという負の感情があることには変わりない。しかし、もうやるしかないのだ。
最後の覚悟を決めて、小野寺さんと対峙する。こちらの動きを見ていたのか、彼女は改めて背筋をピンと伸ばし畏まる。
こうやって向き合っていると、どうしてもあの日の一件が頭にちらつく。当然、今はもうそんな素振りは微塵も感じさせないほどに、彼女は自然な笑みを浮かべているのだが。
緊張はしていないのだろうか?
そんなことを考えていたときだった。
「あ、あの!」
小野寺さんがどぎまぎとした口調で言う。
あの涙のことだろうか?
そう思い、俺は咄嗟に身構える。そして彼女は続ける。
「どこか、変でしょうか?」
「うん?」
突拍子もない問いに、俺は思わずきょとんとする。あまりのことで脳内処理が追いつかないが、とりあえず答えておく。
「い、いや、どこにも問題はないですよ」
すると彼女はその言葉にほっとしたのか、ふうと一つ息をつき安堵した表情で言った。
「それならよかったです。ずっとこちらを見ていらっしゃったので、私にどこか問題があるのかとばかり……」
最後は伏し目がちになる小野寺さん。
そうか、そういうことか。ほぼ初対面であるにもかかわらず、先輩ともいえる人に無言でじっと見続けられでもすれば、不安になって今みたいな反応になるのは至極当然のことだ。
申し訳なさと恥ずかしさでいっぱいになる。
だが、これで一つ分かったこともあった。
例の一件について、彼女が何も言ってこないということは、こちらからも一切触れない方がいいということなのだろう。いろいろと気になるところではあるが、ここで下手に訊ねるのは野暮というものだ。それに、あの日俺はなにも見なかったことにしたのだから、もうこれ以上は開かず心の奥底に閉じ込めておこう。
そうして俺は小野寺さんに心からの反省の気持ちを込めて言う。
「ああ、いや本当に申し訳ない。ちょっと、ぼうとしちゃってて……」
「いえ、とんでもないです」
小さく首を振る小野寺さん。そして訪れる静寂の間。
一瀬さんが離れてからまだ十数秒と経っていないが、体感時間は異常に長く感じていた。
とにかく切り替えていかないと。
もう一度、彼女を見る。そして俺は、そこでようやく気が付いた。小野寺さんの指先が微かに震えていたのだ。それだけではない。表情の固さ、全身の力み、張り詰めた雰囲気。
すべて些細なものではあったが、そこには確かに緊張感がにじみ出ていた。
本当に、なにやってんだろうな。
心の中のニヒルな自分が嘲笑している。お前はものの役に立たぬ大馬鹿者だと。
全く持ってその通りだ。だが、なぜだろう。そんな彼の言動は、とても癪に障った。そして、今の自分自身に対しても。
その瞬間、心の中のなにかが弾け飛んだ気がした。
ああ、もう。こうなったら、なにもかも取っ払って開き直ってやる。
「よし、それじゃあ行きますか」
出来る限りの優しい笑みで、落ち着いた声音を使って小野寺さんに話しかける。
突然の変化に、彼女はぽかんとするかもしれないと思ったが、
「はい!」
そんな様子は一切なく、むしろ満面の笑みを浮かべて、明るく爽やかな声で返事をしてくれた。
そのことにひとまず安心しつつ、開き直りの投げやり感から俺はあることを決心する。
それは、『なにがなんでも小野寺さんのトレーナーを全うしていこう』ということだ。そのためなら、自分で自分の首を絞める行為にも等しい『演じる』ことも厭わない。
そこまでしなければ、一瀬さんや小野寺さんに申し訳がないし、なによりニヒルな彼と自分自身に対して腹立たしさが収まらない。
なに、演じることには慣れている。今更どうってことないさ。
例のあれによる胸苦しさと吐き気を無理やり抑えながら、いくつものよく分からない感情に後押しされる形で主戦場へと向かった。
梅雨とは思えないまでに空は晴れ渡り、真夏を感じさせるほどの日差しがじりじりと肌を照りつける中、今日も俺はやや速めのスピードで自転車を走らせていた。
あの女の子の涙と一瀬さんからの宣告があってから、ちょうど一週間が経った。その間に一瀬さんや店長を始めとした上司のほうから、トレーナーのことについての説明やアドバイスなどを受けた。誰もが励ましの言葉もかけてくれたが、正直なところそれは気休めの言葉にさえならなかった。それだけ不安という気持ちが大きかったのだ。
ああ、このままどこか遠いところへ行ってしまおうか。
ああ、すべて夢であってくれないだろうか。
ああ、今すぐにでも地球が滅んでくれはしないだろうか。
そんなことを考えているうちに、気がつけば自分は店の駐輪場で自転車から鍵を抜いていた。ここまでくれば、もう引き返せない。いや、そもそも引き返す道なんてなかったわけだが。
重い足取りの中、スタッフルームへと向かう。
ちなみに、誰の担当をするのかはまだ知らされていない。店長からは、
「トレーナーとしての初仕事だというのに申し訳ないが、今回は前情報なしで臨んでもらいたい」
とだけ言われた。おそらく、店長にはなにか考えがあるのだろう。だが、その相手と顔を合わせるのは今から数時間後のことだ。それまでの間、ずっとそわそわしながらピーク時を過ごさなければならないと思うと、なんて過酷な試練だと悲嘆にくれたくなる。
それでもスタッフルーム内に入れば、明るさを取り繕って挨拶をする。
「おはようございます」
「おはようございます」
スマホを触っていても、談笑をしていても挨拶だけは必ず返ってくる。
この光景をずっと観察していれば、やがては博士号の論文でも書けるんじゃないか?
そんなバカげたことを考えていても時間が止まってくれることはなく、気がつくと出勤時刻ギリギリまで迫っていた。急いで支度をするが、ボタンを掛け間違えていたり、仕事用の靴を履き忘れかけたりと、完全に注意散漫としていた。
このままで大丈夫だろうか。いやいや、しっかりしないと。
人が見ていないところで、一度頬を叩く。そうやって喝をいれて仕事へと入っていく。
先週に比べて、来店者数は少々落ち着いてきているように見られたが、それでも新商品ブーストの衰えはあまり感じられず、今日も今日とて慌ただしいピーク時を迎えていた。
数十分前にレジ応対に入った俺は、少し前のネガティブ思考から打って変わって、すっかり仕事モードとなっていた。
場の空気は伝染する、とよく言われているが、まさにその通りだ。この現場の緊張感が気持ちを引き締めていく。あそこで喝を入れなくても、ここに来れば嫌でも気持ちが切り替わっていたかもしれない。
やがてピークは収まり、現場にはややリラックスムードが漂い始める。
ちらとレジの端に表示されているデジタル時計に目をやる。十三時二十八分。新人の子の初出勤まで、あと三十分にまで差し迫っていた。
それを認識した瞬間、喝と現場の緊張感で無理やり抑えこんでいたネガティブな感情が一気に溢れ出す。
心臓がドクン、ドクンと大きく脈打ち始め、喉からみぞおちにかけてはヘドロのような気持ちの悪いなにかでいっぱいになる。
ああ、嫌だな……。
だが、どれだけ嫌だ嫌だと嘆いても、時は止まってくれない。
時間十分前になると、一瀬さんから呼び出しを受け、共にスタッフルームへと向かう。
「緊張してる?」
俺の雰囲気を見て、一瀬さんはそう言った。
さすが一瀬さん。よく分かっていらっしゃる。いや、自分が隠しきれていないだけか。でもこの状況だ。少しぐらいなら構わないだろう。
俺は苦笑いをしながら力なく答える。
「ええ、まあ……」
それに対して一瀬さんは、優しく笑みながらも、どこか遠い目をしながら言う。
「それもそうよね。初めての経験になるだろうし、尚更よね」
そこで会話が途切れる。
二人分の足音がコンクリート製の廊下に反響して不規則的に耳に入ってくる。スタッフルームの方からは、やや喧騒とした声が聞こえてくる。いつもなら何とも思わないことではある。だが今は、やけに気になって仕方がない。そしてそれは、この無言の『間』にも同じことが言えた。
なんとも言えない気まずさに耐えきれなくなった俺は、いつも通りの営業スマイルをどうにか浮かべ、一瀬さんに話しかける。
「まあ……」
「でもね……」
驚くことに二人の声が重なった。
思わず歩みを止め、互いに互いを見る。
こんなことってあるもんなんだな。いやいや、そうじゃなくて。
「え、えと、なんですか?」
ちょっとした動揺からか、やや片言になってしまう。一方の一瀬さんは、数秒ほどのラグの後、我に返ったかのように答える。
「あ、ああ、いえ、田辺くんからどうぞ」
「ああ、はい」
どぎまぎしているからか、促されるままに返事をする。
こうなることなら、最初から大丈夫ですオーラを出しておけばよかった。
そう思いながら言葉を続ける。
「えっと、その……緊張してますけど、トレーナー、頑張ります。ということですね」
一瀬さんにいらぬ心配をさせぬよう、出来る限りの笑みを浮かべる。すると一瀬さんは、一瞬だけ何か考えるそぶりをしたかと思うと、すぐにいつもの笑みを浮かべて言った。
「そう。頑張ってね」
「はい」
例の黒いなにかが胸を締め付けていく中、俺は明るく返事をする。そして気を紛らわせるため、間髪入れずに一瀬さんに尋ねる。
「ああ、一瀬さんはなにを言いかけたんですか?」
その言葉を受けた当人はとくに表情を変えることなく、二、三秒ほどの間をおいて、ゆっくりと口を開く。
「そうね。余計なお世話かもしれないけれど、なにかあったら、私たちを頼ってね」
そう言った一瀬さんの表情は頼もしくもあり、いつも以上に柔和だった。
しかし、自分にとってそれは、『よくないもの』だった。
あの黒いなにかが今までよりも強く、ぐっと胸を締め付ける。必然的に胸苦しさと気持ち悪さと吐き気が押し寄せてくる。このままだと他にも影響が出かねない。それ以上に、一瀬さんに見られてしまう。
どうすれば……。
そこでふっと思いついたことを、無理やりやってみる。
「ごっほ、ごほごほごほっ……」
「た、田辺くん、大丈夫!?」
突然『むせた』俺に、心配そうにする一瀬さん。多少、申し訳なくなってくるが、今はこれが先決だとしか思えなかった。
数秒ほどして、むせ込みが治まりかけたころに、ようやく言葉を発する。
「だ、大丈夫です、ごほっ。ちょっと、むせただけなので……すみません」
「本当に大丈夫?」
改めて気遣ってくれる一瀬さん。
本当に優しい人だな。
そんな一瀬さんに応えるため、元気そうな表情を浮かべて言う。
「ええ、大丈夫です。それに、先ほどの一瀬さんの言葉、なんだか気が楽になりました。ありがとうございます」
しかし、一瀬さんはどこかすっきりとしない面持ちで口を開く。
「それならよかったのだけれど……」
その表情や言葉にとてつもない後ろめたさを感じるが、今は気にせず、元気に言う。
「それじゃあ、そろそろ行きましょうか」
その問いかけに、一瀬さんはハッとする。恐らく、時間が迫っていることに気が付いたのだろう。そして、いつもの明るさを取り戻して一瀬さんは言った。
「そうね、分かったわ。行きましょう」
「はい」
そうして、一瀬さんは歩き出す。その後ろを追う形で自分も歩き始める。
その時、一瞬だけ見えた一瀬さんの表情がどこか悲しく切なげだった。それが何を意味しているのかは分からない。だが、自分の関連することであることは間違いない気はしている。
なにかを感づかれたか、あるいは……。
とにもかくにも、すみません、一瀬さん。
心の中で何度もそう謝りながら、歩き続ける。そうして、到着する。
心臓が太鼓を叩いているかのようにドンドンと大きく鳴り響いている。緊張と恐怖から、握りしめていた手のひらの力が一段と強くなる。
それでも。
虚言のようなものだったとはいえ、がんばります、と一瀬さんに宣言したのだ。
やるからにはしっかりやろう。
一瀬さんが「準備はいい?」と、こちらに目くばせをして、微笑みかけてくれる。
大きく息を吸って、そして大きく息を吐いて、一瀬さんの合図に頷く。そうしてスタッフルームの扉が開かれる。
まず初めに、まばゆい光が目を刺激する。次に喧噪とした空気がフェードインしてくる。
そして石のようにがちがちに硬くなった足で俺は大きな一歩目を踏み出すと、スタッフルーム内の様相がだんだんと見えてくる。想像していた通り、休憩中や待機中なのであろう人が多くいて、なんともいえない異様な圧迫感があった。喧噪とした空気に気圧されている部分もあるかもしれない。
そんな中でひときわと目立っていた人物に目が留まる。そしてその刹那、俺は思わず息をのんだ。その姿には当然見覚えがあった。忘れようにも忘れられないほどの出来事があったのだから尚更のことだ。
事が事であっただけに、一番避けたい人物なのだが……。
そんなことは知らないであろう一瀬さんは、新人の子の名前を呼ぶ。
「小野寺さん」
その人物は、はい、と快活に返事をすると、無邪気な笑顔でこちらに顔を向けた。
やはり、彼女か。
しかし、そう軽く落胆したのは束の間だった。次の瞬間には、彼女の持つ、なにかオーラのようなものに強い畏怖の念を抱いていた。あのオリエンテーションの日に感じたものとはまた別のものだった。そしてそれは、あの黒いなにかと同じような動きをして、胸をぐっと締め付けてくる。
なんなんだ、これは……?
気がつくと、小野寺という少女は俺の目の前に立っていた。その時には、オーラのようなものはほぼ消失していたが、彼女とは適切な距離感を保って接したほうが良い、と第六感が警告を発していた。とにかく今はそれに従うしかない。
やがて、一瀬さんが取り持つ形で簡単な引き合わせが行われる。
「こちら、今日から入る小野寺希さん」
「よろしくお願いします」
小野寺さんはぺこりとお辞儀をする。そして俺は、改めて彼女のことを認識する。
俺が初めてトレーナーを務める相手は小野寺希という、あの日涙を浮かべていた少女だった。なんという奇縁だろうか。もしこの世に神がいたのであれば、なんて地味に嫌な試練をお与えになるのだと、小言を並べていたように思う。
続いて、一瀬さんが言う。
「そしてこちらが、小野寺さんのトレーナー、田辺泰晃くん」
「よろしくお願いします」
彼女と同じようにお辞儀をして挨拶をする。
顔を上げると、こちらを注視していたらしい小野寺さんの視線とぶつかる。すると彼女は一瞬だけ視線を逸らしたかと思うと、何かを決意したかのようにまっすぐとこちらに向き直った。
仕事に対してのこと、と願いたいが、やはり彼女との間になにかあったのだろうか?
そんなもやもやとした思いが燻る中、一瀬さんの送り出しの言葉でこの場は締められる。
「よし、それじゃあ二人とも、頑張ってね」
小野寺さんと俺はほぼ同じタイミングで、はい、と頷き答える。その直後、一瀬さんはデスクでパソコンとにらめっこをしていた副店長に呼ばれ、そちらの方へと行ってしまった。そして、俺たちは二人だけとなる。
嫌だという負の感情があることには変わりない。しかし、もうやるしかないのだ。
最後の覚悟を決めて、小野寺さんと対峙する。こちらの動きを見ていたのか、彼女は改めて背筋をピンと伸ばし畏まる。
こうやって向き合っていると、どうしてもあの日の一件が頭にちらつく。当然、今はもうそんな素振りは微塵も感じさせないほどに、彼女は自然な笑みを浮かべているのだが。
緊張はしていないのだろうか?
そんなことを考えていたときだった。
「あ、あの!」
小野寺さんがどぎまぎとした口調で言う。
あの涙のことだろうか?
そう思い、俺は咄嗟に身構える。そして彼女は続ける。
「どこか、変でしょうか?」
「うん?」
突拍子もない問いに、俺は思わずきょとんとする。あまりのことで脳内処理が追いつかないが、とりあえず答えておく。
「い、いや、どこにも問題はないですよ」
すると彼女はその言葉にほっとしたのか、ふうと一つ息をつき安堵した表情で言った。
「それならよかったです。ずっとこちらを見ていらっしゃったので、私にどこか問題があるのかとばかり……」
最後は伏し目がちになる小野寺さん。
そうか、そういうことか。ほぼ初対面であるにもかかわらず、先輩ともいえる人に無言でじっと見続けられでもすれば、不安になって今みたいな反応になるのは至極当然のことだ。
申し訳なさと恥ずかしさでいっぱいになる。
だが、これで一つ分かったこともあった。
例の一件について、彼女が何も言ってこないということは、こちらからも一切触れない方がいいということなのだろう。いろいろと気になるところではあるが、ここで下手に訊ねるのは野暮というものだ。それに、あの日俺はなにも見なかったことにしたのだから、もうこれ以上は開かず心の奥底に閉じ込めておこう。
そうして俺は小野寺さんに心からの反省の気持ちを込めて言う。
「ああ、いや本当に申し訳ない。ちょっと、ぼうとしちゃってて……」
「いえ、とんでもないです」
小さく首を振る小野寺さん。そして訪れる静寂の間。
一瀬さんが離れてからまだ十数秒と経っていないが、体感時間は異常に長く感じていた。
とにかく切り替えていかないと。
もう一度、彼女を見る。そして俺は、そこでようやく気が付いた。小野寺さんの指先が微かに震えていたのだ。それだけではない。表情の固さ、全身の力み、張り詰めた雰囲気。
すべて些細なものではあったが、そこには確かに緊張感がにじみ出ていた。
本当に、なにやってんだろうな。
心の中のニヒルな自分が嘲笑している。お前はものの役に立たぬ大馬鹿者だと。
全く持ってその通りだ。だが、なぜだろう。そんな彼の言動は、とても癪に障った。そして、今の自分自身に対しても。
その瞬間、心の中のなにかが弾け飛んだ気がした。
ああ、もう。こうなったら、なにもかも取っ払って開き直ってやる。
「よし、それじゃあ行きますか」
出来る限りの優しい笑みで、落ち着いた声音を使って小野寺さんに話しかける。
突然の変化に、彼女はぽかんとするかもしれないと思ったが、
「はい!」
そんな様子は一切なく、むしろ満面の笑みを浮かべて、明るく爽やかな声で返事をしてくれた。
そのことにひとまず安心しつつ、開き直りの投げやり感から俺はあることを決心する。
それは、『なにがなんでも小野寺さんのトレーナーを全うしていこう』ということだ。そのためなら、自分で自分の首を絞める行為にも等しい『演じる』ことも厭わない。
そこまでしなければ、一瀬さんや小野寺さんに申し訳がないし、なによりニヒルな彼と自分自身に対して腹立たしさが収まらない。
なに、演じることには慣れている。今更どうってことないさ。
例のあれによる胸苦しさと吐き気を無理やり抑えながら、いくつものよく分からない感情に後押しされる形で主戦場へと向かった。