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 うだる暑さ、焼け付く日差し、そしてあんな小さな体には似つかないほどの大きな鳴き声を上げる無数の蝉たち。
 あれから五日が経ち、平年よりも一週間ほど早い梅雨明けが宣言され、本格的な夏が到来していた。この時期になれば大小はあれど一日のどこを切り取ってもただただ暑いとしか言いようがなく、人は皆、束の間の涼を求めてなにかしらの行動をとる。冷房を入れたり、冷たい物を飲食したり、プールや海あるいは避暑地に行ったりと、それはもう様々だろう。

 この店にも快適な空調管理、清涼飲料水や氷菓子類の取り揃えなど、涼となるものがいくつかあった。そのためか、普段は客足の少ない平日の昼過ぎから夕方にかけて、いつもよりも多くの人が来店し、その多くはアイスドリンクやアイスなどを注文していた。
 気温が上がれば経済が回る、とはこのことなのだろう。
 だが、これだけ客足が伸びたのはそれだけが理由ではなかった。
 今日来店したお客の半数以上は夏用の学生服を身にまとっていた。七月も半ばとなると、学校がお昼までで終わるところが大半だろう。普段なら時間の都合で利用しない生徒たちも学校や部活からの帰り際にこの店に立ち寄ることが出来る。その結果、本格的な夏の到来と相まって、人の少ない時間帯に来客数が増えたのだった。
 さらにこれから夏休みが控えており、滅多なことがない限りは日に日に客足も伸びてくるだろう。昨年を経験しているからこそ、なんとなく分かる。
 それはさておき、学校が通常よりも早く終わるということで、天気予報では夕方と区分される時間帯からあの人もシフトに入っていた。

「大変お待たせいたしました、ご注文をお伺いします」

 装着しているワイヤレスヘッドセットから、明るく澄んだ声音が響いてくる。
 小野寺さんだ。今回で三度目の出勤となる今日は、主にドライブスルーのオーダー受けと会計を担当していた。前回の中盤ごろからその持ち場に入ってもらっているのだが、初回同様、彼女は驚異的な上達スピードを見せ、平時であれば一人で任せても問題ないほどまでに成長したのだった。ただただ恐ろしい限りである。
 そんな気持ちを紛らわせるためか、前回の閑散とした時間帯に、なんでもない風を装って今すぐ尋ねるほどでもない疑問を彼女にぶつけた。

「そういえば、部活とか習い事とか、なにかやってたりするの?」

 当然、深い入りするつもりはない。だが、トレーナーとして彼女のことをある程度知っておいた方が、今後何か役に立つかもしれないと思ったのだ。そのため、自分にも彼女にも当たり障りのない手ごろな質問を繰り出したのだった。
 一方、小野寺さんはなぜか一瞬だけハッとした表情を見せるが、なにもなかったかのように笑んで答える。

「ああ、はい、部活は写真部に入っています。それから、習い事かどうかは分かりませんが、家庭教師の方に勉強を教えていただいています」

 写真部か。勉強面も少し気になるが。

「へー。カメラ、好きなの?」

 俺がそう尋ねると、彼女は苦笑いを浮かべて言う。

「それが……最初はそこまで興味がなかったんです。恥ずかしながら、カメラもろくに触れたことさえなかったですし、写真部を選んだ理由も友人に誘われたからという消極的なもので……」

 意外、と言うと彼女のことをよく知りもしないのに、第一印象だけですべてを決めつけてしまっているようでとても失礼な気がする。それに当然のことながら誰しもが複数の面を持ち合わせているのだ。そこに深く言及するのは不躾というものだろう。とはいえ、彼女の思いがけない一面だと思ったのは事実だ。さて、どう答えようか。
 そんなことは露知らず、小野寺さんは言葉を続ける。

「それでも、実際にカメラに触れてみると、スマホで写真を撮る感覚とはまた全然違っていて、それがなんだかとても不思議で。そして面白くて。気が付いたころには、すっかりカメラに夢中になっていました」

 そう言い切った小野寺さんの表情はややはにかんでいるように見えた。本当にいろんな表情を見せる子である。
 それにしても部活のことについて聞かれた、あるいは話したのはこれが初めてのことなのだろうか。どことなくそんな雰囲気がするようなしないような。いや、まるで用意した台本を諳んじているかのような淀みのなさだったから、何度かはもう誰かに話しているだろう。
 さて、今度は自分が聞かれる番だ。そう覚悟をしていたのだが、

「いらっしゃいませ、こんばんは。ご注文をお伺いいたします」

 それは複数のお客の来店により、掻き消されることとなった。
 結局この日はバタバタと忙しくなったために、なにも尋ねられることはなかった。そして、それから二日経った今日になっても、その件について触れられてはいない。ホッとした気持ちがありながらも、いつどこで聞かれるか分からないという恐怖もあり、落ち着かないというのが今の心境だった。
 そんな中で、今日も俺は小野寺さんのトレーナーを務めていた。

 めまぐるしい成長を見せる小野寺さんだったが、彼女には引き続き、レジ応対を中心とした接客を徹底的にやってもらっていた。というのも、明後日の日曜日に彼女は早くもピーク時のシフトに入ることになっていたからだ。
 当然ながら、初っ端から責任や負担の大きいところを任されるわけではない。そのため今の彼女であれば難なく対応してやってのけることだろう。
 だが、そう思う一方で言いようのない不安に駆られているのも事実だった。なにかこう、すべてが上手くいきすぎているような、どこかで大きくつまずきそうな、そんな気がしてならなかった。小野寺さんに対しても、そしてトレーナーである自分自身にも。そんな経緯があって、彼女には出来るだけ接客の経験を積んでもらおうと思い、今に至るのだった。
 慎重になっていると言えば聞こえはいいが。本当に情けないばかりである。
 周りに聞こえないように軽くため息をつきながら、客席の机や椅子を丁寧にかつ素早く拭いていく。

 午後五時を過ぎた店内はやや閑散としてきただろうか。随分と空席が目立っている。その束の間の静けさが漂う空間で、自分は今、店内清掃に勤しんでいた。
 もちろんそれと並行してトレーナーとしての仕事も行っている。ヘッドセットを着用し、小野寺さんの接客音声を聞いたり、内線機能を使って良かったところや気になったところを伝えたりしている。とはいえ後者の気になるところはほとんど見当たらないが。
 清掃、トレーナー以外にも人の入り具合によっては接客などのサポートに回ることもあった。一回だけ。しかもあっという間に終わった。

 そんなまったりとした時間を過ごしていき、清掃も残るはゴミ捨てのみとなっていた。
 個人的にはこれぐらいのスピード感がまったりとしていて好きだった。この時間が終わってしまうのだと思うと残念でならない。
 だったら今のこの職場に向いてないな。
 心の中で言ったその言葉に笑いがこみ上げてくる。
 全くもってその通りだ。よくここを選んだなと本当に思う。だが、あの頃のことをほんの少しだけでも考えると、ここを選んで不正解だったとは絶対に言えない。なんだかんだと悪くないと思っている。それでは正解だったのかと問われると、すぐには首を縦に振れないが。
 ふっと一つ笑い、袋三つ分のごみを集積場に置いて、カウンターへと向かった。

 カウンターでは、小野寺さんが休憩明けの一瀬さんと談笑をしていた。相手はほぼ毎回違うが、こういう場面を見かけることも多くなった。しかも元からいた従業員のように何気ない会話を繰り広げていることがほとんどだ。彼女の度胸と適応力と、そしてコミュニケーション能力の高さには恐れ入る。
 そんなことを思っていると、俺の姿に気づいた一瀬さんが声をかけてくる。

「ああちょうど良かった、田辺くん。突然なんだけど、田辺くんはキノコ派? タケノコ派?」

 あまりにも唐突過ぎて思考回路が一瞬だけショートする。やがて脳がゆっくりと動き出して、そこで初めて思い出したのは一瀬さんの声音と表情に珍しく熱が帯びていたということだった。
 なにがそうさせたのだろうか。
 ああ、そうか、キノコとタケノコか。恐らくは、あのお菓子のことだろう。
 でもなぜキノコタケノコ論争に?
 困惑したままではあるが、ひとまず先ほどの質問に答える。

「そ、そうですねー。どちらかと言えば、タケノコですかね」

 すると一瀬さんはしょんぼり気味に言う。

「あー、やっぱりみんなタケノコなのか……」

 次に小野寺さんが少しだけ嬉々とした表情になって言う。

「そうですよ。やっぱりキノコよりもタケノコなんですよ」
「うーん、キノコもいいんだけどなー」

 どうやら一瀬さん以外の従業員は、みんなタケノコ派のようである。確か直近の公式調査ではキノコがタケノコに迫る勢いだったらしいが、今この場でのキノコ派は為す術もなく惨敗に終わった。
 その後、過激派同士による衝突、などは当然なく、それぞれのグループで二者択一の質問が小さなブームとなる。
 こういうことはあまり得意ではなかったが、せっかくの機会だと思い、一瀬さんと小野寺さんのカウンターグループに混ざることにした。
 当然だが、やるべきことはやって、それでも手が空いている状況且つお客に不快と思われないように細心の注意を払いながらである。そうでなければ、クレームの嵐となってしまう。
 声を少し落とし、来客に備えつつ、二択の質問に頭を悩ませる。
 例えば、

「それじゃあ、ベタだけど犬と猫なら?」

 と一瀬さんが言う。その問いにまず小野寺さんが答える。

「そうですねー、どっちも可愛いですけれど、うーん、やっぱり犬ですね」

 次に自分が答える。

「あー僕も、どちらかというと犬派ですね」

 そして最後に一瀬さんが言う。

「えー二人ともー? 猫の気ままな性格がとてもいいのに」

 こういった形で問答が行われ、その後に簡単な論評のようなことが行われる。といっても、先ほどと同じく意見がバチバチに対立しあうことは全くなかった。
 なんて平和なやりとりなんだ。
 その後も一瀬さん、小野寺さんの意外な一面や納得の一面を垣間見ることができ、これはこれでとても有意義な時間となった。

 まもなく時刻は午後六時を過ぎ、カウンターには人が、ドライブスルーには車が続々と列をなし始め、つい先ほどまで閑散としていた店内はあっという間に喧噪とした雰囲気へと変わる。金曜夜ピークの到来だった。そのため二択質問は一時中断となる。
 気持ちを切り替え、ヘッドセットから入ってくる彼女の接客音声を聞きながら商品をさっと取り揃えていく。そして時折カウンターの接客も行う。
 そうして一時間半が経ち、上がりの時間までもうしばらくとなったころ、ようやく夜ピークの終息を迎えようとしていた。

 ちなみに小野寺さんのトレーナーを務める間はいつものシフトとは少し異なっている。昼と夜のピーク時間に入り、そして中抜けの代わりに一時間の休憩が設けられているため、上りがものすごく早い時間帯となっていた。やや変則的でやりづらさのようなものはあったが、すぐにまた元のシフトに戻ると踏んでいるためそこまでは気にしていない。今の小野寺さんならば、とても早い段階でトレーナーを必要としなくなるだろうから。

 来客が落ち着き、スタッフの心に余裕が生まれたからか、例の質問が再開されていく。

「それじゃあ次は、コーヒーと紅茶なら、どちらがいいですか?」

 小野寺さんが問いかける。それに一瀬さんは顎に手をやりながら答える。

「そうねー。紅茶も好きなのだけれど、最近はコーヒーのほうがよく飲むわね」

 ああ、そういえばひと月ほど前にそんな話を聞いたことがあるな。確か、味覚が変わってきているとかなんとか。
 ふとそんなことを思い返していると、一瀬さんが話を振ってくる。

「田辺くんはどうなの?」
「あー実は僕、紅茶は全然ダメで。コーヒーもうんと甘くしないと飲めないんですよー」

 苦笑い気味にそう答えると、一瀬さんが驚いたように言う。

「紅茶もダメだったんだ?」

 なんで知っているんだ……? あ、そうか、あの時にコーヒーのことは話したんだ。それで紅茶のほうには触れてずと。すっかり忘れてた。

「はい。どうも紅茶特有の香りと味がダメみたいで」

 すると小野寺さんが興味深そうな表情をして言う。

「そうだったんですね。てっきり田辺さんって、苦手なものなんてないと思っていました」

 まさかそんなことを言われるとは。彼女には俺がどう見えているのだろうか?
 俺は冗談気に言う。

「それはさすがに僕のことを買いかぶりすぎだよ。好きなものもあれば、苦手なものもある。別に僕は、神でも仏でもなく、普通の人間なんだからさ」

 そのとき小野寺さんの表情が一瞬だけ陰ったように見えた。
 どうかしたのだろうか?
 そう訝しんでいると、一瀬さんから上がりの時間だと伝えられ、今日の仕事と二択質問は終了となった。その後、小野寺さんとともに現場を離れ、スタッフルームへと歩いていく。
 その道中、先ほどの彼女の表情がずっと気にかかっていたが、チキンであるが故に自分はなにも尋ねることができず、結局二択質問の感想に終始するのだった。

 スタッフルームに着くなり小野寺さんには着替えを促し、自分は彼女の今日の記録を記入していく。彼女が更衣室から出てくると今日の良かったところと無いにも等しい反省点を伝えていく。そうして最後に一言付け加える。

「それと、次の出勤時間が日曜のピーク時なんだけど、この時間帯はかなり忙しくなるから心づもりだけしておいて」
「はい!」

 そう小野寺さんは元気よく返事をするが、瞬く間に、

「あぁ、なんだか緊張してきました」

 と、やや不安そうな表情を浮かべて言った。
 今から緊張してどうするんだよ、とツッコみたくなる気持ちと、少しプレッシャーをかけすぎてしまっただろうか、と不安になる気持ちとが交錯する。とはいえここはケアをするのが先決だろう。慰めるように柔らかい口調で言う。

「小野寺さんなら大丈夫だよ、自信もって。それに、あくまでも今回は雰囲気に慣れることが大事だし、仮になにかあったとしても自分や一瀬さんがフォローに回るから、小野寺さんは自分の出来ることをやればいいよ」

 ちょっとクサい言い方だったろうか。いや、今は気にしまい。
 小野寺さんは、はにかみつつも気丈な口調で言う。

「そうですよね。ありがとうございます。心強いお二方の胸をお借りするつもりで頑張ります」

 自分が心強いとは思えないが、彼女が安心してくれたようなので、今はぐっと飲み込む。
 その後、小野寺さんと一言二言ほどことばを交わし、この日は解散となった。

「お疲れ様でした!」

 彼女は疲労感を感じさせないほどの元気な挨拶をして、スタッフルームを後にする。そして自分は一人きりとなったこの部屋で、手早く身支度を済ませていく。
 ふと、先ほどのやり取りを少しだけ思い返す。
 小野寺さんはピーク時のことを気遣わしそうにしていた。それもまた初めての経験になるのだから、当然と言えば当然である。
 一方の自分は多少の不安感を抱きつつも、今の彼女なら難なく乗り越えるだろうと、そこまでの心配はしていなかった。それだけ小野寺さんの接客には安定感があるのだ。

 いずれは、この店の主軸になるのだろうな。

 そんな人のトレーナーを自分が今勤めているのだと思うと、いろんな意味で笑いそうになる。

 自分は上手くトレーナーをやれているのだろうか。

 そんな憂いが頭をよぎる中、俺は自宅へと帰っていった。
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