10-2

文字数 10,873文字

「あ、田辺さん、お疲れ様です!」

 それは扉を開けてすぐのことだった。こうなることは予想できたはずなのに、なぜ見落としていたのだろうかと、あまりに無警戒すぎやしなかっただろうかと後悔することとなる。
 俺はその声が聞こえた瞬間、完全に思考が停止した。そのため五感は一切機能せず、体の動きや表情も石のように硬直していた。まるでこの世界から自分の意識が消え去ったかのようである。
 幾ばくかの時が流れ、ようやく正気に戻る。そしてすぐさま取り繕って言う。

「あ、ああ、お疲れ様、小野寺さん」

 すると彼女はにっこりとした表情を浮かべ、やや興奮気味に口を開く。

「あの、これって田辺さんが作られたんですか?」

 そう言った彼女の手には先ほどの書類が握られていた。当然それは彼女に見られても問題ない書類である。

「あ、う、うん、そうだけど……でも、誰にでもできる簡単なものだよ」

 謙遜ではなく事実を言ったのだが、

「そうなんですか? それでも田辺さんはすごいと思います」

 と柔和な笑みで褒められてしまった。それに俺はただ、はははっと乾いた笑いでやり過ごすしかできなかった。
 そんな中、笑みを浮かべながらもやや申し訳なげに、しかしどこか毅然とした風にも見える表情で彼女は言葉を続ける。

「あの、田辺さん。この後、お時間ありますか? もしよろしければ……その、とても久しぶりにお会いしたので、少しお話をしたいなと思いまして」

 それを聞いた瞬間、絶対にダメだと第六感が過去最大の警告を発していた。第六感のみならず、自分自身でもなにか嫌な予感がしてならなかった。だが、

「うん、いいよ」

 俺は、簡単に願いを聞き入れてしまった。彼女の雰囲気に有無を言わさぬものを感じ、気圧されたから。もちろんそれもある。しかしそれ以上に、自分の中でそうしなければならないような気がしたのだ。
 嬉しそうな表情で感謝の言葉を口にしている彼女に一言声をかけ、俺は更衣室へと入っていく。
 着替え中、俺の頭の中は恐怖と後悔でいっぱいだった。
 これからどんなことが待ち受けているのだろうか。
 彼女と話をしなければならないと感じたとはいえ、快諾しなくてもよかったのではないだろうか。
 そもそも自分は何に恐怖し、どうしてそこまで後悔しているのだろうか。
 様々な感情が渦巻き、果てはこんがらがってだんだんとよく分からなくなってくる。ただ第六感が警告し、自分自身でも嫌な予感がしている以上、この後の彼女とのやりとりは相当危険であるということだけは理解できていた。
 とりあえず、どこかで適当に話を切り上げてさっさと帰ろう。
 そう思いながら一度深呼吸をする。そして意を決し、やけくそ気味に更衣室を出る。
 その二~三秒後、彼女の声が聞こえてくる。

「けっこう降っていますね」

 彼女は昭和の刑事よろしくブラインドに手をかけ、外の様子をうかがっていた。普段ならその光景に笑みを浮かべていたように思う。しかし今はそんな余裕などさらさらないため、俺はただただ取り繕うのに必死だった。

「そうだね。冬にこれだけ降るのは珍しいかも」

 一方の小野寺さんは背を向けたまま少し寂し気に、そして残念そうに言う。

「天気予報で雪が降るかもって言っていたので少し期待していたんですけれど、真由美さん……一瀬さんの予報通りでしたね」
「でもほら、これから気温が下がっていくわけだし、遅くても日が変わるころには雪になるんじゃないかな?」

 俺は平静を装いながらフォローを入れる。すると彼女はこちらに向き直り、いつもの明るく柔和な笑みを浮かべて言った。

「確かに、そうですね。盲点でした。となると今日は雪が落ちるのを見届けるまで寝ずにいるか、それとも明日積もっていることを期待して早めに寝るか……うーん、悩ましい」

 少し顔を上げ、宙を見ながら難しそうな表情をする小野寺さん。そんな彼女を見て、俺はなんとか苦笑いを浮かべるだけだった。
 たったこれだけのやりとりでも、神経はぐっと擦り減っていく。ここまでの積み重ねがある分、果たして俺はいつまで平静を装っていられるだろうか。
 緊張と不安がまた一層高まり深まる。しかし、そんなことなど露ほども知らないであろう小野寺さんは、ふと思い出したかのように尋ねてくる。

「そうだ、田辺さん。深夜帯のことについて教えていただけませんか? どんな仕事をするのか、それから昼との雰囲気はどう違うのか、とても気になります」

 なんだ、そのことか。それならなんとか大丈夫そうだ。
 俺は彼女の質問に、丁寧にかつ掻い摘んで答える。その間、彼女はよほど興味があるのか熱心に耳をこちらへ傾け、ちょうどいいタイミングで相槌を打っていた。彼女にとって深夜勤務というのは未知の領域に等しいであろうから尚のこと気になるのかもしれない。
 一通りの説明が終わったところで、彼女は言う。

「なんだか、いろいろと大変そうですね」

 それに俺は冗談めかしたかのように答える。

「いやでも昼ピークと比べたらものすごく可愛いものだよ。まあ、厄介目なお客さんには苦労するけどね」
「厄介? ああ、酔っ払い」

 合点がいったようで、ハッとする小野寺さん。「そう」と苦笑い気味に言葉を返すと、

「確かにそれはちょっと厄介かもしれませんね」

 と彼女は俺と同じように苦笑いを浮かべたのだった。
 ここまでなんとか平静に会話を続けられているだろうか。とはいえ、ずっと受け身である感じは否めない。このままだと彼女に違和感や不信感を与えることになる。ここは一つ耐え忍んで今度は自分から話を振ることにしよう。なに、しばらくすれば帰れるさ。それまでの辛抱だ。
 できる限り自然に彼女へ問いかける。

「小野寺さんはどうだった? なにか変わったこととかある?」

 すると彼女は、うーんと首をかしげたのち空笑い気味に答える。

「特段これといった変化はないですね。ただ……」

 そこまで言って俺をじっと見据える小野寺さん。彼女は笑みこそ浮かべているものの、なにか複雑そうな表情をしている。一体、どんな言葉が飛び出すのだろうか。
 それから二秒ほどの間があって、ようやく彼女は口を開く。

「田辺さんと顔を合わせることがなくなってからというもの、いかに自分は田辺さんを頼り、田辺さんに支えられていたのかを痛感しました。その後一人で頑張ろうと、いろいろと画策してみたのですが、今日、田辺さんと久しぶりにお会いして、さらにはこうやって言葉まで交わして、そうしたらだんだんと甘えたくなってきてしまって……すみません。もう独り立ちしていなければならないというのに、本当にお恥ずかしい限りです」

 そう言った小野寺さんは作り笑みを浮かべ、申し訳なさそうにしていた。
 彼女は一体なにを言っているのだろうか。
 第一に、そんな疑問が脳内を埋め尽くす。正直、自分には全く理解の及ばない話だった。人違い、あるいは別次元のことだとさえ思えてならなかった。しかし、そう思った次の瞬間には、なぜか先ほどの彼女の言葉がとてつもなく重みのあるものに感じられ、それに連動して胸がぎゅっと締め付けられていった。
 息苦しさと、そして久しぶりの黒いなにかを感じながら、今はとにかくなにか言葉を返さなければと特に何も考えずにフォローを入れることにする。

「小野寺さんはそう思っていても、僕にはよく頑張っているように見えたよ。それから誰かを頼ることは決して悪いことではないと思うし、独り立ちにしても無理に急がずゆっくりやっていけばいいんじゃないかな?」

 すると彼女は、幾分かいつもの笑みを戻しながら言う。

「ありがとうございます。本当に田辺さんはお優しいですね」

 その表情でそんなことを言われるとなんともいえない罪悪感に苛まれ胸が痛む。俺は若干顔を引きつらせながら彼女に軽く言葉を返し、半ば強引に話題を切り替えることにする。

「実際そうでもないよ。あ、そうだ、物凄く今更で申し訳ないけども、学校との両立、上手くいってる?」

 唐突な話題の変化に彼女は戸惑いながらもしっかりと答えてくれる。

「は、はい。まだまだ大変なことは多いですが、生活のリズムができた分、当初のころよりもスムーズに事に当たれています。ですから何も心配なさらないでください。お気遣い、ありがとうございます」

 そうして小野寺さんは素直に会釈したのだった。
 なんとか話を逸らすことに成功したようである。若干の不信感は持たれたかもしれないが、それはまあ想定の範囲内と言えるだろう。なにはともあれ、もうすぐだ。
 そうポジティブに思い、彼女との会話をしばらくの間続けていく。その最中、なぜだか突然、いつも聴いているラジオのパーソナリティの声が脳内で思い起こされる。そして同時にその人の話し方をトレースするべきだと直感的に思い、それに従う。すると、もっと早くそうしていればよかったと思えるほどに会話がちょうどよく弾み、自身の緊張や不安が緩和されていったのだった。さらに彼女の表情からはとても楽しげであることが窺え、つい先ほどのばつの悪そうな雰囲気はさっぱり鳴りを潜めていた。
 何の脈絡もない発想にまさかここまで救われるとは。精神的にも肉体的にも疲弊は激しいが。それでも彼女への耐性もある程度ついたし、結果的にこの時間は決して悪くないものだったといえるだろう。
 さて、そろそろ会話を切り上げてこの場からおさらばしよう。
 ああ、ようやくこれで帰れる。
 やや上機嫌気味にそんなことを考えていた時だった。今日だけでも似たようなことを何度繰り返すのかと深い後悔の念を抱くことになる。
 彼女、小野寺希は不気味なほどに明るく、そして静かめの口調で言う。

「今更で申し訳ないのですが、応援メッセージありがとうございました」

 その言葉を聞いた直後、鈍器でドンと後頭部を殴られたかのような感覚に襲われ、視界がぐにゃりと歪む。そして次の瞬間には一瞬で頭が真っ白になり、文字通り茫然となる。しかし、その間も彼女の言葉は続いていく。

「とても嬉しかったですし、なによりものすごく力をもらえました。だから練習も本番もうまくやることができてすべて大成功に収まったんです。本当に田辺さんには助けられてばかりで……改めてありがとうございました。このご恩はいつか必ず返させていただきます」

 ……あ……ああ……。

「田辺、さん?」

 さすがに訝しげに思われたようで彼女は怪訝そうに尋ねてくる。

 ……あ……あ……な……なにか……答えないと……。

「あ、いや、その、カラオケ店で久しぶりに会ったときに……宮前さんだっけ、元気な子だったなって思いだして……ああ! そうだ。この後野暮用があるんだった。今思い出した。ごめんね、せっかく話をしたいって言ってくれたのに。申し訳ないけど今日は先に帰るね。この埋め合わせはまたいつか。じゃあ」

 彼女の言葉を聞くより先に、彼女の眼を見ることなく荷物を持ち、この場を離れようとする。
 とても無理やりな形で話を切り替えたが、ここまでうまくやってきたのだ。だからきっと今回も大丈夫に決まっている。
 そう、思っていた。彼女に背を向け扉のほうへと歩き始めたその時だった。突然左腕に強い違和感を覚える。それは腕を後ろに引っ張られるような感覚で、決して力はなかったが無視できないほどのなにか念のようなものが感じられた。そのため俺は歩みを止めざるをえなくなる。そうして恐る恐る左腕のほうへと目を向けると、彼女が、彼女の右手が俺の左袖をつかんでいたのだ。
 なんで、どうして。
 また頭が真っ白になっていく。
 それからどれほどの時が経ったのか、彼女はややうつむき気味にゆっくりと口を開く。

「どうして、避けるんですか?」
「……えっ?」

 全身に悪寒が走り、胸はぎゅっと強く締め付けられる。しかし脳内では彼女の言っていることを一切理解できずにいた。いや、理解することを絶対的に拒否しているといったほうが正確かもしれない。
 しばし静寂の間が訪れる。やがて時は動き始める。

「どうして、避けるんですか?」

 先ほどと全く同じ言葉ではあったが、その時よりも情念がこもっており、口調は消え入るようだった。
 彼女はいったい何を考えているのだろうか。自分の思考がほぼ動いていないとはいえ、全く想像がつかない。
 とりあえず、けむに巻くか? いや、もううまくいきそうにもない。だが、今はそうするほかないのではないか?
 長いラグののち、どうにか俺は口を動かす。

「い、いや、別に避けてなんかいないよ。本当に」

 それからまたしばらく間があって、彼女は変わらず下を向いたままつぶやく。

「嘘、ですよね?」

 思わず俺はたじろぐ。しかし、まだ押し切れることを信じて冗談げに返す。

「嘘なんかじゃないよ。本当だよ。というか、嘘かどうかなんて、なんで小野寺さんに分かるんだよ」
「分かりますよ!」

 耳をつんざくほどの声が脳を揺らす。言葉に重みのある分、なおさらそう感じられる。
 一方の彼女は、そこでようやく顔を上げ、間髪入れずに言葉を続ける。

「たった数か月とはいえ、田辺さんの傍でいろんなことを学んで、そして田辺さんの様々な表情を見てきたんですから」

 そう言った彼女の表情は、先ほどの強い否定が嘘であるかのようにとても柔らかだった。
しかし同時にどこか悲しげでもあった。
 それらに触発されたのか、例の黒いなにかがいつのまにか姿を現し、心を苦しめていた。そして、もう隠しきれないというショックにも打ちひしがれていた。
 チェックメイト、万事休す。こうなってしまった以上、開き直るほか道はない。しかしそれは絶望の道であることは明らかである。そもそも彼女の願いを聞き入れたときから……いや、違う。すでにあの日あの時『あの道』を選んだときからこうなることは決まっていたのかもしれない。
 力なく、しかし一応は取り繕って言葉を返す。

「そう。それはすごい。じゃあそろそろ帰っていいかな?」
「……まだ……先ほどの質問の答えをお聞きしていません」

 控えめながらも、毅然とした雰囲気の彼女。
 しつこいな。
 脳内がぼんやりとする中、そんなことを率直に思う。そのためか俺は彼女から完全に視線を外し、幾分か投げやり気味になって言ってしまう。

「ああ、もういいんじゃないかな、そんなこと。というか、そもそも避けてるって意味がよくわからないけど。まあ、なんにしても君には関係のないことだと思うよ」

 ほんと、関係のないことだよ。
 一時は弱まりを見せていた雨脚がまた一段と強くなる。雨は嫌いじゃないが、今の精神状態と帰宅のことを考えると、正直気がふれそうである。
 そんな中、しばし口を閉じていた彼女が恐ろしいほど静かに、そしてこちらが胸を締め付けられそうなほどの笑みを浮かべて言った。

「四年前の七月十二日、この日が何の日だかご存じですか?」

 その口調は必死に感情を押し殺し、取り繕っているようだった。
 俺は彼女の言っていることを理解できず、一瞬呆気に取られていた。とはいえすぐに彼女の言うその日が何の日なのかを考えてみた。だが、すぐにそれは出てこなかった。
 彼女にとってそんなに特別な日だったのだろうか。そしてそれを俺に尋ねるということは……。
 しばらく返事がなかったからか、彼女は引き続き言葉を紡ぐ。

「その日、私は父に連れられ、父の知人のヴァイオリンコンサートに行っていました。それはもうとても素晴らしい公演……だったそうなのですが、当時の私は楽しめる余裕が全くなくて。結局、一切の感情が動くこともなく終演を迎え、気が付くと無の表情、無の気持ちでお手洗いを後にしていました。その道中のことです。偶然通りがかった掲示板で同じ会場のほかのステージで演劇が行われるということを知りました。するとなぜだか急にそれが無性に気になり始めて。父親の元に戻った後、許可をもらってその演劇を観に行ったんです、父とともに」

 あれ? なんだ? この妙な感覚は。何かがおかしい。何かが引っかかる。
 四年前、七月、ヴァイオリンコンサート、演劇。
 いや、そんな、まさか……。
 彼女は変わらず続ける。

「そこで私は雷を受けたかのような衝撃を受けました。作品の内容や演出だけでも大変素晴らしいものであったというのに、演者の皆さんがとても楽しげに、とても力強く役を演じられていて、なおかつそれはまるでお芝居ではなくすべてがリアルであるかのように感じられて、この上ないほど甚く感動したんです。なかでもある役を演じられていた方からは、気が付くと涙を流していたほどに勇気や元気などたくさんの力をもらえて。当時の私はいろいろとあって精神的に大変だったんですけれど、その方のおかげで救われて、なんとか立ち直ることができたんです。それが四年前の七月十二日のことになります」

 これまでためていたものを吐き出すかのように言う彼女。
 なぜ、そんなことを俺に言うのだろうか。
 とぼけにも似たような気持ちでそんなことを思う。そしてその感情のまま、口を開く。

「ははっ。ちょっとなに言ってるかわかんないや。じゃあ、もう、帰るね」

 これ以上付き合っていられない。背を向けるとともにそう拒絶しかけた瞬間だった。

「アルコルとミザール」

 その言葉によって封じ込めていた記憶が噴き出すようによみがえる。あれもこれもそれもどれも、脳内で思い起こされるたびに肉体や精神から悲鳴が上がる。
時を同じくして、見えざる手に心臓をぎゅっとつかまれる。思い出したことによる苦痛、触れられたくないものを掘り起こされたという恐怖心や緊張感、不快感。絶対に逃がさないという彼女の意思表示。黒いなにか。
 どれが原因なのかは分からない。もしかしたらそれらすべてが心臓を締め付けているのかもしれない。
 そんな苦しみの中で声も出せずただただ思う。
 おいおい嘘だろ、と。
 やがて彼女の声が背後から聞こえる。

「その舞台の演目です。ご存じ、ですよね……田辺さん」

 刹那、俺の中で何かが弾け飛んだ。それはとても危険の孕んだことではあったが、こうなってしまった以上、もうどうにもならなかった。

「はっはっはっ。はーはっはっはっはっはっ」

 狂乱したかのように、馬鹿笑いする自分。彼女はこれをどう見ているのだろうか。
 ひとしきり笑った後、俺は言う。

「いやーお見事だよ。徐々に追い詰め、完全に逃げ道を無くしてから最後にきっちりとどめを刺す。まるでサスペンスドラマや探偵ものの作品を体感しているようだったよ。崖と水しぶきが目に浮かぶ。うん、ほんとお見事」

 そうして俺は振り返って彼女に拍手を送る。
 まったく嫌味な奴である。きっと彼女もそう思っているに違いない。
 なおも俺は言葉を続ける。

「それにしても、そこそこ離れた街だからきっと大丈夫だろうと思っていたんだけど、まさかここに自分を知っている人がいるとはなー。ここでダメなら、北海道や沖縄や、下手すると海外にまで高飛びしないとダメかな?」

 身振り手振りをつけて大げさに振る舞う。別にそれは彼女に同意を求めたわけではない。そうすることによって自分の気持ちを落ち着けようとしていたのだ。そのため、彼女の表情や気持ちを察する余裕などもちろんさらさらない。

「で、どう思った? 今日までの無様な姿を見て。さぞ面白かっただろうな、大笑いしただろうな。ほんとよく耐えられたよね。僕だったら、会うたび会うたび心中が駄々洩れになっていたと思うな」

 自分自身でも何を言っているのか全く分からない。すでに感情は自分のコントロール外にあった。

「なにはともあれ、もうわかったでしょ? これ以上僕と関わりあわないほうがいいって。それがきっとお互いのためだよ」

 そこで初めて彼女がうつむいていることに気がつく。どうやら俺はいつ彼女が下を向いたのかもわからないほどに視野が狭くなっているようだった。
 まもなく彼女が沈黙を破る。

「そんな悲しいこと、言わないでください」
 変わらずの俯き様、感情を押し殺しているかのような口調、そしてその言葉。
 また俺の心を苦しめる。しかし彼女はさらに続ける。

「田辺さんは、私にとって今でもずっと憧れの存在で……久しぶりにお顔を拝見して、それから同じ職場で働くことができて、トレーナーを務めていただいたり、ほかにもたくさんお話しをしたり、メッセージのやりとりまでしたり。もう私には夢のようで、一生かけても返しきれないほどのご恩をこうむって……過去も現在も、田辺さんと過ごす時間はとても贅沢でかけがえのないものなんです。だから、そんな悲しいことを言わないでください」

 それに俺は、自分自身に嘲笑しながら言う。

「ふん、だったらその期待に添えずに申し訳ない。所詮僕はその程度の存在でしかなかったということ。それと、さっきから言っているその人物、僕から言わせればそいつは君が作り上げた虚像に過ぎない。きっと虚偽記憶や過度な思い出補正がそうさせているのだろう。なに、気に病むことはない。そんなのよくあることだから」
「違う……違う、違います!」

 いつのまにか顔を上げていた彼女は血相を変えたかのような表情をして、頭を横に振りながらいつになく強い否定をする。それに一瞬気圧されるが、俺はすぐさま冗談げに返す。

 「なにが違うっていうんだよ」

 一呼吸置いたのち、彼女は口を開く。

「田辺さんは、田辺さんご自身のことをあまり深く理解されていません」

 うん……?

「店長さんや真由美さん、それからこの店で田辺さんと接したことのある人だったらみんな田辺さんのことをとても高く評価しています。穏やかな人柄、仕事ぶり、フォローの加減、信頼感。少々近寄りがたい雰囲気をお持ちですが、それでもこの店のいろいろな意味での支柱となっていることに間違いありません。少なくとも私は、過去も現在も田辺さんがいなければどうなっていたのか分からないとさえ思っています。そこに虚偽記憶も思い出補正もありません。すべて心底からのことです」

 なにを言い出すのかと思ったら……。
 早口でおそらく妄言を吐いている彼女に呆れ果てる。しかし直後に状況は一変する。

「それにお芝居の才能だって……」
「えっ……?」

 地雷を踏んだ、あるいは失言をしたかのようにはっと肩をびくつかせ、うつむき加減で目が泳いでいる彼女。
 一瞬で胸をえぐられたかのような、あるいはどん底に叩き落とされたかのような感覚と、先ほどはじけ飛んだところのまだ上にあった理性に近いものが、だんだんと崩れていくような感覚が同時にやってくる自分。
 その後、先に声を出したのは自分だった。

「そっか。それが本題というわけか。ふっ、わざわざそんなことを言うためにこの店で働き始めたり、今日居残ったりしたと」
「そういうつもりでは……」
「まったくご苦労なことだ。でも無駄骨だったね」

 彼女の声は聞こえていたが今はそれを無視する。そしてわざと笑みを浮かべながら言葉を続ける。

「君があーだこーだ言ったところで覆ることは絶対にない。なんてったって、もう過去のことなんだから」

 すると彼女は開き直ったかのように食いついてくる。

「それでも! 田辺さんは舞台上にいる時が一番輝いているんです! 一番かっこいいんです! 一番……だから……だから……!」
「はははっ、知らないよ。ほんと馬鹿馬鹿しい」

 そこでまた彼女のほうをちらと見ると、またうつむいている姿が目に入った。そして彼女はその状態で予期せぬことを口にする。

「だったらどうして……そんな悲しげな表情をしているんですか?」
「悲しげな表情? 誰が? いつ?」

 オーバーリアクションで俺は問う。一方の彼女は毅然かつ柔和に答える。

「田辺さんが、です。まさに今……ううん、カラオケ店でお会いした時も、今日久しぶりにお顔を拝見した時もそうでした。それだけでなく時折なにかを思い出して心を痛めていらっしゃる姿を何度もみました……まだ諦めきれていないんじゃないですか?」

 刹那、最後の砦が完全に崩壊した。

「君に何がわかるっていうんだよ!」

 喚きにも近い声がスタッフルームに響き渡る。そうして束の間の静寂が訪れる。しばらくして彼女がなにか言おうとしたようだが、それは俺の言葉によってかき消される。

「さっきから聞いていればずっと言いたい放題で、挙句たった数か月程度の付き合いで僕のことを分かったつもりでいるのか? 笑わせるな! 何も知らない部外者が口出しなんかするな!」
「私はただ……」
「ただ……ただ、なんだ? 田辺さんの舞台での姿をまた見たいです、とでも言うのか? 結局君は、自分さえよければいいと思っているただのエゴイズムじゃないか」
「それは……確かにその気持ちは否定できません。でも私は、田辺さんの力になりたくて」
「余計なお世話だ! そんなおせっかい必要ない。厚かましいにも程がある!」
「じゃあ田辺さんは、このままでいいと本気で思っているんですか!?」
「え……?」

 真っ向からそう言われ、無茶苦茶な言い分で無理やりに本筋をそらしていた俺は思わず言葉が詰まる。そして彼女は畳みかけるようにして言う。

「まだ心のどこかでずっと燻り続けているから、そうやって熱くなるんじゃないですか? まだ諦めきれていないから、悔しくて悲しい気持ちになるんじゃないですか? だったら、またやり直しましょうよ。そうしたら……」
「言っただろ。もうなにも変わらないって。君にはなにもわからないって」

 怒鳴るように言い放つ。そして俺は荷物を持ってこの場を離れようとする。すると、

「お願いです田辺さん! もう一度……もう一度……!」

 俺を引き留めようと彼女は左腕をつかんでくる。だが俺は思いっきりそれを振り払ってしまう。その時、一瞬だけ彼女の顔がばっちりと目に映る。彼女は俺に対して初めておびえたような表情を見せていた。俺は一瞬だけ良心的な心が復活し、戸惑いや後悔が心に浮かぶ。しかしすぐにほかの感情によって上書きされていく。そして、

「ほっといてくれ!」

 そう言って俺はスタッフルームを飛び出した。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み