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文字数 6,776文字

 翌日。目を覚ましたのは日の出前のまだ辺りが薄暗闇に包まれているころだった。
 暖房はタイマーによって切れており、さらには明け方に近いということもあって、布団から出るのがとても億劫に感じられるほどに寒さが厳しく感じられた。とはいえお漏らしするわけにはいかないため、体を震わせながらお手洗いへと向かう。

 戻ってきてすぐ、熱を測りながら再び布団の中へと潜り込む。昨日と比べれば随分と身体が軽く、咳や頭痛、関節痛などの症状も幾分和らいでいるように思われる。おそらくこちらも……。
 やがて検温が終わる。三十七度五分。夕方ごろにまた熱が上がる可能性もあるためまだ油断はできないが、少なくとも今の段階では全体的に復調傾向と言えるだろう。念のため病院へは行くが。
 ほっとした気持ちになりながら、病院の時間までもうひと眠りしようと一度目をつむる。しかしすっかりと目が冴えてしまっていたため、その願いはかなわず、結局それからしばらくはベッドの上でもぞもぞとしたり、スマホで動画を再生したりしながら過ごした。

 そんなぼうとした時間の中で、ふと思う。そういえば今日は悪夢をみることはなかったな、どうしてなんだろう、と。だが、そんな疑問を抱いたのが間違いだった。その次の瞬間、昨晩の出来事が鮮明に思い出される。
 一瀬さんがこの家を訪ねてきたこと、一瀬さんから家電製品をもらったこと、一瀬さんにおかゆを作ってもらったこと、一瀬さんと会話を交わしたこと、そもそも一瀬さんがこの部屋に存在していたということ。
 体調不良で脳がうまく動いていなかったとはいえ、よく自分はそんな状況に耐えられたなと恐ろしく思い、そして顔が真っ赤になる。そうしてそんな記憶から引き出されて、一瀬さんと恋人同士で何度目かのデートに行っているという夢を見たことを思い出す。しかもお互いに愛の言葉をささやきあっているという恥辱付き。一体俺はなんという夢を見ているのか。淫夢ではないにしても、気持ち悪さ爆発のひどい夢じゃないか。これはもう悪夢だ。今世紀最大の悪夢だ。
 そのうち俺はいてもたってもいられなくなって朝シャンを決め込む。頭を掻きむしり、すべてに対して忘れろ、忘れろと念じる。
 これらの言動に、自分は思春期真っただ中の中学生かと錯覚するが、あの一瀬さんがこの家を訪ねてきた上に諸々のことがあったのだ。動揺しないわけがない。相当な手練れであっても心中穏やかではいられないだろう。

 少しだけ気持ちが落ち着いたところで、ひとまず一瀬さんへ連絡を取っておこうと思い、シャワーを終え、厚着をし、スマホを手に取ってメッセージアプリを開く。
 そうして昨晩の諸々のことへの感謝と現時点での体調報告などを打ち込み、送信する。
 今日はしっかりとスマホをチェックしておかないと。
 心の中でそう念押ししながら、少し早めではあったが早速自宅を出て病院へ向かうことにする。このまま家にいてもまた気持ちが高ぶって、そのうち気が触れそうなほどの悶絶に襲われかねないと思ったからだ。そうなる前に外の凍てつく風を浴びて頭と心を冷やしたい。

 そんな思惑を抱いてから十数分後、無事に患部は冷え、何事もなく病院に到着する。今の状態であれば、院内でも平穏無事に過ごすことができるだろう。
 ほっと一つ安堵しながら受付を終えて、ロビー待合でぼうとテレビを眺める。そこから先は昨日とほぼ同じ流れで時が過ぎ去っていく。待ち時間こそ少々短縮されたものの、インフル検査の結果が陰性であったことまで大きな変化はなかった。
 やがて追加の処方箋の受け取りまで終えて、まったりと家路につく。そして昨日の流れをなぞるように、途中でコンビニに立ち寄り軽食などの買い物をして自宅へと帰った。

 帰宅してまもなく、だいぶ体が冷え込んでいたために、まずは暖房とカーボンヒーターの同時利用で暖をとることにする。しばらくして、ある程度体が温まったと感じたところでスマホの動画アプリを開き、お笑い芸人のコントを流しながら菓子パンとスープ春雨をゆっくりと食していく。
 ちなみに具合のほうは思いのほか悪くなさそうだった。むしろ寝起きの時よりも幾分か症状が落ち着いているような気さえしていた。病院への行き来で体力を消耗し、なおかつほんの少し前まで体がほぼ底冷え状態であったというのに、おかしなこともあるものだ。
 ぼんやりとそう思っていると、ちょうどそのタイミングで目が覚めるような出来事が起こる。ついに一瀬さんからメッセージが届いたのだ。俺は思わずその場で正座をして背筋がピンと伸びる。しかし、すぐに返信するのもなんだか気が引けたため、五分後の食事を終えたころにアプリを開いて内容を確認する。そこに記されていたのは、なんとも一瀬さんらしいものだった。

『いえいえ、快方へ向かっているようで何よりです。だけども、あまり気張らず、ゆっくりと休暇を過ごしてくださいな』

 文字だけでは伝わらない思いがあるとよく言われる。自分自身も概ねその通りだと思っている。だがこのメッセージには一瀬さんの心が、優しさが、温かさが確かにそこに宿っているように感じられた。そしてそれは妙に心地良くて、胸に沁みて、なんだか心の奥底からこみ上げてくるものがあった。

 こんな不思議な気持ちになるのはいつ以来だろう。数年……いや、半年ほど前にも似たようなことがあったか。確かその時は……あれ、なにがあったんだっけ。心を動かされたという感覚はとても鮮明に覚えているのだが、それ以外の記憶は……相手は、一瀬さん、だったか? そうだ、一瀬さんだ。寝ているところを起こしてしまって、その幾分か後に今と同じような思いを抱いたんだ。そうだそうだ、思い出した。
 いや、ちょっと待てよ。あれはいったい何が引き金となっていたんだ? 肝心の経緯のほうが記憶の中から全く出てこない。というか、そもそもその一件だけだったのか? それだけではなにかこうしっくりこない気もするし、なによりその時にはすでに新鮮というよりも、ほんの少し前にも抱いた感情として受け取ったような覚えがある。そう考えると……。

 とても大事なことを忘れているのではないか? 

 でないと、こんな複雑な気持ちには……ああ、ダメだ、そっちのことは全く思い出せない。たった半年ほど前のしかも衝撃的ともいえる出来事を全く覚えていないとなると、それは虚偽記憶なのだろうか。決してそんなことはないと思うのだが、うーむ、とてももやもやとする。

 フラストレーションに苛まれる中、改めて一瀬さんへお礼の文言を送ってスマホを閉じる。そのすぐあと白湯を用意して薬を飲み、早くもベッドに寝転がる。
 とりあえず、これ以上考えるのはよそう。きっと答えが出ることはないだろうし、それになにより体調に影響が出るのはご免だ。今はしっかりと療養することに集中していかないと……って、ついさっき一瀬さんから『気張らず』という言葉をかけてもらったばかりなのに。せっかくの厚意を無駄にしないためにも、この休暇期間中はもう少し気楽に構えていようじゃないか。それでもって来週のことは来週に考えよう。

 脳内で数日間限りの極楽とんぼ宣言をして、ヒート気味の思案の鎮静を図る。しかしすぐに事態が好転するわけもなく、愉快なことを考えたり、何度も深呼吸をしたりして、ゆっくりと時間をかけながらうまくやりすごしていく。そうしてようやく気持ちが落ち着いたころには、体の力が抜けて意識も薄ぼんやりとし始めていた。
 次に目覚めるときは何の夢も見ることなく、ただただ安らかでありますように。
 そう切に願いながら眠りに落ちる直前、ある疑問がふと脳裏に浮かぶ。あの例の黒いなにかは今どこにいるのだろうか、と。今日も、そして昨日も、奴にとっては最高のシチュエーションが続いていたであろうに、全く姿を見せることはなかった。いったいどうしてなのか。もちろん自分自身にとってこの状況は最高であるため、気にする必要は皆無なのだが、ほんの少しばかり気がかりというかなんというか。
 それを最後に、ぷつりと意識が途絶えた。

 次に目を覚ましたのは二時間半後の昼下がり、昨日にも経験した『寝起きと同時に忘却する悪夢』にうなされての目覚めとなった。
 残念ながら夢見ず安らかにという願いは叶わなかったが、一瀬さんと恋仲であるという夢を見なかっただけでも本当は御の字なのかもしれない。またあんな夢を見てしまった日には、一瀬さんに合わせる顔がなくなってしまうだろうから。
 そんな安堵と恐怖を同時に抱きながら、得体のしれない悪夢によって荒れていた呼吸を整え、体調の確認をしていく。体温も含めて大きな変化は見られなかったが、決して悪化しているというわけではなく、一時的に遅々としているものの快復に向かっていることは間違いなさそうだった。極楽とんぼ宣言が功を奏したのだろうか。なにはともあれ、よかった。
 それから二、三時間ほどはすっかりと目がさえていたこともあって、動画アプリを開いたり、軽食をとったり、本を読んだりして過ごす。やがて睡魔がやってくると、それに抗うことなく素直に眠りについた。

 その後、同じような流れを幾度と繰り返し、気が付いたころには翌日の昼を迎えていた。
体調を崩してからまだ三日ほどしか経っていないが、病状は非常によくなっており、いわゆる寛解と言われる段階に入っているようだった。しかしその一方で、例の悪夢の影響から精神はどんどん蝕まれ、随分と気が滅入っていた。病は気からという言葉は万能ではなく、時に反することもあるらしい。

 さらに翌日も、気になる症状は軽い咳と若干の鼻づまりのみとなり全快まであと一歩と迫っていたが、精神状態のほうはあまり芳しい状況になかった。
 昨日はなんとかだましだましでやっていられたが、さすがに今日は。
 そう思い気分転換しようと、買い出しも兼ねてしばし外出することにした。もちろん重ね着やカイロでばっちりと防寒を忘れずに。

 まずはチェックしている作家の新刊を目当てに行きつけの書店へと向かおう。
 そうして自宅を出て、駐輪場へと向かい、数日ぶりの自転車に手を触れる。その瞬間、違和感のような気がかりのような、二日前に抱いたもやもやとした感情が唐突に心の中で思い起こされる。しかも今回は胸がずきりと痛む感覚が追加されていた。
 一体これらは何を意味しているのだろう。ただの偶然か、それともとても大事なことを忘れているのは勘違いでも虚偽記憶でもなく、その忘れ事とこの自転車との間にはなにかつながりがあるからなのか。
 また思案が始まるが自分はもう極楽とんぼ宣言をしたわけで、なおかつこれからリフレッシュをしようという目論見があるため、諸々を頭から振り払い颯爽と自転車を走らせた。

 今日の天気は曇り気味で時折やや強めの寒風が吹いていた。そんな中でも物ともせずとばかりに、自分のお気に入り曲を脳内で流しながら気持ちを無理やり作り上げていく。それが幸いしたのか、書店に着く頃にはいくらか気分が晴れやかになっていた。そうして書店に入ってからも、元よりこういった場所ではいつも高揚感を覚えていたのだが、普段よりも少しばかり大げさに自分の感情を動かしていく。もちろんそれは疲弊することではあったが、ある程度その感覚に慣れてくるといつしかそれは惰性となってあまり意識せずとも高感度の状態で過ごすことができた。おかげで購入予定のなかった四冊の本に代金を支払うことになったわけだが。

 気分がいい状態の中、一時間弱ほど滞在していた書店を出て、少し早めの昼食を摂るために近くのうどん屋さんへと向かう。そこは何度か訪れたことのあるお店で、ここへ来た時には七割方の確率で食べるしょうが多めの天ぷらうどんと鮭握り一つを注文し、それを美味しく頂いていく。その際は特に肩肘張らなくともとても幸福な時間となった。至極当たり前のことかもしれないが食べ物は幸せを運んでくれるようである。

 食欲と味覚と体のぬくもりが十分に満たされたところで会計を済ませて店を出る。そうして今度は百均ショップへと向かい、しばらく店内を回ったのち、必要なものと気になったものをいくつか購入する。やがて退店し、本日最後の目的地、いつも愛用しているディスカウントストアを目指す。が、途中で積載量が気になり、一度自宅へと戻って荷物を軽くしてから再びその店へと向かうのだった。
 到着後、早速買い物かごを手にして店内の商品を吟味していく。まだ昼過ぎということもあって大分混みあっていたが、今日はそれすらも一つのエンタメとして捉えており、あまり気にはならなかった。そのため自由気ままに一人でショッピングを楽しみ、気が付くと来店から三十分以上が経過していた。そのころにようやくすべての買い物を終え、パンパンになったリュックサック型のエコバッグを背負い、店を後にする。

 ああ、楽しかったな。

 自転車をこぎながら、この数時間を振り返ってそう思う。
 できることなら、もうしばらくお店巡りをしたいところだったが、今はまだ病み上がりの身であるため、これ以上の外出は控えておく。ぶり返しでもしたら笑えないだろうから。なんて、ここまで散々とあっちこっち行き来していたやつが何を今更そんなことを言っているのかと笑えてくるが。それでも外へ繰り出したのは間違った判断ではなかったと思う。おかげで随分と気が晴れたわけだし、無事買い出しもできた上に、体調もさほど悪化していない。最高の決断と結果だった。
 本当によかった。うん、本当によかった。
 心の中で何度か安堵の言葉を口にしていると、仕事の行き帰りで通る大道に出る。
 この道を通るのはかれこれ三日ぶりになるのか。毎日のように利用していたからか、たった三日程度でもものすごく久しぶりに感じられる。それから……なんだろう、何か引っかかるものがある。これは確か……。
 次の瞬間、体中に電気が走る。

「あ……あ……あああ……」

 自転車を止め、左手で手袋をつけたまま髪をかき上げつかむ。

 これは……俺の……記憶、なのか?

 電気が走った直後、俺の頭の中で様々な出来事が走馬灯のようによみがえっていた。それは、

「小野寺……さん……」

 彼女――小野寺希との記憶だった。
 彼女と初めて会った日のこと、いや厳密に言うと、記憶はないが数年ぶりに再会した日のこととなるか。それ以外にも、彼女のトレーナーを務めたこと、彼女とともに仕事をしたこと、プライベートで紅茶会をしようと約束したこと、カラオケ店で偶然会ったこと、数か月ぶりに彼女と顔を合わせたこと、そのほか彼女の様々な表情や言葉が脳内で次々とよみがえる。
 そして、最後にあの時の出来事が思い起こされる。

『どうして避けるんですか?』

 それを皮切りに彼女の言葉や表情はもちろんのこと、自身が吐いた数々の暴言やその時々に抱いた感情、さらには全身に打ち付ける雨粒の感覚さえ鮮明にフラッシュバックしていく。と同時に、パンドラの箱が開きかける。
 すると全身は震えだし、胸は締め付けられ、みぞおちあたりを猛烈な不快感が襲う。さらには脈拍が急上昇し、息遣いも荒くなり、冷や汗も出始める。

「ああ……ああ……」

 ただただ苦しく、ただただつらい。正直、立っていられるのもやっとだ。
 だが。
 誰かに見られてたまるものか。
 そんな思いがなんとか体を突き動かして、あの日と同じように自転車を押しながらゆっくりと歩いて帰宅していく。

 やっとのことで自宅へと到着すると、一瞬力が抜けて玄関でばたりと倒れこみそうになる。しかし、ぶりかえしたくないという思いと食材を傷ませてはなるまいとの思いから、どうにか壁で体を支えながら購入物を冷蔵庫の中へと入れていく。
 それが終わってようやくベッドに倒れこみ、そしてうずくまる。
 震えも、締め付けも、不快感も、高心拍も、息切れも、冷や汗も、すべて治まることなく、むしろさらに酷くなっている。

 なんでこんな目に遭わなくちゃいけないんだ。
『いや、それは当然の報いである』

 嘆く自分に対して、もう一人の自分が冷たくあしらう。それがまた心を苦しめ、知らぬ間に復活を遂げていたあの黒いなにかが瞬く間に精神を蝕んでいく。

 ああ……俺は……。

 数年前のこと、四日前のこと、小野寺さんのこと、そのほかいろんな記憶や感情が交錯していく中、やがて俺は気を失った。
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