7-2

文字数 3,152文字

 定食屋を出て十五分弱が経過したころ、車はどこかの駐車場に停車する。

「よし、出るぞ」

 加藤さんの言葉のままに車外へと出る。
 まず始めに、ザザーという音が耳に入ってくる。次に磯の香りが鼻を刺激し、連れてこられた場所は海なのだということを認識する。そして辺りを見回すと、ここから少し離れたところに闇夜に紛れるほどの黒い海を見ることができた。それに加えて、ここが自宅から車で十分少々のところにある海岸公園であることも理解した。
 なぜこんなところへ?
 一抹の疑問を抱きながらも、街灯が立ち並ぶ道へと歩みを進める加藤さんについていく。
 特に何かを話すこともないままニ、三分ほど歩いていくと、加藤さんはふいに足を止め、街灯の灯りに照らされているベンチにゆっくりと腰掛ける。そして自分もそれに倣っていく。それから一瞬の間があったのち、加藤さんは伸びをしながら口を開く。

「今日はいろいろとありがとな。おかげですごく楽しかった」

 そう言って、にっこりと笑む加藤さん。それに自分も同じようにして返す。

「いえいえ、自分もとても楽しかったです。今日は誘ってくれてありがとうございました」

 すると加藤さんは、上機嫌そうな表情と申し訳なさそうな表情を同時に浮かべながら、

「それならよかった」

 とひとこと言って、海の方に目を向けたのだった。
 そうして、しばらく無言の間が続く。
こちらから色々と問いかけることも可能ではあるが、自分としては出来る限り相手のタイミングを待ちたかった。特に、こういった場面では。

 それを待つ間、自分も海の方を眺める。辺り一面真っ暗というわけではなさそうで、自分から見て左手奥側には街の灯りなのであろう光が薄っすらと見える。そして正面から右手側には島の影がぽつぽつと浮かんでいる様子が窺えた。
 これまで夜の海に来たことはあまりなかったが、この時間のここからの景色も悪くない。
 ぼんやりそう思っていると、加藤さんの声が耳に入ってくる。

「海に来て、波の音を聞いて、磯の香を嗅いで、ほぼ真っ暗な海を眺める。そしたら、ものすごく気持ちが落ち着くんだ」

 そう言った加藤さんはどこか遠い目をしている。まるで今現在もそれを体現しているかのようである。
 正直、普段の加藤さんの様子からはあまり想像のつかない一面である。とはいえ、人は皆、意外なものの一つや二つは持ち合わせているわけだし、そもそも、なにを特別とするのかはその人自身が決めることなのだ。外野があーだこーだというのはお門違いだろう。
 そんなことを脳内で駆け巡らせていると、何の前触れもなく、ただ他愛もない話を始める時のような至極あっさりとした口調で加藤さんは言った。

「タナ。俺、あの店を辞めることにした」
「え?」

 加藤さんの驚くべき告白に、俺は一瞬頭が真っ白になる。
 辞める? あの店を? どうして?
 少しずつ事態を飲み込んでいき、今自分が思ったことを言葉にする。

「そう……なんですか。でも、どうして辞めることに?」

 いつもの愉快気な雰囲気で加藤さんは答える。

「母親が、そこそこいい歳でな。父親は随分前にあの世へ行ったし、身内と言える身内も、もう自分だけしかいない。最後の親孝行と言えばあまりに虫の良すぎる話だが、これまで迷惑をかけた分、出来るだけ支えたいと思ってな」

 そこまで言った加藤さんからは、決意の眼差しと幾らかの哀愁が垣間見える。
 二回り以上も年上で、しかも自分には想像がつかないほどの重大な決断をした人に対して、軽薄で不躾で他人事のような言葉かもしれないが、

『加藤さんにも色々とあるのだな』

 と正直思った。当然のことと言えばその通りではある。だが、これまで互いに互いのことを探らず、そして自らが内面をさらけ出すということもなかったためか、加藤さんのその告白はとても新鮮で不思議な感じがしてならなかった。とはいえ、そういった関係性だったからこそ、加藤さんと仲良くなれたのだと今は思う。
 そう一通りの気持ちの整理をして、俺は言う。

「そうだったんですか。すみません、余計なことを聞いて……」

 それに加藤さんは苦笑いをしながら口を開く。

「気にするな。それに謝らなければならないのは俺の方なんだ」

 まだ、なにかあるというのか。
 そう身構える俺をよそに、加藤さんは一呼吸置いたのち、やや表情を陰らせながら言葉を続ける。

「実は、その影響で……タナ、お前に深夜帯のシフトが組まれることになりそうなんだ。本当にすまない」
 うん? え?
 俺は思わずぽかんとする。それは話の内容が理由ではない。あまりに深刻そうに言う加藤さんの様子に俺は言葉を失っていたのだ。
 おそらく加藤さんは、負い目を感じているのだろう。それに深夜帯ともなれば生活リズムが云々、自律神経が云々、他にも色々と大変であるということを自身が身をもって経験しているため、尚更のことなのかもしれない。だが自分からすれば、先ほどの退職の報告と比べれば、なんてことのない話だった。
 とはいえ、どう言葉を返そうか。全く気にしていないと言っても、恐らくそれは信じてもらえないだろう。かといって加藤さんを非難するのは絶対に違う。まあ、そんなつもりは毛頭ないが。
 ふう。
 心の中で一つ息を吐き、気持ちを入れて加藤さんに言う。

「大丈夫ですよ。まあ、やってみせます。加藤さんよりも田辺のほうがいいってところを他の従業員に見せつけてやりますよ」

 そうして俺は、意地の悪い笑みを浮かべる。それを見ていた加藤さんは一瞬呆気に取られていたが、やがて安堵したような表情を見せると、いつもの調子に戻りながら言った。

「そうか。その日を楽しみにしてるよ。でも、あまり無理はしすぎるなよ」

 うっ……。
 俺は思わずドキリとする。その気遣いの言葉は、少し釘を刺すような言い方に感じられたからだ。
 他意はないと思いたいが、やはり加藤さんは何か気づいているのかもしれないな。
そんなことを悟りながらも、尚も俺は平静を装い、口を開く。

「はい。そのあたりはちゃんと気を付けますよ。体が資本って言いますしね」

 すると加藤さんは、

「ああ、その通りだ」

 と、普段通りの様子で笑って返したのだった。
 あくまでもその姿勢でいてくれる加藤さんに心から感謝である。
 そんなやりとりの後、俺は加藤さんから補足程度の情報を引き出していく。
 今月いっぱいでの退職であるとか、二、三週間前に店長へ退職を申し出たら寂しくなると言われたとか、実家はどこにあるとか、そしたらもう滅多に会えなくなるとか。もちろんそれ以外にもなんの取りとめもない話も繰り広げられていた。

 やがて夜も遅い時間となり、少し肌寒さを感じ始めたころ、加藤さんの掛け声でいよいよ帰途に就く時がやってきた。
 改めて夜の海を体で感じながら駐車場へと向かい、気遣いながらも慣れたような手つきで車内に乗り込む。そうして車はゆっくりと走り出していく。
 程なくして、カーオーディオから、自分も知る加藤さんのお気に入り曲が立て続けに流れてくる。偶然にも、それらはすべてアップテンポで盛り上がるようなものばかりである。そのためか感傷に浸る間は一瞬もなく、本日最後のひと時はただただ楽しいという感情だけを抱いて過ぎ去っていった。
 きっと別れの日でも、互いにこんな感じで、「じゃ、また」と軽く言いあうのだろうな。
 こうして、海での加藤さんからの告白に寂しさや悲しみを抱きながらも、全体を通してとても愉快で充実した一日が終わりを迎えたのだった。
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