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文字数 5,633文字
「大変お待たせいたしました、こちら商品になります。ありがとうございました、またのご来店をお待ちしております」
いつも通りの営業スマイルで、車に乗った中年の女性客を送り出す。これでようやく本日何度目かのラッシュアワーが終了した。新商品の発売日とあって、今日は平日であるにもかかわらず午前中から数多くの来店客が押し寄せ、とてつもなく忙しい一日となった。おかげで今、身体のあちこちから悲鳴が上がっている。しかし、そんな地獄の一日からようやく解放される時がやってきていた。
「よし、じゃあ田辺くん、今日はもうあがりね」
マネージャーの一瀬さんが落ち着いた大人の笑みを浮かべて俺にそう告げる。
「はい、お疲れ様でした」
俺は一瀬さんに向き直り挨拶する。そしてすぐ近くにあるPОSレジから勤怠管理ページを開き、退勤記録をつけていく。
「今日はほんとごめんね。中抜けの時も入ってもらっちゃって」
申し訳なそうな調子で一瀬さんが言う。
自分はいつも昼と夜に数時間ずつのシフトが組まれ、その間は中抜けとなっていた。しかし今日はそんな余裕は毛頭なく、結局一時間の休憩と二桁時間のシフトへの変更を店長から頼まれ、承知した。もちろん内心は嫌々だ。だが、あんな修羅場の中で「嫌です」と素直に断れるほどの根性と図太さは持ち合わせていなかった。とはいえ、その分の対価はきちんともらえる上に、こんなことがしょっちゅうあるわけでもないため、そこまでの不平不満はないのだが。
一瀬さんをちらと見ながら、冗談めかした口調で言葉を返す。
「いえ、どうせ暇してるだけだったんで、全然構わないですよ」
「でも本当に助かったわ。ありがとね」
申し訳なさを残しつつも、今度は優しい笑みを浮かべる一瀬さん。
なんの衒いもないその言葉、表情に俺は嬉しさや照れくささではなく胸苦しさを感じていた。自分の中にある『黒いなにか』が、蔦の這った建物のように胸をぎっしりと覆いつくし、それにゆっくりと締め付けられていく、そんな感覚だった。
その苦しさから唐突に何か言葉を吐き出したくなるが、人の目がある以上そういうことは避けたい。それにそんなことで八つ当たりするような惨めな人間には死んでもなりたくなかった。
負の感情を心の奥底へと押し込め、また冗談めかした口調になって言う。
「お役に立ててよかったです。それじゃあ、もうクタクタなのでお先に失礼します」
「今日、明日はゆっくり休んでね」
やはり一瀬さんは変わらず優しく声をかけてくれる。しかしそれがまた『黒いなにか』を刺激する。いつものことではあるが、そんな自分に嫌気がさし、嘲笑したくなる。それでも尚、平静を装い続ける。
「はい、お疲れさまでした」
「お疲れさま」
一瀬さんに会釈をして、逃げるようにその場から離れる。
この店でアルバイトとして働き始めて、もう一年になるだろうか。一瀬さんには採用面接のころからお世話になっていて、足を向けて寝られないほどの恩を受けていた。正直、始めは自分だけに向けられたものだろうかと馬鹿みたいな勘違いがほんの一瞬だけあったが、当然ながらそんなことではなかった。単に一瀬さんは誰に対しても、優しく、そして平等に気にかけていたのだ。その上、美人で、聡明で、仕事も出来て、落ち着いた雰囲気を持っているという最高の付加価値がついてくる。そんな完璧超人のような人が、自分はもちろんスタッフ全員の精神的支柱と言っても過言ではない存在になるのは想像に難くないだろう。しかし、だからこそと言うべきか、ほんの少しだけ、ごくまれに一瀬さんのことを苦手だと思っている自分がいた。
あの場を離れた後、厨房脇にある通路を通りスタッフルームへと向かっていた。その途中、いつも入れ違い際にすれ違う男性スタッフ、加藤さんと一言二言ほどことばを交わす。
もうすぐ還暦だという加藤さんとは三倍もの年齢が離れていたが、偶然にも音楽の趣味が近かったこともあって、すれ違えば会話をする知人程度の間柄になっていた。プライベートで会ったことはまだ一度もなかったが。
ちなみに今日の話題は、「『あなたの口座に一億円を振り込みました』という迷惑メールが届いた」というもの。そんなくだらないことを会話の種にできるほどの仲ではあった。
加藤さんと挨拶をして、店舗のすぐそばに併設されているスタッフルームの中へと入っていく。そこには誰もおらず、当然ながら真っ暗闇だった。灯りをつけるとオレンジ色に近い光が部屋の中を照らし、見えなかったものが見えてくる。
右手前には更衣室、左手前と右奥には四人から六人用の机と椅子が一セットずつあり、左奥には二人同時に使用できるデスクがある。それ以外にもロッカーやら書類棚やらがいくつかあるため、広いようで窮屈に感じられるスタッフルームだった。
ロッカーから自分の荷物を取り出し、着替えと帰り支度を手早く済ませていく。一瞬、どこか椅子に座ってひと休みしようとも考えたが、そのまま眠りに落ちてしまいそうな気がして、結局諦めた。
支度が整うと、念のために次のシフトの確認をする。シフトが勝手に変更されていた、ということはこれまでに一度もなかったが、ある種の恐怖心からか、念には念をと確認せずにはいられなかった。
やはり今回も変更はなく、明日は休みで明後日からはまたいつもどおりのシフトが組まれていた。
明日は久しぶりに部屋の掃除でもしようかな。
そんなことを考えながら照明を落とし、スタッフルームを後にする。
外に出れば、この時期特有の蒸し暑さが全身を包み込んでいく。
暑い……。そして、気持ち悪い……。ただでさえ、平年以上の気温を連発しているというのに、そんな日々がこれから二か月近く続くのだと思うと、気がふれてしまいそうだ。
頭を抱えながら、スタッフ専用の駐輪場に置いてある自分の自転車に乗り、少しだけ速めに走らせる。
自宅までは二十分弱。その間は特になにも考えることはない。ただただ、事故を起こさない程度にぼうとしている。
少し離れたところに田んぼがあるからか、カエルの鳴き声が聞こえてくる。そしてすぐ隣の道路からは大型トラックが通過し、けたたましい音が耳に残る。
この地域周辺だけ見れば田舎ではないものの都会とも言い難い街ではある。だが、県、ひいては地方の主要交通網となっている幹線道路がこの街の東西にもまたがっており、ほぼ年中無休で大小さまざまな車が行き来していた。そのためか、深夜に差し掛かったこの時間帯でも車の通りがなくなることは滅多になかった。
そんな影響もあって、バイト先でもあるあのファストフード店の売れ行きは、県内でもトップクラスだという。そんな場所で働けるのは誇りである、そう思えないのは、このクタクタな体が原因か、それとも自分がまだ若いからなのか、それは分からない。
自転車を十分ほど走らせたころで、お酒と日常消耗品が切れそうだったことを思い出し、近くの二十四時間営業のディスカウントストアへと向かう。そこで、ついでとばかりに購入できる範囲で食品や飲料、他の消耗品も買い足しておく。
これで二、三日は持つだろう。
そう思いながら、かなり重くなった自転車を今度はゆっくりと走らせる。
それから十五分ほど経ったころだろうか。自宅である二階建てのアパートが見えてくる。
再来年で築二十年になるその建物は所々に傷みや汚れが見えるものの、まだまだ現役でやっていけそうな雰囲気は十分にある。
駐輪場に自転車を止め、階段を使って二階へと上がり、一番奥の部屋へと入っていく。
六畳半のワンルームで三点式のユニットバス。日当たりと風向きはまずまずで、最寄り駅までは徒歩三十分はかかるだろうか。これで家賃が破格の三万円なのだから贅沢は言えない。といっても、これまで不便に感じたことはほとんどなく、むしろ今はこれで十分だとさえ思っていた。
部屋の灯りをつけ、買い出し品をそれぞれの場所に仕舞っていく。
その後、シャワーを浴びてベッドに横たわる。
「ふぅー」
思わず、深い息が漏れ出していく。無理もない。ようやくリラックスできる時がやってきたのだから。
「さすがに今日は疲れた」
疲弊しきった独り言が部屋の中を伝う。このまま眠ってしまいたかったが、眠気のピークが超えたのとシャワーを浴びたせいですっかり目が冴えてしまっていた。
寝かせてくれよ。
そうポツリと呟きながら重たい身体をのっそりと起こし、デスク上のパソコンを起動させる。それと同時に、ここ最近のブームとなっている焼酎のお湯割りとおつまみの酢の物を用意していく。
アルコールが解禁されてから早数ヶ月。次の日に影響が出ることを避けるため、休日の前夜に飲むことがほとんどで、お酒の量も所謂ほろ酔いと呼ばれる段階で必ず止めていた。
そんな中で、これまでいくつかのお酒を試してみたが、味音痴なのかこれっぽっちも旨さというものが分からなかった。それでも『酔い』自体は嫌なものではなく、その感覚を楽しむためだけにお酒を飲んでいた。そうして今ではシンプルで悪酔いしづらいと言われている焼酎のお湯割りに落ち着いたのだった。やや癖があるのはご愛敬だと思っている。
デスク上にお酒とおつまみを置き、パソコンを操作してネットラジオ配信サイトを開く。
時刻はもうすぐ二十四時になるというところ。近所迷惑にならないように、パソコンにイヤホンをつないで自分の耳に装着する。そこからラジオ特有のコマーシャルがいくつか流れてくると、ラグのために現時刻から十数秒遅れて午前零時の時報がアナウンスされる。
そして、それは聴こえてくる。
男性パーソナリティによるタイトルコールで始まり、その人が歌うリズミカルな音楽がBGMとしてしばらく流れると、やがていつもの聞きなれた声が耳に入ってくる。
「-月-日、-曜日、時刻は深夜零時を回りました--」
それに続いて番組タイトル、パーソナリティ名、番組内容が順に紹介されると、その後はただただ愉快なフリートークが繰り広げられていく。
この番組はオープニングからエンディングまで、深夜とは思えないほどのテンポとテンションで進められ、お世辞にも中身のあるトークが行われることはほとんどなかった。無論、『いい話』も出来るパーソナリティなのだが、気恥ずかしさからか本人はよく忌避しているようだった。それでも、頭をからっぽにしてゲラゲラと笑いながら聴くことのできるこの番組が、自分は大好きだった。もちろんパーソナリティ自身のことも。そのため同局他局問わず、この人が出演する番組は出来る限りチェックするようにしていた。リスナー兼ファンといったところだろうか。
ちなみに加藤さんもこの人の存在を知っており、番組もたまに聴いているとのこと。それを知った時は驚きと、なんとも形容しがたい感情でなぜか呆然としたことをよく覚えている。
そんなことを思い返していたが、あっという間に軽快なトークが脳内に上書きされていく。
それから十分ほど経過し、オープニングトークが締められようとしていた。相変わらずのスピード感である。
パーソナリティはフリートークを終え、台本を読み始める。
「先週もお知らせしていた通り、本日はゲストさんがいらっしゃってます。本日のゲストは……」
あ……そうだ……忘れてた……。
「--さんです!」
その瞬間、全身から血の気が引いた。夢見心地の空間から現実世界へと一気に引きずり戻される、そんな感覚だった。頭の中では走馬燈のように過去の映像が巡り、それと同じくして、あの黒いなにかが心をぎゅっと強く締め付ける。そのため言いようのない胸苦しさと気持ち悪さが一斉にこみあげてくる。
いつのころだろうか、こんな風になってしまったのは。
いや、やはり思い出したくないし、考えたくもない。
随分と遠くの方から、番組のメールアドレスを読むパーソナリティの声が微かに耳に届く。しかし今はもうこれ以上聴く気にはなれず、イヤホンをそっと取り外し、ラジオサイトも閉じてしまった。
気持ちを紛らわせるため、ぬるくなり始めていたお酒を呷る。
絶対明日に響くな。そう思っても、今回は不可抗力だから気にするな、と言っている自分もいる。それでも、馬鹿みたいに飲みすぎないようにだけは十分気をつけよう。休日だとはいえ、二日酔いで滅入るのはさすがに勘弁したい。
やや落ち着きを取り戻したところで、ゆっくりと立ち上がり二杯目のお酒を用意する。そしてふたたびデスクの椅子に腰掛けパソコンを操作し、今度は動画サイトを開く。そこで、よく観るお笑い芸人のコントや漫才の動画、当然ながら公式チャンネルが上げているものを物色しながらお酒を進める。
そうやって感情を上書きしながら、『平静』を取り戻していく。
それからしばらくして、丑三つ時を過ぎようかというころ、お酒が回ったからか激しい眠気がやってくる。丁度、グラスに入ったお酒も飲み終えるところで、酔いも気分もとてもいい具合だった。
パソコンの電源を落とし、最後の一杯を飲み干してベッドに横たわる。すると眠気と疲れとアルコールのせいか、身体の力がどんどんと抜けていき、やがては指一本も動かせなくなってしまった。いつもなら少し酔いをさましてから就寝するのだが、どうやら今日は無理そうだ。
まもなく意識が薄れていく。
だいぶ限界に近かったんだな。
そんな微睡みの中、突如脳内で誰かに問いかけられる。
『このままでいいのか?』
しかし、次の瞬間には深い眠りの底へと落ちていったのだった。
いつも通りの営業スマイルで、車に乗った中年の女性客を送り出す。これでようやく本日何度目かのラッシュアワーが終了した。新商品の発売日とあって、今日は平日であるにもかかわらず午前中から数多くの来店客が押し寄せ、とてつもなく忙しい一日となった。おかげで今、身体のあちこちから悲鳴が上がっている。しかし、そんな地獄の一日からようやく解放される時がやってきていた。
「よし、じゃあ田辺くん、今日はもうあがりね」
マネージャーの一瀬さんが落ち着いた大人の笑みを浮かべて俺にそう告げる。
「はい、お疲れ様でした」
俺は一瀬さんに向き直り挨拶する。そしてすぐ近くにあるPОSレジから勤怠管理ページを開き、退勤記録をつけていく。
「今日はほんとごめんね。中抜けの時も入ってもらっちゃって」
申し訳なそうな調子で一瀬さんが言う。
自分はいつも昼と夜に数時間ずつのシフトが組まれ、その間は中抜けとなっていた。しかし今日はそんな余裕は毛頭なく、結局一時間の休憩と二桁時間のシフトへの変更を店長から頼まれ、承知した。もちろん内心は嫌々だ。だが、あんな修羅場の中で「嫌です」と素直に断れるほどの根性と図太さは持ち合わせていなかった。とはいえ、その分の対価はきちんともらえる上に、こんなことがしょっちゅうあるわけでもないため、そこまでの不平不満はないのだが。
一瀬さんをちらと見ながら、冗談めかした口調で言葉を返す。
「いえ、どうせ暇してるだけだったんで、全然構わないですよ」
「でも本当に助かったわ。ありがとね」
申し訳なさを残しつつも、今度は優しい笑みを浮かべる一瀬さん。
なんの衒いもないその言葉、表情に俺は嬉しさや照れくささではなく胸苦しさを感じていた。自分の中にある『黒いなにか』が、蔦の這った建物のように胸をぎっしりと覆いつくし、それにゆっくりと締め付けられていく、そんな感覚だった。
その苦しさから唐突に何か言葉を吐き出したくなるが、人の目がある以上そういうことは避けたい。それにそんなことで八つ当たりするような惨めな人間には死んでもなりたくなかった。
負の感情を心の奥底へと押し込め、また冗談めかした口調になって言う。
「お役に立ててよかったです。それじゃあ、もうクタクタなのでお先に失礼します」
「今日、明日はゆっくり休んでね」
やはり一瀬さんは変わらず優しく声をかけてくれる。しかしそれがまた『黒いなにか』を刺激する。いつものことではあるが、そんな自分に嫌気がさし、嘲笑したくなる。それでも尚、平静を装い続ける。
「はい、お疲れさまでした」
「お疲れさま」
一瀬さんに会釈をして、逃げるようにその場から離れる。
この店でアルバイトとして働き始めて、もう一年になるだろうか。一瀬さんには採用面接のころからお世話になっていて、足を向けて寝られないほどの恩を受けていた。正直、始めは自分だけに向けられたものだろうかと馬鹿みたいな勘違いがほんの一瞬だけあったが、当然ながらそんなことではなかった。単に一瀬さんは誰に対しても、優しく、そして平等に気にかけていたのだ。その上、美人で、聡明で、仕事も出来て、落ち着いた雰囲気を持っているという最高の付加価値がついてくる。そんな完璧超人のような人が、自分はもちろんスタッフ全員の精神的支柱と言っても過言ではない存在になるのは想像に難くないだろう。しかし、だからこそと言うべきか、ほんの少しだけ、ごくまれに一瀬さんのことを苦手だと思っている自分がいた。
あの場を離れた後、厨房脇にある通路を通りスタッフルームへと向かっていた。その途中、いつも入れ違い際にすれ違う男性スタッフ、加藤さんと一言二言ほどことばを交わす。
もうすぐ還暦だという加藤さんとは三倍もの年齢が離れていたが、偶然にも音楽の趣味が近かったこともあって、すれ違えば会話をする知人程度の間柄になっていた。プライベートで会ったことはまだ一度もなかったが。
ちなみに今日の話題は、「『あなたの口座に一億円を振り込みました』という迷惑メールが届いた」というもの。そんなくだらないことを会話の種にできるほどの仲ではあった。
加藤さんと挨拶をして、店舗のすぐそばに併設されているスタッフルームの中へと入っていく。そこには誰もおらず、当然ながら真っ暗闇だった。灯りをつけるとオレンジ色に近い光が部屋の中を照らし、見えなかったものが見えてくる。
右手前には更衣室、左手前と右奥には四人から六人用の机と椅子が一セットずつあり、左奥には二人同時に使用できるデスクがある。それ以外にもロッカーやら書類棚やらがいくつかあるため、広いようで窮屈に感じられるスタッフルームだった。
ロッカーから自分の荷物を取り出し、着替えと帰り支度を手早く済ませていく。一瞬、どこか椅子に座ってひと休みしようとも考えたが、そのまま眠りに落ちてしまいそうな気がして、結局諦めた。
支度が整うと、念のために次のシフトの確認をする。シフトが勝手に変更されていた、ということはこれまでに一度もなかったが、ある種の恐怖心からか、念には念をと確認せずにはいられなかった。
やはり今回も変更はなく、明日は休みで明後日からはまたいつもどおりのシフトが組まれていた。
明日は久しぶりに部屋の掃除でもしようかな。
そんなことを考えながら照明を落とし、スタッフルームを後にする。
外に出れば、この時期特有の蒸し暑さが全身を包み込んでいく。
暑い……。そして、気持ち悪い……。ただでさえ、平年以上の気温を連発しているというのに、そんな日々がこれから二か月近く続くのだと思うと、気がふれてしまいそうだ。
頭を抱えながら、スタッフ専用の駐輪場に置いてある自分の自転車に乗り、少しだけ速めに走らせる。
自宅までは二十分弱。その間は特になにも考えることはない。ただただ、事故を起こさない程度にぼうとしている。
少し離れたところに田んぼがあるからか、カエルの鳴き声が聞こえてくる。そしてすぐ隣の道路からは大型トラックが通過し、けたたましい音が耳に残る。
この地域周辺だけ見れば田舎ではないものの都会とも言い難い街ではある。だが、県、ひいては地方の主要交通網となっている幹線道路がこの街の東西にもまたがっており、ほぼ年中無休で大小さまざまな車が行き来していた。そのためか、深夜に差し掛かったこの時間帯でも車の通りがなくなることは滅多になかった。
そんな影響もあって、バイト先でもあるあのファストフード店の売れ行きは、県内でもトップクラスだという。そんな場所で働けるのは誇りである、そう思えないのは、このクタクタな体が原因か、それとも自分がまだ若いからなのか、それは分からない。
自転車を十分ほど走らせたころで、お酒と日常消耗品が切れそうだったことを思い出し、近くの二十四時間営業のディスカウントストアへと向かう。そこで、ついでとばかりに購入できる範囲で食品や飲料、他の消耗品も買い足しておく。
これで二、三日は持つだろう。
そう思いながら、かなり重くなった自転車を今度はゆっくりと走らせる。
それから十五分ほど経ったころだろうか。自宅である二階建てのアパートが見えてくる。
再来年で築二十年になるその建物は所々に傷みや汚れが見えるものの、まだまだ現役でやっていけそうな雰囲気は十分にある。
駐輪場に自転車を止め、階段を使って二階へと上がり、一番奥の部屋へと入っていく。
六畳半のワンルームで三点式のユニットバス。日当たりと風向きはまずまずで、最寄り駅までは徒歩三十分はかかるだろうか。これで家賃が破格の三万円なのだから贅沢は言えない。といっても、これまで不便に感じたことはほとんどなく、むしろ今はこれで十分だとさえ思っていた。
部屋の灯りをつけ、買い出し品をそれぞれの場所に仕舞っていく。
その後、シャワーを浴びてベッドに横たわる。
「ふぅー」
思わず、深い息が漏れ出していく。無理もない。ようやくリラックスできる時がやってきたのだから。
「さすがに今日は疲れた」
疲弊しきった独り言が部屋の中を伝う。このまま眠ってしまいたかったが、眠気のピークが超えたのとシャワーを浴びたせいですっかり目が冴えてしまっていた。
寝かせてくれよ。
そうポツリと呟きながら重たい身体をのっそりと起こし、デスク上のパソコンを起動させる。それと同時に、ここ最近のブームとなっている焼酎のお湯割りとおつまみの酢の物を用意していく。
アルコールが解禁されてから早数ヶ月。次の日に影響が出ることを避けるため、休日の前夜に飲むことがほとんどで、お酒の量も所謂ほろ酔いと呼ばれる段階で必ず止めていた。
そんな中で、これまでいくつかのお酒を試してみたが、味音痴なのかこれっぽっちも旨さというものが分からなかった。それでも『酔い』自体は嫌なものではなく、その感覚を楽しむためだけにお酒を飲んでいた。そうして今ではシンプルで悪酔いしづらいと言われている焼酎のお湯割りに落ち着いたのだった。やや癖があるのはご愛敬だと思っている。
デスク上にお酒とおつまみを置き、パソコンを操作してネットラジオ配信サイトを開く。
時刻はもうすぐ二十四時になるというところ。近所迷惑にならないように、パソコンにイヤホンをつないで自分の耳に装着する。そこからラジオ特有のコマーシャルがいくつか流れてくると、ラグのために現時刻から十数秒遅れて午前零時の時報がアナウンスされる。
そして、それは聴こえてくる。
男性パーソナリティによるタイトルコールで始まり、その人が歌うリズミカルな音楽がBGMとしてしばらく流れると、やがていつもの聞きなれた声が耳に入ってくる。
「-月-日、-曜日、時刻は深夜零時を回りました--」
それに続いて番組タイトル、パーソナリティ名、番組内容が順に紹介されると、その後はただただ愉快なフリートークが繰り広げられていく。
この番組はオープニングからエンディングまで、深夜とは思えないほどのテンポとテンションで進められ、お世辞にも中身のあるトークが行われることはほとんどなかった。無論、『いい話』も出来るパーソナリティなのだが、気恥ずかしさからか本人はよく忌避しているようだった。それでも、頭をからっぽにしてゲラゲラと笑いながら聴くことのできるこの番組が、自分は大好きだった。もちろんパーソナリティ自身のことも。そのため同局他局問わず、この人が出演する番組は出来る限りチェックするようにしていた。リスナー兼ファンといったところだろうか。
ちなみに加藤さんもこの人の存在を知っており、番組もたまに聴いているとのこと。それを知った時は驚きと、なんとも形容しがたい感情でなぜか呆然としたことをよく覚えている。
そんなことを思い返していたが、あっという間に軽快なトークが脳内に上書きされていく。
それから十分ほど経過し、オープニングトークが締められようとしていた。相変わらずのスピード感である。
パーソナリティはフリートークを終え、台本を読み始める。
「先週もお知らせしていた通り、本日はゲストさんがいらっしゃってます。本日のゲストは……」
あ……そうだ……忘れてた……。
「--さんです!」
その瞬間、全身から血の気が引いた。夢見心地の空間から現実世界へと一気に引きずり戻される、そんな感覚だった。頭の中では走馬燈のように過去の映像が巡り、それと同じくして、あの黒いなにかが心をぎゅっと強く締め付ける。そのため言いようのない胸苦しさと気持ち悪さが一斉にこみあげてくる。
いつのころだろうか、こんな風になってしまったのは。
いや、やはり思い出したくないし、考えたくもない。
随分と遠くの方から、番組のメールアドレスを読むパーソナリティの声が微かに耳に届く。しかし今はもうこれ以上聴く気にはなれず、イヤホンをそっと取り外し、ラジオサイトも閉じてしまった。
気持ちを紛らわせるため、ぬるくなり始めていたお酒を呷る。
絶対明日に響くな。そう思っても、今回は不可抗力だから気にするな、と言っている自分もいる。それでも、馬鹿みたいに飲みすぎないようにだけは十分気をつけよう。休日だとはいえ、二日酔いで滅入るのはさすがに勘弁したい。
やや落ち着きを取り戻したところで、ゆっくりと立ち上がり二杯目のお酒を用意する。そしてふたたびデスクの椅子に腰掛けパソコンを操作し、今度は動画サイトを開く。そこで、よく観るお笑い芸人のコントや漫才の動画、当然ながら公式チャンネルが上げているものを物色しながらお酒を進める。
そうやって感情を上書きしながら、『平静』を取り戻していく。
それからしばらくして、丑三つ時を過ぎようかというころ、お酒が回ったからか激しい眠気がやってくる。丁度、グラスに入ったお酒も飲み終えるところで、酔いも気分もとてもいい具合だった。
パソコンの電源を落とし、最後の一杯を飲み干してベッドに横たわる。すると眠気と疲れとアルコールのせいか、身体の力がどんどんと抜けていき、やがては指一本も動かせなくなってしまった。いつもなら少し酔いをさましてから就寝するのだが、どうやら今日は無理そうだ。
まもなく意識が薄れていく。
だいぶ限界に近かったんだな。
そんな微睡みの中、突如脳内で誰かに問いかけられる。
『このままでいいのか?』
しかし、次の瞬間には深い眠りの底へと落ちていったのだった。