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文字数 4,336文字

「いらっしゃいませ、こんにちは。お会計1850円です――」

 俺の隣で明るく爽やかに接客をする小野寺さん。あの日、緊張していますと不安そうにしていたのが嘘のようだ。
 あれから数日が経ち、例のあの時間帯を迎えていた。仕事に入る前こそ彼女はやや緊張の面持ちをしていたが、いざ現場に足を踏み入れるとなにかスイッチが入ったようで、瞬く間に『ベテラン風明朗快活少女』へと豹変したのだった。仕事前に「大丈夫だよ」と二、三度ほど声をかけたのだが、特に必要なかったのかもしれない。良かったような、寂しいような。
 ちなみに今回は二人ともドライブスルーを担当している。自分がオーダーを取って、小野寺さんが会計をするという形だった。しかしひっきりなしにお客が訪れるため、二人の間には事務的な問答しか行われていなかった。
 そうしてミスもアクシデントも大した会話も起こることのないまま、魔のラッシュアワーが過ぎていく。
 やがて来客がある程度落ち着き、お互いの作業に少しずつ余裕が生まれ始めたころ、小野寺さんにピークの感想を尋ねようと思ったのだが、

「田辺くん、カウンターの応援来れる?」

 やや緊迫した佐藤さんの声がヘッドセットを通じて耳に入ってくる。その様子からカウンターが深刻な状態であることがすぐさま窺えた。これは行かなければならない。
 もちろん新人の、しかも初ピークを終えたばかりの小野寺さんを一人にしてしまうのはとても心苦しくはある。それでも今のこの状況であれば、彼女一人にここを任せても問題ないだろう。おそらく佐藤さんも、それを理解した上での応援要請なのだと思う。
 よし、と決断し、佐藤さんの問いに返答する。

「次のオーダー受け終わり次第、応援に回ります」
「はい、了解」

 佐藤さんの声の後、小野寺さんに一連のことについて説明する。すると彼女はトレーナーがこの場を離れることへの寂しさからか一瞬だけ切なげな表情を滲ませるも、すぐに引き締まった表情で力強く了承してくれた。
 本当に頼もしい限りである。これなら問題なさそうだ。
 彼女にフォローをいれ、そしてカウンターへと向かう。するとそこではピーク時と変わらないほどの大勢のお客が押し寄せており、まるで地獄絵図の様相をしていた。
 確かにこれはおっとりが通常運転の佐藤さんの声音が変わるだけある。
 ひとまず商品の取り揃えを手早く行いながら、状況を見て臨機応変に対応していく。
 そして特に問題が起こるとは思えないが、ヘッドセットから聞こえる小野寺さんの接客音声も確認していく。
正直とても大変である。声を大にしては言えないが、こういう時ばかりは小野寺さんが手のかからない新人でよかったと思える。

 余談だが、小野寺さんと同時期に入ってきた新人の二人はスケジュールの都合上、深夜や明け方、あるいは午前中に入っているとのこと。あのオリエンテーションの日以来、全く会わないなと思い、たまたま居合わせた店長にそのことを尋ねてみたら、どうやらそういうことだったらしい。なるほど。全く会わないわけだ。

 カウンターの応援に入ってから二十分が経ったころ、ようやく事態は収拾を見せる。

「いやー、助かったでー、田辺くん」

 商品を待っている間、佐藤さんに労われる。

「いえいえ。そんな大層なことはしていませんよ」
「いやいや。そんな謙虚にならんでも」

 冗談めかしたように言う佐藤さん。それに俺は、「はははっ」と軽く笑って返すしかなかった。

 それからしばらくして徐々に来客がまばらになってきたころ、一人奮闘していた小野寺さんもカウンターへの配置転換となる。彼女は、無事一人でやり切ったのだ。
 トレーナーとしての役目を終えるのも、時間の問題なのかもしれないな。
 そんなことを思いながら、ようやく彼女にピーク時の感想を尋ねる。すると小野寺さんは、安堵と苦笑いの表情を交互に浮かべながら言う。

「そうですね。なんとか無事やりきることができてホッとしています。それから、思っていた以上に忙しかった、というのが正直なところですね」

 まあ、初めてならばそういう感想になるか。

「そっか。でも、ほんとよく頑張ってたと思うよ」

 そう褒めてあげると、彼女は少し照れながらも、とても嬉しそうな笑みを浮かべていた。
 前々からなんとなく気づいてはいたが、どうやら小野寺さんは褒め言葉に弱いようである。これだけの超人なのだからてっきり褒められ慣れていると思っていたが、仕事のことは別腹ということなのだろうか。ともあれ、それを利用しない手はない。今後もうまい具合に褒めていこう。過剰にならないように気をつけなければならないが。
 その一方で、この『優しい先輩』も随分板についてきたなと、自虐のような、嘲笑のような、安心のような、複雑な感情を抱いていた。
 小野寺さんの感想を聞いた後、レジ応対に関しては今日のピークで一段落したと考えた俺は、彼女に新たな作業を行ってもらうことにする。
 資材の補充やトレイの片づけ方、そして最後にスイーツメニューの作り方などを実演しながら教えていく。しかし、そこでまさかのアクシデントが起こる。

 スイーツメニューを作るとあって、小野寺さんは初めての接客の時並みに目を爛々と輝かせ、とても意気込んでいた。女の子だなと思いつつも、いつものようにできる限り分かりやすく説明しながら手本を見せていく。そして、次は彼女に体験してもらおうと王道中の王道であるソフトクリームを作ってもらうのだが、

「うん? あれ? これ、すごく難しいですね……」

 と言って作り上げたのは、見るに無残な形をしたグチャグチャのソフトクリームだった。それが余程ショックだったのか、小野寺さんは苦笑いで誤魔化そうとしつつも、ひきつったような険しい表情を見せていた。
 それもそうだろう。今の彼女はよーいスタートから順調にここまで走ってきて、随分とスピードに乗っていたところを死角となっていた石につまずき、そこで勢いよく転んだようなものなのだから。しかもとても楽しみにいたようであったため尚更のことだろう。
自分の内心は非常に穏やかではないが、いつかこんな日が来るだろうと心づもりをしていた部分もあり、取り乱してしまうほどには動じていなかった。
 なにはともあれ、このとても重大な局面を乗り切れるかどうかで大仰かもしれないが彼女の今後にも影響が出るだろう。ここはしっかりと丁寧に対処しないと。
 物腰柔らかな口調で小野寺さんに言う。

「ソフトクリームを作るのは結構コツがいるんだよ。だから、最初はみんな結構苦戦するんだ」

 そして俺はソフトクリームのコーンではなく、他のスイーツメニューで使うアイスカップを取り出し、言葉を続ける。

「まずはこれで慣れるところから始めよう」

 形のいいソフトクリームを作るには、ある程度の感覚と慣れが必要となる。そのため、彼女にはまず比較的簡単に作れるカップアイスで経験を積んでもらうことにしたのだった。
 本来であれば、それらのことにもっと早く気が付くべきであっただけに、自分の未熟さや愚かさを改めて痛感する。
 今日もまた反省すべき点が多いな。
 そう脳内で反芻しながら、小野寺さんにカップアイスの作り方を教えていく。彼女は悔しげな表情を見せながらも、とても熱心に耳を傾けてくれていた。しかし、いざ実際に彼女の番となると、先ほどの件を引きずっているのか、少し怖気づいた表情となった。
 またもや自省の念に駆られる。それでも今は小野寺さんを鼓舞するため、優しくも力強い口調で声をかける。

「大丈夫」

 その言葉に小野寺さんは「はい」と一つ頷き、意を決して作業に取り掛かる。
 どうにか上手くいってくれ。
 そう願いながら、恐る恐る作業を行う彼女を見守る。まもなくそれは出来上がる。

「ど、どうでしょうか?」

 そう言って小野寺さんはカップをこちらに見せる。その様子はまるで、師に料理を見てもらう板前修業のワンシーンかのようである。緊張の糸が張り詰める中、俺はカップの中を確認する。そして嘘偽りのない意見を彼女へ告げる。

「うん。これなら大丈夫。よく出来てるよ」

 すると小野寺さんは心底から安堵した表情を見せる。それに釣られるように自分も胸を撫で下ろす。
本当によかった。
 すぐに事態が好転したこと、彼女の表情に笑みが戻ったこと、自分のミスが尾を引かずに済みそうであること。ほかにもいろいろとあるが、今はただ漠然とよかったとだけ思う。
 その後、小野寺さんはすっかり元気を取り戻し、スイーツメニューの方にもある程度の成長が見られた。なんだかんだと彼女のポテンシャルの高さは健在である。
 そうして今日もそれぞれ上がりと休憩の時間となり、カウンターを後にした。
 スタッフルームへの道すがら、小野寺さんは苦笑いを浮かべて言う。

「今日はご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした」

 相も変わらずの律儀さである。そんな彼女に、出来る限り優しい口調で答える。

「別に迷惑だなんて思ってないよ。だから、なにも気にしないで」

 それに対して彼女はなにか言葉を発しようとする。しかし俺はあえて遮るようにして言葉を続ける。

「それに、最後はちゃんと次につなげることができたわけだし、なによりも今日は初ピークも、そのあとの接客も無事に乗り越えたんだ。十分すぎるほど小野寺さんは頑張っているし、よくやれていると思う。だから本当に、なにも気にする必要はないよ」

 すると小野寺さんは唇を強く噛みしめ、今にも泣きだしそうな表情を見せる。そしてそのまま目一杯の笑みを浮かべると、感慨深そうにやや声を詰まらせながら言った。

「……はい……ありがとうございます」

 なにもそこまで感極まらなくても。

 俺は思わず心の中で苦笑いをする。とはいえ、これで大きな後腐れもなく今日を終えられそうであるため、素直に喜ばしく、顔がほころぶほどにはホッとしていた。そして、

『ここまでくれば大丈夫。もうなにも心配することはない。ここから先は、きっとすべて上手くいくだろう』

 と、自信のような他信のような感情も芽生え始めていた。
 決して慢心しているつもりはない。反省点が多いことやすべてが終わったわけではないことも十分に理解している。それでもその不思議な感情は心の中をどんどんと埋め尽くしていくのだった。
 そのことに若干の戸惑いを覚えながらも、今日という一日は終了した。
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