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「田辺さん。これ、ちょっとお願いしてもいいっすか?」

 深夜帯をよく共にする一つ年下の後輩、いや、この時間帯では先輩にあたる藤田くんが若干険しい顔をしながらも率直に尋ねてくる。それに俺は手が空いているということもあって二つ返事で快諾し、頼まれた仕事に取り掛かる。対して藤田くんは、特に表情を変えることなく感謝の言葉を述べ、別の作業へと移っていった。

 彼と仕事をするようになって、もう二か月近くが経つだろうか。これまでの彼との会話と言えば、今のような事務的なやりとりばかりで、他愛ない話をしたり、お互いの趣味や内面に触れたりといったことはほぼ皆無だった。

 そこだけ見れば、まるで二人は不仲であるかのようである。しかし、決して彼とひと悶着があったわけでも、関係がうまくいっていないわけでもない。単に互いのパーソナルスペースが広かったため、どちらかが片方にぐいぐいと迫ることがなかったのだ。その結果、着かず離れずの絶妙な距離感を今日まで保ち続けているのだった。

 そんな状態に自分は喜ばしく思っており、彼自身も悪くないという様子。もちろん他のスタッフの時にはそういうわけにはいかず精神力を削らざるを得ないが、それでも人間関係はまずまず良好で仕事自体もやっかいな客への対応以外は順調の体。しかし、

「田辺さん?」
「あっ……」

 唐突の呼びかけに自分はハッとする。声の聞こえた方に視線を向けると、そこにはやや不思議そうな顔をした藤田くんがこちらをじっと見据えていた。それに自分は、「またか」と心の中で嘆息しながら彼に言う。

「あ、ごめんね。確か、もう上がりの時間だったよね」
「はー、そうなんっすけど……田辺さん、ほんと大丈夫っすか?」

 少し心配げに言う藤田くん。そんな彼を見るのがここ二、三回ほど続いている。その原因はもちろん自分にある。それでも自然を装って、彼の問いに答える。

 「うーん、ちょっと睡眠不足なのかもしれないなー。今日は出来る限り眠るようにするよ。ごめんね。迷惑かけちゃって」

 すると彼は、何とも言えない表情で口を開く。

「別に迷惑とかじゃないっすけど。まあでも、ゆっくり休んでください。それじゃお先です」

 そうして彼は会釈をする。それに俺は、

「ありがとう。お疲れ様」

 と答えて、藤田くんの後ろ姿を見送った。
 やがて彼が見えなくなったところで、俺は深いため息をつく。

 最近、こういったことがとても多い。気が付くと、いつもぼうとしている。まだ仕事には影響が出ていないもののヒヤッとする瞬間は何度もあり、今後、いつヘマをやらかしてもおかしくなかった。

 本当に気を付けないと。そんなくだらないことでつまずきたくはない。

 もっとも諸悪の根源を断ちさえすればいい話なのだが、それは非常に困難なことだった。その元凶というのが、『あの日の一件』だったからだ。
 あれからもう、ひと月ほどが経つだろうか。未だにあの時の一連のことを上手く呑み込めずにいる。それは猛毒であると警告する第六感と、呑み込んでしまうと自分がどうなってしまうのか分からないという恐怖心が、意識的にあるいは無意識的にそうさせているのである。そしてそれが変に巡り巡った結果、今の注意力散漫な状態につながって、挙句気を付けるほか打つ手なしという事態を生んでいたのだった。

 はあ、とまた大きなため息をつく。こんな状態がいつまで続くのか、また自分はそれに耐えていけるのか、今後が思いやられる。
 そしてもう一つ。こちらは取り立ててどうというほどではないが、少し気になることがあった。
 それは、あの日の翌日、お昼過ぎに目を覚ました時のこと。前日に酩酊状態で眠りについたために二日酔い症状で気分も体調も最悪だった。
 勤務時間までには治ってくれるだろうか。いや、なんとかしなければ。
 一瞬そんなことを考えたが、気づけば目覚めた瞬間から抱いていた小さな疑問に、脳内は支配されていた。

『あの白い空間はなんだったのだろうか』と。

 おそらくあれは夢の中だとは思うのだが、そこになにが存在して、なにが起こっていたのかは全く覚えていない。ただ真っ白な空間が広がっていたということだけが頭に残っている。そして、およそ一ヶ月が経つ今日になっても、その感覚と疑問が消えることはなかった。

 いったい、あれは……。

 そう顔をしかめていると、突如、久しく耳にしていなかったあの声が聞こえてくる。

「あ、田辺くん、久しぶりね」

 またもや、ハッとして顔を上げる。そして視線の先にいたのは、相も変わらずの柔らかな笑みを浮かべている一瀬さんだった。

 え? なんで? どうして?

 そうパニックになりかけているのを察してか、一瀬さんは言う。

「あれ? もしかして知らなかった? 実は朝方のスタッフに欠勤者が出ちゃってね、それで急遽私が入ることになったの」

 その説明を聞いて、「ああ、なるほど」と数時間前に他のスタッフから聞いたことを思い出す。

「そういえばそうでしたね。すみません、あまりに久しぶりだったものだから、ちょっとぼうとしちゃって」

 咄嗟の嘘のために思わずクサい言葉を吐いてしまった。しかし一瀬さんは、とくに表情を変えることなく口を開く。

「まあ毎日のように顔を合わせていたものね。私もすごく久しぶりに感じるわ」

 そう懐かしむのも束の間、そこまで言った一瀬さんはハタとこちらに向き直り、幾らか真面目な雰囲気で言葉を続けた。

「それはそうと、私、深夜帯はすごく久しぶりだから、色々と迷惑かけるかもしれないけれど、今日はよろしくね、田辺くん」

 何事かと思ったがそういうことか。とはいえ、この人はそんなことを言いつつも難なくやってのけるのだから恐ろしい。

「ああ、はい。よろしく、お願い、します。あ、でも、まだ僕は一、二か月ほどの身分なので、あれですけど」
「でも大野さんから聞いたわよ。田辺くんはほんとよく頑張ってくれている、だからとても助かっているって」
「いやーそんなことは……」

 そう言いかけたとき、店内に数人の来店客が現れる。それを視認した自分たちは互いに目配せをして頷き、それぞれの持ち場へとつく。そして、フロントの客と途中にやってきたドライブスルーの客を二人で次々に捌いていく。
 一瀬さんと仕事をするのはおよそひと月ぶりだろうか。すごく久しぶりで懐かしく感じる。そして、なにかこうしっくりくるような感覚と、とてつもない安心感があった。
 思えば自分は、出勤初日から深夜勤務に入るまでの一年と数ヶ月の間、一瀬さんと仕事を共にする機会がとても多かった。それはもう、ほぼ毎日のように顔を合わせていたほどである。その間に深い仲になることはなかったが、それでも自分の中で『一瀬真由美』という上司の存在は非常に大きなものとなっていたようだった。
 それを改めて実感、認識させられる一瀬さんとの再会である。
 そんなことを考えながら、接客を中心に商品の調理も行っていく。

 ニ十分ほどが経ったころだろうか。商品の出来上がりを待っていたお客にできたてのものを受け渡し、それでようやくカウンターに静寂が訪れる。
 すると一瀬さんは珍しくリラックスしたような表情で伸びをし、どこか腑抜けた声で言った。

「ちょっと一息ついてから、残りの仕事やっていこっか」

 こんなにもまったりとしていて緊張感のない一瀬さん、仕事中では初めて見た。通算でもスタッフルームで寝起き姿を拝んだ時以来二度目である。
 あの時同様、とても疲れているのだろうか。
 驚きや衝撃よりも先に心配が勝る。しかし、どうやらそういうわけではなさそうで、今のこの場ではそこまで神経を研ぎ澄ます、あるいは尖らせる必要があまりないと省エネモードになっているようだった。
 普段は社員という立場もあって、スタッフの面倒やフォロー、そしてお客や時折やって来るお偉いさんの応対、さらには事務作業等々、自分には思いもよらないほどの仕事量とプレッシャーを抱えている一瀬さん。だが今は、そこまで気を遣う必要のない相手と、たまに接客や商品の調理をやって、あとは諸々の軽作業をする程度。仕事中とはいえ、多少力を抜きたくもなるだろう。
 と、そんなことを勘繰るのは失礼か。とはいえ、この時間はできる限り一瀬さんに負担をかけないようにしようと思う。

 しばし休憩を挟んだのち、仕事が再開する。
 先ほどの考えの通り。
 そう思っていたのだが、いざ始まってしまえば自分がなにかフォローする間もなく、一瀬さんはテキパキと作業をこなしていくのだった。そのため自分は迷惑をかけないように気を付けることしかできず、結果、あっという間に残っていた仕事が片付いてしまったのだった。省エネモードとはいえ、やはりこの人は恐ろしい。そして大見得切っていた自分がとても恥ずかしい。
 とくに何もすることがなくなった自分たちは、時折やってくる客を捌きながら他愛のない会話を繰り広げていく。そこで俺は、ふと気になったことを尋ねる。

「そういえば、今の昼時の状況ってどうです?」

 それに一瀬さんは苦笑い気味に答える。

「正直、田辺くんが抜けた当初はものすごく大変だったわ。穴がとてつもなく大きいものだから」

 自分で言うのもなんだが、それもそうか。ほぼ毎日のように昼と夜のピーク両方に入れて変則シフトにも対応できる、ある意味便利屋的な存在がいなくなったのだ。それをカバーするのは容易ではない。
 そう考えていると、一瀬さんが静かな笑みを浮かべて言葉を続ける。

「けれど、ここ半月ぐらいで少しずつ良い方向に向かい始めているわ。新人、若手のスタッフたちがぐんぐんと成長していてね。ほかのスタッフたちもとても頑張ってくれている。もう一週間ほどすれば落ち着いてくるように思うわ」

 その言葉を聞いて、自分は少し安堵する。また、一瀬さんは、

「ちょっと嫌な言い方だけど、田辺くんが急病や退職となったときの備えができたから正直ホッとしている部分もあるわ」

 とも言っており、今回の一連の流れが自分にとっても、この店にとってもプラスになっているようだった。
 店長はそれを見越して、俺に深夜帯への異動を打診したのだろうか?
 まあ、そんなことを考えても仕方がないか。
 なにはともあれ、誰に非があるわけではないにしてもやや負い目のようなものを感じていた自分としては、一瀬さんその回答にほっと胸を撫で下ろすばかりである。

 さて。
 本題はここからである。

「小野寺さんの様子はどうです?」

 心の中で意を決して、そしてそれを見抜かれないようにまた一瀬さんに尋ねる。
 あの日以降、活動時間の違いもあって彼女と顔を合わせることは全くなかった。しかしそんな中でも、一度だけ連絡を取りあう機会があった。それは、メッセージアプリのタイムラインに、

『学園祭の演劇が無事成功した』

 という彼女の投稿を目にした時だった。自分はそれを直視できず詳しい内容までは見られなかったが、一先ず個人チャットのほうでお疲れ様云々の労いの言葉をかけておくことにした。なにも反応しないと言うのは、変に勘繰られそうな気がしたからだ。
 それから数分後、彼女からの返信が届く。

『ありがとうございます! 田辺さんの応援がすごく力になりました。本当にありがとうございました!』

 なんとも小野寺さんらしいメッセージである。そこから一言二言のやり取りがあったのち、それ以降連絡を取りあうことはなかった。
 自分は言わずもがなの理由である。しかし彼女から連絡がこないのはやや不自然で不思議に思っていた。それ故、彼女の今の様子を一瀬さんに尋ねたのだった。
 そんな事情など知らないであろう一瀬さんは、一瞬なにか考える素振りを見せるが、すぐにいつもの柔らかい表情と口調で言う。

「彼女は相変わらずよ。一人で二人分近くの働きを見せてくれている。ベテランスタッフが顔負けするほどにね」

 最後に若干の苦笑いを浮かべる一瀬さん。それにつられて自分も苦笑い気味になる。
 小野寺さんがいつも通りの様子であるということは、単純にバタバタと忙しいから連絡がこないだけなのかもしれないな。
 そう思いながら、一瀬さんに言葉を返す。

「あー、如何にも、彼女らしい」
「そうね。ただ……」

 突然、一瀬さんの口調が変化する。そして気がかりそうに、また口を開く。

「ただ、田辺くんが深夜勤務になって以降、彼女の様子が少し変な気がするの。とりわけ悪い影響が出ているわけではないのだけれど、なんとなく全体的に力みがあるように見えてね。田辺くん、なにか心当たりとかある?」

 そう問われ、俺は心臓がドキリと跳ねる。心当たりがなくもないからだ。しかし今それを語るわけにはいかない。俺は咄嗟にもっともらしい言葉を吐く。

「うーん、トレーナーであった自分が抜けたために、その穴を埋めようと必死になっている、とか。小野寺さん、少し生真面目なところがありますから」

 すると一瀬さんは、どこか釈然としないながらも、納得はしているような表情で言う。

「やっぱりそう考えるのが自然よね。うん、田辺くんが言うんだったら間違いないわ。ありがとね」

 いやいや、たかが一介のスタッフにそんな大幅な信頼を寄せんでください。
 一瞬そう言いたくなったが、思えば自分は小野寺さんのトレーナーを務めていたのだ。彼女に関することで意見を求められてもおかしくなくし、それを判断基準にされてもなんら不思議ではない。
 たまたま今回は的外れとはならなかったが、少し発言には気を付けていかなければ。

 それはそうと小野寺さんのことだ。一瀬さんの話を聞く限り、些細な憂慮が複雑な事案になりかけていると言っても過言ではない。
 彼女のそれが、もし自分に関係しているのであれば、やはり最後に彼女と顔を合わせた例の一件絡みだろうか。さすれば、あの時のやりとりの内のなにかが禍根を残しているということになる。
 一体、なんだ、なにが彼女をそうさせる。
 できればなにも思い出したくはないが、しばらく彼女と顔を合わせることのない今だからこそ、ある程度の見当をつけておきたいのも事実だ。致し方がない。

 考えろ、記憶を辿れ。
 そこで、ふと頭の中に考えがよぎる。
 あの日、小野寺さんはなんの用でカラオケ店へ来ていたんだ?
 確かその理由は、小野寺さんの友人の宮前さんが話してくれた。
 文化祭でやる劇の稽古をするためだと。
 ではなぜ小野寺さんはそれを素直に話さなかった? 
 そして、なぜ俺との出会いがしらに気まずそうで不都合そうな表情を見せた?
 もしかして彼女――小野寺希は、俺の『過去』を知っているのか?

 いやいや、さすがにそれはありえないだろう。あまりに考えが飛躍し過ぎている。第一、自分はあのオリエンテーションの時より以前に彼女の顔を見た記憶がないのだ。軽くすれ違っていただけならまだしも、過去を知るほどの相手ならなにかしら覚えているはずである。

 だが……だが、もし仮に小野寺さんが俺の過去を知っているのだとすれば、これまで不思議あるいは違和感に思っていた彼女の言動が、ある程度辻褄の合うものに見えてくる。
 もちろん腑に落ちない点はいくつもあるが、考えれば考えるほどその仮定は現実味が増していくような気がしてならない。

 やはり彼女は……。
 いやいやいやいや、そんな偶然あるわけない。発想が馬鹿げている。
 まあ、いずれにしてもしばらくは彼女と顔を合わせたくないな。いや、出来ればもうこのまま……。

 そんなことを切に願いながら、そして一瀬さんと仕事をする時間もたまには悪くないと思いながら自分にとっての一日が終了した。

 その後、大きな変化もなく至って普通の平和な日々が続き、気が付けば季節は冬へと移り変わっていた。
 吐く息は白くなり、人々の服装は厚手のものとなる。また、常緑樹以外の草木は枯れ果てたり、霜や稀に雪が降りたりと、寒さに震えなければならないことを除けば、冬という季節も決して悪くないものだと自分は思っている。
 ちなみに今シーズンのクリスマス、年越し、年明けはすべて仕事場での出来事だった。そのことに多くの人々は寂しい、悲しい、虚しいと言うかもしれないが、自分としては特になにも思うことはない。ただ、仕事中に他のスタッフや客と細やかなお祝い等をした時はちょっぴり楽しいと感じていた。

 それからしばらく経ち、冬の内で一番寒い時期に差し掛かろうかという頃、大方の仕事を終えてややリラックスしていると、珍しく店長からスタッフルームへと呼び出された。そうしてそこで告げられたのは、

『近いうちに、また昼帯のシフト入ってもらいたい』

 という旨の話だった。それに自分は驚き戸惑いはしたものの、特に断る理由もなかったために躊躇することなく了承した。店長のことを信用信頼しているからこその即断即決である。
 しかし、その決断をしたすぐ後に俺は猛烈に後悔する。
 やってしまったと思っても、もう後の祭りである。
 いったい、どんな顔をして会えばいいのか。そして、どんな言葉をかければいいのか。そもそも自分は、きちんと平静を保てるのだろうか。
 長らく会うことも言葉も交わすこともしていなかった彼女の顔や声を思い出しながら、気分が悪くなるほどの不安や緊張を抱くのであった。
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