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文字数 7,668文字

 それから一週間後。
 小野寺さんの様子と手際から、そろそろ頃合いだと感じた俺は、彼女にソフトクリーム作りの再挑戦を提案する。それを受けた小野寺さんは少し不安げな表情を見せたものの、瞬く間に気合のこもった表情となって元気よく頷く。
 彼女なら絶対に大丈夫。
 そう信じながら、改めて彼女にソフトクリームの作り方をレクチャーする。
 そうしてついにリベンジマッチが行われる。小野寺さんはやや緊張の面持ちをしているだろうか。それでも彼女はあまりためらう様子もなくコーンを手に取ると、一つ深呼吸をして作業に取り掛かる。ゆっくりと慎重に、かつとても丁寧にソフトクリームを作り上げていく。やがてそれは完成する。

「ど、どうでしょうか?」

 小野寺さんはそわそわとした様子で出来上がったものをこちらに見せる。出来栄え完璧といったところだろうか。それを確認した俺はカウンターの方に視線を向けながら優しい口調で彼女に言った。

「うん、それをあの子に渡してあげよっか」

 小野寺さんもカウンターの方を見る。そこには、五歳ぐらいの男の子がこちらを気にしながら立っていた。その子は、自分一人で注文と会計をする、いわゆるお買い物体験の真っ最中で、今はまさに注文したソフトクリームを待っているところだったのだ。おそらく、小野寺さんは作るほうに集中していたため、そのことは知らないだろうが。あとできちんと説明しておこう。
 若干、混乱気味の彼女だったが、すぐにいつもの明るい笑みを浮かべると、俺の指示に従ってその男の子にアイスクリームを手渡す。

「はい、どうぞ」

 すると、その子はもじもじとはにかみながらも嬉しそうな笑顔を見せる。そして両親に促されることもなく自発的に言う。

「お姉ちゃん、ありがと」

 それを受けた小野寺さんは相当胸を打たれたのか一瞬だけ泣きそうな表情となる。しかし仕事中であることを思い出したようですぐに柔らかで穏やかな笑みを浮かべ答える。

「どういたしまして」

 そして彼女は、手を振りながら男の子とその両親を見送ったのだった。
 ああ、これで自分の役目はほぼ終わったも同然だな。
 彼女のうしろ姿を見ながら俺は思う。そして安堵感と解放感と驚きと不安とそれから申し訳なさとが混ざり合って、何とも言えない複雑な感情になる。
 そんな中、小野寺さんがピシッとこちらの方に向き直る。そして、彼女はこれ以上にないくらいの満面の笑みを浮かべて深々とお辞儀をしてくれたのだった。
 いろいろと思うところはあるが……すべて丸く収まってよかった、ということにしておこうか。
 こうして、小野寺さんのリベンジマッチは無事に終わりを迎えた。
 彼女にひとこと声をかける。

「よくやったね。お疲れ様」

 すると彼女は、先ほどの男の子のようにはにかみと嬉しさが混ざったような表情をしながらも、俺の言葉を噛みしめているかのような口調で言った。

「はい。田辺さんもお疲れ様でした。それから、本当にありがとうございました」
「いえいえ」

 謙遜すれば、小野寺さんが気を遣って異様なまでに俺を立てようとする。そんな光景が頭に浮かんだため、俺は否定したい気持ちを抑え、あえて無難な言葉を選んだ。
 それにしても、相変わらず彼女からの圧が強いというかなんというか。いったい何を根拠に俺を信頼してくれているのだろうか。それはとてもありがたいことでもあるが、当然ながらおっかなくもある。とはいえ彼女に尋ねるのはよくないことだと、引き合わせの時にも警告を発していた第六感がそう告げていた。
 やがて今日のトレーナー仕事は終了した。その後、いつものように一時間の休憩を挟み、また夜帯のシフトに入っていく。そこで一瀬さんから話しかけられる。

「トレーナーの方はどう?」

 世間話を振るかのような何気ない口調で言う一瀬さん。自分もそれと同じようにしながらも、少し苦笑い気味に答える。

「そうですね、小野寺さんのポテンシャルのおかげでなんとか……というところですかね」

 それに対して一瀬さんは、穏やかに微笑みながら言う。

「確かに彼女はすごいわ。田辺くんも評していたように、超大型ルーキーと言っても過言ではないでしょうね」

 一瀬さんからそういう言葉を聞くと、小野寺さんがどれだけ稀有な存在なのかを改めて認識する。そして自分はずっと彼女におんぶに抱っこの状態なのだとやや自虐めいたものを勝手に感じ、なんとも複雑な気持ちになる。
 一瀬さんは真面目な口調を織り交ぜながら言葉を続ける。

「それでもね、希ちゃんがそこまでの能力を引き出すことができたのは、田辺くんがいたからこそだと思うの」
「えっ?」

 俺は思わず戸惑いの声が出てしまう。一瀬さんの考えと自分の思いとの間に大きな乖離があったから。そして、一瀬さんは一切お世辞を言っている様子ではなかったから。
 一体どうしてそう言い切れるのだろうか。
 その疑問を察知したのか、一瀬さんは優しく諭すかのように答える。

「田辺くんにはね、とても安心感があるのよ。この人になら任せて大丈夫、あるいはいてくれるだけで心強い、そう思える力と雰囲気を持っている。それが希ちゃんの成長をさらに促したんじゃないかなと私は思うの。彼女が田辺くんのことを『支え』としているように見えるから尚更ね。もちろん指導やフォローの仕方がよかったというのもあるけれど」

 そう言った一瀬さんは、柔らかい笑みを浮かべている。
 自分にはもうよく分からなかった。トレーナーを上手くやれた自信はないし、一瀬さんの言っていることはうまく理解できず呑み込めない。だが、『支え』という言葉にはなにか引っかかるものがあるし、これまでの違和感を払拭してくれるのではないかと若干の期待が湧き出ている。ああ、もう……。
 そんな感情の中、ひとまず一瀬さんへ片言気味に言葉を返す。

「そ、そうですか。そう言って下さるのなら、幸いです」

 それに一瀬さんは言う。

「まあ、今はわからなくとも、そのうち理解できる時が来るわ」

 ああ、また一瀬さんに要らぬ気づかいと迷惑をかけてしまった。反省しなければ。
 そう自省していると、なにかを思い出したかのように一瀬さんは言葉を続ける。

「ああ、それから、今の調子で行けば八月の頭にはトレーナー解除になるだろうから、それまでの間、また頑張ってね」

 優しく発破をかけてくれる一瀬さん。
 そうか、やはり、もうしばらくなのか。
 終わることへの安堵感、なにもできなかったことへの虚しさ、その他いろんな感情が渦巻く中、今日も終わりを迎えていく。

 それから十日少々が経ち、八月も二日目に入った日のこと。
 夏休み真っ只中である上に、新たな限定商品が発売された影響で、ひと月前と同等の喧騒とした夜ピークを迎えていた。しかし今回は、あの時のような殺人的忙しさとまでにはならなかった。というのも、小野寺さんが熟練者並みの接客スタッフとして機能し、二人分近くの働きをしていたからだ。しかも彼女は無理をしている様子もなく、むしろ涼しげな表情で接客を行っているのである。
 もう自分が教えることもフォローすることもない。おそらく、そろそろ……。
 そんなことを考えながら、ピーク時を過ごしていく。
 やがて上がりの時間となり、自分と小野寺さんはその場を後にする。
 スタッフルームへ向かうと、そこでは店長が淡々と事務作業を行っていた。

「お疲れ様です」

 店長と挨拶を交わし、いつものようにやるべきことを行っていく。小野寺さんは身支度を、そして自分は彼女の成長状況の記入を。それらが終われば、後は今日の振り返りを行うだけとなる。
 さて、今日はなにを褒めてどこを反省点としようか。
 そんな苦心を抱きつつも、彼女に向き合う。その時だった。

「ああ、ちょっといいかな」

 突如として店長の声が耳に入ってくる。しかしそれに気を取られる間もないまま、今度は自分たちの向かい側から椅子を引く音が聞こえる。そちらに視線を移すと、店長がこちらをじっと見ていた。
 そうか、ついにか。
 自分はもうすべてを察した。今のこの状況であればそれしか考えられないだろう。一方の小野寺さんは店長の言動に対してやや不思議そうな表情を見せていた。
前もって彼女に伝えておくべきだったろうか。いや、今更考えたって仕方がないか。どの道、もうすべてが終わりなのだから。
 やがて店長はことを告げる。その内容はある程度自分が想像していた通りのものだった。
 小野寺さんは……多少大仰な表現ではあるがトレーナーである自分の元から離れ、無事『独り立ち』という形に。それによって俺は、シフト自体は変わらないまでもしばらくの間は昼夜ピークに専念することとなった。
 最後に、店長は俺たちにそれぞれ労いの言葉をかけてくれる。自分としては嬉しいような申し訳ないような、なんとも複雑な気持ちになる。一方の彼女はというと、

「ありがとうございます」

 と、とても落ち着いた表情で返すのだった。
 さすがに動揺はしていないか。ただ、どこか落ち着きすぎているようにも見えるため、少々気がかりではあるが。
 店長からの話が終わり、自分たちの間は静寂が訪れる。すでに店長はデスクで作業を再開させており、キーボードをたたく音が聞こえ始めていた。
 まだ上手く感情はまとまっていないが、彼女になにか言わなければ。
 そう思い、口を開こうとするが、それより先に小野寺さんの声が聞こえてくる。

「今までありがとうございました。そして、これからもよろしくお願い致します」

 先ほどと同じようにとても落ち着いた様子で、いつもの明るい笑みを浮かべながら彼女は言った。そんな彼女を見ていると、まるで自分が動揺しているかのように感じられ、途端に恥ずかしさがこみ上げてくる。
 最後の最後まで、自分は小野寺さんに上手を取られっぱなしだな。
 自分自身に呆れつつも、あくまで平常心を保って答える。

「こちらこそ、本当にありがとう。これからも頑張ってね」
「はい! ありがとうございます!」

 その後、俺たちは特に何かを語らうこともなく、一言二言ほどのことばを交わして解散となった。
 随分とあっけない終わり方である。別に何かを期待していたわけではないが、こうもあっさりだと、実感が湧かないというか、拍子抜けというか。いや、自分が特別視し過ぎているだけか。思えば、自分が新人の時もこんな感じだったように思える。単に自意識過剰なのだ。家に帰ったら、冷水を浴びよう。
 そんなことを考えながら、身支度を済ませていく。
 そして帰り際。あの日と同じように、店長に呼び止められる。思わず俺はずっこける態勢とツッコミの準備をするが、幸いなことにそれは杞憂に終わる。店長は一つだけ間をおくと、優しげな表情で言った。

「お疲れ様」

 たったその一言だけだったが、なぜかそれが少しだけ心に沁みていくように感じられた。
 不思議である。さっきは複雑な感情しか抱かなかったというのに。ともあれ、今は深く考えず素直に受け止めておくことにしよう。

「はい、お疲れ様でした」

 そう明るく挨拶をして、俺はスタッフルームを出た。そして熱帯夜の空気を感じながら、駐輪場へと歩みを進める。するとなぜか急に、ここ一ヶ月間の記憶が走馬燈のように脳内を駆けめぐる。
 ちょうどひと月前に小野寺さんと出会って、彼女のトレーナーを務めることになって、そして気が付けば今日で終わりを迎えていて。ただただあっという間の一ヶ月間だった。その間、大きなアクシデントが起こることもなく、ほぼすべてのことがとんとん拍子に進んで本当によかったと思う。それもこれも小野寺さんのおかげだ。彼女のポテンシャルがなければ、自分の初トレーナーの結果は散々なものになっていたことだろう。いずれきちんと感謝を伝えなければいけないな。彼女はきっと俺を立てながら謙遜をすると思うが。ああ、その様子が目に浮かぶ。
 ふふっと一人笑い、カバンから自転車のカギを取り出す。そして数メートル先に迫った駐輪場の方へと視線を向ける。

「んっ?」

 脊椎反射のごとく、俺は思いがけず声が漏れ出てしまう。それもそのはず。なんとそこには、街灯に照らされ一人佇む小野寺さんがいたのだった。しかも彼女は、自分を待っていたかのように静かな笑みを浮かべてこちらを見ているのである。
 あまりの出来事に、俺は脳内処理が追い付かず、少しだけパニックになる。
 そんな中、彼女は言う。

「お疲れ様です」

 それに俺はハッとし、あくまで平静を装いながら小野寺さんに返す。

「ああ、お疲れ様。どうしたの?」

 その問いかけに彼女は落ち着いた口調で答える。

「その……田辺さんと少しお話しが出来たらなと思いまして。もちろん、田辺さんのお時間が許すのであれば、ですけれども」

 最後はやや伏し目がちになる小野寺さん。その様子は初出勤を終えたあの日の彼女ととても重なる部分があった。
 今回もなにかが起きそうな予感がする。
 心の中で身構えながらも、俺は小野寺さんに柔らかい口調で了承を伝える。すると彼女は、持前の明るく屈託のない笑顔を浮かべながら、安堵と感謝の言葉を口にした。しかしなぜだろう。喉に小骨が刺さっているような、なにかちょっとした違和感を覚えるのは。
 神経が過敏になっているからだろうか?
 そんなことを考えながらも、小野寺さんの声に耳を澄ます。

「なんだか、あっという間、でしたね」

 そう言った彼女は店舗を見つめる。それに対して、

『小野寺さんが頑張った結果だよ』

 なんてことを言えば、謙遜合戦が始まるのは目に見えている。だから俺は違うレールにシフトする。

「小野寺さんが初接客を楽しみにしていたあの日が懐かしいよ」

 すると彼女は、やや照れながら言う。

「き、気づかれていましたか。実はその、接客業に憧れを抱いていたもので」

 自分にはよく分からない感覚だが、よく聞く理由の一つではある。とはいえ彼女ほどの感情の高まりを見せる人は滅多にいないだろうが。
 そんなやり取りを皮切りに、これまでの振り返りが行われる。大きな出来事から、とても小さな出来事まで。なにか足りないものを今ここで補完していくかのように。
 ふと思う。店長からの話を聞いたあと、小野寺さんもあっけなさや不安感など、自分と同じような感情を抱いていたのではないかと。それを紛らわすためにわざわざ俺を待って話がしたいと言ってきたのではないだろうか。
 いや、考え過ぎか。やはり、帰宅したら冷水を浴びなければ。

 やがて振り返りの時系列は今日となり、想像以上に濃かった思い出話は終わりを迎える。それに伴ってか、小野寺さんはこちらに向き直る。そして、彼女は明るく笑みながらも真面目な雰囲気を漂わせながら言った。

「田辺さんのお力添え合って、ここまでやってくることができました。本当にありがとうございました。改めて、これからもよろしくお願いします」

 そうして彼女は深々とお辞儀をする。ここで謙遜するのは無粋という物だろう。それに面倒くさい展開になるのはご免だ。

「こちらこそありがとう。初めてのトレーナーの相手が小野寺さんで本当に良かったよ。これからもいろいろとよろしくね」

 例の優しい先輩風に俺は言う。それに彼女は、嬉しそうな照れくさそう表情をして「はい」と答えた。
 スタッフルームでのやりとりと同じようなものではあったが、互いに心の整理がついたからか、ここでようやく新人研修の終止符を打つことができたように思う。
 振り返りって大事なんだな。
 そう漠然に思っていると、この和やかな雰囲気を壊すかのように小野寺さんが切迫とした声音で言う。

「あ、あのっ、田辺さん!」

 あまりに突然の出来事に面食らいながらも俺は咄嗟に身構える。
 彼女はあの日と同じように口ごもっている。
 頼むから、面倒な案件であってくれるなよ。
 数秒後、小野寺さんはようやく意を決し口を開く。

「あの! 今度、私に紅茶を淹れさせてはくれないでしょうか!?」

 ……うん?
 俺の脳内はパニック状態となる。
 紅茶? 俺に? この子は一体何を言っているんだ?
 そんな俺の様子を見て、彼女は慌てて言葉を続ける。

「ああ、その、すみません! 以前、紅茶が苦手だとおっしゃっていたので、その、私、紅茶に詳しいから、だから、その、えっと、差し支えなければ田辺さんのお口に合う紅茶を淹れさせてはくれないかと思いまして!」

 過去に例を見ないほどの、あたふたした様子を見せる小野寺さん。それに釣られるように、自分も挙動不審気味で答える。

「あ、ああ、そういうことね。う、うん、せっかくの機会だし、お願いしようかな」

 すると彼女は、顔を紅潮させながらも満面の笑みを浮かべて言った。

「ほ、本当ですか! あ、ありがとうございます!」

 そうして小野寺さんは、先ほどと同じように深々とお辞儀をしたのだった。
 なにもそこまで喜ばなくとも。でも、彼女らしいと言えば彼女らしいか。
 その後、小野寺さんの最終バスの時間が差し迫っていたため、紅茶の件は後日予定を合わせることを確認し、今日のところは解散となった。
 いそいそとしている小野寺さんを見送り、自分は安堵感を抱きながら自転車を走らせる。
 これで、本当に終わったのか。いろいろと思うところはあれど、せめて今日はなにか良いものを食べよう。
 そう思い、近くのディスカウントストアで今食べたいと思ったものを購入し、重くなった自転車で帰路を辿る。
 やがて自宅まであと数分に迫り、今日はなにをしながらお酒を飲もうかと考えていた時だった。

「あれ?」

 俺は思わずそう呟き、自転車を停止させる。ふと我に返った、そんな感覚である。
 自分は、小野寺さんに紅茶を淹れてもらうことになった。一見すると、他愛もないことではある。だからあの時俺は、雰囲気に飲まれていた部分があったものの、特に何も考えず反射的にイエスと彼女に返したのだ。だが今になってよく考えてみると、これはとんでもないことになってしまったとしか思えなかった。しかも、彼女の真意が全く持って見えないという二重苦である。
 一難去ってまた一難。もう頭痛が酷い。
 ともあれ今は家に帰って、冷水を浴びて、お酒を飲んで、美味しいものを食べて、そしてゆっくりと寝よう。トレーナーの反省と紅茶の件は、また後日にでもやればいい。
 そう無理やり決めつけて、自宅へと帰っていった。
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