文字数 10,292文字

『また逃げたな』

 呆れと嘲笑の声が耳に届く。それに俺は呼び覚まされ、ゆっくりと目を開いていく。視界の先に広がっていたのは、相も変わらずのあの白い空間だった。
 ということは、声の主はおそらく……。
 先ほどと同じ声音のものがまた聞こえてくる。

『まあ、どうせお前のことだから、こんな結末を辿るだろうって、はなっから期待してなかったけどな』

 もう今さら反論なんてしない。彼の言っていることは間違っていないし、それになにより彼のほうが自分のことをよく知っているだろうから。
 そんなことよりも、この空間にいる間、俺はどう過ごそうか。
 目覚めた時と変わらずのうつぶせ状態で、ぼんやりと遠くを見ながらそう思う。
 一方の彼は一切こちらに構わず、ただただ小ばかにするような口調で言った。

『それにしてもさ、お前、宮前紗菜に「自分たちの問題だから」とか「善処はするよ」とか言っておきながらこのざまって、正直どう思ってんだよ?』

 そう尋ねられたものの、なにも感情は湧いてこない。彼に対しての怒りさえも。それ故、口からなにか言葉が出ることはなかった。
 そんな俺に業を煮やしたのか、彼はやや語気を強めながら言う。

『言葉にならないほど恥ずかしいってか? そりゃあそうだよな。でもな、屑があんな大見得を切ったんだ、その程度で許されるわけがないだろう?』

 なおも俺は無感情で無言のままである。いや、厳密にいうと、思うことや言いたいことはある。だが、彼の言葉の正当性や一方向の理解度が所謂刷り込みとなって、『すべて彼が正しい』という固定観念が俺の中で出来上がってしまっていた。その上、それとは別の諦観のようなものも芽生えており、そこから新たな感情が湧くことは滅多になさそうだった。
 そんなことになっているとは知らないであろう彼は、ひとまず平静を取り戻したらしく、口調をワントーン落として煽ってくる。

『ほらほらどうした? いつもの威勢はどこいった? 早く強がってみろよ』

 変わらず、俺の心が動くことはない。彼の思うつぼだからというのもあるが、やはり固定観念と諦観が絶大な力を誇っているのだろう。
 対して彼は一言も喋らなくなってしまった。これ以上は無駄だと思ったのか、こちらの様子や出方を窺っているのか、どちらにせよ静かなのはとてもいいことだ。
 静寂という名の膠着状態がしばらく続き、いよいよ彼がこの間に痺れを切らしそうな雰囲気になったころ、俺はあることを思い出す。そうして無意識のうちにゆっくりと上半身を起こしていき、率直に彼に尋ねる。

「お前は……俺、なんだよな?」

 彼は数秒の間を置いたのち、ケッと吐き捨てるように言う。

『ようやく口を開いたと思ったら、そんなことかよ。くだらない。しかもこっちの質問には何も答えないって』

 また静寂が訪れる。しかし今回はそこまで長くはならなかった。さっきの今で何かを悟ったのか耐性が落ちていたのか、彼は不満げに、そしてとてもハッキリとした口調で静寂を破る。

『ああ、そうだ、俺が、お前だ』

 ああ、やはり、そうだったのか。

 彼の言葉で以前至った一つの結論に確信が得られた瞬間だった。しかし、そこで再び新たな疑問……否、以前からずっと抱いていた疑問が湧いてくる。そしてその疑問は勝手に喉を通って声となり口からどんどんと出ていく。

「お前が俺ならば、どうして俺を苦しめるんだ? どうしてそんなにも嫌うんだ? そもそも、一体ここはどこなんだ? なんでこんなにも真っ白なんだ? それから、なんでお前はここにいる?」

 矢継ぎ早ではあるものの感情の昂ぶりはほとんどなく、話し方だけが随分と滑らかになったAIロボットのような起伏が乏しい口調だった。彼はそれに違和感を抱くこともなく、ふんと鼻を鳴らしていつもの軽蔑するような口調で言った。

『俺の話をとことん無視しておいて、お前は一方的な質問攻め。やりたい放題かよ。どれだけ身勝手なんだよ』

 しかし彼はそう呆れつつも、満更でもなさげに言葉を続ける。

『でもまあ、教えてやるよ。俺にとっても、お前にとってもいい機会だからな』

 そこで彼は一つ間を置くと、ギラギラとしながら俺の問いにずばりと答える。

『復讐のためだよ』
「復讐?」

 思わぬ答えに俺はすぐさま聞き返す。そして彼は間髪入れずに言う。

『ああ、そうだよ、復讐だよ。お前はいつだって俺から逃げてきた。逃げて逃げて逃げ続けて、やがては俺を存在しないものとし、すべてを否定するようになった。この真っ白な空間を作り出すことでな。だから俺はお前を恨み、これまでの報いを受けさせようと思ったんだ』

 俺は改めてこの空間を見渡す。相も変わらず眼前には白一色の光景が広がっている。
 彼が俺を恨むのも、この場所が真っ白なのも、すべて俺のせいということなのか?
 さらに彼の言葉は続く。

『ここはお前の心の一部だ。これまでお前は嫌なことから目を逸らし、一切それと向き合おうとせずに、己に都合のいいことばかりを見続けてきた。よっぽど無駄に高いだけのちんけなプライドを守りたかったんだろうな』
「違う……」
『……うん? なにか言ったか?』

 そこで俺は軽くハッとする。どうやら俺は、知らず知らずのうちに何か言葉を発していたようだった。何を言ったのかはわからないが、まずい内容であった可能性もあるため、俺はあくまでも平静に答える。

「いや、気のせいだろう」

 すると彼は「まあいい」と言ったのち、また言葉を続ける。

『それで、なんだ。ここはお前の心の一部だってことはさっき言ったが、この空間が真っ白なのはな、光が最大限にまで煌々と輝いているからなんだよ』

 うん? どういうことだ?
 その疑問に答えるように彼は言う。

『陰と陽。お前はここでその二つに分けた。陰が俺で、陽がお前にとって都合のいいことだ。そしてその陽は、この空間ではお前の中の光だった。言うなれば、ポジティブな考えと似たようなものだな。まあそれだけなら俺も百歩譲って見逃していたかもしれないが、いつしかお前はその光を追い求めすぎて、やがては偽りの陽を作り出してしまった。しかも大量に。やがてそれはこの空間を真っ白に染め上げてしまうほどの暴力的な光の集合体と化したんだ。おかげで俺の存在はほぼ完全にかき消されてしまったわけさ。まあ、小野寺希と出会ってからとか、それ以前にも時折ここが不安定になった時とかにはお前にショックを与えることがなんとか出来たがな』

 得意げに、そして俺をいつものように軽蔑しながら話す彼。

 そうか。そういう……ことだったのか。なるほどな。

 そんなことをぼんやりと考えていると、彼はなおも話し続ける。

『ここまでが、お前の質問の答えと、現実逃避行為をしている根性が腐りきった野郎へ叩き直してやろう、あるいは俺のことを地獄の底でも忘れさせまいと俺がいろいろと動いていた理由だよ。これでよくわかっただろ? いまお前がすべきことが。だからいい加減現実を受け入れて、為すべき事を為せ』

 言いたいことを言えたからか、彼はどこか喜ばしそうである。軽蔑の情は変わらずだが。
 そんな彼の言葉を聞いて、俺は、たいしてなにも思うことはなかった。唯一、納得という感情はあったが、それも結局、「へー、あー、そう」といった他人事のようなものだった。
 とはいえ彼から言葉を受けたのだから、なにか答えなきゃな。
 そう思うよりも早くに口は動く。

「わざわざそれを伝えようと、これまでご苦労なことで。お疲れ様です」

 すると彼は怪訝そうに言う。

『おい、なんのつもりだ』

 それに俺は無意識のうちに返す。

「別になにも企んではないよ。ただ……」

 一つ間を置いて、言葉を続ける。

「ただ、君の企みは失敗になるだろうなと思ってね」
『どういうことだ!?』

 どういうことだと言われてもなー。
 そんな困惑をよそに、彼は語気を強めながら口を開く。

『まさか……また、逃げるつもりなのか?』

 それに俺はあっけらかんとして答える。

「うーん、逃げるというかなんというか……いや、逃げるという言葉は間違ってないかもね。うん、君の言う通り、逃げることになるかな」
『正気か!?』

 彼から怒りのこもった言葉が飛んでくる。しかし俺はそれに一切構うことなく、そしてなぜか限りなく明朗で柔和に近い口調となって言う。

「そもそも、俺が君の報いを受けてなんになるっていうんだよ。君はそれで鬱憤を晴らせるかもしれないけど、俺にはなんのメリットもない。そんなバカげた話に乗る人なんて、そう滅多にいないんじゃないか?」

 指摘が的を射ていたのか、あるいは呆れているだけなのか、彼からは何も言葉が返ってこない。とはいえどちらにしても、もうどうでもいいことだからと、俺は特に何も心を動かすことなく、先ほどと同じ声音で続ける。

「第一、君は俺の中のただの一部なわけだろう? なんでそんな奴に俺が指図されなきゃならないんだ? 君の舎弟じゃあるまいし、なんだったらこっちが君のマスターともいえるような立場でもあるんだからさ」

 我ながら無茶苦茶な物言いだとは思う。しかし間違ったことを言っているつもりは全くない。あくまでも俺は、それが正しいことだと認識していた。
 それからしばらく、お互いのあいだに無言の時間が流れる。そうしてまもなく、その間は彼の言葉によって終わりを迎える。

『本当に、俺の指示に従うつもりはないんだな?』

 俺は即答する。

「だから言ってるじゃないか、君の言葉を聞くつもりはないって」
『そうか。なら仕方ない。今回は話し合いで解決してやろうと思っていたのだが……お前を信じようとした俺がバカだった。ああもうこれは一生の不覚だ。何を言っても聞かない殺人鬼に命乞いをするほどのバカだ。非常に恥ずべきことだ』

 恐ろしいほどに落ち着き、そしてとても静かな声音で彼はそう言う。そして、

『お前を……地獄に落としてやろう』

 はい?

 冷酷な彼の声が聞こえたと同時に俺はそう思う。しかし次の瞬間、

「ああああああああああああああああああああああああっっっっっ!!!!!!!」

 断末魔のような叫び声が俺の底から出てくる。まるでエクソシストから聖水と十字架と聖書の朗読を同時に食らった悪魔の悲痛な叫びのようである。そうなってしまったのには当然理由があった。それは俺の『過去』が思い起こされたからだった。
 雷に打たれたかのようなものすごく強い電撃と激しい痛みが全身を襲い、悲しみ、辛さ、悔しさ、そのほかありとあらゆる負の感情が俺の心を席巻していく。
 そんな俺に対して、彼はただただ冷酷で蔑むような口調で言う。

『お前が悪いんだ。お前が初めから為すべきことを為していればこんなことにはならなかったんだ』

 だからってこんな真似……。
 彼の言葉を聞いて怒りのような悲しみのような何とも言えない感情を抱く。しかしそれはほんの一瞬のことで、次の瞬間には電撃、痛み、負の感情によってかき消されていき、ただただ苦しい時間だけが流れていく。
 その後も彼はなにかぶつぶつと言っていたようだが、今の俺には耳を傾ける余裕も理解する余裕も全くなかったため、その内容を知ることはなかった。とはいえ大方の予想はつくが。
 それからどのくらいの時が経ったころだろうか、突然、電撃、痛み、負の感情までもがすっと消えてなくなる。

 ついに死を迎えたのか?

 そう思った刹那、窒息状態から呼吸することを思い出したかのようにゼーゼーと酸素と二酸化炭素の交換を急ピッチで行い、俺はせき込みながら異常なほどに息を荒くなる。どうやら、まだ自分は三途の川すらも見ていなかったようである。
 それからある程度呼吸が落ち着いたころに、彼の言葉が聞こえてくる。

『ちゃんと……向き合う気になったか?』
「いや……だ」

 まるであの時のように、俺は考えるよりも先に言葉が出る。それに対して彼は舌打ちをする。その直後、

「あああああああああああああああああっっっ!!!」

 またあの超絶的な苦しみが復活し、俺は獣のように悲痛な叫びを発するのだった。
 そんな流れが二度三度と続く。あまりの辛さに、もう何度気を失ったり気がふれたりしたのかも分からない。ただ、いっそのこと死んでしまいたいという考えだけはずっと自分の近くにあったように思えた。
 やがて何度目かの拷問一時停止期間がやってくる。俺は激しく息を切らしながら、いつまで続くのかという思いと、早く死んでしまいたいという二つの思いに駆られていた。
 しばらくして、彼が静かに言う。

『なぜお前は向き合おうとしない?』

 しばし息を整える時間を置いてから、絞り出すようにゆっくりと俺は答える。

「その……必要は……ないと……思った……からだ……」
『本気だというのか?』

 落ち着いている、というよりも怒りを押し殺して至極冷静に務めているかのような口調の彼。だが俺はそれにかまうことなく、相も変わらずぜーぜーと息をしながら言葉を返す。

「ああ……本気だよ……」
『ふざけるなっ!!』

 怒気と非難を含んだ彼の言葉が俺の脳天に響く。そうして彼は激しい口調で捲し立てる。

『お前はいつまでそうやっているつもりなんだよ! 目をそらし、耳をふさぎ、偽りの陽を作り出し、逃げて逃げて逃げ続けて、その先にはなにがあるっていうんだよ! 待っているのはクソみたいな人生じゃねぇか! お前はほんとにそれでいいのかよ!』

 なぜに彼はそこまで激しく憤りながら問いかけてくるのだろうか。いくら俺を陥れるためとはいえ些か過剰で、そしてどこか……いや、気のせいか。
 俺はあまりに温度差の激しい静かなトーンで彼に言う。

「いいも悪いもない。クソであろうがなかろうが、そんなことはどうでもいいんだ。今はそうするべきだと思ったから、俺はその通りにしているだけだから」

 その直後、胸ぐらをつかまれたかのような感覚がやってくる。そして、

『いい加減にしろよ! そうやって自分の気持ちに嘘ついて、なにが楽しいんだよ!』

 超至近距離から彼の怒声が聞こえてくる。それに俺は顔を横に向けながら反論する。

「嘘なんかついてない。普通に考えたら、そうなっただけだ」
『だったら真剣に考えろ!』
「真剣に考えたよ」
『もっと真剣に考えろ!』

 トーンが正反対の言い合いが繰り広げられる。
 あの例の苦しみがなくなったことはとてもよかったが、これはこれでめんどくさい。
 そう思いながら俺は言う。

「もう、放っておいてくれよ」
『はあ?』

 彼の怒りのこもった怪訝そうな返事に一切気を留めることなく俺は言葉を返す。

「俺は、お前の言うクソみたいな人生を送るから、お前はそれを嘲笑って見てればいい。むしろそっちのほうが、効き目は遅くともダメージは甚大になるだろうから、復讐にはより向いてるんじゃないか?」

 すると、氷柱のように冷たく鋭い声が顔の真正面から聞こえてくる。

『だからどうした? そんなことはどうでもいいんだ。俺は今のお前に復讐したいんだ』

 ああ、これは絶対に交わることはないな。

「そんなの知らないよ。ともかく放っておいてくれ」

 まったく、厄介で面倒で馬鹿馬鹿しくて仕方がない。
 そう思っていた時だった。真っ白で何も見えない空間の中、相も変わらず胸ぐらをつかまれているような格好の俺に、彼は冷酷な口調で静かにそしてはっきりと言う。

『あの二人はどうなる? 小野寺希と宮前紗菜。二人からそれぞれの思いを聞いたはずだ。お前はそれをまた無下にするというのか?』

 次の瞬間、急激に体温が上昇し全身が異様に熱くなる。そして同時に彼女たちの言葉が次々と脳内で再生されていく。まもなく呼吸は乱れゆき、思考も鈍くなり、胸ぐらをつかんでいる彼の手を俺は思いっきり振り払う。その後、頭を抱えながら振り子のようにゆらゆらと体を横に揺らし一歩二歩後ずさりすると、その場に跪き体を丸くする。そうして、俺は口を開く。

「今そのこと関係ないだろ!」

 声を絞り出すようにして言いようのない怒りを彼にぶつける。一方の彼は、さっそく嘲笑いながら返す。

『関係ない……ねえ。もしそうだとしたら、どうしてお前は悶えたり、怒りの矛先を俺に向けたりするんだ? 二人の話を持ち出しただけでそうなるって明らかにおかしいよなぁ』
「おかしく……ない……!」
『おいおい、そんなざまのお前の言葉を信じろっていうのか? それは無理な相談だな』

 そこで彼は一つ間を置き、俺を見下しながら、宣告するように言う。

『いいか? この期に及んでお前はまだ自分自身の立場を理解していないようだから改めて教えてやるが、お前にもう逃げ場なんてないんだ。過去、俺、そしてあの二人。完全に追い詰められた状態の中にお前はいるんだ。だから……これが最後通告だ。おとなしくすべてを受け入れて為すべきことを為せ』

 まさに八方塞がり。向き合おうが、向き合うまいが、茨の道であることは確かである。だが……いや、だからこそ俺は……。

「うるさいうるさいうるさいうるさいっ!」

 相も変わらずの姿で、俺は叫ぶ。そして彼に話す間も与えないまま言葉を続ける。

「なにが復讐だ。なにが為すべきことを為せだ。知ったような口で好き勝手言いやがって!」
『好き勝手もなにも……』
「黙れっ!」

 俺は彼の言葉を強い口調で遮り、そしてゆっくりと立ち上がりながらさらに続ける。

「なんにも俺のことを理解しようともしないやつが、いちいち口出しするんじゃねぇよ! 俺だって分かってるよ! ここから先のことぐらい。でもな、どっちにしたって修羅の道であることには変わりないんだ。だったら、なにも触れることなくこのまま逃げながら生き続けてやるよ!」
『そんなことは許さない! 今ここですべてと向き合い、償ってもらう!』

 直後、また電撃と痛みが全身を襲い、さらには負の感情が心を席巻していく。そのため俺の体は一瞬でうつ伏せに倒れこみ、いつものように悶え苦しむ。
 だが。
 あれ?
 俺は、猛烈な違和感を覚える。
 なにかがおかしい。いつもはこんなじゃなかったはずだ。もっとこう、思考もままならないほどに辛く苦しかったはずだ。なのになぜ今こうやって、電撃、痛み、負の感情がありながらもいろいろと脳を動かすことができるんだ? そもそも、思っているよりも遥かに威力が弱くないか? ……なにはともあれ、これはチャンスだ。
 俺は呻き声を上げながら、強力な重力に逆らうようにまずは右腕をゆっくりと動かし、床と思しきこの場所に力強く手をつく。

『は?』

 彼が訝しげにそう漏らす。そんな彼にもうひとパンチをと、今度は左手左腕を同じようにする。

『おいおい……どうなってんだよ……』

 その言葉を聞きながら、俺は手を支えにしてゆっくりと上半身を起こしていく。

『なんで……なんでなんだよ!』

 彼はどこか怯えているようである。
 どうして怯えているのだろうか。いや、自分には関係のないことか。
 まもなく上半身が起き上がり、俺は膝立ち状態となる。そうして今度は右足を動かし、しっかりとこの場を踏む。そこから左足も使いながら思いっきり力を入れて立ち上がっていく。

『ちょ、ま、待てよ! いくらなんでもおかしいだろ! この状況で……そんな……』

 歯に、両拳に力を入れながら、ついに俺は直立する。

『ふざけんなよぉ!!!』

 彼は威勢よく叫びながらも、ひどく恐れおののいているように見える。よほど衝撃的で尋常ではないことだったのだろう。多少の理解はできなくもない。とはいえ俺はそんなことには構わず、彼のほうへと足を一歩前に踏み出す。

『な……なんだよ……!』

 俺はまた一歩、また一歩と歩みを進める。

『くっ、く、来んなよ!』

 それでも俺は止まらない。なぜならば、俺はあることを為さなければならないと思ったからだ。
 まもなく彼の目の前に到着する。無論、姿は見えない。だが、どういうわけか感覚だけで彼の居場所を特定することはできた。そして、彼が思うように体を動かせない状況であることも理解した。そんな中で彼の声が聞こえてくる。

『絶対に許さない! お前を……お前を……!』

 俺は右拳を強く握りしめる。しかしこれは、彼の言葉を聞いてなにか感情に影響を与えたからというわけではなかった。もっと他に大きな理由があったのだ。それは……。

「じゃあな」

 彼に向けて、たった一言だけ、ほぼ無の感情でそう呟く。

『どういうことだ……!』
 その言葉を聞き終えるよりも先に俺は、

「ふんっっっ!」

 彼の左頬に右ストレートを放ったのだった。彼と決別するために。

『ぐぁっ!』

 パンチがヒットした彼は後ろにふっ飛び、ばたりと倒れこむ。まともに人を殴ったこともないため、勢いも威力もなく不格好ではあっただろうが、それでも今までの思いを込めた分、手ごたえは十分に感じられた。そのためか例の電撃と痛みは消えており、彼のほうからは物音ひとつ聞こえることはなかった。
 できるならこんなことはしたくなかったが……いや、正義漢ぶるのはよそう。こんな道を選んだ俺に、もう正義もへったくれもないのだから。
 さて、これからどうしようか。少なくとも働き先は変えるとして、引っ越しは……まあ無理だな。とりあえず店長や一瀬さんに無理を言って退職と深夜勤務へのシフトをお願いして、あとは……。
 その時だった。

『あ……』

 ふいに聞こえた音に俺はハッとしながらそちらのほうへと全意識を集中させる。しかしそれから数秒、何も聞こえることはなかった。
 なんだ、気のせいか。
 そう安堵した次の瞬間、

『う……うう……』
「あっ……」

 はっきりと聞こえた声に俺はびくつく。恐る恐るゆっくりとそちらのほうへと視線を向けると、そこにはただただ真っ白に染まった空間、ではなく靄がかった上にモザイクがかった彼の姿があったのだ。彼は顔を右側に向けて仰向けに倒れこんだまま気を失っているようである。しかし息はあり時折夢の中でうわごとを言っているらしかった。
 ぼんやりとながらも彼の姿を初めて見たこと、そして彼がまだここから消え去っていないことに自分はとても驚き、ショックを受け、動揺する。とはいえ彼を目覚めさせてはなるまいと、呼吸音にも気を遣いながら少しでも早くこの空間から抜け出せることを願う。そんな中で、また声が聞こえてくる。

『なんで……分かって……くれないんだよ……俺はただ……ただ……』

 ただ……なんだ?
 果てしない違和感と恐怖心に怯える俺をよそに、彼は衝撃的な言葉を口にする。

『ただ……立ち直ってほしかっただけなのに……』

「え……」

 体の力が一気に抜け落ち、その場にぺたりと座り込む。

 そんな……嘘だ……だってあいつは……俺に復讐するって、罪を償ってもらうって言ってたじゃないか……なのにどうして……今になって、そんなことを言う……?

 俺は尋常じゃないほどに狼狽える。

 もしそれが本当だというならば、俺は……だが、これは彼の策略だという可能性も……。

 真偽を確かめるべく、俺は一縷の望みにかける思いで彼の様子をうかがう。
 すると……彼は……涙を流していた。靄やモザイクは消え去り、俺と全く同じ姿かたちをした彼の顔が露わになっている、という情報など入る隙など一切ない。彼は、涙を流していたのだ。そして、

『ごめん、なぁ……ごめんな……』

 と嘘偽りのない声音で謝罪の言葉を口にするのだった。

 それが、奴の本心だったというのか?

 直後、目の前がぐんにゃりと歪む。

 嘘だ……。

 嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ……。

 俺は信じないぞ、こんなこと。

 なおも、彼のうわごとは切れ切れながらも続いている。そしてそれはいちいち俺の心を強く刺激し、大きく揺るがしていく。

 やめろよ……やめてくれよ……この道を進むと決めたからにはもう……俺は……。

 次の瞬間、ゴゴゴゴゴという地響きと同時にこの空間が地震のような大きな揺れに見舞われる。俺はそれに耐えようと一度地を這う態勢をとる。しかし、

「奴は!?」

 考える間もなく、すぐに俺は無理のない態勢で彼の姿を探す。二度三度ほど顔と視線を右へ左へ動かし、ようやく彼を見つけだす。すると不思議なことに彼は、先ほどの仰向け状態ではなく、こちらに背を向けて直立していた。一体どういうことなのかと訝しんでいると、彼は少しだけ顔を動かし俺のほうを見る。そうして涙を流しながら笑みを浮かべて口を動かす。その刹那、彼の姿はあっという間に靄とモザイクに埋め尽くされていく。

「待って!」

 しかしその思いは届かず、彼の姿が消えたのと同時に、俺は現世に戻ったのだった。
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