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文字数 10,640文字

 はあ、と一つ息を吐く。酔っているせいか、無駄に脳が冴えている。シラフの時には絶対に行き着くことのない境地へと足を踏み入れてしまっているほどに。そしてそれは、とどまる所を知らない。
 性格、容姿ともによし、言動に気品やカリスマ性があり、なおかつ信頼もできる。そんな人とクラスメイトになれば、まともに話したことがなくとも、遅かれ早かれその人に魅了され、無意識のうちに乗せられてしまうことだろう。
 しかし、中にはそうじゃなかった人もいるかもしれない。
 苦手、怖い、認めたくない。
 その人はそんな感情を抱き、彼女と距離を置いて、なんとか乗せられずに過ごしていた。だが、ある日ある時、その自己防衛は完全に崩壊してしまう。

 彼女の芝居を観たことによって。

 彼女の芝居はただただ凄かった。言語化することが非常に無粋に感じられるほどに、そして斜に構えるのが馬鹿馬鹿しくなるほどに。
 まっすぐで、純粋で、力強くて、美しくて、楽しそうで、全力で。どこかあか抜けていないところがありながらも、ただの芝居じゃなくて、とても魅力のある芝居をしていた。贔屓目なしに実力派女優に劣らないほどの。無論、演技力は言わずもがな。
 確か宮前さんは彼女のことについて、本調子じゃなかったとか、本領発揮できていなかったとか、あれを超える才能がとかって言ってたっけか。もしそれが本当だというのなら、片腹痛いのを通り越してもう一切笑えないわ。
 俺は左手で髪をかき上げながら、その髪を軽くつかむ。そこでふと我に返る。
 彼女にあれだけのことをしておいて、なにを今さらぬけぬけと分析しているのだろうか。
 そう思った直後、あの時の光景がよみがえり、一気に気分が悪くなる。それをかき消そうと、また酒を呷る。そして衝動的にスマホを手に取り、メッセージアプリを開いて、文字を打ち込もうとする。しかし、

「くそっ」

 なにも言葉が浮かんでこないのである。一言も、一文字も。それにむしゃくしゃして、またまた酒を呷る。そうして俺はデスクの上に両肘をつき、頭を抱え込む。

 俺は一体どうすればいいんだ……。

 様々な感情が蠢き合い、何が何だか分からなくなって混乱状態に陥る。しかも考えれば考えるほど、ドツボにはまっていくという最悪の状況である。

 せめて……せめて、何か一つだけでも糸口があれば……。

 その瞬間だった。

『よく頑張った。ここまでくれば後は何も抗うことなく、素直に身をゆだねるだけで充分だ。だからもう少し力を抜け。難しく考えるな。問題はすべて単純明快なんだから』

 この声は……。

『お前にはたくさん迷惑をかけた。すまない、悪かった。それから……ありがとう』

 ちょっ、待っ……。

 そう言いかけた直後、唐突にある記憶がよみがえる。

『田辺さんは、私にとって今でもずっと憧れの存在で……』
『田辺さんは舞台上にいる時が一番輝いているんです! 一番かっこいいんです! 一番……だから……だから……!』

 あの時のことと、そして、

『絶対成功させるぞー!』
『おおー!』

 緊張感を抱きながらも、劇中にいくつかの失敗をしながらも、ただただ楽しいという感情と達成感に満たされていたあの頃の記憶。それは懐かしくもあり、心地よくもあり、痛ましくもあり、苦しくもあり……だけども、やっぱり……。
 そこで俺はハッとする。

「ああ……そうか……俺は……」

 ふらりと立ち上がり、デスクの右隣にある棚の前に立つ。そうして、その一番下の引き出しの、さらに下のほうに仕舞ってあるA4サイズのクリアファイルを取り出す。たくさんの『資料』が入っているせいか、そのファイルにはずしりと重みがあり、厚さが三~四センチほどもある。俺はそれをもって椅子に腰かけると、一つ深呼吸をし、意を決して中を確認する。

「あぁ……」

 そこに収められていたのは、芝居、朗読、ナレーションなど諸々の様々な稽古で使われた台本や、発声練習のテキスト、そして連絡事項が記された複数の用紙だった。それらは計三十組以上にも及ぶだろうか。その一つ一つを見て触れて読むたび、当時のことをつい昨日のことのように思い出す。しかも自分で書いたメモ書きが数多くあるために、尚更、事細かく鮮明によみがえってくるのである。楽しいことも、嬉しいことも、悔しいことも、辛いことも、すべて。
 やがて、あるページに目が留まる。

「アルコルと……ミザール……」

 彼女--小野寺希が観たという例の作品。そして、俺--田辺泰晃が初めて人前で芝居をして、この上ない喜びと達成感を抱き、なんといっても楽しかったという思い出が詰まりに詰まった作品である。
 俺は考える間もなく、その台本を手に取り、軽く流し見ていく。

 ああ、そういえば、こんな作品だったな。

 懐かしさと、言いようのない虚しさと、何かよく分からないとても熱い気持ちと、今の自分だったらという謎の自信と、いろんな意味で特別な作品だと再認識する不思議な感覚と、当時の自分を恨み羨むひねくれた思いと、今日に至るまでの記憶や感情と。それら数多くの様々なものが、堰を切ったように一気に溢れ出てくる。そのため、俺の心はぐちゃぐちゃになる。

 でも……でも、さっきの時のような堂々巡りはもうない。それもこれも……。
 ありがとう、そしてごめんな、もう一人の俺。お前の思いは、しかと受け取った。まだ何をすべきかは明確には見えてこないけど、それでもなんとかやってみるよ。
 そしてもう一人。
 だが、今はまだその時じゃない。ごんがらがった考えやこれからのこと、そして伝えたいことがまとまってからじゃないと……って、これじゃあいつまで経っても……ううむ、ええい、ままよ!

 俺は、スマホを取り出してメッセージアプリを開き、彼女とのトーク画面を映し出す。
 最後にやり取りをしたのは正月の挨拶のとき。それ以降、一度も連絡をとっていない。やる気がなかった、いや、連絡を取るのが怖かったからというのは自分。そして彼女は、おそらく気を遣ったのだろう。
 まもなく俺は軽く酒を呷り、一度深呼吸をして、文字を打ち込む。

『夜分に失礼します。急で申し訳ないんだけれど、今日ってどこか時間空いてますか? 出来れば小一時間ほど話がしたいです』

 二度三度ほど誤字脱字がないかを確認して、迷うことなく送信ボタンを押す。後先のことなど一切考えずに。

 ああ、やっちまった。酒の勢いと、逃げ場をなくさなければという謎の使命感に中てられてついにやっちまった。とはいえ今ならまだ送信取り消しが可能なはずだ。だから今すぐにでも……。

 しかし、俺はなにもすることなくアプリを閉じて、スマホをそっとデスクの上に置く。

 これで、いいんだ。

 目を閉じ、一つ息を吐く。

 うん、これでいいんだ。

 なにかに導かれるようにそう思い、なにかを決意するようにそう唱える。
 この判断が、いま自分のやっていることが必ずしもいい方へ傾くとは限らない。むしろ事態を悪化させる可能性だって大いにあり得るだろう。だが、今はこれが最善で最適解であるとしか思えなかった。たとえ精神的な苦痛を多大に受けようとも。とはいえ、もとより、こうするほか道はなかったとのかもしれないが。それに、彼はもちろんのこと、おそらく自分自身もこうなることをどこかで望んでいたところがあった気もしないでもない。だから俺は、

「よしっ」

 閉じていた目を開き、一度酒を飲んでファイルの流し見を再開する。一通り見終わると、それをデスクの上へと置き、また酒を二口ほど飲む。そうして俺はあの当時のことを回想するのだった。





 あれは高二の夏。期末テストが終わり短縮授業の日々が始まって、浮ついた雰囲気の生徒を教師が窘めるという光景が日常になりつつあったあのころ。俺は、『アルコルとミザール』の舞台発表まで数日と迫り、ピリピリとしながらもふわふわとしたとても不思議な感覚の中で日々を過ごしていた。

 当時、自分は全日制の公立高校に通っていた。家から一番近所のところにある高校で、学力も ザ・平均の自分と合致、ほかにもいくつかの理由からその学校を選んだ。
 傍ら、自宅から電車で片道一時間弱のところにある俳優の養成所にも週一~週二のペースで通った。そこへは高校入学と同時に入所し、かれこれ四年間のほぼ毎週末を、そこでのレッスンと交通費や受講料のためのバイトに時間を費やした。その結果が見ての通りのこのざまという……ひとまずそれは置いておくとして。

 初めての人前での発表、しかも始まってしまえばおおよそ一時間もの間は相当なアクシデントがない限り止まることはない。そして、一年と数か月の間でどれだけ成長したのか、さらには資質がどうであるか、様々なことを見てもらう、あるいは見られる場であるということ。極め付きは絶対にいいものを作り上げたいという思い。
 これだけのことが重なれば、先に言った感覚を抱くのは当然であり、それ以外のことがほとんど頭に入ってこなくなるのもなんら不思議ではない。また、四六時中セリフを口、あるいは脳内で暗唱したり、当日の動きを何度もシミュレートしたりするのも、至極自然のことだと思う。
 そんな中であったため、学校にいるときはなるべく人とは接触しないようしていた。一方のバイトに関しては、はなから本番前の一週間にシフトを入れていなかったため、大事に至ることはなかった。

 それから一日、一日と過ぎ去っていき、ついに本番当日を迎える。
 その日、天気は梅雨明け前にもかかわらず、この上ないほどの快晴だった。まるでお天道様が晴れ舞台を楽しみにしてくれているかのように。
 そして俺は、脳内でセリフの暗唱と動きの確認を何度も繰り返しながら、暑さとセミの鳴き声を時折感じながら、土曜日の学校で模試を受けていた。おおよそ一時ごろまで。そこから急いで電車に飛び乗ると、耳にイヤホンを装着し、ゆっくりと深呼吸をしながら目を閉じて、できる限り体を休めていく。
 やがていつもの降車駅に到着する。すました表情で改札を出ると、駅構内のコンビニで軽食を購入したのち、地図アプリを開いて目的地をセットする。そうしてナビに従い歩くこと十五分、それは見えてくる。
 芸術文化センター。
 規模自体はそこまで大きなものではないし、自分たちが使用するところも定員百いかないぐらいの一番小さいホールではある。しかし、普段レッスンで使っているスタジオとは何から何まで違うわけで、挙句、初めて利用する上に、ほぼ一発本番の状態で舞台を使用するときた。もうなにもかもがおっかない。でも、とてもわくわくとした感情がふつふつと湧き出てきているのも事実だった。
 中へと入り、受付の人に楽屋の場所を聞いて、今度はそこへと向かう。

「おはようございます」

 元気よく挨拶をしながら楽屋の中へと入っていく。するとそこでは、まだ集合時間ではないために全員はそろっていないものの、十数人の仲間たちがセリフ合わせをしたり、意見のすり合わせをしたり、準備や待機をしたりしていた。その光景がとても心地よくて、嬉しくて、喜ばしくて、そしてちょっとだけ嫉妬心が芽生えて、だけどもやっぱりたまらなくて、俺は口角がなかなか下がらなかった。
 その後、何人かから挨拶が帰ってきて、その人たちから現状の説明を聞くと、簡単に準備を済ませ、自分もその輪の中に入っていく。
養成所、であるため、自分のように高校生もいれば大学生や社会人もいる。場合によっては一回り以上の年齢が離れていることだってある。だけども、みな同じように、一つの方向を目指し、そして今回のように少しでもいい作品を作り上げようと奮闘しているからか、ジェネレーションなんかはたいして気にならず、むしろみんなで青春を謳歌しているようにさえ感じられた。俺は、今この瞬間が楽しくてたまらなかった。
 しばらくして講師も含めて全員がそろう。そこで一度舞台のほうへと向かい、興奮や緊張を感じる間もなく、すぐにざっくりとした全体リハが行われる。

 今回の発表は、二グループに分かれて同じ演目をそれぞれ上演することになっている。ちなみに自分はお預け組……もとい後半グループだった。そわそわしながら待機しなければならない上に、前半組よりもいいものを見せなければ観客につまらない印象を持たれかねないという二重苦グループである。
 ほかに今回の発表で特徴的なのは、見せ場を芝居に極振りしていることだろうか。全編ほぼ無対象演技で行うため道具は数えるほどだし、舞台セットも使用しない。衣装にしても、一般的な私服を使用。さすがに音響や照明は専門スタッフにお願いするが、それも概ねはとてもシンプルで数も少ない。あくまでも芝居を見せることだけを目的としていた。

 やがて全体リハが終了する。それからは同じ施設内のスタジオで、グループごとに気になる箇所を再度確認していく。
 そうこうしているうちに、いよいよ開場時間まで三十分と迫る。そこで講師からの激励の言葉が飛んだのち、全員で円陣を組む。

「絶対成功させるぞー!」
「おー!」

 そうして各々がそれぞれの持ち場へとついていく。前半グループは上演に向けての待機、後半グループは観客の受付や誘導といった具合に。
 俺はというと、会場内での誘導と上演マナーの注意喚起に当たっていた。なんとも言えない気恥ずかしさを覚えながら。しかし、やがてそれはかき消される。あまりの人の多さに衝撃を受けて。結局、客席の八割以上が埋まっただろうか。いくら他のクラスの人が見に来ているからとはいえ、いくら無料上演だからとはいえ、この人数には嬉しさや喜びよりもただただ驚くしかなかった。
 本番で気圧されないようにしないと。
 集客を終えた自分たちはそんなことを話しながら、最後の稽古をするスタジオ班と遅れてきた観客の受付などをするロビー班の二手に分かれていく。
 程なくして前半グループの上演が始まる。しかし今は気にしている暇などない。それからおよそ三十分間、先にスタジオ班となった俺は無心で稽古に取り組んでいく。やがて役回りの交代の時間がやってきて、本番まではしばらく体を休めようと、少しばかり脱力しながらロビーへと移動する。しかし数分後、その希望はあっさり砕かれる。

「ただいま上演中ですので、誠に恐縮ながらお静かに願います」

 別ホールで行なわれていた公演が終わって、そこから施設を後にしようとしている人たちが、大勢ではないものの時折話をしながらここをしきりに通っていく。そんな人たちに嫌な気をさせないようにやんわりと声掛けをする、というとてつもなく面倒くさい作業が追加されてしまったのだった。

 今思うと、その公演を小野寺さんが観覧していたわけで、しかも直後に『アルコルとミザール』の上演を知って見にきたわけで、挙句数年後に勤め先が一緒になるわけで。最後の件は少々作為的なところがあるようだが、それでもあまりに偶然が重なりすぎている。さてはお天道様、仕組んだな?

 結局、声掛けの影響でほぼ休むことはできず、とうとう前半グループの上演が終了する。その後、十五分間の休憩となるも移動や準備でほとんど時間がつぶれ、ようやく落ち着いたころには開演五分前に迫っていた。

 まったく、朝からバタバタしっぱなしだ。どこかで少し休めばよかったものを、ずっと芝居のことを考えて動いていた。おかげでもうクタクタだ。でも、不思議と悪い気分じゃない。むしろ清々しい。それに、ようやくこの時が来た。後はもうすべてを出すだけだ。

「行くぞー!」
「おー!」

 本番直前、観客がいることなどお構いなしに、舞台裏で円陣を組んで声を張り上げる。そうして、ついに幕が上がるのだった。





 とても懐かしい記憶である。もう四年以上も経つというのに昨日のことのようにくっきりはっきりと鮮明に覚えている。
 上演は無事成功した。ちょっとしたミスはいくつかあったが、そんなものなど帳消しどころかお釣りが出るくらいに、とてもいいものに仕上がっていたという自負はある。もちろん、あのころよりも、という思いはなくはないが。とはいえ、前半グループはもちろんのこと、自分たち我々後半グループの出来も非常に良かったと評判だったのは事実だった。

 あの頃は、とても楽しかったなー。

 舞台発表が終わって若干燃え尽き症候群になりかけたが、それでもなんとか持ちこたえて、その後しばらくは大変ながらもとても充実した日々を過ごした。そうして気が付くと、共に上演を成し遂げた仲間たちの多くとは離れ離れになり、養成所三年目の新たなクラス、勝負の年を迎えていた。

 歯車が狂いだしたのは、その頃だろうか。

 といってもはじめ数か月はとくに問題はなかった。むしろ、とても小さいながらも初めて映画のオーディションにモブ役として受かり、これからさらに頑張るぞと意気込んでいたところだった。

 しかし、いつの日かそれは虚空のものとなっていた。

 決して、何か大きな出来事があったわけではない。ただ、様々なことが重なってしまったのだ。進路、人間関係、家族関係、新しい講師との反り、芝居関係でのつまずき、これまでずっと耐え忍んで発散されることなく蓄積された怒りや悲しみや苦しみや辛さ。それらが重なって、重なって。重なり合って、俺は駄目になった。
 その後、惰性でもう一年度養成所へ通ったが、結果は言うまでもない。そうして俺は、誰も自分のことを知らないであろうこの街へと、地元から逃げるように越してきた。まあ結局、逃れることはできなかったが。

 さて、と。
 これまで封印していたパンドラの箱を次から次へと開けてきたわけだが、なんだろう、まだ何か残っている気がする。否、残っている。しかしそれらを開いたとき、果たして自分は正気でいられるだろうか。ここまでは酒と彼や彼女の力があったから、時折気がふれそうになってもなんとか平静を保てたが、この先の箱となると自分を否定することにつながって……いや、これが彼の言うところの『逃げ』なのかもしれない。何かを言い訳にして、あるいは何かのせいにして、ずっと現実を見ようとしない。気づかないふりをしている。だからあの空間が出来上がったんじゃないか。それに、俺は今更なにを怖気づいているんだ、くそったれが。
 またまた酒をあおる。そして、ついにそれらに触れ始める。

 いろいろなことが重なって、重なって、重なり合って、駄目になった。そこに間違いはない。だが、そこに加えてもう一つ、非常に大きなものがあった。それは、

『努力』

 だ。
 苦悩し、血反吐を吐き、食事がのどを通らなくなる、その状態まで追い詰めることが必ずしも正しいとは思っていない。だが俺は、それに近しいところまで努力をしたことはあっただろうか。そこまで全力になったことはあっただろうか。何があっても貫き通す覚悟はあっただろうか。
 答えは、すべて『NО』だ。
 もちろん、無努力だったわけではない。そんな状態で舞台発表を成功させたり、オーディションに受かったりすることは不可能だから。しかしそれらの多くは、所詮ただの張りぼてのものに過ぎなかった。表面上の必要最低限のことだけをやって、それでもう努力した気になって、あとは対して何もせず、何も考えずにぼうとした日々を過ごし、レッスンの日を迎える。そのレッスンでさえも、どこかで力を抜いて楽をして小手先だけで乗り切ろうとしていた。とくに、三年目の途中からは。
 自分に才能があったかなんて、今では何も判断のしようがない。それでも確実に言えるのは、俺は、才能がどうとかと言えるほど努力をしていなかった、全力ではなかった、覚悟もなかった、ということだった。そんなので役者になれると、天才や猛者と肩を並べられると本気で思っていたのだから、どうしようもないほどに脳内お花畑の大馬鹿野郎である。その上、彼女に八つ当たりまでして。

 ほんとに俺は、何をやっているのだろうな。
 過去も、そして現在も。

 天井を仰ぎ、ははっと空笑いして、深いため息をつく。

 その上で俺はどうするべきなのか、いや、どうしたいのか。

 そこでまた、一つの箱が開く。
 中二の冬、退屈しのぎにザッピングをしていると、偶然かかったチャンネルでテレビドラマの第一話が放送されていた。たまには悪くないのかもしれないという斜に構えた感覚で、俺はリモコンを置き、それをぼうと眺めた。しかし気が付くと、作品の内容や雰囲気、ヘタレながらもがむしゃらに頑張る主人公やその役を演じていた人にこの上なく魅了され、翌週からも継続して観るようになった。そしていつしか、自分もあんな役をその人のように演じてみたいと強く思うようになり、俺は役者を目指し始めたのだった。
 とても単純でありきたりな話なのかもしれないが、自分にとっては紛れもなく原点かつ、とても大切なものである。
 すると、目の端からツーと一筋の涙が流れていく。

 悔しい。

 ただただ率直にそう思った。役者になれなかったことと、努力してこなかったことと、そしてこれまでの自分の行いに対して。
 チリチリと胸が焼けるような痛みや、ぎゅっと心臓を掴まれたような苦しみ、さらにはなんでもっと頑張らなかったのかという自己嫌悪に襲われる。そんな中、最後の箱が開かれていく。

 俺は、役者になりたかった。
 でも、なれなかった。
 だから、諦めようと思った。
 でも、諦めきれなかった。
 現実を受け入れることができなくて。
 これまでの努力が、あの楽しかった日々が、自分の能力が、原点が、純粋な気持ちが、すべて無駄で意味のないものだったと否定することになるような気がして。
 それから、まだやれる、まだやりたい、という思いが残っていて。
 ならばもう一度と、足を踏み出そうと思った。
 でも、できなかった。
 また辛い思いをするんじゃないかって。
 これ以上やる意味があるのかって。
 ありとあらゆることに嫌気がさして。
 俺は、答えを出せなかった。いや、出さなかった。
 そうしてなにもかもを箱に詰めて封印し、いつのまにか出来上がっていたあの白い空間を利用、拡張して、なにも見えないようにしたのだった。

「ははっ」

 なんて俺は阿呆なんだ。努力を怠った挙句、現実と向き合わずに何もかもをうやむやにして逃げるだなんて。あまりに阿呆すぎる。それでは心が死んでいくのは当たり前だ。
やけになって、また酒を呷ろうと咄嗟にグラスをつかむ。しかし、そこでふと思う。
 もし……もし阿呆でなければ、俺はこの街に越してくることはなかったのではないだろうかと。そうすれば一瀬さんや加藤さん、店長をはじめとした店のスタッフ陣、そしてなにより小野寺さんや宮前さんと出会うことも一生なかったかもしれない。もう一人の自分だってそうだ。俺が阿呆でなければ生まれてくることはなかったとまで言える。
 ということは、俺は阿呆でよかったのではないかと……いや、それだと語弊がある。阿呆であったことは猛省すべきで、簡単に好都合と捉えていいわけがない。だが、つまりは何が言いたいのかというと、なにもかもを全否定するのはちゃんちゃらおかしいのではないかということだ。
 その考えは、ともすれば自分にとって都合のいい解釈、いわゆる自己擁護からくるものなのかもしれない。だけども……だけども、阿呆であったからこそ今があるわけで、それを否定すると、この街で出会った人たち……自分の心を解きほぐし、いろいろなことに気づかせてくれた人たちの存在と優しさを蔑ろにすることになってしまう。そんな不義理、許されるわけがないし、自分としても絶対に嫌だ。それにこの二年間、辛いことや苦しいことも多々あったが、自分にとっては有意義で大切な決して悪くない日々だったと素直にそう思えている。だからなおのこと……。

 あっ……。

 そこで俺は、はっとする。封印していた過去に対しても、まったく同じことが言えるのではないかと。無論、阿呆な言動は猛省すべきことに間違いはない。だがやはり、すべてをなかったことしようとするのは絶対に違うと思う。そこにも思いや記憶や人々など、とても大事なことがたくさんあるのだから。
 とどのつまりは、ポジティブなこともネガティブなことも大事に受け止めるべきだということなのかもしれない。これまでの自分は、どちらか片方に寄りすぎていた。ポジティブにはポジティブを重ね、ネガティブにはネガティブを重ねる。それでは見えるものも見えなくなってしまう。

「変わらないと、な」

 キーボードをぼうと眺めながら、ぽつりと一言つぶやく。しかしその数秒後、ふふっと笑いがこみあげてくる。柄にもない言葉だったから、思わず口から出た言葉だったから、そして、その言葉よりも大事なことを思い出したから。
 俺は最後の酒をあおり、天井を眺める。

 思えばずいぶんと遠回りをした。まさかこんなにも時間がかかるとは思わなかった。よっぽど、それに目を向けるのが耐えられなかったのだろう。でもまあ、寄り道も人生には必要だろう。

 彼女には――小野寺さんにはなんて伝えよう。包み隠さず、すべて話すべきだろうか。いや、その前に謝罪だな。あの時のこと、きちんと謝らないと。それから感謝も。

 さて、と。
 あとはちゃんと口にするだけだ。もう答えは分かっている。否、厳密に言うと、それはずっとすぐそばにあった。憧れを抱いた時からずっと。だけども一連のことで見えなくなったり、見なくなったりしていたのだ。しかし、それはもう過去のこと。今はばっちりと見えている。
 
 すー、はーと一つ深呼吸をする。

 これまでだ。そして、これからだ。

 俺は、

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