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文字数 9,650文字

 八月も終わりに近づき、多くの学生諸君が阿鼻叫喚しているのであろう今日この頃。俺は誰もいないスタッフルームで、まったりと休憩時間を過ごしていた。
 甘くしたコーヒーをすすり、数年前に話題となった長編小説を今更ながら読み進めていく。そして、ページをめくる音にどこか心地よさを感じたり、時折外から聞こえる人の声や車の音に少しだけ思いを馳せてみたりする。まるで自宅であるかのようなリラックス感である。それほどまでに、この空間にはとても穏やかな空気が流れているのだった。

 思えば、自宅以外でこうやってのんびりしているのはすごく久しぶりな気がする。
 中抜けシフト、トレーナー、昼夜ピーク中心の接客業務。なんだかんだとバタバタした日々が続いて、ようやく落ち着いたのがここ二、三日のことだ。そう滅多に休まる間もない。その影響からか、最近の休日は家から出ることもなく、寝るか食うかぼうとするかの生活が続いていた。
 今考えると、いろいろと不味い状況である。基本的にインドア派ではあるが、たまには仕事や買い物以外で外に出ないとさすがに気が滅入る。
 慰安旅行、と言えば少し大仰ではあるが、リフレッシュのためにどこか遠出でもしようか。気になっているところはいくつもあるし、ただ何の目的もなくフラッとするのもいいかもしれない。うん、近いうちに予定を立てよう。
 そう心の中で決めて、また本を読み進める。
 やがて休憩終了十分前を知らせるスマホのアラームが鳴る。そのため切りのいいところにしおりを挟んで、ゆっくりと支度を整えていく。するとそこで小野寺さんが入ってくる。

「お疲れ様です」
「あ、お疲れ様」

 俺は少し戸惑いながら返す。しかし、すぐにとある考えに行き着き、言葉を続ける。

「早上がり?」

 それに彼女は、やや苦笑い気味に答える。
「はい。時間帯というのもあるのでしょうけれど、結構な空き具合で」

 やはりそうか。これは夜ピークもそこまで忙しくならないかもしれない。
 それからいくつかのやりとりを交わしたのち、自分は現場へ向かい、彼女は帰路につく。

 ちなみに例の『紅茶会』はまだ行われていない。お互いの予定が中々合わないのである。多忙の身である彼女に対して「無理にスケジュールを開けることだけはやめてほしい」と言ってあるため、なおのこと合わない。
 そんな中でも、なんとか一度だけ日取りが決まったのだが、生憎にもその日は列島に台風が直撃し、あえなくご破算となる始末。
 夏休み中でこんな状態なのだから、新学期に入ってしまえばもう予定の目処は経たないだろう。数か月後の冬休みでさえ厳しいかもしれない。
 そのためか、とても楽しみそうにしていた小野寺さんの様子にいくらか陰りが見られた。
 だが、そんな彼女とは裏腹に、自分はこの状況にものすごく安堵していた。
 というのも、その紅茶会は『彼女の家』で、しかも『自分たち二人だけ』で行われるようなのである。さらには『件のことは内密に』と彼女からお願いされているため、自分はもうトレーナー初日並みの緊張感や不安心を禁じ得なかった。それ故、気持ちの整理と覚悟を決められる時間が増えるのは心底から喜ばしく、胸を撫で下ろすほどのことだったのだ。
 いっそのこと、このままフェードアウトしてくれたらとさえ願っているが、彼女は絶対にそうはさせないだろう。それになにより、約束を受けた以上はいつか必ず果たさなければならない。
 ああもう、とんでもない約束をしてしまったな。頭痛と吐き気とため息が止まらない。

 それにしても、彼女は一体何を考えているのだろうか。お礼のつもりなのかもしれないが、会ってふた月も経たないただの異性のトレーナーを自分の家に招待し、二人だけの紅茶会を開くなんて。これを暴挙と言わずして何と言うか。
 当然のことだが、俺はなにかやましいことを期待しているわけではないし、愚行を犯そうというわけでもない。だが、小野寺さんは無防備というか恐れ知らずというか、無警戒すぎやしないだろうか。お節介かもしれないが、いろいろと心配になってくる。
 諸々の内容は伏せてだが、一度一瀬さんに相談してみるか。こういったことは異性である自分よりも、同姓の人に言ってもらったほうが絶対にいい。それに……小野寺さんからの恋心という可能性を全否定できそうにない今、自分が下手に手を打つのは危険すぎる。一瀬さんには申し訳ないが、そうするしかないのだ。

 そんなことを考えながら、休憩後の仕事をこなしていく。
 その間、十数分ほどバタバタとした時間を過ごしたものの、ある程度予想していた通りの空き具合だった。そのためか小野寺さんと同じように自分も早上がりをすることになった。

 幾ばくかの物足りなさを感じながら、自宅へと帰っていく。
 帰宅してすぐ、いつものようにシャワーを浴び、軽食を摂る。そうして一通りの家事や用事が終われば、数時間前に読んでいた長編小説を手に取り、また読書タイムに入っていく。しばらくはこれがマイブームになりそうだ。

 それから一時間が経ったころ、喉に渇きを覚えたため、切りのいいところで本にしおりを挟み、スポーツドリンクを喉に流し込んでいく。
 その時、スマホの通知ランプが点滅していることに気がつき、朝起きたとき以来のSNSチェックを行っていく。
 するとそこには、とてもと珍しい人からメッセージが届いていた。

『お久しぶりです。元気にしてますか? 加藤』

 そう、まさかの加藤さんからだったのだ。
 思えば、小野寺さんのトレーナーを務めることになって以降、二か月近く会っていないだろうか。メッセージのやり取りも滅多に行わないため、SNSではあるものの、ものすごく久々な加藤さんとのコミュニケーションだった。
 送られてきた時間を確認すると、ちょうど三十分ほど前。
 それなら今返しても問題ないだろう。

『お久しぶりです。いろいろとバタバタしてましたけど、死んではいませんよ、安心してください。加藤さんはどうです?』

 少し冗談めいたような文言で送る。するとその数分後に、自分と似たようなメッセージが返ってくる。それに俺は、ふふっと笑い、また冗談めいた文言でメッセージを送る。そうして、しばらくはそういったやりとりが行われたのだった。
 この様子だと加藤さんは今日休みのようである。そうでなければ、もうすぐ今日が終わろうとする時間までこんなおかしなやりとり、やっていられないだろう。付き合ってくれる加藤さんに感謝である。
 それからしばらくして冗談めいたごっこが収まってくると、加藤さんから驚きのメッセージが届く。

『あーそうそう。タナさえよければ、一緒に食事にでも行かないか?』
「えっ!?」

 あまりにも唐突過ぎて、割と大きめの声が漏れ出てしまう。そしてすぐに、隣の部屋の様子を窺う。うん、大丈夫そうだ。とはいえ、そう何度も許してくれるわけではないだろうから、これからは十分に気を付けよう。
 改めて、スマホに映し出された文字を見る。
 タナ、というのはもちろん自分のことだ。名字の田辺から二文字とって『タナ』。いつのころからか、そう呼ばれるようになった。
 問題はその次の言葉だ。

『一緒に食事にでも行かないか?』

 まさか一度もプライベートで会ったことのない加藤さんから食事に誘われるとは。
 嬉しくもあり、驚きでもあり、不思議でもあり。
 しかし普通に考えれば、職場で趣味の話や他愛もない話をするような関係なのだから、食事の一度や二度行っていてもなんらおかしくはないはずだった。
 であれば、どうしてこれまでそんなことがなかったのだろうか。そしてなぜこのタイミングで加藤さんは俺を食事に誘ってきたのか。
 疑問は尽きないが、ひとまず返事を送る。

『光栄です。是非ともよろしくお願いします』

 割と真面目なつもりだったが、加藤さんは、

『やめてくれ、なにかこうむず痒くなる』

 と言ってきたので、少し砕けた返しをする。

『それじゃあ、たらふく食べさせてください。期待しています』
『おう、任せとけ。でもあまり期待はするなよ』

 どっちなんすか、と軽くツッコミをいれつつも、早速日取りの擦り合わせを行っていく。
 一瞬、例の一件が頭をよぎるが、それは幻想だと言わんばかりに、加藤さんとの約束の日程はあっさりと決定したのだった。
 合う人とならば、こんなにもすんなりといくものなんだな。
 その後、詳細な時間などの諸々のことを確認しあって、メッセージのやりとりは終了した。
 気がつけば、すっかり日をまたぎ、就寝するにはいい頃合いとなっていた。
 スマホを閉じ、部屋の灯りを消して、ベッドに横たわる。そして俺は、先ほどのやりとりを思い返す。
 加藤さんと食事か。一体どんな感じになるんだろう。何とも言えない緊張感があるものの、なんだかんだと楽しみである。
 そこで、ふと思う。例の一件の時に抱いた感情やその反応と比べて、今回はあまりにも違いすぎるのではないかと。
 小野寺さんに対して、ふつふつと罪悪感がこみ上げてくる。一方で、あれは致し方のないことなのだと言い訳している自分もいる。
 どちらにしても、いつかその日が来ることに変わりはないのだから、出来るだけ早く気持ちの整理をしていろいろなことの覚悟を決めておこう。
 そんなことを決意して、俺はゆっくりと眠りについたのだった。

 そうしてそれからおよそ二週間が経ち、ついに加藤さんとの約束の日を迎える。
 台風が直撃することも空が雲に覆われることもなく、加藤さんからの中止連絡もなければ、自分自身が急用や急病に見舞われているわけでもない。どうやら今日は予定通り行われそうである。
 残暑を感じさせる陽の光にいくらかの嫌悪感を抱きながら、俺は自宅から歩いて十分弱の緑地へと向かう。そこの駐車場が今日の待ち合わせ場所となっていた。
 きっかり予定の五分前に到着し、辺りを見渡す。すると、ちょうどそのタイミングで一台の車がこの駐車場に入ってくるのが見えた。
 黒の軽四にナンバープレートのあの数字。加藤さんだ。
 俺はその車の方に向かって歩みを進める。それに気づいた加藤さんは、笑みを浮かべながら俺に助手席に座るよう促していた。
 一つ会釈をして、小走りになりながら加藤さんの車へ向かう。そうして助手席のドアを開け、挨拶をする。

「おはようございます」
「おう、おはよう。それじゃあ行こうか」

 加藤さんのその言葉に、はいと頷き車に乗り込む。
 こうして、加藤さんと過ごす一日が始まったのだった。
 ちなみに今日の予定は、昼食をとり、カラオケへ行き、そして夕食を食べて解散という流れになっている。始めは夕食だけの予定だったのだが、時間にも余裕があり折角の機会だからということで、他の行き先も加えられることになった。
果たして、どんな一日になるのだろうか。

 そんな思いの中、早速車内では音楽の話が繰り広げられていた。
 こういう時は大抵、互いに傾倒している音楽ジャンルについて話すことが多い。しかし今回は、カーオーディオから流れてくる楽曲が、加藤さん世代の往年のヒットソングということもあって、その年代の音楽の話に終始していたのだった。
 当然、自分はさして詳しいわけではなかったが、加藤さんの話から数多くの知識を得たり興味深いことを聞いたりすることができて、とても楽しく有意義な時間となった。質問にも答えてくれる加藤さんに、ただただ感謝である。

 やがて最初の目的地に到着する。そこは先ほどの緑地から車で二十分ほど走らせた場所にある隣町の焼肉店だった。肉の質や味の割にはお財布に優しいと評判で、加藤さんも月に一、二回ほどあまり人の混んでいない時間帯に来るのだそうだ。一方の自分はというと、存在自体は知っていたものの、時間や距離の問題で一度も来たことはなかった。
 どこか上品で高級そうな店構えに怖気づきながらも、店の中へと足を踏み入れる。
 すると外観だけでなく店内までも洗練されたデザインや装飾が施されており、高級店さながらの雰囲気を醸し出していた。
 本当にお財布に優しいのだろうかとやや疑心暗鬼になってくる。
 そんな中、フォーマルな格好をしている店員に四人席へと案内される。その際に店の中を軽く見まわすと、お昼時にはまだ早い時間であるにもかかわらず、もう客席の半分以上が埋まっていたのだった。それだけで人気店であることが十分に窺える。

 席に座り、お冷とおしぼりが用意され、メニューブックも一緒に置かれる。そして俺はそれを恐る恐る開く。そこに記されていたのは、高級店特有の値段の書かれていないメニューでもなく、洒落にならないほどの値段でもなく、一般チェーン店のものとそこまで大差のないメニューだった。

「ふうー」

 加藤さんに聞かれないよう小さく安堵の息をつく。
 雰囲気通りの高級店でなくて良かった。そんな場所での食事なんて、緊張してせっかくの料理を味わうことなんてできないだろう。それに、ここでの支払いが自分ではないとはいえ、あまりにも値が高すぎると気遣いが露骨になりかねない。
 いろいろと一安心したところで、改めてメニューを見返し、加藤さんの後に続いて気になったものや今食べたいものを注文していく。
 しばらくして、肉や野菜が続々とテーブルに運ばれてくる。それらは評判にあった通り、値段の割には少し質が良いように見えた。そして肝心の味はというと、

「んっ、すんごい美味い」

 こちらは価格設定大丈夫なのかと心配になるほどのおいしさだった。

「だろ?」

 加藤さんはそう言って得意げな表情を見せている。なぜだか分からないが、自分はそれがとても悔しい気持ちになってくる。
 こうなったら、気遣いリミッターを少し外して思う存分食べてやろうじゃないか。
そうして、いい意味で値段と見合わない肉や野菜をたっぷり堪能しつつ、また音楽の話が行われていくのだった。
 やがて息苦しさを感じるほどにお腹は膨らみ、時間としても丁度いい頃合いを迎える。そのため、お互いにそろそろと示し合わせて、次の目的地へと向かうことになった。
 機会があればまた絶対に来よう。
 そう思いながら店を出て、加藤さんの車に乗り込む。

「よし、それじゃあ出すぞー」

 加藤さんの掛け声ののち、次の行き先に向けて車がゆっくりと動き出していく。
それからしばらく経ったころ、相も変わらず音楽話が繰り広げられていた時だった。加藤さんはふと思い出したかのように、運転席と助手席の間にあるコンソールボックスを指さして言う。

「ここ、開けてみな」

 一体何だろう。そう思いながらも言われた通りにする。するとその中には十六枚のCDと七本のカセットテープが、それぞれのケースに入った状態でびっしりと詰められていた。

「これ、なんですか?」

 やや驚嘆しながら加藤さんに尋ねる。その問いかけに加藤さんは、『マイベスト』であると答えてくれる。
 マイベスト。自身のお気に入りの楽曲をカセットテープやMD、CDなどに収めたもの。
 自分たちの世代ではスマホやDAPなどのプレイリスト機能が主流となっている昨今、こういった形のものを目にする機会は随分と減ったように思う。カセットテープに至っては存在自体知らない人もいるのではないだろうか。かく言う自分も幼いころに実家で見た以来である。
 それでもなぜだろう。カセットテープには特に何の思い入れもないというのに、黒電話を初めて生で見たときのような興奮を覚えるのは。そしてCDも含め、それらには一体何が詰まっているのか、とても興味が湧いてくる。
 加藤さんの了承を得て、運転の邪魔にならないよう気を付けながら中を物色していく。
 まずはカセットテープを手に取りノスタルジーを感じる。そして次に、それらに収録されている楽曲リストを見て、驚きや納得など一曲一曲に様々な感情を抱く。
 これだけの要素があれば、音楽話にまた火が付くのは至極当然のことである。
 そんな中、車はついにカラオケ店に到着する。そこで自分たちのボルテージは最高潮を迎えるのだった。

 いの一番に互いに知っている曲を目配せしながらデュエットし、それ以降は十八番やカーオーディオで流れていた曲、あるいは各々が歌いたいと思った曲を熱唱していく。たまにフライドポテトをつまみながらくだらない雑談をしたり、そしてまたデュエットしたり。それはもう、昼食の余分なカロリーが全消費するほどの盛り上がり様となった。

 こんな楽しい時間がずっと続けばいいのに。

 そう思えるほどに、とても充実した時間が流れていたのだった。しかし、そんなときほど時間はあっという間に過ぎ去っていくのである。気が付いたころには、すっかりと日は沈み、丁度夕食時を迎えていた。
 もうすぐ今日が終わってしまう。
 その事実に寂しさと残念な気持ちを抱きながらも、車は本日最後の目的地へと走り出していく。

 およそニ十分が経ったころだろうか。あれだけ歌って喋り倒したというのに未だくだらない話で盛り上がっていると、車は少し混み気味の大通りから閑静な脇道へと入り、一軒のお店に到着する。そこは所謂街の定食屋さんのようだった。

「わりぃな、どこにでもあるような飯屋で」

 加藤さんがやや申し訳なさそうに言う。それに自分は冗談めかして答える。

「いえいえ、むしろ回らない寿司屋じゃなくてホッとしてますよ」
「ならよかった」

 そう言って加藤さんは一笑すると、常連であるかのような雰囲気で店の中へと入っていく。一方の自分は少しだけ慎重になりながら加藤さんの後に続く。

「いらっしゃい、あら、これは珍しい。どうしたんだい、その若い子?」

 声の聞こえた方に視線を向ける。そこには齢七十ぐらいの、恐らくこの店の女将さんであろう人がこちらをまじまじと見ていた。俺はそれに若干の居心地の悪さを感じていると、
 加藤さんが女将さんの問いに照れながら答える。

「まあ、なんだ、仕事先で出来た友達みたいなもんだ」

 すると女将さんはニッコリとした笑みを浮かべ、

「あらあらあらあら」

 と言って裏へと下がっていた。
 なんだか自分まで恥ずかしくなってくる。さらに、改めて加藤さんに友達と言われると、嬉しいようなむず痒いような何とも言えない感情に襲われる。
 そんな中、今度は店の奥にいる常連客らしき集団の中から複数の声が上がる。

「貴ちゃんの照れた姿が見られるなんてなー」
「ほんと面白いものが見れた」
「明日は雪でも降るんじゃないのか?」

 集団にいる人たちは口々にそう言って、にやりと笑んでいる。

「おめぇら、ちょっとうるせぇぞ」

 加藤さんは少しばかり語気を強めながら言う。それに集団はゲラゲラと笑い、加藤さんはもう好きにしろと言わんばかりにため息をついていた。
 たったそれだけのやりとりで、両者はとても慣れ親しんだ関係であることが窺える。
 きっとこれが加藤さんのもう一つの日常なのだろうな。
 そんなことを考えていると、お冷を持ってきた女将さんに席に座るよう促され、近くの二人席に腰を下ろすことになった。

「それじゃあ注文が決まったら、そのボタンを押してね」

 女将さんはそう言って、他のテーブルの片づけを行っていく。丁度そのタイミングで、加藤さんは俺に詫びの言葉をかけてくる。

「すまないな、けっこう騒がしくて」

 確かにとても騒がしい。だが、少なくとも今は決して嫌な気分ではなかった。加藤さん達が赤の他人だったら、話は変わってくるかもしれないが。
 そんな余計なことは言わずに、加藤さんには何も問題ないと伝える。そしてメニューを手に取りながら、それとなしに少しだけ突っ込んだ質問をする。

「ここにはよく来るんですか?」

 加藤さんはもう何を頼むか決まっているようで、メニューに触れることなく、俺の質問に答える。

「ああ、週に何度か。仕事前とか、たまの休日なんかに来るかな。そうやって何度も通い詰めているうちに、さっきのザマだ」

 そう言って苦笑いする加藤さん。だが満更でもなさそうである。そんな様子の加藤さんを見てこれ以上聞くのは野暮だと思った俺は、話題を変えるためにも早々にメニューを決めて呼び出しボタンを押す。すると今度は女将さんではなく、他の女性店員がやってくる。

「ご注文をお伺いいたします」

 その言葉の後、自分は唐揚げ定食を加藤さんは生姜焼き定食を注文する。

「かしこまりました。少々お待ちください」

 そうして店員は厨房があるのであろう裏へと下がっていく。一方の自分たちは、またもや音楽の話とくだらない話を繰り広げるのであった。
 やがて注文したメニューが二人同時に届く。

「いただきます」

 早速、からあげを食す。

「うん、すごく美味い」

 外はカリサク、中はしつこさのないジューシーさ。味は醤油ベースで若干強めの生姜とニンニクが特徴だろうか。正直、万人に受け入れられる絶品とまでは言えなかったが、それでもやや癖になる味ではある。個人的に加藤さんが通い詰める気持ちが良く分かる、そんな唐揚げだった。
 焼肉店同様、ここにもまた来よう。
 そんな決意を早々にして、からあげ定食をガツガツと食べていく。
それから数十分が経ち、食後の休憩時間も十分に取れたところで、店を出る準備をして女将さんや常連の人らに挨拶をしていく。
 その際、

「またおいで」

 という言葉を全員から掛けられる。
 こういった時は大抵、社交辞令であると自分は認識しているが、この場でのその言葉は、皆本心から言ってくれているように感じられた。それがどこまで信用できるかは分からないが、少なくとも歓迎されていないということはなさそうであるため、素直に安堵感がこみ上げてくる。そして、この店がとても温かい空間であることを強く認識したのだった。
 きっと加藤さんも、味はもちろんのこと、この温かみも含めて足繁くここへ通うようになったのだろうな。
 ほどなくして、女将さんや店員たちの挨拶を背に受けながら店を出ていく。

 そこで俺はふと思う。とうとう今日が終わりを迎えるのだと。
 振り返ってみれば、ずっと喋りっぱなしの一日だった。そんな中で、焼肉や唐揚げを食べたり、カラオケで柄にもなくバカ騒ぎをしたり、本当に楽しくて、とても充実した時間となった。それだけに今、名残惜しい気持ちが胸に去来しているが。
 ともかく加藤さんにお礼を言わないといけないな。
 そんなことを思いながら、車の中へと乗り込む。するとそこで加藤さんが言う。

「なあ、タナ。もう一か所だけ寄りたいところがあるんだが、構わないか?」

 俺は思わず息をのむ。というのも、先ほどまで愉快気だった加藤さんの雰囲気になぜかほんの少しだけ負の感情が乗っかっているように感じられたからだ。たったそれだけのことだが、自分としてはなにか嫌な予感がしてならない。
 それでも俺は、そこに行かなければいけないような気がして、そしてそれが今日の『本題』であるような気がしたため、加藤さんには了承の言葉を返した。それに加藤さんは、やや穏やかな表情で「ありがとう」とひとこと言って車を走らせたのだった。
 やはり、なにかあるようだ。
 若干のぎこちない空気が漂いながらも、車内ではまた愉快な会話が行われていく。
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