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文字数 7,609文字
「お会計1250円です」
「おもちゃはCとDのどちらにされますか?」
「商品どれぐらいで上がりそう?」
「今上がります」
「画面のご注文でお間違いなければ次の窓口までお進みください」
新メニューが発売されてから数日後、一週間の中で最も忙しい時間帯を迎えていた。家族連れや休日の学生など、数多くのお客が来店する日曜の正午だ。これはもうファストフード店の宿命のようなものだろう。そして今回は桁外れの新メニューブーストの影響で、いつもより三十分早く混雑が始まり、それから一時間半が経過した今現在も、人と車の列がとどまることを知らない。県内有数の繁忙店は殺人的な忙しさに見舞われていたのだった。
きっと経営側はウハウハなのだろうな。
そんな恨み節を心の中で呟きつつ、次から次へとドライブスルーのオーダーを受け、ドリンクを作っていく。
ある瞬間に、ふと思う。
今日だけでこの作業を何度繰り返しているのだろうか、あと何度繰り返せば終わりを迎えるのだろうか、と。そして、もういっそのこと手を止めてしまえばいいじゃないか、そうすればこれ以上しんどい思いをしなくても済む、とも。
だが。
周りの様子を窺う。皆一様に疲弊しきっているものの、これを絶対に乗り切るんだと必死に手を、体を動かしていた。
精神論はあまり好きではないが、集団の輪を乱す行為はそれ以上に大嫌いだった。
「大変お待たせ致しました、ご注文をお伺いいたします」
自分を少し鼓舞するように、いつもよりやや明るめの声でオーダーを取り始める。半ば無理やりではあるが、これさえ乗り切れば少しは楽になれる、そうポジティブに考えて、後は無心で仕事を消化していった。
午後一時半を過ぎようかというころ、ようやくピークの終わりが見えてきた。他の従業員も終わりが近いことを察しているようで、ちょっとした余裕からか、事務的な問答だけでなく、軽い会話も聞こえるようになっていった。
近くにいた四十代の女性パート従業員が作業を進めながら口を開く。
「まさかここまで忙しくなるとはねぇ……」
やはり声と表情に疲れの色が見える。
「ほんとですよー! やってもやっても終わらないとか、もうどんだけなんですか!」
次にギャルっぽい女子高生がそう不満を漏らす。
「まあ、売れないよりかは全然いいでしょ」
今度は気だるそうにしている高身長の男が、やれやれと言わんばかりに女子高生をなだめようとする。しかし、その子は癇に障ったのかムッとした顔になって言う。
「そりゃそうですけど……ていうか、試食の時に『これは売れない』って言ってた人に諭されたくないんですけど」
「なっ、ん、あ、あれは!」
痛いところを突かれた彼は一瞬のうちに取り乱し、口をもごもごとさせている。それと同時に周りからはクスクスという笑い声が聞こえてくる。そして自分も口元をゆるませていた。
当然のことだが、今も尚それぞれが作業中で、お客の目や耳が届かないところで、このやりとりは行われている。さすがに仕事もせず客前で談笑なんてしていたら、クレームの電話が大変なことになってしまう。
しばらく口ごもっていた彼は咄嗟の言い訳を思いついたようで、ようやく口を開く。
「いや、俺は『これは売れない』じゃなくて、『この上ない』って言ったの。この上ない、つまり、これ以上美味しい物はない、最上のものであると、そう言ったの!」
彼は勝ち誇ったようなドヤ顔で言う。一方の女の子は無の顔で男の方を見ている。また、周りからはクスクスという笑い声が聞こえてくる。しかし今は誰も口出しをしない。『痴話喧嘩』の行く末を見守っているのだ。
やがて彼は彼女の表情や無言であることに動揺し、あたふたし始める。一方の彼女は呆れまじりのため息を一つすると、口をとがらせて彼に言う。
「もっとマシな言い訳はなかったんですか?」
「あちゃーバレてたかぁ……?」
バツの悪そうな顔をする彼。そんな彼に対して、彼女は少し食い気味に答える。
「バレバレですよ!」
「でも、咄嗟に出てきた割には結構よかったでしょ?」
またもドヤ顔になる彼。
ダメだこりゃ、とため息をついて頭を抱える彼女。
一笑する周囲の従業員たち。
いつも以上に忙しくとも、それ以外は相変わらずの雰囲気でなぜかホッとしたような気持ちになっていた。
と、そこでパン、パンと手を鳴らす音が聞こえる。
「はいはい、じゃあ痴話喧嘩もそこまでにして、あともう少し頑張るわよ」
三十代の女性従業員が笑顔で活を入れる。
「ち、痴話喧嘩なんかじゃないですよぉ!」
「そういうんじゃないですってばぁ……」
彼女の方は強く、彼の方は穏やかに否定する。
他の従業員たちは二人を優しく見守りながらも、女性従業員の言葉に「はーい」と答え各々の作業を続ける。やがて二人も、釈然としないながらも作業に戻っていく。
これもまた、いつもの光景だった。もちろん全員が全員、仲が良くて和気あいあいとしているわけではなかったが、いがみ合いやトラブルが起こることは滅多になかった。明確な理由は分からないが、繁忙店のスタッフであるが故に、余計ないざこざを起こしたくない、あるいは起こされたくないと思っているのかもしれない。とはいえ、そもそもこの店のスタッフは皆いい人ばかりではあるし、職場の雰囲気が悪くないということも大きな要因なのだろうが。
かくいう自分は、前者が理由で仲のいい加藤さんやお世話なっている一瀬さんでさえも、一線を引いてやや後ろに下がってからコミュニケーションをとっていた。それだけならともかく、人と話すことが別に嫌いなわけでもないため、自分は本当にややこしい性格をしていると思う。
午後二時を回ったころ、とても長かったピークが一応の終息を迎える。すると徐々にスタッフの間にはリラックスムードが流れ始め、安堵している人や達成感を感じている人など、それぞれが様々な表情を見せていた。そして自分はというと異様な緊張感から解放されたからか、さっきから何度も欠伸を噛み殺している。しかし、まだ客足が途絶えたわけではないため、あまり油断はできない。新メニューの力、恐るべし。
それからおよそ二時間が経過すると、ピーク時の慌ただしさなどなかったかのような、ゆったりとした時間が流れていた。
空いた時間に資材の補充をしていると、
「田辺くん、中抜けだね」
と、シフトマネージャーから指示をされ、作業を終えてからその場を後にした。
そしてスタッフルームへの道すがら、
「おっと……」
軽い眩暈がしたため、近くの壁に寄りかかる。
さすがに今日の疲労度はいつもとは違う。しかも、連日の多忙と蒸し暑さだ。これでよく、自分も他のスタッフも倒れなかったなと本当に思う。
幸いにも十数秒で症状が回復するほどのものだったが、念のため家に帰ってから次の時間まで出来る限り体を休めよう。もし仮に倒れでもして、いろいろと迷惑をかけてしまったらこの上なく厄介で面倒だ。そういうことはなんとしても避けたい。
改めて気をつけていかないとな。
そう思いながらスタッフルームの扉に手をかける。すると中から、いつもよりも少し真面目なトーンで話す一瀬さんの声が聞こえてくる。
なにかやっているのだろうか?
そっとドアを開いて中を確認する。そこには見知らぬ人が三人、机の前に並んで座っていた。死角になって見えないが、おそらくその三人の向かい側に一瀬さんがいるのだろう。
それにしてもこの感じ、なんとなく覚えがある。確認のため、中で行われているやりとりにじっと耳を澄ます。
「じゃあ、次のページ。ここには衛生面のことについて書かれています。当然だけど、飲食店である以上は、そういったところにとても気を遣ってもらわなければいけませんーー」
その後も一瀬さんの声は続いていく。
さすがに、ここまでくれば確信が持てる。新入アルバイトへのオリエンテーションだ。採用後、初勤務の日までに行われ、お店の概要や注意事項、簡単なマニュアルなどの説明を一時間ほど受ける。当然自分も覚えがあるが、これまでこういった場面に遭遇したことがなかったため、なにが行われているのかすぐには思い出せなかった。
ともかく邪魔にならないようにだけ気を付けて中へと入り、声を落として挨拶をする。それに対して一瀬さんはきちんと挨拶を返してくれて、そしてすぐに何事もなかったかのように説明を再開させていた。
例の三人はというと、一瀬さんの言葉に耳を傾けながらも意識がややこちらに向いているようだった。
まあ、それもそうか。これから働く職場にどんな人がいるのか、きっと老若男女問わず多くの人が気になるところであろう。多少の品定めが行われるのも致し方がないこと。思えば自分も、今ではマシになったが、当時は随分と神経をとがらせていたものだ。
そんなことを思い返しながら、自分の荷物を取ろうとロッカーに手を伸ばした瞬間だった。
「ん……!?」
微かに、いや、はっきりとした『なにか』を背後に感じ、ぱっと後ろを振り返る。しかしその時には、すでにそれは消失しており、出所を探るのは不可能となっていた。
気のせいなのか?
とにもかくにもずっとこうしていれば一瀬さんや他の三人に変な目で見られかねないため、さっと荷物を取り更衣室へと入っていく。
「ふぅー」
ただでさえ疲労困憊の身だというのに、そこへよく分からない出来事が起こってくると、もう気がふれてしまいそうだ。
一度深いため息をつき、やれやれと思いながら着替えを始める。
それにしても、さっきの感覚は一体何だったんだろうか。
心霊現象?
さすがにそれはないか。
それじゃあ、やっぱり気のせい?
いや、あの感覚が思い過ごしだとは到底思えない。となると、あの場にいる四人のうちの誰かが俺に対して得体の知れない『なにか』を発していたことになる。いや、これまで経験したことのないものだったから、一瀬さんである可能性は限りなく低いだろうか。さすれば、新人のあの三人に絞られる。
少なくとも悪意のようなものは感じられなかったため、あまり気にする必要はないのかもしれない。だが、喉に魚の小骨が刺さっているかのような、なんとも言えない違和感と気持ち悪さがあって簡単に無視することは出来なかった。
一体だれが? そしてなぜ?
と、そのときコロンと床になにかが落ちる。そっとそれを拾い上げてみると、それは仕事着のボタンだった。素早く自分のものを確認する。悲しきかな、第二ボタンが取れてしまっていた。
次から次に面倒ごとが……。
「はあ」
またため息が漏れる中、重い手つきで着替えを済ませて、更衣室を出る。
オリエンテーションは変わらず続いているため、進行の邪魔にならないように身支度を整えていく。その際、気づかれないようにちらと三人の様子をうかがう。男性が一人と女性が二人。いずれも歳は若く、高校生か大学生ぐらいに見えるだろうか。恐らく面識はないはずだ。となると、先ほどの感覚はなんだったのかとますます疑問が深まってくる。その挙句、この中の誰かのトレーナーを務めることになるかもしれないのだから、重すぎるほど気は重い。
やはり、トレーナーはやりたくないな。
そんな思いを抱いていると、オリエンテーションが一時中断され、小休憩に入ろうとしていた。
さて、そろそろ帰るか。
「お疲れさまでした」
荷物を持って、ドアノブに手をかける。次の瞬間。
「んっ……!?」
また、あの感覚が背後を襲う。しかも今度はうんと濃密なものだった。すかさず後ろを振り返る。だが、やはりその正体は掴めない。
一体、なんなんだ。
「田辺くん、どうかした?」
今の行動を見れば、誰だって訝しむだろう。一瀬さんが不思議そうにこちらを見ている。一瞬、一瀬さんにすべてを話そうかとも思ったが、なぜだかもう一人の自分が、
「それはやってはいけない」
と言っているような気がして、結局、咄嗟の言い訳に頼ることとなった。
「あ、い、いえ、なにか忘れ物があったような気がして……でも気のせいだったようです。すみません」
まいったな、というように笑顔を取り繕う。我ながら下手な言い訳だと思ったが、致し方ない。しかし一瀬さんは、俺の言葉に疑問を持つことなく、いつものように柔和な笑みを浮かべて言う。
「そうだったのね。気にしないで」
なぜだか、一瀬さんに申し訳なくなってくる。
あれ? もしかして、あの『なにか』を放っていたのは、この人なのか? だから、俺の下手な言い訳に不審がることもなく……。なんて、さっきのあれで少し疑心暗鬼になっているな。
ふう、と一つ息をつき、今度こそと挨拶をしようとする。だが、その前に一瀬さんが思い出したかのように口を開く。
「あ、そうだ。もうしばらくしたら雨が降るみたいだから、この後の生き帰り、気を付けてね」
こうやって一瀬さんは天気予報をチェックしては従業員に情報提供をしてくれている。
通称、いちのせ天気予報。高的中率で有名な某サイトの情報をもとに、一瀬さんなりの解釈と勘が加えられているらしく、そのサイトを上回る的中率を誇っていた。
そんな一瀬さんが言うのだから、色々と用心しておこう。
「あ、はい、わかりました、ありがとうございます」
そう言って、三度目の正直だと思って挨拶をする。
「お疲れさまでした」
まず一瀬さんの声が、そしてやや遅れて今度はあの三人からも声が返ってきた。その声には戸惑いが乗っている。
この店のルールをあまりよくわかっていなかったころ、自分もこんなだったな。
少し遠い目をしながら、扉に向き直ろうとしたその時だった。
一番奥にいた女の子が、こちらをじっと見ている姿が視界に入った。そして一瞬だけ目が合ったかと思うと、それに気づいた彼女は慌てて視線を外し、机の上に置かれている資料に目を向けたのだった。
それだけなら、単に人見知りで少し警戒しているのかな、とそこまで気にすることはなかったのかもしれない。だが、その子の瞳が濡れていたのだ。そしてとても悲しそうな表情をしていたのだ。さすがにそれで、気にしない、というのには無理がある。
俺は、彼女になにかしたのだろうか?
とはいえ、もう二人の新人同様、面識は全くないはずだ。
だったらなぜ彼女は悲しげな顔で涙をこぼしていたのだろうか。
脳裏に焼き付いた彼女の様子に疑問を抱きつつ、スタッフルームを後にした。
外へ出れば相変わらずの蒸し暑い空気が身体を包み込み、不快指数が急上昇する。
ふと空を見上げると、陽が照っていた西側を中心に雲が張り出しており、雨が降り始めるのも時間の問題のように思えた。
自転車に乗り、帰路につく。頭の中では、やはり先ほどのことが思い浮かんでいた。
なにもかもが気がかりだ。おそらく、あの得体のしれない『なにか』も彼女が発したものなのであろう。一連の流れから、彼女以外の人とは考えられない。だが、改めて彼女と面識があるか懸命に記憶を辿ってみるも、結果が変わることはなかった。
次会ったときに彼女に直接聞いてみようか? いや、ダメだ、それはなにか危険な気がしてならない。それに、チキンである自分には到底出来そうにないことでもある。
もうこうなったら、煮え切らないままではあるが、知らん振りするのが一番いいのかもしれない。知らぬが仏、ということわざもあるのだ。きっとそれが一番いい。それに、もし彼女が俺のことを知っているのであれば、彼女の方からなにか接触を図ってくることだろう。その時まで待てばいいのだ。というより、待つしかない。
そう無理やり結論を出して、自宅へと帰っていく。
その後、一瀬さんの予報通り雨が降り始めた。それはひと眠りした後も続いていた。
睡眠をとったことで幾分かの英気を養うことができた俺は、合羽を着て、店へと向かい、仕事に入る。そのころにはもうあの三人の姿はなく、一瀬さんもいつも通り接客に入っていた。どうやらオリエンテーションは滞りなく終了し、件の彼女もあれ以降特になにもなかったようだ。
ホッとした気持ちになりながらも、ある疑問が頭に浮かぶ。
一瀬さんの様子を窺うに、恐らく今回の出来事について感知していないように見える。どうしてだろうか。察しのいい一瀬さんなら、すぐに気づいていそうなものなのだが。
たまたま? それとも、あの子が上手く誤魔化したから?
って、もう知らん振りすると決めたのだから、これ以上考えても仕方ないか。まったく今日はいろんなことを考えてばかりだ。ただでさえ疲労感でやられているというのに、脳と精神の体力まで削られてはさすがにもたない。
そう思っていたが、幸いなことに日中とてつもなく盛況していたからか、夜帯は想像していたよりもそこまで多忙とはならなかった。ある程度の覚悟をしていただけに、ややあっけなさはあったが、随分と気は楽だった。
それから勤務時間終了まで大した混雑はなく、平穏な時間が続くと思われた。が、そう上手くいかないものだと、退勤間際に痛感させられる。
退勤まであと十分、もう少しで長い長い一日が終わると欠伸を噛み殺していたころだった。一時間ほど前からスタッフルームで作業をしていた一瀬さんが、どこか浮かない表情をしてカウンターへと戻ってきた。
なにかトラブルでもあったのだろうか?
そう思ってからまもなく、一瀬さんは意を決したかのように俺の名前を呼ぶ。
「田辺くん」
「はい」
そして、宣告にも等しい問いを投げかけてくる。
「来週末ごろから、新人のトレーナーを受け持ってもらおうと思っているんだけど、出来そう?」
ああ、やはりその時がやってきたのだな。
なに、きっと誰もが通る道なのだから仕方がない。
でも、上手くやれるのだろうか?
そんな不安感を抱えながらも、一瀬さんには肯定という答えを返す。
「そう、よかったわ。詳しいことはまた説明するけど、聞きたいことがあったらいつでも聞いてね」
ホッと胸を撫で下ろして言う一瀬さん。しかし、その声は遠くの方から聞こえてくるように感じられた。
上の空で返事をすると、そのまま退勤時間となりスタッフルームへと向かう。
腹の底ではやっぱり無理だという自分が必死に抵抗を見せていた。
「おもちゃはCとDのどちらにされますか?」
「商品どれぐらいで上がりそう?」
「今上がります」
「画面のご注文でお間違いなければ次の窓口までお進みください」
新メニューが発売されてから数日後、一週間の中で最も忙しい時間帯を迎えていた。家族連れや休日の学生など、数多くのお客が来店する日曜の正午だ。これはもうファストフード店の宿命のようなものだろう。そして今回は桁外れの新メニューブーストの影響で、いつもより三十分早く混雑が始まり、それから一時間半が経過した今現在も、人と車の列がとどまることを知らない。県内有数の繁忙店は殺人的な忙しさに見舞われていたのだった。
きっと経営側はウハウハなのだろうな。
そんな恨み節を心の中で呟きつつ、次から次へとドライブスルーのオーダーを受け、ドリンクを作っていく。
ある瞬間に、ふと思う。
今日だけでこの作業を何度繰り返しているのだろうか、あと何度繰り返せば終わりを迎えるのだろうか、と。そして、もういっそのこと手を止めてしまえばいいじゃないか、そうすればこれ以上しんどい思いをしなくても済む、とも。
だが。
周りの様子を窺う。皆一様に疲弊しきっているものの、これを絶対に乗り切るんだと必死に手を、体を動かしていた。
精神論はあまり好きではないが、集団の輪を乱す行為はそれ以上に大嫌いだった。
「大変お待たせ致しました、ご注文をお伺いいたします」
自分を少し鼓舞するように、いつもよりやや明るめの声でオーダーを取り始める。半ば無理やりではあるが、これさえ乗り切れば少しは楽になれる、そうポジティブに考えて、後は無心で仕事を消化していった。
午後一時半を過ぎようかというころ、ようやくピークの終わりが見えてきた。他の従業員も終わりが近いことを察しているようで、ちょっとした余裕からか、事務的な問答だけでなく、軽い会話も聞こえるようになっていった。
近くにいた四十代の女性パート従業員が作業を進めながら口を開く。
「まさかここまで忙しくなるとはねぇ……」
やはり声と表情に疲れの色が見える。
「ほんとですよー! やってもやっても終わらないとか、もうどんだけなんですか!」
次にギャルっぽい女子高生がそう不満を漏らす。
「まあ、売れないよりかは全然いいでしょ」
今度は気だるそうにしている高身長の男が、やれやれと言わんばかりに女子高生をなだめようとする。しかし、その子は癇に障ったのかムッとした顔になって言う。
「そりゃそうですけど……ていうか、試食の時に『これは売れない』って言ってた人に諭されたくないんですけど」
「なっ、ん、あ、あれは!」
痛いところを突かれた彼は一瞬のうちに取り乱し、口をもごもごとさせている。それと同時に周りからはクスクスという笑い声が聞こえてくる。そして自分も口元をゆるませていた。
当然のことだが、今も尚それぞれが作業中で、お客の目や耳が届かないところで、このやりとりは行われている。さすがに仕事もせず客前で談笑なんてしていたら、クレームの電話が大変なことになってしまう。
しばらく口ごもっていた彼は咄嗟の言い訳を思いついたようで、ようやく口を開く。
「いや、俺は『これは売れない』じゃなくて、『この上ない』って言ったの。この上ない、つまり、これ以上美味しい物はない、最上のものであると、そう言ったの!」
彼は勝ち誇ったようなドヤ顔で言う。一方の女の子は無の顔で男の方を見ている。また、周りからはクスクスという笑い声が聞こえてくる。しかし今は誰も口出しをしない。『痴話喧嘩』の行く末を見守っているのだ。
やがて彼は彼女の表情や無言であることに動揺し、あたふたし始める。一方の彼女は呆れまじりのため息を一つすると、口をとがらせて彼に言う。
「もっとマシな言い訳はなかったんですか?」
「あちゃーバレてたかぁ……?」
バツの悪そうな顔をする彼。そんな彼に対して、彼女は少し食い気味に答える。
「バレバレですよ!」
「でも、咄嗟に出てきた割には結構よかったでしょ?」
またもドヤ顔になる彼。
ダメだこりゃ、とため息をついて頭を抱える彼女。
一笑する周囲の従業員たち。
いつも以上に忙しくとも、それ以外は相変わらずの雰囲気でなぜかホッとしたような気持ちになっていた。
と、そこでパン、パンと手を鳴らす音が聞こえる。
「はいはい、じゃあ痴話喧嘩もそこまでにして、あともう少し頑張るわよ」
三十代の女性従業員が笑顔で活を入れる。
「ち、痴話喧嘩なんかじゃないですよぉ!」
「そういうんじゃないですってばぁ……」
彼女の方は強く、彼の方は穏やかに否定する。
他の従業員たちは二人を優しく見守りながらも、女性従業員の言葉に「はーい」と答え各々の作業を続ける。やがて二人も、釈然としないながらも作業に戻っていく。
これもまた、いつもの光景だった。もちろん全員が全員、仲が良くて和気あいあいとしているわけではなかったが、いがみ合いやトラブルが起こることは滅多になかった。明確な理由は分からないが、繁忙店のスタッフであるが故に、余計ないざこざを起こしたくない、あるいは起こされたくないと思っているのかもしれない。とはいえ、そもそもこの店のスタッフは皆いい人ばかりではあるし、職場の雰囲気が悪くないということも大きな要因なのだろうが。
かくいう自分は、前者が理由で仲のいい加藤さんやお世話なっている一瀬さんでさえも、一線を引いてやや後ろに下がってからコミュニケーションをとっていた。それだけならともかく、人と話すことが別に嫌いなわけでもないため、自分は本当にややこしい性格をしていると思う。
午後二時を回ったころ、とても長かったピークが一応の終息を迎える。すると徐々にスタッフの間にはリラックスムードが流れ始め、安堵している人や達成感を感じている人など、それぞれが様々な表情を見せていた。そして自分はというと異様な緊張感から解放されたからか、さっきから何度も欠伸を噛み殺している。しかし、まだ客足が途絶えたわけではないため、あまり油断はできない。新メニューの力、恐るべし。
それからおよそ二時間が経過すると、ピーク時の慌ただしさなどなかったかのような、ゆったりとした時間が流れていた。
空いた時間に資材の補充をしていると、
「田辺くん、中抜けだね」
と、シフトマネージャーから指示をされ、作業を終えてからその場を後にした。
そしてスタッフルームへの道すがら、
「おっと……」
軽い眩暈がしたため、近くの壁に寄りかかる。
さすがに今日の疲労度はいつもとは違う。しかも、連日の多忙と蒸し暑さだ。これでよく、自分も他のスタッフも倒れなかったなと本当に思う。
幸いにも十数秒で症状が回復するほどのものだったが、念のため家に帰ってから次の時間まで出来る限り体を休めよう。もし仮に倒れでもして、いろいろと迷惑をかけてしまったらこの上なく厄介で面倒だ。そういうことはなんとしても避けたい。
改めて気をつけていかないとな。
そう思いながらスタッフルームの扉に手をかける。すると中から、いつもよりも少し真面目なトーンで話す一瀬さんの声が聞こえてくる。
なにかやっているのだろうか?
そっとドアを開いて中を確認する。そこには見知らぬ人が三人、机の前に並んで座っていた。死角になって見えないが、おそらくその三人の向かい側に一瀬さんがいるのだろう。
それにしてもこの感じ、なんとなく覚えがある。確認のため、中で行われているやりとりにじっと耳を澄ます。
「じゃあ、次のページ。ここには衛生面のことについて書かれています。当然だけど、飲食店である以上は、そういったところにとても気を遣ってもらわなければいけませんーー」
その後も一瀬さんの声は続いていく。
さすがに、ここまでくれば確信が持てる。新入アルバイトへのオリエンテーションだ。採用後、初勤務の日までに行われ、お店の概要や注意事項、簡単なマニュアルなどの説明を一時間ほど受ける。当然自分も覚えがあるが、これまでこういった場面に遭遇したことがなかったため、なにが行われているのかすぐには思い出せなかった。
ともかく邪魔にならないようにだけ気を付けて中へと入り、声を落として挨拶をする。それに対して一瀬さんはきちんと挨拶を返してくれて、そしてすぐに何事もなかったかのように説明を再開させていた。
例の三人はというと、一瀬さんの言葉に耳を傾けながらも意識がややこちらに向いているようだった。
まあ、それもそうか。これから働く職場にどんな人がいるのか、きっと老若男女問わず多くの人が気になるところであろう。多少の品定めが行われるのも致し方がないこと。思えば自分も、今ではマシになったが、当時は随分と神経をとがらせていたものだ。
そんなことを思い返しながら、自分の荷物を取ろうとロッカーに手を伸ばした瞬間だった。
「ん……!?」
微かに、いや、はっきりとした『なにか』を背後に感じ、ぱっと後ろを振り返る。しかしその時には、すでにそれは消失しており、出所を探るのは不可能となっていた。
気のせいなのか?
とにもかくにもずっとこうしていれば一瀬さんや他の三人に変な目で見られかねないため、さっと荷物を取り更衣室へと入っていく。
「ふぅー」
ただでさえ疲労困憊の身だというのに、そこへよく分からない出来事が起こってくると、もう気がふれてしまいそうだ。
一度深いため息をつき、やれやれと思いながら着替えを始める。
それにしても、さっきの感覚は一体何だったんだろうか。
心霊現象?
さすがにそれはないか。
それじゃあ、やっぱり気のせい?
いや、あの感覚が思い過ごしだとは到底思えない。となると、あの場にいる四人のうちの誰かが俺に対して得体の知れない『なにか』を発していたことになる。いや、これまで経験したことのないものだったから、一瀬さんである可能性は限りなく低いだろうか。さすれば、新人のあの三人に絞られる。
少なくとも悪意のようなものは感じられなかったため、あまり気にする必要はないのかもしれない。だが、喉に魚の小骨が刺さっているかのような、なんとも言えない違和感と気持ち悪さがあって簡単に無視することは出来なかった。
一体だれが? そしてなぜ?
と、そのときコロンと床になにかが落ちる。そっとそれを拾い上げてみると、それは仕事着のボタンだった。素早く自分のものを確認する。悲しきかな、第二ボタンが取れてしまっていた。
次から次に面倒ごとが……。
「はあ」
またため息が漏れる中、重い手つきで着替えを済ませて、更衣室を出る。
オリエンテーションは変わらず続いているため、進行の邪魔にならないように身支度を整えていく。その際、気づかれないようにちらと三人の様子をうかがう。男性が一人と女性が二人。いずれも歳は若く、高校生か大学生ぐらいに見えるだろうか。恐らく面識はないはずだ。となると、先ほどの感覚はなんだったのかとますます疑問が深まってくる。その挙句、この中の誰かのトレーナーを務めることになるかもしれないのだから、重すぎるほど気は重い。
やはり、トレーナーはやりたくないな。
そんな思いを抱いていると、オリエンテーションが一時中断され、小休憩に入ろうとしていた。
さて、そろそろ帰るか。
「お疲れさまでした」
荷物を持って、ドアノブに手をかける。次の瞬間。
「んっ……!?」
また、あの感覚が背後を襲う。しかも今度はうんと濃密なものだった。すかさず後ろを振り返る。だが、やはりその正体は掴めない。
一体、なんなんだ。
「田辺くん、どうかした?」
今の行動を見れば、誰だって訝しむだろう。一瀬さんが不思議そうにこちらを見ている。一瞬、一瀬さんにすべてを話そうかとも思ったが、なぜだかもう一人の自分が、
「それはやってはいけない」
と言っているような気がして、結局、咄嗟の言い訳に頼ることとなった。
「あ、い、いえ、なにか忘れ物があったような気がして……でも気のせいだったようです。すみません」
まいったな、というように笑顔を取り繕う。我ながら下手な言い訳だと思ったが、致し方ない。しかし一瀬さんは、俺の言葉に疑問を持つことなく、いつものように柔和な笑みを浮かべて言う。
「そうだったのね。気にしないで」
なぜだか、一瀬さんに申し訳なくなってくる。
あれ? もしかして、あの『なにか』を放っていたのは、この人なのか? だから、俺の下手な言い訳に不審がることもなく……。なんて、さっきのあれで少し疑心暗鬼になっているな。
ふう、と一つ息をつき、今度こそと挨拶をしようとする。だが、その前に一瀬さんが思い出したかのように口を開く。
「あ、そうだ。もうしばらくしたら雨が降るみたいだから、この後の生き帰り、気を付けてね」
こうやって一瀬さんは天気予報をチェックしては従業員に情報提供をしてくれている。
通称、いちのせ天気予報。高的中率で有名な某サイトの情報をもとに、一瀬さんなりの解釈と勘が加えられているらしく、そのサイトを上回る的中率を誇っていた。
そんな一瀬さんが言うのだから、色々と用心しておこう。
「あ、はい、わかりました、ありがとうございます」
そう言って、三度目の正直だと思って挨拶をする。
「お疲れさまでした」
まず一瀬さんの声が、そしてやや遅れて今度はあの三人からも声が返ってきた。その声には戸惑いが乗っている。
この店のルールをあまりよくわかっていなかったころ、自分もこんなだったな。
少し遠い目をしながら、扉に向き直ろうとしたその時だった。
一番奥にいた女の子が、こちらをじっと見ている姿が視界に入った。そして一瞬だけ目が合ったかと思うと、それに気づいた彼女は慌てて視線を外し、机の上に置かれている資料に目を向けたのだった。
それだけなら、単に人見知りで少し警戒しているのかな、とそこまで気にすることはなかったのかもしれない。だが、その子の瞳が濡れていたのだ。そしてとても悲しそうな表情をしていたのだ。さすがにそれで、気にしない、というのには無理がある。
俺は、彼女になにかしたのだろうか?
とはいえ、もう二人の新人同様、面識は全くないはずだ。
だったらなぜ彼女は悲しげな顔で涙をこぼしていたのだろうか。
脳裏に焼き付いた彼女の様子に疑問を抱きつつ、スタッフルームを後にした。
外へ出れば相変わらずの蒸し暑い空気が身体を包み込み、不快指数が急上昇する。
ふと空を見上げると、陽が照っていた西側を中心に雲が張り出しており、雨が降り始めるのも時間の問題のように思えた。
自転車に乗り、帰路につく。頭の中では、やはり先ほどのことが思い浮かんでいた。
なにもかもが気がかりだ。おそらく、あの得体のしれない『なにか』も彼女が発したものなのであろう。一連の流れから、彼女以外の人とは考えられない。だが、改めて彼女と面識があるか懸命に記憶を辿ってみるも、結果が変わることはなかった。
次会ったときに彼女に直接聞いてみようか? いや、ダメだ、それはなにか危険な気がしてならない。それに、チキンである自分には到底出来そうにないことでもある。
もうこうなったら、煮え切らないままではあるが、知らん振りするのが一番いいのかもしれない。知らぬが仏、ということわざもあるのだ。きっとそれが一番いい。それに、もし彼女が俺のことを知っているのであれば、彼女の方からなにか接触を図ってくることだろう。その時まで待てばいいのだ。というより、待つしかない。
そう無理やり結論を出して、自宅へと帰っていく。
その後、一瀬さんの予報通り雨が降り始めた。それはひと眠りした後も続いていた。
睡眠をとったことで幾分かの英気を養うことができた俺は、合羽を着て、店へと向かい、仕事に入る。そのころにはもうあの三人の姿はなく、一瀬さんもいつも通り接客に入っていた。どうやらオリエンテーションは滞りなく終了し、件の彼女もあれ以降特になにもなかったようだ。
ホッとした気持ちになりながらも、ある疑問が頭に浮かぶ。
一瀬さんの様子を窺うに、恐らく今回の出来事について感知していないように見える。どうしてだろうか。察しのいい一瀬さんなら、すぐに気づいていそうなものなのだが。
たまたま? それとも、あの子が上手く誤魔化したから?
って、もう知らん振りすると決めたのだから、これ以上考えても仕方ないか。まったく今日はいろんなことを考えてばかりだ。ただでさえ疲労感でやられているというのに、脳と精神の体力まで削られてはさすがにもたない。
そう思っていたが、幸いなことに日中とてつもなく盛況していたからか、夜帯は想像していたよりもそこまで多忙とはならなかった。ある程度の覚悟をしていただけに、ややあっけなさはあったが、随分と気は楽だった。
それから勤務時間終了まで大した混雑はなく、平穏な時間が続くと思われた。が、そう上手くいかないものだと、退勤間際に痛感させられる。
退勤まであと十分、もう少しで長い長い一日が終わると欠伸を噛み殺していたころだった。一時間ほど前からスタッフルームで作業をしていた一瀬さんが、どこか浮かない表情をしてカウンターへと戻ってきた。
なにかトラブルでもあったのだろうか?
そう思ってからまもなく、一瀬さんは意を決したかのように俺の名前を呼ぶ。
「田辺くん」
「はい」
そして、宣告にも等しい問いを投げかけてくる。
「来週末ごろから、新人のトレーナーを受け持ってもらおうと思っているんだけど、出来そう?」
ああ、やはりその時がやってきたのだな。
なに、きっと誰もが通る道なのだから仕方がない。
でも、上手くやれるのだろうか?
そんな不安感を抱えながらも、一瀬さんには肯定という答えを返す。
「そう、よかったわ。詳しいことはまた説明するけど、聞きたいことがあったらいつでも聞いてね」
ホッと胸を撫で下ろして言う一瀬さん。しかし、その声は遠くの方から聞こえてくるように感じられた。
上の空で返事をすると、そのまま退勤時間となりスタッフルームへと向かう。
腹の底ではやっぱり無理だという自分が必死に抵抗を見せていた。