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文字数 6,848文字

 この時間になっても尚、屋外では強い日差しが降り注いでいる。いつものことではあるが、疲労感たっぷりのこの体には非常に堪える。
 せめて夕立がやってきてくれれば、随分とマシになるのだが。
 ふう、と一つ息を吐き、自転車置き場へと歩き始める。すると、

「田辺さーん」

 誰かが俺を呼んでいる。今度は誰だ、何事だ、と渋面気味に顔を上げると、そこにはやや速足でこちらに駆け寄ってくる小野寺さんの姿があった。
 自分になにか用があるのだろうか。
 そう思いながら、表情を取り繕って言う。

「自分もそっちに行くから、そこの自転車置き場で待ってて」

 小野寺さんは申し訳なげに返事をして、きちんと指示通りに動いてくれる。彼女の肌を気にしたというのもややあるが、実際は自分自身が直射日光から逃れたかったからという非常にかっこ悪いものである。
 俺が到着するなり、彼女は平に謝罪をする。

「お疲れのところ、お引き留めしてしまい、すみません」

 確かに、早く家に帰って休みたいところではある。だが彼女にはなにか早急な用件があって、トレーナーである自分を待っていたのだろう。突っぱねるわけにはいかない。
 全く気にしていないというように、優しく言葉をかける。

「いやいや、全然大丈夫だよ。それで、どうしたの?」

 そう尋ねると、小野寺さんは感謝の言葉を一つ口にしてから、

「それでは、あの、そのですね……」

 というように、なぜか口ごもってしまった。
 まさかの、デジャブである。もしこれで、やっぱりなにもないと言われれば本当にずっこけるしかない。
 そんな愉快なことを考えながら小野寺さんを見やる。だがそこで、彼女の用件はただ事ではないのだと感じさせられる。彼女の手のひらはぐっと強く握りしめられ、全身からはなんともいえない緊張感を漂わせていた。そして表情にも強張りが見え、今からなにか重大な告白をするかのような雰囲気だった。
 いったい彼女の口からどんな言葉が飛び出そうというのか。もしやトレーナーの交代を要求されるのだろうか。それとも例の件についてなにか話すつもりなのだろうか。
 如何なることにも対応できるよう心と体を引き締め、臨戦態勢に入る。そしてそれから数秒後、小野寺さんは意を決したかのように口を開いた。

「あの!」

 俺は固唾を呑んで、その先の言葉に耳を傾ける。

「連絡先を教えていただけませんか!?」
「……んっ?」

 れん、らく、さき?
 俺は思わずきょとんとする。言葉通りの拍子抜けだった。非常に身構えていただけに、漂わせている雰囲気と口から出てきた言葉に大きなギャップがあり過ぎて、もう呆気にとられるほかなかった。
 仮に彼女が人見知りであったとしても、声が上ずったり挙動不審になったりするのが関の山だろう。それか、そもそも連絡先なんて尋ねてこない。
 いったい、小野寺さんはどんな思いだったというのか。
 ともかく、なにか答えなければ。本来であれば自分から尋ねるべきことでもあっただろうから。

「ああ、うん、いいよ、ごめんね、なんか気を遣わせちゃって」

 ややしどろもどろになりながら俺は言う。しかし彼女はそんなことを気に留めていないかのように、心底嬉しそうな満面の笑みを浮かべて言った。

「あ、ありがとうございます!」

 そしてそのまま勢いよくお辞儀をしたのだった。
 連絡先の交換だけでここまで一喜一憂するのは、小野寺さんかピュアな中学生ぐらいだろう。後者はともかく、彼女はどうしてこんなにも感情を動かしているのか。彼女のそれは、まるで意中の人を目の前にしているかのようである。
 誰に対してもこうなのだろうか。それとも……。
 いやいや、それは自意識過剰というものだろう。そんなことあるわけがない。
 そもそも自分は小野寺さんとそういう関係になりたいという気持ちもないのだ。考えるだけ無駄である。
 そんなことを思いながら彼女と連絡先の交換をする。コミュニケーションアプリと、そして念のためにメールアドレスも。
 一通りのことが終わると、彼女は嬉しさと安堵感を滲ませながら、また頭を下げる。

「今日はいろいろとありがとうございました、そして本当に失礼しました」
「いやいや謝らないで。こっちこそお役に立てたかは怪しいところだから」

 俺は苦笑いで答える。それに小野寺さんは、すぐさま言葉を返す。

「いえいえ、とんでもないです。田辺さんの支えがあったからこそ、大きなミスをすることなく、最後まで頑張ってやり切ることができたのですから」

 彼女は優しく笑み、そして少し切なげな表情を見せていた。
 恥ずかしさと申し訳なさが同時に押し寄せてくる。過大評価であろうがなかろうが、年下の子にそういうことを言わせるのはとても罪な気がしてならなかった。しかも、いい先輩を演じようとしていたというのに。
今日は反省しなければいけないことばかりである。

「そっか、そう言ってもらえるなら嬉しいよ、ありがとう」

 俺がそういうと、彼女は照れくさそうにぎこちない笑みを浮かべていた。素直で分かりやすくて良い子である。
 その後、俺たちは解散することになる。

「それじゃあ、申し訳ないけども、今日は先に帰るね」

 本来であれば自分がちゃんと見送るべきなのだろうが、さすがにもう体力が厳しい。それに彼女はバスで帰るようだったため、特に問題はないだろうと判断した結果でもあった。

「いえいえ、お気になさらないでください。道中お気をつけて」

 彼女はそう言う。まさか高校一年生の少女から、そんな言葉を聞くとは思わなかった。
 常々感じてはいたが、彼女はどこか別の世界の住人である気がしてならない。とはいえ、彼女の出自を聞けば、おのずと自分のことについても話さざるを得ないだろうから、そんなことはしないが。

「ありがと。小野寺さんも気を付けて。お疲れ様」
「お疲れさまでした」

 彼女が言い切ったのを確認して、俺は自転車を走らせる。しかし、

「田辺さん!」

 また呼びかけられる。声の主はもちろん、小野寺さんだ。俺はいったん自転車を止めて、数メートルほど先にいる彼女に目を向ける。
 そして、彼女は言った。

「これからも、よろしくお願いします」

 その言葉に続いて、小野寺さんは丁寧にお辞儀をする。
 彼女の律儀さに頬を緩ませつつ、自分は声のボリュームを少し上げて言葉を返す。

「こちらこそ、よろしく」

 すると小野寺さんは、すっと頭を上げて、温かい日の光のようなとても柔和な微笑みを浮かべたのだった。
 その表情に、自分は一瞬だけ心を奪われていた。そしてその瞬間だけ、なんとも形容しがたいとても温かいなにかを感じたのだった。
 それがいったい何なのか、あるいはどうしてこんなことになっているのか、一切よくわからない。ただ一つ言えることは、彼女の表情や感情が、俺の心を『動かした』ということだけだった。
 まさか、そんな日が訪れようとは。
 それらの反動で暴れている『黒いなにか』に強く胸を締め付けられながら、帰路を辿った。

 ふと気が付くと、自分はベッドの上で横たわり、アラーム音を聴いていた。
 パッと目を覚まして起き上がる。辺りはすっかり闇に包まれており、辛うじてベランダの窓から近くの街灯の光が差し込んでいた。それを見てようやく、今自分は自宅にいるのだと認識する。
 アラーム音を消して寝ぼけ眼をこすりながら支度を整えていく。その間、眠る前の記憶を辿ろうとするが、そもそも帰路の途中からのことが一切思い出せなかった。
 自分は相当参っていたようである。
 そんなことを思いながら、少し飛ばし気味の自転車で店へと向かう。そして少し息を切らしながら、本日二度目のシフトへと入る。幸いにも、そこまで忙しくなることはなく、ある程度落ち着いた雰囲気の中で仕事をすることができた。おかげで、疲労困憊で動けなくなるということはなさそうだった。
 やがていつもの時間がやってくる。

「お疲れ様でした」

 店長から終業の時間を伝えられた俺は、ややゆったりとした歩調でスタッフルームへと向かう。
 ようやく、今日が終わる。今はもう、家に帰ってただただ眠りたい。
 そうして、いつものように何気なくスタッフルームの扉を開く。するとそこには、机の上に突っ伏して微動だにしない一瀬さんの姿があった。何事かと様子を窺うと、小さな寝息が聞こえてくる。どうやら一瀬さんは眠っているようだった。
 なぜだか俺は、見てはいけない現場に遭遇してしまったような気がして、思わず後ずさりをする。だが一瀬さんが目を覚まして、あるいは後ろから誰かがやってきて、

「見たな」

 という言葉が聞こえてくることもなく、ただただ一瀬さんの微かな寝息が自分の耳に届いてくるだけだった。
 そのことにやや安堵しつつ、出来るだけ物音を立てないように身支度を済ませていく。
 それにしても、まさかスタッフルームで一瀬さんが寝ているとは思わなかった。普段そういったものを見せない人であるだけに尚更だ。だが、ここまでの熟睡具合を見るとよっぽど疲労が溜まっていたことが窺える。普段のこと然り、今日の昼間に起きたこと然り。
 ともかく、起こしてしまったら申し訳ない。早くここを出よう。
 そう思った時だった。チリンチリン、とメールの受信を伝える通知音がスタッフルーム内に鳴り響く。やってしまったと目を瞑っても、もう後の祭りである。

「んっ……」

 今度はやや艶のある声が耳に届いてくる。
 ゆっくりと目を開けて一瀬さんを見る。手は机に突っ伏したまま頭を上げて、ぼうとした顔でこちらを眺めていた。
 寝起きであるにも関わらず、一瀬さんの顔は整っている。
 いやいやそんなことではなくて。
 とにもかくにもまずは謝ることにする。

「すみません、起こしちゃいましたね……」

 しばし訪れる静寂の間。それがとても気まずくて仕方がない。
 その数秒後、突然一瀬さんの体がぴくりと動き、フリーズしていた時間が動き出す。

「あっ、私、寝ちゃってたみたい」

 その声音はいかにも寝起きと言わんばかりのどこか気の抜けているものだった。おそらく一瀬さんのプライベートを知っている人でも、そう滅多に見ることのできない場面だろう。それに遭遇した自分は、ラッキーなのかアンラッキーなのか。どちらにしても、メールの送信者は絶対に許さないが。
 そんなフラストレーションを抱いていると、いまだ夢見心地の一瀬さんが言う。

「ああ、別に大丈夫だよ。あ、そうだ、今日の初トレーナーお疲れ様」

 なにが大丈夫なのかは分からないが、とりあえず言葉を返す。

「あ、はい、ありがとうございます。一瀬さんもいろいろとお疲れ様です」
「ありがと。でも私のことは良いのよ。今日の感想、聞かせてくれる?」

 文字通りぽわーんとした表情、声音、雰囲気をしているため、本当に一瀬さん本人なのだろうかと不安になってくる。
 実は、ここにいるのは一瀬さんの双子の姉なのだ。
 実は、本物の一瀬さんは何者かに殺害され、今ここにいる人は特殊メイクが施された偽一瀬さんなのだ。
 実は……。
 そんなことが頭によぎるのは、昨日、現実逃避をするために普段は触れることもない映画DVDを観た影響だろう。それらを脳内から退場させて、今日の感想を率直に伝える。

「そうですね、小野寺さんの飲み込みの早さのおかげで、自分は特になにもすることはなく肩透かしを食わされた気分、というのが正直なところですかね」

 すると一瀬さんは、ほうと少し驚いた表情を見せて言う。

「小野寺さんはどうだった?」

 そう問われ、少し間を置き、きちんと言葉を選びながら答える。

「先程も言った通り、彼女の飲み込みの速さと、それとポテンシャルの高さにはとても驚かされました。些細なミスはいくつか見られましたけど、そんなものは今の段階では気になるものでもありませんでしたし、それになにより、そのミスが帳消しになる以上の働きを小野寺さんはしていたと思います。ざっくりとまとめれば、この店に期待の超大型ルーキー現る、といったところでしょうか」

 短くまとめるつもりがとても長くなってしまった。だが一瀬さんは、その間でも表情を大きく変えることはなく、時折相槌を混ぜながら仏のような静けさで耳を澄ませていた。
 こういったところはいつもと変わらない。ぽわんとした雰囲気は健在だが。
 俺が言い終えたことを確認すると、一瀬さんは小さく笑みながら言った。

「そう。他のスタッフからも聞いてはいたけど、まさかそこまでだったとはね。いろいろと聞かせてくれてありがとう。それとごめんね」
「いえ、とんでもないですよ」
「今後も、今日と同じように尋ねることがあるだろうから、心のどこかで覚えておいて」
「分かりました」
「それから」

 そこまで言って、一瀬さんは一瞬だけ言葉を止める。そして、まっすぐとした視線で、かつとても柔らかな表情を浮かべて言った。

「本当にお疲れ様。これからも頑張ってね」

 その言葉や表情は、あの時の小野寺さんとどこか通ずるものがあった。そして、今自分自身が抱いている感情も、その時の感情となんとなく似ているような気がした。
 なんだか今日は、とても不思議な一日である。それだけ疲れているということでもあるのだろうが。
 例によってあの黒いなにかによる胸苦しさを感じながら、最後まで夢見心地状態だった一瀬さんと別れ、自宅へと帰っていった。
 帰宅するなり、シャワーと家事と食事を手早く済ませ、どかりとベッドに倒れ込む。

「あぁああううぅ……ふふっ」

 赤子の喃語のような言葉が漏れ出し、それが可笑しくて、つい一人で笑ってしまう。
 誰か人に見られたら、その手の病院を紹介されそうである。
 とりあえず今日は疲れた。だからもう寝よう。いつものラジオはまた明日にでも聴こう。
 そう思い、重い身体を持ち上げて電気を消してまたベッドに転がる。
 ふとあることを思い出し、ベッドの上に放り投げていたスマホを手に取る。そして、一瀬さんを起こしてしまったあの忌々しいメールを開いた。

『今、幸せですか? もし、あなたが望むのならば、私の遺産の三億円を受け取ってもらいたいんです』

 いろいろとツッコミどころ満載である。ともかくこれは加藤さんへ報告しなければ。それにしても、こんな下らないメールで一瀬さんを起こしてしまったのかと思うと、ただただ申し訳なくなってくる。
 ほんとすみませんでした、一瀬さん。
 スマホを開いているついでに、SNSを軽く見て回る。すると、小野寺さんからメッセージが届いていることに気が付いた。
 受信時間は午後六時過ぎ。現在時刻は午前零時を回ったところ。今この時間に返信するべきか、否か。あまりにも返事が遅くなるのも、それはそれで考えものではある。どうしたものか。
 数分ほど脳内会議が行われた結果、

「まあ一応返信しておいたほうがいいんじゃないの?」

 というところに落ち着き、失礼を承知でメッセージに既読をつける。
 そこに記されていたのは、とてもシンプルなものだった。

『失礼します。改めて、今日はお疲れ様でした! そして、ありがとうございました。今後も、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い致します』

 少し堅い文章ではあったが絵文字や顔文字もいくつか含まれており、不愛想にならないよう彼女なりの工夫が凝らされていた。なんだかそれが微笑ましくなってくる。
 自分も絵文字や顔文字を少し使いながらメッセージを返す。

『夜分に失礼します。返事が遅くなってごめんね。こちらこそお疲れ様。それと、これからもよろしく。今日は慣れないことばかりでいろいろと疲れているだろうから、ゆっくりと眠って疲れをとってあげてください。それでは、おやすみなさい』

 おかしなところはないだろうかと不安になりながらも、メッセージアプリを閉じ、スマホをそっと置く。
 やるべきことが終わったからか、突如として意識が朦朧としてくる。そして今日の出来事が次々とフラッシュバックしていく。
 いろいろなことに対して思うことはあった。
 それでも、今こうやって振り返ってみると『なんだかんだ、悪くない一日』だった。
 こんな感情になるのは、いつ以来だろうか。
 いや、今思い出せば、せっかくのいい気分が台無しになる。だからそれはよそう。
 そんなことを考えながら、俺は深い眠りに落ちていった。
 こうして、とても長く非常に濃い一日が幕を閉じたのだった。
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