15

文字数 5,958文字

 時刻は午前九時を過ぎたところ。
 俺は、外から聞こえる子供たちの声に起こされ、目を覚ます。そうして二日酔い特有の頭痛と吐き気に襲われながらゆっくりと立ち上がり、水分を補給したのちまた寝床で倒れ伏せる。
 いろいろあったとはいえ、完全に飲みすぎた。明らかに普段飲む量の倍は超えている。過去最高クラスの二日酔いだろうか。まったくもってこんな日に……ああ、そうだ。
 俺はある事に気づき、目を細めながらスマホを探してそれを手に取る。そうして、うーん、と顔をしかめながらもなんとかメッセージアプリを開いていく。その数秒後、

「おおおああぁっ!」

 俺は思わず飛び起き、ベッドの上で正座をする。
 彼女から……宮前さんから返信メッセージが届いていたのだ。
 彼女の性格上、さすがに無視やブロックはないだろうと踏んでいたため、返信があるのは至極当然のことだと勝手に思ってはいた。しかし、いざ実際にこの状況になってみると、何とも言えない安堵感と、それを大きく上回るほどのとてつもない動揺が走る。
 二度三度四度と深呼吸を繰り返す。そうしてある程度落ち着いたところでメッセージの中身を確認する。そこに書かれていたのは、十五時以降ならいつでも空いているという旨と、場所はどこかという質問の二つだった。いたってシンプルな内容で、かつ文字情報しかないために彼女の感情を読み取ることは難しい。だが、少なくともいい気はしていないだろうとは思う。返信をくれたこと、そしてわざわざ会ってくれることに感謝だ。

『ありがとう。それじゃあ時間は十六時で。場所は……』

 そう文字を打ち込んでいくが、続きの言葉に詰まってしまう。
 場所のことまでは考えていなかったな。いやはや、どうしたものか。できる限り静かで人の少ない場所がいいのだが……カラオケっていうのもちょっと違和感があるし、ファミレスはさすがにないな。そもそも、そんな場所って……ああ、あそこがあるか。

『場所は、海岸公園で。バス停から海のほうへと降りていくと、途中にベンチの並ぶ一本道があるから、そこで待っています』

 何も悩むことなく、送信ボタンを押す。
 海岸公園。加藤さんと行ったあの場所である。あそこであれば、この時期は静かで人も少ない。そしてなにより熱くならずに落ち着いて話せそうな気がしていた。寒いのが玉に傷だが。
 まもなくして彼女から了承のメッセージが届く。それにほっと安堵し、一つ息を吐いてスマホを閉じる。
 さて、それまでの時間、寝るか。
 そうして、約束時間の二時間前にアラームを合わし、ベッドに横たわる。
 二日酔い特有の頭痛と吐き気は今もなお続いている。そこへ緊張感も加わってきた。しかし、それに反して心はとても晴れやかだった。昨晩、長くて重い心の整理を行って、大方のことがはっきりしたからだろう。半分酒の力を借りてだが、なんとか自分なりに向き合えてよかったと思う。
 そんな優しくて柔らかい気持ちの中、俺は二度目の睡眠タイムに入った。

 次に目を覚ましたのはアラームの鳴る三分前だった。二日酔いの症状も随分と治まっており、俺は幸先のいいスタートを切ったと、少しばかり気分が上がる。とはいえ油断は禁物であるために一度気持ちを入れ直すために頬をパンパンと二度たたく。そののち、シャワーと少し遅めの昼食を済ませ、時間までの間は好きな曲を聴いて最後の現実逃避を行う。
 そうして、その時がやってくる。

「よし」

 俺はたったそれだけを口にして、さっと家を出る。
 外は当然のことながら寒かった。この分だと海はもっと冷えるだろうし、しかもこれから夕暮れになっていくわけで、より一層体を冷やすことになる。これは選択を間違えたか。しかし今さら場所を変えるのはさすがに難しいのも事実。これもきちんと謝らなければな。
 そう嘆息しながら、できる限り約束時間よりも早めについておきたいという思いから、さっそく自転車に乗り、目的地へと少し飛ばし気味でペダルをこぐ。
 その道中、彼女と顔を合わせてからのことを考える。
 ひとまず、最初に謝罪だろう。あの時のこと、今日まで謝りもしなかったこと、それから突然の呼び出しとその場所のこと。きちんと頭を下げよう。そのあとは、彼女の出方次第でもあるが、自分が出した答えにも触れるべきか。そこに至った経緯も。それから……。
 などと思案していると、目的地である海岸公園に到着する。

 現在時刻は十五時四十分前。さすがに自分のほうが早く来ておかないと示しがつかないというものだ。
 駐輪場へと自転車を止め、例のベンチの並ぶ一本道を目指し、歩みを進める。
 想像していた通り、人の数はほとんどなかった。時折、人や犬を連れて散歩をしている人とすれ違ったり、一組のカップルが砂浜のほうで戯れていたり、遠くのほうで釣りを楽しんでいる人が数人いたりする程度である。
 寒さの問題がなければオールクリアなんだけどな。
 ははっと冗談気に一人笑う。しかしその数分後、状況が一変し、笑いはおろか失態を犯したときのような緊張が走るのだった。

 まもなく、例の道に入る。
 さて、あとは彼女を待ち、その時を迎えるだけだ。
 そう意気込んで、どこのベンチに座ろうかとあたりを見渡した時だった。

「なっ……!」

 俺はその場に立ち止まり、一音だけ口にして絶句する。
 まさかそんなはずでは……いやでもあれは明らかに……小野寺さんだ。
 そう、手前から数えて五つ目のところにあるベンチの前で、海のほうを眺めて立っている小野寺さんの姿があったのだった。
 なんてことだ。俺よりも早くに来ていただなんて。まだ十五分前だぞ。彼女とらしいといえば彼女らしいが、それでも限度っていうものが……いや、単に俺が彼女の性格を甘く見ていただけなのかもしれない。そんなことよりも今は……。
 考えるよりも先に体が動く。気が付くと俺はうつむき気味に全力で彼女のもとへと走っていた。すると、それに気づいたのであろう小野寺さんは言う。

「田辺さん……」

 とても小さな声ではあったが、はっきりと俺にはそう聞こえた。ただ、顔を見ていないこともあって、彼女の感情を読み取ることまではできなかった。

 彼女は今、なにを思っているのだろう。
 彼女は今、どんな表情をしているのだろう。
 彼女は今……。

 そうして、ついに俺は彼女の前に立つ。

 ここまでだ。そしてここからだ。

 変わらずうつむいたまま軽く呼吸を整えたのち、俺は大きく息を吸って事をなす。

「ごめん! 一週間前のあの日、小野寺さんに酷いことを言った上に怖い思いや嫌な思いをさせてしまって……それに、せっかく引き留めようとしてくれたのにその手を強く振り払ってしまって、本当にごめんなさい」

 深く頭を下げて、まずはあの日のことを詫びる。そして、

「それから……」

 しかし、そう言いかけたところで俺の言葉は遮られる。

「私のほうこそ、ごめんなさい」

 え、あれ?

 そう思って俺は咄嗟に顔を上げる。するとそこには、頭を下げている彼女の姿があった。

 え、え、あ、ええ? こ、この状況は一体……?

 俺は少しばかりパニックになる。しかし、そんなことなど知らないであろう小野寺さんは、そこから言葉を続けていく。

「私のほうこそ、田辺さんを追い詰め、苦しめ、そして傷つけてしまいました。その上、体調を崩させることになってしまって……私の……私の身勝手に田辺さんを巻き込んだからそんなことに……本当に申し訳ありませんでした。それから……ご無事で……お元気そうで本当によかったです」

 徐々に涙をこらえているかのような口調になっていく小野寺さん。皮肉でも言っているのだろうかと俺は一瞬疑心暗鬼になるが、彼女の様子を見るにどうやら本気の様子である。
 となると、なおのこと困惑のスパイラルに陥るのだが……つまりはなんだ。あの日のことについて彼女も負い目を感じていたと。そして、俺が体調を崩したことを心配し、なおかつ自分のせいでそうなってしまったのだと思っていると……どうしてこうなった? とりあえずいろいろと誤解を解かなければ。

「違うんだ。小野寺さんが責任を感じる必要はまったくないんだ。元はといえば僕自身の問題なんだからさ。だから頭を上げて」

 そう訴えかけるも、

「それでも、結果として私が田辺さんを追い詰めたことに変わりはありません。本当になんとお詫びしていいのか……かくなる上は、いかなることも覚悟しています」

 の一点張りだった。
 まさか小野寺さんがそこまで思い詰めていたとは。こっちのほうこそ、なんて謝ればいいのか皆目わからない。とはいえ、彼女をそんな状態に陥らせたのは紛れもなく自分なのだ。絶対になんとかしなければならない。それに……それに彼女をそこから解放してあげられるのは、おそらく俺だ。俺は、彼女にとって憧れの存在なのだから。だったら……。

「小野寺さん、あのね」

 俺は、できる限り柔らかい口調で静かに話し始める。

「僕は、小野寺さんに感謝を伝えたかったんだ」
「え……?」

 消え入るような声で彼女は反応する。一方の俺は変わらず言葉を続ける。

「あの日あの時、小野寺さんがああ言ってくれなければ、僕はずっと過去を見て見ぬふりしたままだった。自分の本当の気持ちに嘘をついてばかりだった。時間やら何やらが解決してくれるんじゃないかって。最悪、もうどうでもいいと偽の感情で上書きをすればいいやって。でも、君が……小野寺さんが、気づかせてくれたんだ。そんなんじゃいけないんだって。ちゃんと向き合わなきゃいけないんだって。本当は、自分はどうしたいのかって。だから、ありがとう。気づかせてくれてありがとう、小野寺さん」

 彼女を落ち着かせるための言葉、そして紛れもなく本心から出た言葉でもあった。
 まもなく、彼女の言葉が返ってくる。

「違い……ます……私は……ただ田辺さんを苦しめてしまっただけで……感謝されるようなことはなにも……」

 よほど、ありもしない架空の責任を背負いたいようである。そんなことさせるものか。
 俺は、柔和ながらもはっきりとした口調で返す。

「いや、君が救ってくれたんだ。紛れもなく、小野寺さんが救ってくれたんだ」
「違う……違います……」
「違くない」

 その言葉とともに俺は彼女の両肩を持ち、無理やり俺と目が合うように体を少し起こさせる。そうして彼女の顔が露になり、ここで初めてあの日以来の顔合わせとなる。彼女は目に涙を浮かべ、だけども突然の出来事に、はっと驚いている表情をしていた。そんな彼女の目を見て俺はためらうことなく再度言う。

「違くないんだ」

 微かに彼女の表情が動き、感情が揺れたように見えた。俺はそこへ畳みかけていくかのように、感情が少しずつあふれ出していく。

「君はあの時言ってくれた、憧れの存在だと、舞台上にいるときが一番かっこよくて輝いているんだと、そしてこのままでいいと本気で思っているのかと。そういった言葉があったから、僕は過去と向き合うことができたんだ。ただただ辛くて苦しくて悲しみしかない場所から抜け出すことができたんだ。そして……」

 俺は一呼吸置いたのち、その言葉を口にする。

「芝居をしたい、役者になりたいと、そう強く思えたんだ」

 彼女の瞳から大粒の水滴がいくらか流れていく。表情をくしゃりとさせながら何とか堪えようとしているようだが、それとは裏腹に水滴はとめどなく溢れ続ける。
 思わず自分も目と鼻が熱くなる。それでもなんとか耐えて、やや潤みを帯びた瞳でまっすぐ彼女を見据え、そして最後の言葉をかける。

「ありがとう。本当にありがとう。小野寺さんのおかげで、なんとかようやく前に進むことができた。ありがとう」

 彼女は一段と大粒の涙を流し、ついには嗚咽を漏らし始める。そうして一度うつむくと、とても静かな声でつぶやく。

「そんなの……ずるいですよ……」

 ああ。その通りだ。でも、これが本心なんだよ。
 まもなく彼女は顔を上げて嗚咽交じりに口を開く。

「そんなこと、言われたら……もう、何も、言えなくなる、じゃないですか……」

 ぼろぼろと涙を流しながら、なんとか笑んで見せようとする小野寺さん。それに俺は、ただただ優しく微笑みかけることでしか応えることができなかった。すると彼女はまたうつむくと、胸の前で手を重ねて懺悔するように言う。

「わたし……わたし、田辺さんを苦しめてしまって……もう、二度と顔も合わせてくれないんじゃないかって、憧れの人が、大好きな人が、頼りになる人が、またいなくなってしまうんじゃないかって、ずっと……ずっと怖くて、苦しくて……あの時あんな話をしなければって後悔して……でも、田辺さんは、もうあの時のこと怒っていなくて、それどころか『ありがとう』って感謝を……そして『芝居をしたい、役者になりたい』って……わたし……わたし……もう……」

 小野寺さんの胸の前で重なっている手にぎゅっと力が入っていき、それが全身にも広がっていくのが見て取れた。

 なにか起こる。

 そう直感した瞬間、

「田辺さん……!」
「……えっ……」

 あまりに唐突で予想外の出来事に、俺は頭が真っ白になる。
 小野寺さんが俺の胸に飛び込んできたのだ。そして彼女は、俺の服の胸元をつかんで、俺の名前を呼びながら子供のように泣きじゃくっていた。

 いったいどうすれば……このまま抱きしめたら……いやでもそれは……。

「おかえりなさい、田辺さん」

 彼女が嗚咽を上げながらそう言った。
 そんなこと言われたら……ずるいのは、君のほうだよ……。

「ただいま……小野寺さん……」

 左腕で彼女の肩を包み込み、右手で彼女の頭をなでながら、俺はそう答えた。涙を一つ二つと落として。
 すると彼女は一段としゃくりあげるように泣くのだった。

 いつもの彼女からは到底想像できないほどの、ちょっとの衝撃で壊れてしまいそうなとても小さな身体を抱きながら俺は思う。

 必要とされる限り俺は彼女の支えでいよう、憧れの存在でいようと。そしてもう二度と彼女を傷つけまいと。

 それから、

 何があっても芝居は続けようと。自分のためにも、彼女のためにも。

 前身に大きなぬくもりを感じながら、暗くなり始めた冬の夜空を眺め、俺はそんなことを強く決意するのだった。
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